悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第八話「戻る死体」

 

 それは、死体だった。

 

 少なくとも、ペンドルトンが遺体安置所で見た男の顔をしていた。

 

 青白い肌。

 落ち窪んだ頬。

 半ば開いたままの口。

 

 検分のために外されていたはずの衣服はなく、腰のあたりには白い布の切れ端がまとわりついている。

 裸足の足裏からは、ぬるりと濡れた音がする。

 

 だが、その足が踏みしめた石床には、水の跡が残らない。

 

 ぴちゃり。

 

 一歩。

 

 ぴちゃり。

 

 もう一歩。

 

「……あれが、安置所の遺体なのか」

 

 若い刑事が、掠れた声で呟いた。

 

 ペンドルトンは答えなかった。

 

 答えたくなかった。

 

 人間の死体が、安置室から消え、監視映像にも映らず、排水溝の前で足跡を途切れさせた。

 そして今、山中の旧修道院跡から歩いて出てくる。

 

 そんなものを、現実として認めたくはない。

 

 だが、目の前の男の喉元には、安置室で確認したものと同じ、薄い膜のようなものが貼りついていた。

 

「警部」

 

 ゾーイが静かに言った。

 

「銃を下ろしなさい」

 

「何だと?」

 

「それは、まだ敵の顔ではありませんわ」

 

 ペンドルトンの指は、拳銃の引き金から離れない。

 

「歩く死体を前にして、撃つなと言うのか」

「死体だからこそです」

 

 ゾーイの声に、いつもの笑みはなかった。

 

「使われているだけなら、その体は被害者のものですわ。乱暴に壊してよい理由にはなりません」

 

 ペンドルトンは奥歯を噛みしめた。

 

 目の前のものは、どう見ても人間ではない。

 だが同時に、それがかつて誰かだった身体であることも否定できない。

 

「……分かった。だが、こっちへ来るなら撃つ」

「その時は、わたくしが先に止めます」

 

「ずいぶんな自信だな」

「自信がなくて、この商売が務まるとでも?」

 

 わずかに、いつもの調子が戻る。

 

 だが、ゾーイの視線は死体から一度も逸れなかった。

 

 男は、ふらつくように歩いてくる。

 

 膝は曲がり、首は片側へ傾いたまま。

 両腕は水に浮かべられた人形のように、だらりと垂れ下がっている。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「……さ……む……」

 

 若い刑事の顔が引きつる。

 

「喋った……?」

 

「聞くな!」

 

 ペンドルトンが怒鳴る。

 

 だが、遅かった。

 

「……さむ……い……みず……が……」

 

 男の声は、喉から出ているようで、どこか遠い。

 井戸の底へ顔を向け、そこから響いてくる声を聞いているようだった。

 

 若い刑事が、一歩前へ出る。

 

「生きて……いるんじゃ……」

「止まりなさいませ」

 

 メアリーの手が、若い刑事の肩を掴んだ。

 

 力任せではない。

 けれど、指一本動かせないほど正確な拘束だった。

 

「でも、助けを――」

「その声を、あなたへ向けたものだと判断してはいけません」

 

 メアリーは若い刑事の喉元に残る銀鎖へ指を触れさせた。

 

 鎖が熱を帯びる。

 

「先ほどのものに触れられたあなたは、まだ目印を残しています。あれが呼んでいるのは、助けではございません」

 

 若い刑事の顔から血の気が消えた。

 

 男の口元が、ゆっくりと歪む。

 

「……み……ず……」

 

 その口から、黒い液体が溢れた。

 

 水だった。

 

 いや、水の形をした何かだった。

 

 重力に従って落ちることなく、男の顎から細い糸のように伸び、空中で幾筋にも枝分かれする。

 

 その先端が、若い刑事へ向いた。

 

「メアリー!」

 

「承知いたしました」

 

 メアリーが若い刑事を引き倒す。

 

 同時に、ペンドルトンの拳銃が火を噴いた。

 

 一発。

 

 黒い水の筋が弾ける。

 

 だが、液体は飛び散らず、撃ち抜かれた場所から二股に分かれて再び伸び始めた。

 

「くそっ、効いていない!」

 

「いいえ。十分ですわ」

 

 ゾーイの足元から、影が走った。

 

