悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第七話「這い寄るモノ」

 

 銃声が、ありもしない海鳴りを貫いた。

 

 怪異の体が大きく跳ねる。

 

 ゾーイの放った弾丸は、飛びかかってきた怪異の肩口を穿ち、その軌道を強引に逸らしていた。

 

 黒く濡れた体が、湿った地面へ叩きつけられる。

 

 泥が跳ねた。

 幾本もの尾がばらばらに蠢き、倒木の根元へ絡みつく。

 

 だが、怪異は止まらなかった。

 

 弾丸に穿たれた箇所から、黒い水が溢れ出す。

 それは血のように流れ落ちることなく、傷の縁へ吸い寄せられ、ぬるりと肉の輪郭を作り直していく。

 

 瞬く間に、開いていた穴が塞がった。

 

「まあ。礼儀知らずなだけでなく、しつこいのね」

 

 ゾーイは側車から軽やかに降りた。

 

 黒い外套の裾が、湿った草の上を揺れる。

 その足元に落ちた影だけが、周囲より一段濃い。

 

 怪異は首を捻るように持ち上げ、裂けた口を大きく開いた。

 

 そこから漏れたのは、獣の鳴き声ではなかった。

 

 水底へ沈められた人間たちが、最後の息をまとめて吐き出したような音。

 

 音は耳から入らなかった。

 直接、頭の内側へ染み込んできた。

 

「ぐっ……!」

 

 ペンドルトンの視界が揺れる。

 

 隣では、若い刑事が両耳を押さえたまま、その場へ崩れ落ちた。

 

「う、ぁ……っ……!」

「おい! しっかりしろ!」

 

 ペンドルトンが膝をつく。

 

 若い刑事の呼吸は浅く、震える唇から意味のない音が漏れている。

 聞こえたものを、頭の中で何度も繰り返しているようだった。

 

「警部様、下がってくださいませ」

 

 メアリーが即座に二人のもとへ膝をついた。

 

「だが――」

「お嬢様の射線からも外れてくださいませ」

「……分かった!」

 

 ペンドルトンが若い刑事の肩を抱え、地面を転がるようにして離れる。

 

 その直後、再び銃声が響いた。

 

 一発。

 二発。

 三発。

 

 ゾーイの小銃が立て続けに火を噴く。

 

 怪異の口の端が吹き飛び、尾の一本が千切れ、長い前脚が地面へ崩れ落ちた。

 

 頭の内側へ押し込まれていた音が、一瞬だけ途切れる。

 

 メアリーはその隙を逃さなかった。

 

 懐から細い銀鎖を取り出し、若い刑事の喉元へ一周だけ巻きつける。

 鎖に刻まれた小さな文字が、かすかに赤く熱を帯びた。

 

「呼吸が浅い。聞いたものを、まだ内側で反響させていますね」

「助かるのか」

「助けます」

 

 メアリーは短く答え、小瓶の蓋を外した。

 

 透明な液体が一滴、銀鎖へ落ちる。

 

 若い刑事の体が大きく跳ねた。

 

「がっ……げほっ、げほっ……!」

 

 肺の底から空気を吐き出すように激しく咳き込み、若い刑事は泥の上へ手をついた。

 

「おい、分かるか!」

「け、警部……? 俺……何が……」

 

 掠れてはいるが、言葉は返ってくる。

 

 ペンドルトンは安堵の息を吐いた。

 

「よし。喋れるなら――」

「大丈夫ではございません」

 

 メアリーが冷静に遮った。

 

「本日はもう現場復帰は不可。音の刺激を避け、帰還後も単独で眠らせないようにしてくださいませ」

「そこまでか」

「先ほどの鳴き声は、耳で聞くためのものではございませんので」

 

 若い刑事は青ざめた顔で、ゾーイの方を見た。

 

 怪異が幾本もの尾を持ち上げている。

 その尾は鞭のようにしなり、黒い水の飛沫を撒き散らしながら地面を叩いた。

 

 ゾーイは小銃を肩へ当てたまま、小さくため息をつく。

 

「まったく、品のない鳴き声ですこと。犬なら犬らしく、せめて躾を受けてから吠えなさい」

 

 怪異の尾が一斉に襲いかかる。

 

 ゾーイが身を翻した。

 

 一本をかわし、二本目を銃身で受け流す。

 三本目が死角から伸び、彼女の脇腹を狙う。

 

 その尾を、横から飛んだ銃弾が弾いた。

 

 ペンドルトンの拳銃だった。

 

 黒い水が弾け、土へ触れる前に煙のように消える。

 

 ゾーイが一瞬だけ視線を向けた。

 

