悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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戻る死体

 

 それは、死体だった。

 

 少なくとも、ペンドルトンが遺体安置所で見た男の顔をしていた。

 

 青白い肌。

 落ち窪んだ頬。

 半ば開いたままの口。

 

 検分のために外されていたはずの衣服はなく、腰のあたりには白い布の切れ端がまとわりついている。

 裸足の足裏からは、ぬるりと濡れた音がする。

 

 だが、その足が踏みしめた石床には、水の跡が残らない。

 

 ぴちゃり。

 

 一歩。

 

 ぴちゃり。

 

 もう一歩。

 

「……あれが、安置所の遺体なのか」

 

 若い刑事が、掠れた声で呟いた。

 

 ペンドルトンは答えなかった。

 

 答えたくなかった。

 

 人間の死体が、安置室から消え、監視映像にも映らず、排水溝の前で足跡を途切れさせた。

 そして今、山中の旧修道院跡から歩いて出てくる。

 

 そんなものを、現実として認めたくはない。

 

 だが、目の前の男の喉元には、安置室で確認したものと同じ、薄い膜のようなものが貼りついていた。

 

「警部」

 

 ゾーイが静かに言った。

 

「銃を下ろしなさい」

 

「何だと?」

 

「それは、まだ敵の顔ではありませんわ」

 

 ペンドルトンの指は、拳銃の引き金から離れない。

 

「歩く死体を前にして、撃つなと言うのか」

「死体だからこそです」

 

 ゾーイの声に、いつもの笑みはなかった。

 

「使われているだけなら、その体は被害者のものですわ。乱暴に壊してよい理由にはなりません」

 

 ペンドルトンは奥歯を噛みしめた。

 

 目の前のものは、どう見ても人間ではない。

 だが同時に、それがかつて誰かだった身体であることも否定できない。

 

「……分かった。だが、こっちへ来るなら撃つ」

「その時は、わたくしが先に止めます」

 

「ずいぶんな自信だな」

「自信がなくて、この商売が務まるとでも?」

 

 わずかに、いつもの調子が戻る。

 

 だが、ゾーイの視線は死体から一度も逸れなかった。

 

 男は、ふらつくように歩いてくる。

 

 膝は曲がり、首は片側へ傾いたまま。

 両腕は水に浮かべられた人形のように、だらりと垂れ下がっている。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「……さ……む……」

 

 若い刑事の顔が引きつる。

 

「喋った……?」

 

「聞くな!」

 

 ペンドルトンが怒鳴る。

 

 だが、遅かった。

 

「……さむ……い……みず……が……」

 

 男の声は、喉から出ているようで、どこか遠い。

 井戸の底へ顔を向け、そこから響いてくる声を聞いているようだった。

 

 若い刑事が、一歩前へ出る。

 

「生きて……いるんじゃ……」

「止まりなさいませ」

 

 メアリーの手が、若い刑事の肩を掴んだ。

 

 力任せではない。

 けれど、指一本動かせないほど正確な拘束だった。

 

「でも、助けを――」

「その声を、あなたへ向けたものだと判断してはいけません」

 

 メアリーは若い刑事の喉元に残る銀鎖へ指を触れさせた。

 

 鎖が熱を帯びる。

 

「先ほどのものに触れられたあなたは、まだ目印を残しています。あれが呼んでいるのは、助けではございません」

 

 若い刑事の顔から血の気が消えた。

 

 男の口元が、ゆっくりと歪む。

 

「……み……ず……」

 

 その口から、黒い液体が溢れた。

 

 水だった。

 

 いや、水の形をした何かだった。

 

 重力に従って落ちることなく、男の顎から細い糸のように伸び、空中で幾筋にも枝分かれする。

 

 その先端が、若い刑事へ向いた。

 

「メアリー!」

 

「承知いたしました」

 

 メアリーが若い刑事を引き倒す。

 

 同時に、ペンドルトンの拳銃が火を噴いた。

 

 一発。

 

 黒い水の筋が弾ける。

 

 だが、液体は飛び散らず、撃ち抜かれた場所から二股に分かれて再び伸び始めた。

 

「くそっ、効いていない!」

 

「いいえ。十分ですわ」

 

 ゾーイの足元から、影が走った。

 