 黒い影は草地を滑り、石床を越え、死体の両足へ絡みつく。

 男の体が大きく傾いた。

 

 だが、倒れない。

 

 影に縛られながら、死体はなお前へ進もうとする。

 骨が軋む。

 足首が不自然な角度に折れる。

 

 それでも、止まらない。

 

「お嬢様」

 

 メアリーの声が低くなる。

 

「ええ。分かっておりますわ」

 

 ゾーイの瞳が、わずかに冷えた。

 

「これは、動かされている死体ではありません」

 

「何?」

 

 ペンドルトンが問う。

 

 ゾーイは答えず、ゆっくりと死体の前へ出た。

 

「おい、近づくな!」

 

「静かになさい、警部。今、話しかけているのはあなたではありませんの」

 

 死体の口から、黒い水がさらに溢れる。

 

 伸びた水の筋は、今度はゾーイへ向かった。

 

 だが、彼女の影へ触れた瞬間、焼けた油のような音を立てて縮み上がる。

 

 ゾーイは、男の顔を見上げた。

 

「あなたは、随分と歩かされましたのね」

 

 男の濁った瞳が、かすかに揺れた。

 

「……さむ……い……」

「ええ。寒かったでしょう」

 

 ペンドルトンが目を見開く。

 

 ゾーイの声音は、皮肉でも侮蔑でもなかった。

 神様もどきを嘲った時の声とは、まるで違う。

 

 ただ、静かだった。

 

「ですが、もう歩かなくてよろしいのですわ」

 

 ゾーイが黒いレースの手袋を外した。

 

 白い指先が、男の額へ触れる。

 

 次の瞬間。

 

 男の体が、びくりと大きく震えた。

 

 口が限界まで開く。

 そこから、水音と一緒に、幾つもの声が零れ落ちる。

 

『さむい』

『かえりたい』

『しずめて』

『まだたりない』

『もっと――』

 

「黙りなさい」

 

 ゾーイの声が、冷たく落ちた。

 

 足元の影が膨らむ。

 

 黒い水が、男の口から無理やり引きずり出されていく。

 だが、それは海に憑かれた男から呪いを剥がした時とは違った。

 

 人間の内側に食い込んでいるのではない。

 この男の体を、通り道として使っている。

 

 中へ入り込んだものを引き剥がすのではなく、どこかから伸びている糸を断つような感触。

 

 ゾーイの眉が険しく寄る。

 

「……空っぽですわ」

 

「空っぽ?」

 

 ペンドルトンが聞き返す。

 

「この方の内側には、もう引き戻せるものがありません」

 

 若い刑事が息を呑む。

 

「それは……死んでいるから、という意味ですか」

 

 ゾーイは、死体の額に触れたまま答えた。

 

「死者には、死者の静けさがありますわ。ここまで騒がしくはありません」

 

 黒い水が、男の口から次々に抜け落ちていく。

 

「この方は、死後に歩かされたのではない。身体そのものを器にされ、何かをここへ通すために呼び戻されたのです」

 

「器……」

 

 ペンドルトンの声が低くなる。

 

「では、この死体が戻ってきた理由は」

 

「鍵か、目印か、あるいは供物か」

 

 ゾーイは唇を歪めた。

 

「何にせよ、ろくでもない使われ方ですわね」

 

 男の体が、突然大きく仰け反った。

 

 足元の石床へ、黒い水が落ちる。

 

 今度は消えなかった。

 

 一滴。

 

 二滴。

 

 それらは地面へ染み込むのではなく、細い筋となって旧修道院跡の内部へ向かって這い始める。

 

「動いたぞ!」

 

 ペンドルトンが叫ぶ。

 

「ええ。体ではなく、中を通っていたものが」

 

 ゾーイは死体の額から手を離した。

 

 男の体が崩れ落ちる。

 

 だが、地面へ叩きつけられる寸前、影がその身体を受け止めた。

 

 まるで柔らかな布の上へ横たえるように、死体は静かに草地へ下ろされる。

 

 ゾーイは、その青白い顔を一度だけ見た。

 

「お休みなさい。今度こそ、誰にも歩かされませんように」

 

 若い刑事は何も言えなかった。

 

 ペンドルトンもまた、拳銃を下げたまま黙っている。

 