「まあ。なかなか良い援護ですわね、警部」

「褒める暇があるなら、とっとと片付けろ!」

「仰られなくとも!」

 

 ゾーイはボルトを引いた。

 

 金属音が、濡れた森の中で澄んで響く。

 

 怪異はその音を嫌ったように、低く身を伏せた。

 そして、急に進行方向を変える。

 

 旧修道院跡ではない。

 木々の密集した、さらに奥の藪へ。

 

「逃げる気か!」

 

 ペンドルトンが銃口を向け直す。

 

 怪異の体が、地面を滑るように後退した。

 尾が遅れて藪の中へ引き込まれ、最後に裂けた口だけが一瞬こちらへ笑う。

 

「逃がしませんわ!」

 

 ゾーイが駆け出した。

 

「おい、待て! 一人で行く気か!」

「警部がついてきても、足手まといが一人増えるだけですわ! メアリー、そちらを頼みます!」

「承知いたしました、お嬢様」

 

 黒い外套が藪の奥へ消える。

 

 直後、森の深部から銃声が響いた。

 

 一発。

 

 間を置いて、さらに二発。

 

 遠ざかる銃声を聞きながら、ペンドルトンは歯を食いしばる。

 

「……あの女、相変わらず勝手に動きやがる」

「お嬢様は、必要な場所へ最短距離で向かわれますので」

「それを勝手に動くと言うんだ」

 

 メアリーは反論せず、側車に備えられた道具鞄を開いた。

 

 中から別の小瓶と、細く畳まれた白い布を取り出す。

 

「お二人とも、しばらく動かないでくださいませ」

「今度は何だ」

「目印を消します」

 

 メアリーは小瓶の液体を、ペンドルトンと若い刑事の外套へ軽く振りかけた。

 

 冷たい。

 

 だが、水ではない。

 薬草の香りの奥に、焼けた鉄と灰の臭いが混じっている。

 

「うわっ……」

「何をかけた」

「匂い消しでございます」

「犬避けの薬みたいに言うな」

「相手が匂いで獲物を追う以上、似たようなものでございます」

 

 メアリーは地面へ膝をつき、銀の短剣で湿った土へ小さな円を刻み始めた。

 

「それは?」

「目くらましです。この内側にいらっしゃる限り、積極的に狙われる可能性は下がります」

「絶対ではないんだな」

「絶対などと軽々しく申し上げる使用人は、信用なさらない方がよろしいかと」

「妙なところで誠実だな、お前は」

 

 若い刑事は、まだ顔色を失ったまま周囲を見回した。

 

「警部……さっきのものは、本当に何だったんですか」

「私に聞くな。こっちが聞きたいくらいだ」

「害獣でございます」

 

 メアリーが即座に答えた。

 

 ペンドルトンは、じろりと彼女を見る。

 

「お前までそれで押し通す気か」

「はい。人に害を為す獣であることは、間違っておりませんので」

「普通の害獣は、人間の顔を浮かべながら傷を塞いだりしない」

「随分と質の悪い害獣だったのでしょう」

「説明する気がないのだけは、よく分かった」

 

 メアリーは目くらましの円を閉じると、銀の短剣を布で拭った。

 

「ご説明したところで、警部様の報告書が書きやすくなるとは思えませんので」

「そっちはそっちで、あとで十分揉めることにする」

「では、その際にはお茶をご用意いたします」

「懐柔されんぞ」

「砂糖は?」

「二つだ」

「承知いたしました」

「違う。そうじゃない」

 

 若い刑事が、理解の追いつかない顔で二人を見比べる。

 

「警部、この方たちとは、以前から……?」

「聞くな。話すと長い」

「お嬢様と警部様は、たいへん良好な関係でございます」

「勝手にまとめるな!」

 

 遠くで、何かが叫んだ。

 

 先ほどのように頭の内側へ突き刺さる声ではない。

 もっと短く、濁った、獣の断末魔に近い響き。

 

 続いて、銃声。

 

 それから。

 

 ばきり。

 

 濡れた枝を、太い歯で噛み砕いたような音がした。

 

 ペンドルトンは黙り込んだ。

 

 聞かなかったことにしたい音だった。

 

「……今のは何だ」

「お嬢様がお片付けをなさったのでしょう」

「何をどう片付ければ、あんな音になる」

「詳細をお知りになると、夕食がおいしくなくなるかと」

「もう十分まずくなっている」

 

 メアリーは何事もなかったように、若い刑事へ水筒を差し出した。

 

「少しずつお飲みくださいませ」

「は、はい……ありがとうございます」

 

 若い刑事が恐る恐る水を口にする。

 

 その直後、藪の奥が大きく揺れた。

 