 黒い影は草地を滑り、石床を越え、死体の両足へ絡みつく。

 男の体が大きく傾いた。

 

 だが、倒れない。

 

 影に縛られながら、死体はなお前へ進もうとする。

 骨が軋む。

 足首が不自然な角度に折れる。

 

 それでも、止まらない。

 

「お嬢様」

 

 メアリーの声が低くなる。

 

「ええ。分かっておりますわ」

 

 ゾーイの瞳が、わずかに冷えた。

 

「これは、動かされている死体ではありません」

 

「何?」

 

 ペンドルトンが問う。

 

 ゾーイは答えず、ゆっくりと死体の前へ出た。

 

「おい、近づくな!」

 

「静かになさい、警部。今、話しかけているのはあなたではありませんの」

 

 死体の口から、黒い水がさらに溢れる。

 

 伸びた水の筋は、今度はゾーイへ向かった。

 

 だが、彼女の影へ触れた瞬間、焼けた油のような音を立てて縮み上がる。

 

 ゾーイは、男の顔を見上げた。

 

「あなたは、随分と歩かされましたのね」

 

 男の濁った瞳が、かすかに揺れた。

 

「……さむ……い……」

「ええ。寒かったでしょう」

 

 ペンドルトンが目を見開く。

 

 ゾーイの声音は、皮肉でも侮蔑でもなかった。

 神様もどきを嘲った時の声とは、まるで違う。

 

 ただ、静かだった。

 

「ですが、もう歩かなくてよろしいのですわ」

 

 ゾーイが黒いレースの手袋を外した。

 

 白い指先が、男の額へ触れる。

 

 次の瞬間。

 

 男の体が、びくりと大きく震えた。

 

 口が限界まで開く。

 そこから、水音と一緒に、幾つもの声が零れ落ちる。

 

『さむい』

『かえりたい』

『しずめて』

『まだたりない』

『もっと――』

 

「黙りなさい」

 

 ゾーイの声が、冷たく落ちた。

 

 足元の影が膨らむ。

 

 黒い水が、男の口から無理やり引きずり出されていく。

 だが、それは海に憑かれた男から呪いを剥がした時とは違った。

 

 人間の内側に食い込んでいるのではない。

 この男の体を、通り道として使っている。

 

 中へ入り込んだものを引き剥がすのではなく、どこかから伸びている糸を断つような感触。

 

 ゾーイの眉が険しく寄る。

 

「……空っぽですわ」

 

「空っぽ?」

 

 ペンドルトンが聞き返す。

 

「この方の内側には、もう引き戻せるものがありません」

 

 若い刑事が息を呑む。

 

「それは……死んでいるから、という意味ですか」

 

 ゾーイは、死体の額に触れたまま答えた。

 

「死者には、死者の静けさがありますわ。ここまで騒がしくはありません」

 

 黒い水が、男の口から次々に抜け落ちていく。

 

「この方は、死後に歩かされたのではない。身体そのものを器にされ、何かをここへ通すために呼び戻されたのです」

 

「器……」

 

 ペンドルトンの声が低くなる。

 

「では、この死体が戻ってきた理由は」

 

「鍵か、目印か、あるいは供物か」

 

 ゾーイは唇を歪めた。

 

「何にせよ、ろくでもない使われ方ですわね」

 

 男の体が、突然大きく仰け反った。

 

 足元の石床へ、黒い水が落ちる。

 

 今度は消えなかった。

 

 一滴。

 

 二滴。

 

 それらは地面へ染み込むのではなく、細い筋となって旧修道院跡の内部へ向かって這い始める。

 

「動いたぞ!」

 

 ペンドルトンが叫ぶ。

 

「ええ。体ではなく、中を通っていたものが」

 

 ゾーイは死体の額から手を離した。

 

 男の体が崩れ落ちる。

 

 だが、地面へ叩きつけられる寸前、影がその身体を受け止めた。

 

 まるで柔らかな布の上へ横たえるように、死体は静かに草地へ下ろされる。

 

 ゾーイは、その青白い顔を一度だけ見た。

 

「お休みなさい。今度こそ、誰にも歩かされませんように」

 

 若い刑事は何も言えなかった。

 

 ペンドルトンもまた、拳銃を下げたまま黙っている。

 

