悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第九話「仄暗い底」

 

 石段は、思いのほか深く続いていた。

 

 メアリーが掲げるランタンの光が、湿った壁を橙色に照らす。

 

 階段は狭い。

 大人二人が並ぶには足りず、ゾーイが先頭を歩き、その後ろをメアリー、最後尾をペンドルトンが続いていた。

 

 上から届く外気は、とうに消えている。

 

 代わりに、下から漂ってくるのは潮の匂いだった。

 

 海など、どこにもない山中の地下で。

 

 ぽたり。

 

 また、水音がした。

 

 ペンドルトンは足を止め、天井を見上げた。

 

「漏水ではないんだな」

「ええ」

 

 ゾーイは振り返らずに答えた。

 

「本当に水が漏れているだけなら、どれほど親切な現場だったでしょうね」

「親切の基準が低すぎる」

「怪異に関わると、雨漏り程度なら善良に思えてきますのよ」

 

 メアリーが壁へ指先を触れた。

 

 石は冷たい。

 だが、濡れてはいない。

 

「湿気はありますが、水滴はございません。音だけが先行しています」

「音だけ……」

「正確には、聞かされているのでしょうね」

 

 ゾーイが小さく鼻を鳴らした。

 

「水の音を聞かせ、海の臭いを嗅がせ、肺の奥に冷たさを思い出させる。随分と趣味の悪い招待状ですこと」

「招待を受けた覚えはない」

「向こうは招いたつもりなのでしょう。断るには、もう少々近づく必要がありますわ」

 

 ペンドルトンは、胸ポケットから携帯端末を取り出した。

 

 画面は点灯する。

 だが、通信表示は不安定に明滅していた。

 

「外へ連絡が通りにくい」

「地下ですので、当然では」

「この程度の深さで完全に切れる場所じゃない。上の部下へ状況を送れないのは困る」

 

 メアリーが静かに振り返る。

 

「戻られますか、警部様」

「それができる状況なら、とっくにそうしている」

 

 ペンドルトンは端末をしまった。

 

「戻るにしても、ここが何なのかを知らずに封鎖だけするわけにはいかん」

「立派ですわね」

 

 ゾーイが言った。

 

「いえ、訂正。面倒なほど立派ですわ」

「お前に褒められると嫌味にしか聞こえん」

「半分は嫌味ですもの」

「残り半分は」

「本音でございましょうね」

 

 メアリーが当然のように答える。

 

「お前が答えるのか」

「お嬢様は素直ではございませんので」

「メアリー」

「失礼いたしました」

 

 声の調子だけは、少しも反省していなかった。

 

 石段が終わる。

 

 三人の前に現れたのは、低い天井の通路だった。

 

 壁は礼拝堂上部と同じ石造りだが、造りが明らかに古い。

 漆喰はほとんど剥がれ、石の継ぎ目には白い結晶のようなものが浮いている。

 

 ペンドルトンはランタンの光へ目を凝らした。

 

「塩か」

「触らないでくださいませ」

 

 メアリーの声が、すぐに飛ぶ。

 

「分かっている。確認しただけだ」

「素晴らしい学習能力ですこと」

 

 ゾーイは壁へ近づく。

 

 指では触れず、目だけで白い結晶を追った。

 

「自然に浮いた塩ではありませんわね」

「何が違う」

「並びが綺麗すぎますもの」

 

 ゾーイが小銃の銃口で壁の一部を示した。

 

 白い結晶は無秩序に浮いているようで、よく見れば細い線を描いている。

 

 波。

 円。

 円の中心へ落ちていく、いくつもの細い筋。

 

 文字のようにも見える。

 だが、ペンドルトンには読めなかった。

 

「碑文か?」

「祈りの形でしょうね。文字になる前の、もっと素朴で厄介なもの」

「読めるのか」

「読みたくはありませんけれど、意味は分かりますわ」

 

 ゾーイは嫌そうに目を細めた。

 

「海へ還れ。海へ沈め。海へ満たせ。そんなところでしょう」

 

 ペンドルトンの眉が動く。

 

「海を崇めていた連中のものか」

「ええ。悪魔へ呼びかける形ではありません」

 

 ゾーイは通路の奥を見た。

 

「これは、海そのものを座に据えた祈りですわ。海を神と呼び、水へ沈むことを帰還と呼ぶ。溺れることを救いと取り違える、実に人間らしい信仰ですこと」

 

 ペンドルトンの眉間に、深い皺が刻まれた。

 

「……教会筋で処理された、あの悪魔憑き案件も。これと関係があるのか」

「わたくしが処置した、あの患者のことですわね」

「記録には悪魔憑きとしか書かれていなかった。だが、祈祷の中止と、水音を訴える関係者、それに塩分を含む液体痕が残っていた」

 

 ゾーイは、小さく息を吐いた。

 