 ペンドルトンは反射的に拳銃を向ける。

 

「おやめなさい。危ないですわね」

 

 聞き慣れた、いけ好かない声がした。

 

 枝葉を押し分け、ゾーイが戻ってくる。

 

 黒い外套には目立った傷もない。

 黒髪も、ほとんど乱れていない。

 

 ただ、その顔は露骨に機嫌が悪かった。

 

「おかえりなさいませ、お嬢様」

「ええ。戻りましたわ」

 

 ゾーイは片手で口元を押さえる。

 

「……本当に、最低の後味ですこと。泥水で薄めた獣脂へ、海藻と腐った祈りを練り込んだような」

「お水をお持ちいたします」

「濃い紅茶がよろしいのですけれど」

「現場に茶器はございません」

「現代は本当に不便ですわね」

 

 ペンドルトンが拳銃を下ろしながら、ゾーイのもう片方の手を見る。

 

「それは何だ」

 

 ゾーイは、黒い封印布の端をつまんでいた。

 包みの中から、細い尾の先だけが数本、力なく垂れ下がっている。

 

「持ち帰るのか」

「資料ですわ。味は最悪でも、何を舐めて育ったのかくらいは確認しませんと」

 

 メアリーがすぐに封印布を受け取った。

 

 包みを銀鎖で縛り、さらに小瓶の液体を一滴だけ落とす。

 布の内側で一度だけ、何かがぴくりと震え、それきり動かなくなった。

 

「で、結局こいつは何だった」

 

 ペンドルトンが問う。

 

「害獣という説明では、さすがに報告書にも限界がある」

「害獣であることは間違いありませんわ」

 

 ゾーイは手袋に残った黒い染みを見て、眉を顰める。

 

「人の恐怖を嗅ぎつけ、祈りの残り滓を舐め、何か大きなものの傍で形を与えられた小物。庭先に放された番犬、といったところでしょうか」

「番犬?」

「ええ。主人の代わりに吠えて、近づいた者へ噛みつく程度のものです」

「では、何を守っていた」

 

 ペンドルトンは、旧修道院跡の暗い入口へ視線を向ける。

 

「あるいは、何を隠すために出てきたのか、ですわね」

 

 ゾーイの微笑みが、わずかに薄れる。

 

「先日の男を沈めかけたものと、この獣。臭いはよく似ています。少なくとも、同じ水を飲んで育った類でしょう」

「教会筋で処理された、あの悪魔憑き案件に関係があると?」

「まだ断定はいたしませんわ。ですが、随分と品の悪い偶然が続いておりますもの」

 

 ペンドルトンは、ゾーイを睨むように見た。

 

「……お前、今回の遺体についても知っていたのか」

「教会筋から回された資料に、最低限の概要だけはございましたわ」

 

 ゾーイは、いかにも不愉快そうに手袋の黒い染みを見る。

 

「山の中で発見されたにもかかわらず、肺と胃の中だけを海水で満たしていた遺体。先日の後味を忘れるには、少々似すぎておりますでしょう?」

「なら、最初からそう言え」

「現場で確認もせずに騒ぐのは、三流の占い師か新聞屋の仕事ですわ。わたくしは祈祷師ですの」

「同じ呪いだと判断するには、十分ではなかったということか」

「ええ。海の匂いがするものを、すべて同じ瓶へ詰めるほど雑な仕事はいたしませんわ」

 

 ペンドルトンは旧修道院跡へ視線を戻した。

 

 朽ちた入口。

 光の差さない奥。

 潮の臭いを含んだ湿気。

 

「つまり、これで終わりではないということか」

「ええ」

 

 ゾーイは、メアリーが封じた包みへ目を落とす。

 

「これだけなら、わたくしの口が不愉快になっただけで済みます。ですが――」

 

 そこで、若い刑事の携帯端末が鳴った。

 

 唐突な電子音に、若い刑事の肩が大きく跳ねる。

 

「す、すみません。署からです」

 

 ペンドルトンが手を差し出した。

 

「出ろ。音声をこちらにも聞かせろ」

「はい」

 

 若い刑事が通話を繋ぐ。

 

「こちら現場です。どうしました」

 

『ああ、君か! 警部はそこにいるか!?』

 

 受話口の向こうから、切羽詰まった男の声が響く。

 

「いる。私だ。何があった」

 

『警部! その……安置室の件です!』

 

 ペンドルトンの顔から、わずかに血の気が引いた。

 

「遺体がどうした」

『ありません!』

「何?」

『遺体が、消えました!』

 

 若い刑事が息を呑む。

 

 ペンドルトンは、即座に声を低くした。

 