 だが、静けさは一瞬しか続かなかった。

 

 地面を這う黒い水の筋が、旧修道院跡の入口を越えていく。

 

「追います」

 

 ゾーイが即座に歩き出した。

 

「待て。あの遺体はどうする」

 

「あなた方のお仕事でしょう、警部」

 

「こんな状態で通常の回収班に触らせられるか!」

 

「だから、あなたがいるのではなくて?」

 

 ゾーイは振り返らずに言った。

 

「死者を守るのは、人間の役目ですわ。こちら側に残った身体まで、わたくしに片付けさせるおつもり?」

 

 ペンドルトンは、死体へ視線を落とした。

 

 目の前に横たわる男は、もう動かない。

 口元から水も漏れていない。

 ただ、ようやく本来の死体へ戻ったかのように、静かに横たわっている。

 

「……分かった」

 

 ペンドルトンは携帯端末を取り出した。

 

「応援をこちらへ回す。遺体は私の管理下で回収させる」

「素晴らしい。警部にも人間らしい丁寧さが残っていて安心いたしましたわ」

「喧嘩を売るならあとにしろ」

「褒めたのですけれど」

 

 ペンドルトンは端末を操作し、林道側へ待機している応援へ連絡を入れた。

 

「こちらペンドルトン。旧修道院跡前で遺体を再発見した。繰り返す、遺体を再発見。通常の接触は禁止。担架と密閉用の袋を持ってこい。素手で触るな。水分、泥、排水設備の類にも近づくな」

 

『遺体を再発見……? 警部、どういう――』

「説明は後だ。命令だけ聞け」

 

『了解。すぐ向かいます』

 

 通信を切る。

 

 若い刑事が、まだ震える脚で立ち上がろうとした。

 

「警部。俺も――」

「お前は戻れ」

「ですが」

「戻れ」

 

 ペンドルトンの声に、拒否を許さない響きが混じる。

 

「先ほど倒れたばかりだ。今ここで役に立とうとするのは、勇敢じゃない。ただの無茶だ」

 

 若い刑事は唇を噛んだ。

 

「……申し訳ありません」

「謝るな。生きて報告するのも仕事だ」

 

 メアリーが、若い刑事の喉元に巻かれた銀鎖へ指を添える。

 

「こちらは外さないでくださいませ。今夜は可能な限り、水の音がする場所を避けるように」

「水道も、ですか」

「念のためには」

「風呂も?」

「本日はお控えくださいませ」

「……分かりました」

 

 若い刑事は、やや情けない顔で頷いた。

 

 ペンドルトンが小さく息を吐く。

 

「帰ったら温かい酒でも飲め。水で薄めるなよ」

「警部、それは勤務中に言ってよい助言なのでしょうか」

「今日くらいは聞かなかったことにしろ」

 

「感心いたしませんね」

 

 ゾーイが、入口付近で立ち止まったまま口を挟む。

 

「恐怖の後にお酒など入れれば、悪夢の味が濃くなりますわ。温かい甘味と、香りの強いお茶になさい」

「お前が言うと妙に説得力があるのが腹立たしいな」

「毎度、まずいものを喰らって帰りますもの。後味の処理には詳しいのですわ」

 

 その時、旧修道院跡の内部から、低い音が響いた。

 

 ごとり。

 

 重い石が、どこかで動いたような音。

 

 ゾーイの表情が変わる。

 

「お嬢様」

 

「ええ。時間切れのようですわね」

 

 地面を這っていた黒い水の筋は、すでに入口の奥へ消えていた。

 

 ペンドルトンは若い刑事へ向き直る。

 

「応援が来たら遺体の回収を見届けろ。誰も中へ入れるな。排水や地下への入口を見つけても、絶対に触るな」

「警部は、どうするんですか」

 

 ペンドルトンは旧修道院跡へ視線を向けた。

 

「この先へ行く」

 

「ですが、警部も先ほど――」

「撃てる。歩ける。なら、まだ現場に立てる」

 

 若い刑事が言葉を失う。

 

 ゾーイは、小さく肩を竦めた。

 

「本当に、面倒なお方ですこと」

「今さら知ったように言うな」

「知ってはおりますわ。だから嫌いではないのですけれど」

 

 ペンドルトンが眉を顰める。

 

