銃声が、ありもしない海鳴りを貫いた。
怪異の体が大きく跳ねる。
ゾーイの放った弾丸は、飛びかかってきた怪異の肩口を穿ち、その軌道を強引に逸らしていた。
黒く濡れた体が、湿った地面へ叩きつけられる。
泥が跳ねた。
幾本もの尾がばらばらに蠢き、倒木の根元へ絡みつく。
だが、怪異は止まらなかった。
弾丸に穿たれた箇所から、黒い水が溢れ出す。
それは血のように流れ落ちることなく、傷の縁へ吸い寄せられ、ぬるりと肉の輪郭を作り直していく。
瞬く間に、開いていた穴が塞がった。
「まあ。礼儀知らずなだけでなく、しつこいのね」
ゾーイは側車から軽やかに降りた。
黒い外套の裾が、湿った草の上を揺れる。
その足元に落ちた影だけが、周囲より一段濃い。
怪異は首を捻るように持ち上げ、裂けた口を大きく開いた。
そこから漏れたのは、獣の鳴き声ではなかった。
水底へ沈められた人間たちが、最後の息をまとめて吐き出したような音。
音は耳から入らなかった。
直接、頭の内側へ染み込んできた。
「ぐっ……!」
ペンドルトンの視界が揺れる。
隣では、若い刑事が両耳を押さえたまま、その場へ崩れ落ちた。
「う、ぁ……っ……!」
「おい! しっかりしろ!」
ペンドルトンが膝をつく。
若い刑事の呼吸は浅く、震える唇から意味のない音が漏れている。
聞こえたものを、頭の中で何度も繰り返しているようだった。
「警部様、下がってくださいませ」
メアリーが即座に二人のもとへ膝をついた。
「だが――」
「お嬢様の射線からも外れてくださいませ」
「……分かった!」
ペンドルトンが若い刑事の肩を抱え、地面を転がるようにして離れる。
その直後、再び銃声が響いた。
一発。
二発。
三発。
ゾーイの小銃が立て続けに火を噴く。
怪異の口の端が吹き飛び、尾の一本が千切れ、長い前脚が地面へ崩れ落ちた。
頭の内側へ押し込まれていた音が、一瞬だけ途切れる。
メアリーはその隙を逃さなかった。
懐から細い銀鎖を取り出し、若い刑事の喉元へ一周だけ巻きつける。
鎖に刻まれた小さな文字が、かすかに赤く熱を帯びた。
「呼吸が浅い。聞いたものを、まだ内側で反響させていますね」
「助かるのか」
「助けます」
メアリーは短く答え、小瓶の蓋を外した。
透明な液体が一滴、銀鎖へ落ちる。
若い刑事の体が大きく跳ねた。
「がっ……げほっ、げほっ……!」
肺の底から空気を吐き出すように激しく咳き込み、若い刑事は泥の上へ手をついた。
「おい、分かるか!」
「け、警部……? 俺……何が……」
掠れてはいるが、言葉は返ってくる。
ペンドルトンは安堵の息を吐いた。
「よし。喋れるなら――」
「大丈夫ではございません」
メアリーが冷静に遮った。
「本日はもう現場復帰は不可。音の刺激を避け、帰還後も単独で眠らせないようにしてくださいませ」
「そこまでか」
「先ほどの鳴き声は、耳で聞くためのものではございませんので」
若い刑事は青ざめた顔で、ゾーイの方を見た。
怪異が幾本もの尾を持ち上げている。
その尾は鞭のようにしなり、黒い水の飛沫を撒き散らしながら地面を叩いた。
ゾーイは小銃を肩へ当てたまま、小さくため息をつく。
「まったく、品のない鳴き声ですこと。犬なら犬らしく、せめて躾を受けてから吠えなさい」
怪異の尾が一斉に襲いかかる。
ゾーイが身を翻した。
一本をかわし、二本目を銃身で受け流す。
三本目が死角から伸び、彼女の脇腹を狙う。
その尾を、横から飛んだ銃弾が弾いた。
ペンドルトンの拳銃だった。
黒い水が弾け、土へ触れる前に煙のように消える。
ゾーイが一瞬だけ視線を向けた。
「まあ。なかなか良い援護ですわね、警部」
「褒める暇があるなら、とっとと片付けろ!」
「仰られなくとも!」
ゾーイはボルトを引いた。
金属音が、濡れた森の中で澄んで響く。
怪異はその音を嫌ったように、低く身を伏せた。
そして、急に進行方向を変える。