「落ち着け。誰が確認した。見張りはどうした」

『指示通り、単独では近づいていません! 検査担当と職員の二人で確認を続けていました。少し前に、安置室の中から咳のような音がしたんです』

「咳だと」

『はい。それで二人が扉を開けて確認したところ、台の上が空になっていました!』

「扉から出たのを見た者は」

『いません。廊下の監視映像にも、該当する人物は映っていません』

「窓は」

『ありません。換気口も、人が通れる大きさではありません』

「なら、どうやって消えた」

『それが……』

 

 通話の向こうで、誰かが何かを叫んでいる。

 

『警部。床に、足跡があるんです』

「足跡?」

『濡れた裸足の跡です。遺体が置かれていた台の横から始まって、安置室の扉を抜け、廊下を進んでいます』

「監視映像には映っていないと言ったな」

『はい。映像には誰もいません。なのに、濡れた足跡だけが、一歩ずつ増えていくんです』

 

 森の空気が、急に冷たくなったように感じられた。

 

「足跡はどこへ向かっている」

『地下の設備通路です。ですが、そちらは行き止まりで――』

 

 向こう側で、何かが倒れる大きな音がした。

 

『な、何だ!?』

「どうした!」

『足跡が……止まりました』

「どこでだ」

『排水溝の前です。床にある、小さな排水溝です。人間が通れるような場所ではありません。ですが……足跡が、その手前で消えています』

 

 ペンドルトンは無言で旧修道院跡を見た。

 

 山の中。

 海水。

 湿った足跡。

 人が通れないほど小さな排水溝。

 

 喉の奥に、嫌な重さが沈んでいく。

 

「全員、そこから離れろ」

『ですが、遺体は――』

「追うな! 排水溝にも、水の跡にも触れるな! 建物内の者を外へ出せ!」

『は、はい!』

「こちらへ位置情報と現場映像を送れ。封鎖は外側からだ。中に人間を残すな」

『分かりました!』

 

 通話が切れた。

 

 若い刑事は、青ざめた顔で携帯端末を握りしめたまま動けない。

 

「警部……あの遺体は、どこへ……」

「私に聞くな」

 

 ペンドルトンは低く吐き捨てる。

 

「だが、ろくでもない場所へ向かったのだけは確かだ」

 

「お嬢様」

 

 メアリーがゾーイを呼ぶ。

 

「ええ」

 

 ゾーイは、旧修道院跡の暗い入口を見つめていた。

 

 先ほどまでとは、空気が違う。

 

 潮の匂いが濃くなっている。

 腐った魚の臭気に混じって、別のものが漂ってくる。

 

 生温かい、人間の体臭。

 

「やられましたわね」

 

 ゾーイが小さく呟いた。

 

「何がだ」

 

 ペンドルトンが問う。

 

「この獣は番犬です。けれど、わたくしたちを追い返すために出てきたのではありません」

 

 ゾーイは、メアリーが抱えた黒い包みへ視線を落とす。

 

「こちらの目を引きつけるため。あるいは、何かをこちら側へ引き戻すための時間稼ぎですわ」

「引き戻す……?」

 

 若い刑事が震える声で繰り返した。

 

「まさか、あの死体を――」

 

 ぴちゃり。

 

 その言葉を遮るように、旧修道院跡の奥で音がした。

 

 水を踏む音。

 

 ペンドルトンが拳銃を構える。

 

 メアリーが一歩、ゾーイの斜め後ろへ寄る。

 封印布を抱えたまま、もう片方の手に銀の短剣を構えた。

 

 ぴちゃり。

 

 暗い入口の奥。

 そこに、水など溜まっていないはずの石床。

 

 けれど、確かに誰かが歩いている。

 

 ゆっくりと。

 濡れた足で。

 

 ゾーイは小銃のボルトを引いた。

 

 澄んだ金属音が、森の沈黙に落ちる。

 

「警部」

「何だ」

「あなたのところの遺体は、歩いてここまで戻ったのではありませんわ」

 

 ゾーイは、暗がりから漂う潮の臭いを確かめるように、わずかに目を細めた。

 

「安置所から消え、排水溝の前で足跡が途切れた。そして、こちらには濡れた人間の臭いが現れた」

 

 闇の奥で、何かの輪郭が揺れた。

 

 人の形をしている。

 だが、首は不自然に傾き、両腕は水に浮かべられたように力なく垂れている。

 

「呼ばれたのです」

 

 ゾーイの声から、いつもの皮肉が消えた。

 

「水のない場所を渡って。底の方から、もう一度」

 

 暗闇の中で、濡れた裸足が一歩、光の下へ踏み出した。

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