 だが、静けさは一瞬しか続かなかった。

 

 地面を這う黒い水の筋が、旧修道院跡の入口を越えていく。

 

「追います」

 

 ゾーイが即座に歩き出した。

 

「待て。あの遺体はどうする」

 

「あなた方のお仕事でしょう、警部」

 

「こんな状態で通常の回収班に触らせられるか!」

 

「だから、あなたがいるのではなくて?」

 

 ゾーイは振り返らずに言った。

 

「死者を守るのは、人間の役目ですわ。こちら側に残った身体まで、わたくしに片付けさせるおつもり?」

 

 ペンドルトンは、死体へ視線を落とした。

 

 目の前に横たわる男は、もう動かない。

 口元から水も漏れていない。

 ただ、ようやく本来の死体へ戻ったかのように、静かに横たわっている。

 

「……分かった」

 

 ペンドルトンは携帯端末を取り出した。

 

「応援をこちらへ回す。遺体は私の管理下で回収させる」

「素晴らしい。警部にも人間らしい丁寧さが残っていて安心いたしましたわ」

「喧嘩を売るならあとにしろ」

「褒めたのですけれど」

 

 ペンドルトンは端末を操作し、林道側へ待機している応援へ連絡を入れた。

 

「こちらペンドルトン。旧修道院跡前で遺体を再発見した。繰り返す、遺体を再発見。通常の接触は禁止。担架と密閉用の袋を持ってこい。素手で触るな。水分、泥、排水設備の類にも近づくな」

 

『遺体を再発見……? 警部、どういう――』

「説明は後だ。命令だけ聞け」

 

『了解。すぐ向かいます』

 

 通信を切る。

 

 若い刑事が、まだ震える脚で立ち上がろうとした。

 

「警部。俺も――」

「お前は戻れ」

「ですが」

「戻れ」

 

 ペンドルトンの声に、拒否を許さない響きが混じる。

 

「先ほど倒れたばかりだ。今ここで役に立とうとするのは、勇敢じゃない。ただの無茶だ」

 

 若い刑事は唇を噛んだ。

 

「……申し訳ありません」

「謝るな。生きて報告するのも仕事だ」

 

 メアリーが、若い刑事の喉元に巻かれた銀鎖へ指を添える。

 

「こちらは外さないでくださいませ。今夜は可能な限り、水の音がする場所を避けるように」

「水道も、ですか」

「念のためには」

「風呂も?」

「本日はお控えくださいませ」

「……分かりました」

 

 若い刑事は、やや情けない顔で頷いた。

 

 ペンドルトンが小さく息を吐く。

 

「帰ったら温かい酒でも飲め。水で薄めるなよ」

「警部、それは勤務中に言ってよい助言なのでしょうか」

「今日くらいは聞かなかったことにしろ」

 

「感心いたしませんね」

 

 ゾーイが、入口付近で立ち止まったまま口を挟む。

 

「恐怖の後にお酒など入れれば、悪夢の味が濃くなりますわ。温かい甘味と、香りの強いお茶になさい」

「お前が言うと妙に説得力があるのが腹立たしいな」

「毎度、まずいものを喰らって帰りますもの。後味の処理には詳しいのですわ」

 

 その時、旧修道院跡の内部から、低い音が響いた。

 

 ごとり。

 

 重い石が、どこかで動いたような音。

 

 ゾーイの表情が変わる。

 

「お嬢様」

 

「ええ。時間切れのようですわね」

 

 地面を這っていた黒い水の筋は、すでに入口の奥へ消えていた。

 

 ペンドルトンは若い刑事へ向き直る。

 

「応援が来たら遺体の回収を見届けろ。誰も中へ入れるな。排水や地下への入口を見つけても、絶対に触るな」

「警部は、どうするんですか」

 

 ペンドルトンは旧修道院跡へ視線を向けた。

 

「この先へ行く」

 

「ですが、警部も先ほど――」

「撃てる。歩ける。なら、まだ現場に立てる」

 

 若い刑事が言葉を失う。

 

 ゾーイは、小さく肩を竦めた。

 

「本当に、面倒なお方ですこと」

「今さら知ったように言うな」

「知ってはおりますわ。だから嫌いではないのですけれど」

 

 ペンドルトンが眉を顰める。

 