旧修道院跡ではない。
木々の密集した、さらに奥の藪へ。
「逃げる気か!」
ペンドルトンが銃口を向け直す。
怪異の体が、地面を滑るように後退した。
尾が遅れて藪の中へ引き込まれ、最後に裂けた口だけが一瞬こちらへ笑う。
「逃がしませんわ!」
ゾーイが駆け出した。
「おい、待て! 一人で行く気か!」
「警部がついてきても、足手まといが一人増えるだけですわ! メアリー、そちらを頼みます!」
「承知いたしました、お嬢様」
黒い外套が藪の奥へ消える。
直後、森の深部から銃声が響いた。
一発。
間を置いて、さらに二発。
遠ざかる銃声を聞きながら、ペンドルトンは歯を食いしばる。
「……あの女、相変わらず勝手に動きやがる」
「お嬢様は、必要な場所へ最短距離で向かわれますので」
「それを勝手に動くと言うんだ」
メアリーは反論せず、側車に備えられた道具鞄を開いた。
中から別の小瓶と、細く畳まれた白い布を取り出す。
「お二人とも、しばらく動かないでくださいませ」
「今度は何だ」
「目印を消します」
メアリーは小瓶の液体を、ペンドルトンと若い刑事の外套へ軽く振りかけた。
冷たい。
だが、水ではない。
薬草の香りの奥に、焼けた鉄と灰の臭いが混じっている。
「うわっ……」
「何をかけた」
「匂い消しでございます」
「犬避けの薬みたいに言うな」
「相手が匂いで獲物を追う以上、似たようなものでございます」
メアリーは地面へ膝をつき、銀の短剣で湿った土へ小さな円を刻み始めた。
「それは?」
「目くらましです。この内側にいらっしゃる限り、積極的に狙われる可能性は下がります」
「絶対ではないんだな」
「絶対などと軽々しく申し上げる使用人は、信用なさらない方がよろしいかと」
「妙なところで誠実だな、お前は」
若い刑事は、まだ顔色を失ったまま周囲を見回した。
「警部……さっきのものは、本当に何だったんですか」
「私に聞くな。こっちが聞きたいくらいだ」
「害獣でございます」
メアリーが即座に答えた。
ペンドルトンは、じろりと彼女を見る。
「お前までそれで押し通す気か」
「はい。人に害を為す獣であることは、間違っておりませんので」
「普通の害獣は、人間の顔を浮かべながら傷を塞いだりしない」
「随分と質の悪い害獣だったのでしょう」
「説明する気がないのだけは、よく分かった」
メアリーは目くらましの円を閉じると、銀の短剣を布で拭った。
「ご説明したところで、警部様の報告書が書きやすくなるとは思えませんので」
「そっちはそっちで、あとで十分揉めることにする」
「では、その際にはお茶をご用意いたします」
「懐柔されんぞ」
「砂糖は?」
「二つだ」
「承知いたしました」
「違う。そうじゃない」
若い刑事が、理解の追いつかない顔で二人を見比べる。
「警部、この方たちとは、以前から……?」
「聞くな。話すと長い」
「お嬢様と警部様は、たいへん良好な関係でございます」
「勝手にまとめるな!」
遠くで、何かが叫んだ。
先ほどのように頭の内側へ突き刺さる声ではない。
もっと短く、濁った、獣の断末魔に近い響き。
続いて、銃声。
それから。
ばきり。
濡れた枝を、太い歯で噛み砕いたような音がした。
ペンドルトンは黙り込んだ。
聞かなかったことにしたい音だった。
「……今のは何だ」
「お嬢様がお片付けをなさったのでしょう」
「何をどう片付ければ、あんな音になる」
「詳細をお知りになると、夕食がおいしくなくなるかと」
「もう十分まずくなっている」
メアリーは何事もなかったように、若い刑事へ水筒を差し出した。
「少しずつお飲みくださいませ」
「は、はい……ありがとうございます」
若い刑事が恐る恐る水を口にする。
その直後、藪の奥が大きく揺れた。
ペンドルトンは反射的に拳銃を向ける。
「おやめなさい。危ないですわね」
聞き慣れた、いけ好かない声がした。
枝葉を押し分け、ゾーイが戻ってくる。