「ええ。あれは悪魔などではございませんでしたわ」

「では、何だった」

「ここに残る祈りと同じものに、触れられていたのです。海を神と呼び、沈めることを救いと呼ぶ、古くて質の悪い信仰の残り滓に」

 

 ペンドルトンは黙った。

 

 教会の記録では、悪魔憑き。

 だが、実態は違う。

 

 祓うために捧げられた祈りは、相手にとっては拒絶ではなく、餌だった。

 

「だから、祈祷を止めさせたのか」

「ようやくお分かりになりまして?」

「説明されなければ分からん」

「説明して理解できる方なら、まだ随分と救いがありますわ」

 

 ゾーイは歩き出した。

 

 通路は、ゆるやかに下っている。

 

 左右の壁には、途中から細長い窪みが並び始めた。

 

 最初は物を収める棚かと思った。

 だが、ランタンの光が奥まで届いた時、ペンドルトンは足を止めた。

 

 白い骨が積まれている。

 

 頭蓋骨。

 腕の骨。

 肋骨。

 小さな骨箱。

 

 左右の壁を埋めるように、無数の死者が納められていた。

 

「納骨堂か……」

 

 ペンドルトンの声が低くなる。

 

「修道院なら、珍しい造りではありませんが」

 

 メアリーが一つの窪みを見つめた。

 

「こちらは後から組み替えられておりますね」

「分かるのか」

「骨の並びが違います。奥のものは乾いて古い。手前のものだけ、妙に白く、臭いがありません」

 

 ペンドルトンは顔を顰めた。

 

「洗ったのか」

「洗われた、という方が近いでしょうね」

 

 ゾーイの声が冷たくなる。

 

 手前の頭蓋骨の口元には、黒い染みが残っていた。

 

 まるで、中から水を吐いた後のように。

 

 ペンドルトンは反射的に拳銃へ手を掛けた。

 

「動くのか」

「いまのところは、静かな死者ですわ」

 

 ゾーイは頭蓋骨の前でしゃがみ込む。

 

「ですが、静かにしておいてくれた者へ、随分と無礼な使い方をしたようですわね」

 

 メアリーが窪みの下へランタンを向けた。

 

 石床の隅に、まだ新しい蝋が固まっている。

 白ではない。

 青黒い、煤の混じった蝋だった。

 

 その脇には、細く折れたマッチ棒。

 そして、泥で擦れた靴跡。

 

「最近、人が入ったのか」

 

 ペンドルトンは屈み、靴跡を確認する。

 

「少なくとも、何百年前の信徒だけの仕事ではございませんね」

 

 メアリーが答えた。

 

 ペンドルトンは、青黒い蝋の欠片を見つめた。

 

「……入口脇で見つけた火の跡にも、妙な白い粒が混じっていた」

「先ほど、お二人で採取なさったものですか」

「ああ。照合しなければ断定はできん。だが、無関係とは思えんな」

 

 ゾーイは、床に残る黒い染みへ視線を落とした。

 

「上で火を焚き、下で続きを行った。あるいは、上は入口に過ぎなかった。どちらにせよ、随分と熱心な方がいらしたようですわね」

「同じ連中が、外とここを行き来していた可能性は高いな」

「連中、で済めばよろしいのですけれど」

 

 ゾーイが立ち上がる。

 

「人間が掘り返したのか。あるいは、掘り返させられたのか。そこはまだ分かりませんわ」

「死体を使ったのも、そいつらか」

「それも、まだ早い」

 

 ゾーイは淡々と答えた。

 

「死者を運び込んだ人間がいるとは限りません。今回の死体は、すでに水の道を通っておりましたでしょう?」

 

 ペンドルトンは黙って、黒い水の筋を見る。

 

 安置室の排水溝で途切れた足跡。

 旧修道院跡の闇から現れた、濡れた死体。

 

 人間を運ぶ必要など、最初からなかった。

 

「水さえあれば、どこからでも呼び戻せるということか」

「水そのものではありませんわ」

 

 ゾーイは小銃を持ち直す。

 

「水だと思わせるもの。水と見なされたもの。水へ繋がると信じられたもの。そういう隙間を、向こうは通路にしている」

「排水溝も、肺の中もか」

「ええ」

 

 ゾーイの声が、わずかに低くなる。

 

「人間の肺ほど、溺れたという物語を作りやすい器もありませんもの」

 

 その時だった。

 

 納骨堂のどこかで、小さな音がした。

 

 からり。

 

 骨が転がる音。

 

 三人は同時に足を止めた。

 

 メアリーがランタンを掲げる。

 

 左右の窪み。

 積まれた骨。

 黒い染み。

 白い結晶。

 

 動くものはない。

 

 からり。

 

 今度は、すぐ横だった。

 

 ペンドルトンが拳銃を向ける。

 

 頭蓋骨の一つが、わずかに傾いている。

 