「何か言ったか」

「いいえ。警部の耳には、水でも詰まっているのではなくて?」

 

「この状況でよく軽口が出るな」

「軽口の一つも叩かなければ、人間はすぐに怖がるでしょう?」

 

 ゾーイはそう言って、旧修道院跡の入口へ足を踏み入れた。

 

 メアリーが、その半歩後ろへ続く。

 

 ペンドルトンも銃を構え直し、二人の背を追った。

 

     *

 

 建物の内部は、外から見た以上に荒れていた。

 

 崩れた天井。

 腐った木製の長椅子。

 床を覆う濡れた落ち葉。

 

 だが、奇妙なことに、内部の石床には新しい濡れ跡が続いている。

 

 裸足の足跡ではない。

 

 黒い水そのものが、細い蛇のように這った跡だった。

 

 それは礼拝堂跡の中央を横切り、朽ちた祭壇の脇へ伸びている。

 

「ここも礼拝堂か」

 

 ペンドルトンが呟く。

 

「先日の場所ほど整ってはいませんが、元は祈りの場だったのでしょうね」

 

 ゾーイは周囲を見回す。

 

「まったく。人間は祈りの場を作る才能と、汚す才能だけはどちらも一級品ですわ」

 

「その先日の件と、ここが繋がっているなら、同じ連中が使っていた場所なのか」

 

「そこまでは分かりません」

 

 ゾーイは即答した。

 

「似た祈りが、似た底へ辿り着くこともございます。信仰とは、時に道より厄介ですもの」

 

 黒い水の跡が、祭壇の前で止まっている。

 

 いや、止まったのではない。

 

 そこから、石床の隙間へ染み込んでいる。

 

 メアリーが足を止めた。

 

「お嬢様。床下です」

 

「ええ」

 

 ゾーイは小銃の銃口で、朽ちた祭壇脇の床を指した。

 

 石床には、泥と苔に隠れてほとんど見えない細い溝が刻まれている。

 円の一部。

 古い文字。

 水を流すための樋にも、儀式の線にも見える形。

 

 その溝に沿って、黒い水がゆっくりと満ちていく。

 

「下がれ」

 

 ペンドルトンが言う。

 

「何か開く」

 

 言葉が終わるより早く、石床が揺れた。

 

 ごり。

 

 ごり、と重い音を立てて、祭壇前の床石が横へずれる。

 

 下から吹き上がってきたのは、地下の黴臭さではなかった。

 

 潮の匂い。

 

 深い、深い場所に溜まった、冷たい海の匂い。

 

 石床の下には、暗い階段が口を開けていた。

 

 下へ。

 

 さらに下へ。

 

 月明かりも、外の風も届かない場所へ。

 

 階段の奥から、かすかに水音が聞こえる。

 

 ぽたり。

 

 遺体安置所で聞いたものと同じ音。

 

 ペンドルトンの指が、拳銃の握りを強く締めた。

 

「……ここが、底か」

 

「入口に過ぎませんわ」

 

 ゾーイは、階段の闇を見下ろした。

 

 スカイブルーの瞳が、冷たい闇を映している。

 

「底を名乗るには、まだ浅すぎますもの」

 

 メアリーが小さなランタンを取り出し、火を灯した。

 

 橙色の光が、湿った石段を数段だけ照らす。

 その先は、何も見えない。

 

「警部」

 

 ゾーイが振り返らずに言う。

 

「ここから先は、戻れる保証が薄くなりますわよ」

 

「今さら脅しているのか」

「忠告ですわ。珍しく親切に」

 

「なら、私も親切に答えてやる」

 

 ペンドルトンは、階段の闇へ銃口を向けた。

 

「死体を歩かせ、市民を巻き込み、部下まで壊しかけた奴を放って帰れるほど、私は上品じゃない」

 

 ゾーイは数秒黙った。

 

 それから、小さく笑う。

 

「ええ。そういうところですわね」

 

「だから、何がだ」

「何でもございません」

 

 ゾーイは階段の最初の一段へ足を下ろした。

 

「では、参りましょう。水のない場所の、その下へ」

 

 三人の足音が、暗い地下へ吸い込まれていく。

 

 その遥か下から。

 

 何かが、濡れた呼吸を返した。

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