「何か言ったか」

「いいえ。警部の耳には、水でも詰まっているのではなくて?」

 

「この状況でよく軽口が出るな」

「軽口の一つも叩かなければ、人間はすぐに怖がるでしょう?」

 

 ゾーイはそう言って、旧修道院跡の入口へ足を踏み入れた。

 

 メアリーが、その半歩後ろへ続く。

 

 ペンドルトンも銃を構え直し、二人の背を追った。

 

     *

 

 建物の内部は、外から見た以上に荒れていた。

 

 崩れた天井。

 腐った木製の長椅子。

 床を覆う濡れた落ち葉。

 

 だが、奇妙なことに、内部の石床には新しい濡れ跡が続いている。

 

 裸足の足跡ではない。

 

 黒い水そのものが、細い蛇のように這った跡だった。

 

 それは礼拝堂跡の中央を横切り、朽ちた祭壇の脇へ伸びている。

 

「ここも礼拝堂か」

 

 ペンドルトンが呟く。

 

「先日の場所ほど整ってはいませんが、元は祈りの場だったのでしょうね」

 

 ゾーイは周囲を見回す。

 

「まったく。人間は祈りの場を作る才能と、汚す才能だけはどちらも一級品ですわ」

 

「その先日の件と、ここが繋がっているなら、同じ連中が使っていた場所なのか」

 

「そこまでは分かりません」

 

 ゾーイは即答した。

 

「似た祈りが、似た底へ辿り着くこともございます。信仰とは、時に道より厄介ですもの」

 

 黒い水の跡が、祭壇の前で止まっている。

 

 いや、止まったのではない。

 

 そこから、石床の隙間へ染み込んでいる。

 

 メアリーが足を止めた。

 

「お嬢様。床下です」

 

「ええ」

 

 ゾーイは小銃の銃口で、朽ちた祭壇脇の床を指した。

 

 石床には、泥と苔に隠れてほとんど見えない細い溝が刻まれている。

 円の一部。

 古い文字。

 水を流すための樋にも、儀式の線にも見える形。

 

 その溝に沿って、黒い水がゆっくりと満ちていく。

 

「下がれ」

 

 ペンドルトンが言う。

 

「何か開く」

 

 言葉が終わるより早く、石床が揺れた。

 

 ごり。

 

 ごり、と重い音を立てて、祭壇前の床石が横へずれる。

 

 下から吹き上がってきたのは、地下の黴臭さではなかった。

 

 潮の匂い。

 

 深い、深い場所に溜まった、冷たい海の匂い。

 

 石床の下には、暗い階段が口を開けていた。

 

 下へ。

 

 さらに下へ。

 

 月明かりも、外の風も届かない場所へ。

 

 階段の奥から、かすかに水音が聞こえる。

 

 ぽたり。

 

 遺体安置所で聞いたものと同じ音。

 

 ペンドルトンの指が、拳銃の握りを強く締めた。

 

「……ここが、底か」

 

「入口に過ぎませんわ」

 

 ゾーイは、階段の闇を見下ろした。

 

 スカイブルーの瞳が、冷たい闇を映している。

 

「底を名乗るには、まだ浅すぎますもの」

 

 メアリーが小さなランタンを取り出し、火を灯した。

 

 橙色の光が、湿った石段を数段だけ照らす。

 その先は、何も見えない。

 

「警部」

 

 ゾーイが振り返らずに言う。

 

「ここから先は、戻れる保証が薄くなりますわよ」

 

「今さら脅しているのか」

「忠告ですわ。珍しく親切に」

 

「なら、私も親切に答えてやる」

 

 ペンドルトンは、階段の闇へ銃口を向けた。

 

「死体を歩かせ、市民を巻き込み、部下まで壊しかけた奴を放って帰れるほど、私は上品じゃない」

 

 ゾーイは数秒黙った。

 

 それから、小さく笑う。

 

「ええ。そういうところですわね」

 

「だから、何がだ」

「何でもございません」

 

 ゾーイは階段の最初の一段へ足を下ろした。

 

「では、参りましょう。水のない場所の、その下へ」

 

 三人の足音が、暗い地下へ吸い込まれていく。

 

 その遥か下から。

 

 何かが、濡れた呼吸を返した。

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