黒い外套には目立った傷もない。
黒髪も、ほとんど乱れていない。
ただ、その顔は露骨に機嫌が悪かった。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ええ。戻りましたわ」
ゾーイは片手で口元を押さえる。
「……本当に、最低の後味ですこと。泥水で薄めた獣脂へ、海藻と腐った祈りを練り込んだような」
「お水をお持ちいたします」
「濃い紅茶がよろしいのですけれど」
「現場に茶器はございません」
「現代は本当に不便ですわね」
ペンドルトンが拳銃を下ろしながら、ゾーイのもう片方の手を見る。
「それは何だ」
ゾーイは、黒い封印布の端をつまんでいた。
包みの中から、細い尾の先だけが数本、力なく垂れ下がっている。
「持ち帰るのか」
「資料ですわ。味は最悪でも、何を舐めて育ったのかくらいは確認しませんと」
メアリーがすぐに封印布を受け取った。
包みを銀鎖で縛り、さらに小瓶の液体を一滴だけ落とす。
布の内側で一度だけ、何かがぴくりと震え、それきり動かなくなった。
「で、結局こいつは何だった」
ペンドルトンが問う。
「害獣という説明では、さすがに報告書にも限界がある」
「害獣であることは間違いありませんわ」
ゾーイは手袋に残った黒い染みを見て、眉を顰める。
「人の恐怖を嗅ぎつけ、祈りの残り滓を舐め、何か大きなものの傍で形を与えられた小物。庭先に放された番犬、といったところでしょうか」
「番犬?」
「ええ。主人の代わりに吠えて、近づいた者へ噛みつく程度のものです」
「では、何を守っていた」
ペンドルトンは、旧修道院跡の暗い入口へ視線を向ける。
「あるいは、何を隠すために出てきたのか、ですわね」
ゾーイの微笑みが、わずかに薄れる。
「先日の男を沈めかけたものと、この獣。臭いはよく似ています。少なくとも、同じ水を飲んで育った類でしょう」
「教会筋で処理された、あの悪魔憑き案件に関係があると?」
「まだ断定はいたしませんわ。ですが、随分と品の悪い偶然が続いておりますもの」
ペンドルトンは、ゾーイを睨むように見た。
「……お前、今回の遺体についても知っていたのか」
「教会筋から回された資料に、最低限の概要だけはございましたわ」
ゾーイは、いかにも不愉快そうに手袋の黒い染みを見る。
「山の中で発見されたにもかかわらず、肺と胃の中だけを海水で満たしていた遺体。先日の後味を忘れるには、少々似すぎておりますでしょう?」
「なら、最初からそう言え」
「現場で確認もせずに騒ぐのは、三流の占い師か新聞屋の仕事ですわ。わたくしは祈祷師ですの」
「同じ呪いだと判断するには、十分ではなかったということか」
「ええ。海の匂いがするものを、すべて同じ瓶へ詰めるほど雑な仕事はいたしませんわ」
ペンドルトンは旧修道院跡へ視線を戻した。
朽ちた入口。
光の差さない奥。
潮の臭いを含んだ湿気。
「つまり、これで終わりではないということか」
「ええ」
ゾーイは、メアリーが封じた包みへ目を落とす。
「これだけなら、わたくしの口が不愉快になっただけで済みます。ですが――」
そこで、若い刑事の携帯端末が鳴った。
唐突な電子音に、若い刑事の肩が大きく跳ねる。
「す、すみません。署からです」
ペンドルトンが手を差し出した。
「出ろ。音声をこちらにも聞かせろ」
「はい」
若い刑事が通話を繋ぐ。
「こちら現場です。どうしました」
『ああ、君か! 警部はそこにいるか!?』
受話口の向こうから、切羽詰まった男の声が響く。
「いる。私だ。何があった」
『警部! その……安置室の件です!』
ペンドルトンの顔から、わずかに血の気が引いた。
「遺体がどうした」
『ありません!』
「何?」
『遺体が、消えました!』
若い刑事が息を呑む。
ペンドルトンは、即座に声を低くした。
「落ち着け。誰が確認した。見張りはどうした」
『指示通り、単独では近づいていません! 検査担当と職員の二人で確認を続けていました。少し前に、安置室の中から咳のような音がしたんです』
「咳だと」
『はい。それで二人が扉を開けて確認したところ、台の上が空になっていました!』
「扉から出たのを見た者は」
『いません。廊下の監視映像にも、該当する人物は映っていません』
「窓は」
『ありません。換気口も、人が通れる大きさではありません』
「なら、どうやって消えた」
『それが……』
通話の向こうで、誰かが何かを叫んでいる。
『警部。床に、足跡があるんです』
「足跡?」
『濡れた裸足の跡です。遺体が置かれていた台の横から始まって、安置室の扉を抜け、廊下を進んでいます』
「監視映像には映っていないと言ったな」
『はい。映像には誰もいません。なのに、濡れた足跡だけが、一歩ずつ増えていくんです』
森の空気が、急に冷たくなったように感じられた。
「足跡はどこへ向かっている」
『地下の設備通路です。ですが、そちらは行き止まりで――』
向こう側で、何かが倒れる大きな音がした。
『な、何だ!?』
「どうした!」
『足跡が……止まりました』
「どこでだ」
『排水溝の前です。床にある、小さな排水溝です。人間が通れるような場所ではありません。ですが……足跡が、その手前で消えています』
ペンドルトンは無言で旧修道院跡を見た。
山の中。
海水。
湿った足跡。
人が通れないほど小さな排水溝。
喉の奥に、嫌な重さが沈んでいく。
「全員、そこから離れろ」
『ですが、遺体は――』
「追うな! 排水溝にも、水の跡にも触れるな! 建物内の者を外へ出せ!」
『は、はい!』
「こちらへ位置情報と現場映像を送れ。封鎖は外側からだ。中に人間を残すな」
『分かりました!』
通話が切れた。
若い刑事は、青ざめた顔で携帯端末を握りしめたまま動けない。
「警部……あの遺体は、どこへ……」
「私に聞くな」
ペンドルトンは低く吐き捨てる。
「だが、ろくでもない場所へ向かったのだけは確かだ」
「お嬢様」
メアリーがゾーイを呼ぶ。
「ええ」
ゾーイは、旧修道院跡の暗い入口を見つめていた。
先ほどまでとは、空気が違う。
潮の匂いが濃くなっている。
腐った魚の臭気に混じって、別のものが漂ってくる。
生温かい、人間の体臭。
「やられましたわね」
ゾーイが小さく呟いた。
「何がだ」
ペンドルトンが問う。
「この獣は番犬です。けれど、わたくしたちを追い返すために出てきたのではありません」
ゾーイは、メアリーが抱えた黒い包みへ視線を落とす。
「こちらの目を引きつけるため。あるいは、何かをこちら側へ引き戻すための時間稼ぎですわ」
「引き戻す……?」
若い刑事が震える声で繰り返した。
「まさか、あの死体を――」
ぴちゃり。
その言葉を遮るように、旧修道院跡の奥で音がした。
水を踏む音。
ペンドルトンが拳銃を構える。
メアリーが一歩、ゾーイの斜め後ろへ寄る。
封印布を抱えたまま、もう片方の手に銀の短剣を構えた。
ぴちゃり。
暗い入口の奥。
そこに、水など溜まっていないはずの石床。
けれど、確かに誰かが歩いている。
ゆっくりと。
濡れた足で。
ゾーイは小銃のボルトを引いた。
澄んだ金属音が、森の沈黙に落ちる。
「警部」
「何だ」
「あなたのところの遺体は、歩いてここまで戻ったのではありませんわ」
ゾーイは、暗がりから漂う潮の臭いを確かめるように、わずかに目を細めた。
「安置所から消え、排水溝の前で足跡が途切れた。そして、こちらには濡れた人間の臭いが現れた」
闇の奥で、何かの輪郭が揺れた。
人の形をしている。
だが、首は不自然に傾き、両腕は水に浮かべられたように力なく垂れている。
「呼ばれたのです」
ゾーイの声から、いつもの皮肉が消えた。
「水のない場所を渡って。底の方から、もう一度」
暗闇の中で、濡れた裸足が一歩、光の下へ踏み出した。