 その口の奥から、ぽたりと黒い水が落ちた。

 

 石床へ落ちた水は、弾けなかった。

 代わりに、細い線となって通路の奥へ滑っていく。

 

 続いて、別の頭蓋骨の口から水が落ちた。

 

 また一つ。

 

 また一つ。

 

 納骨堂に納められた死者たちが、口から黒い水を吐き始める。

 

「お嬢様」

 

 メアリーが銀の短剣を抜く。

 

「壊してはいけませんわ」

 

 ゾーイは即座に言った。

 

「骨は被害者です。喰らうべきものではありません」

「では、どうする」

「通り抜けます」

 

 ペンドルトンが耳を疑ったような顔をした。

 

「この中をか?」

「嫌なら上へ戻って、階段の入口で亡骸と心中なさってもよろしくてよ」

「そういう選択肢の出し方をするな!」

「では、歩きなさい。水を踏まないように」

 

 ゾーイの足元から影が伸びた。

 

 影は石床へ薄く広がり、三人の足元に細い道を作る。

 黒い水の筋は、その道の縁へ触れると避けるように揺れた。

 

「影の上だけを歩いてくださいませ」

 

 メアリーがペンドルトンへ言う。

 

「外れますと?」

「お靴の中が海になります」

「それは比喩か」

「確かめられますか?」

「遠慮する」

 

 三人は歩き始めた。

 

 左右の死者たちは動かない。

 ただ、開いた口から水を吐く。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 ぽたり。

 

 落ちた水はすべて、通路の先へ向かっている。

 

 まるで、地下のもっと深い場所へ、祈りを流し込んでいるようだった。

 

 やがて、納骨堂の先に鉄格子が現れた。

 

 古い。

 錆びている。

 だが、扉には比較的新しい鎖が巻きつけられていた。

 

 鎖は途中で断ち切られている。

 

「封じていたものを、誰かが開けた」

 

 ペンドルトンが言った。

 

「そう見えますね」

 

 メアリーが鎖の断面を確認する。

 

「工具を使っています。刃は新しい。数か月、いえ、もっと近いかもしれません」

「外の火の跡とも時期が合うか」

 

「随分と丁寧に、お墓の底へ泥靴で踏み込んだ方がいたようですわね」

 

 ゾーイは鉄格子の奥を覗いた。

 

 その表情から、軽口が消える。

 

「何が見える」

「嫌なものですわ」

「いつも以上にか」

「ええ。いつも以上に」

 

 鉄格子の奥は、円形の空間だった。

 

 天井は低い。

 壁には古い祈祷文が刻まれている。

 

 だが、それは上の礼拝堂で見た教会式のものではなかった。

 

 波の模様。

 沈む人影。

 円環の中心へ差し出される手。

 口を開いた魚のような意匠。

 そして、床一面に刻まれた細い水路。

 

 水路はすべて、部屋の中央へ向かっている。

 

 中央には、井戸があった。

 

 石組みの、古い井戸。

 

 蓋は外され、横倒しにされている。

 蓋の表面には十字の印が刻まれていたが、その下から削り出すように、波の文様が覗いていた。

 

「教会が封じたのか」

 

 ペンドルトンが呟く。

 

「おそらくは」

 

 ゾーイは慎重に部屋へ入った。

 

「もともとここには、もっと古い祈りがあった。後から来た教会が、それを覆い、封じ、忘れさせようとした」

「失敗したと?」

「長い年月の間は、成功していたのかもしれませんわ」

 

 ゾーイの視線が、断ち切られた鎖と外された井戸蓋へ向く。

 

「けれど、人間は封じられたものを見ると、なぜか開けてしまいますでしょう?」

「今回も誰かが開けた」

「そして、何かが応えた」

 

 メアリーが床へ膝をつく。

 

 井戸へ向かう水路の一つに、指を近づけた。

 触れはしない。

 

「お嬢様。こちらの溝、まだ新しく削られた箇所がございます」

「古い儀式を、誰かが継ぎ足したのね」

 

 ゾーイは吐き捨てるように言った。

 

「古代の信仰に、付け焼き刃の黒魔術。腐った煮込みへ、さらに腐った香辛料を足したようなものですわ」

 

「教会筋の患者も、ここからの影響か」

 

 ペンドルトンは井戸を見ながら問う。

 

「先日の男は、ここから漏れたものに触れたのでしょう。あるいは、ここへ向けた儀式の余波を浴びた」

「今回の遺体は」

「余波ではありませんわ」

 

 ゾーイの声が冷える。

 

「こちらへ戻すために使われた、明確な器です」

「何を戻す」

「まだ見えておりません」

 

 ゾーイは井戸の縁へ歩み寄った。

 

「ですから、見に来たのでしょう?」

 

 ペンドルトンは舌打ちし、彼女の隣まで進む。

 

「子供みたいな体で、平然と井戸を覗き込むな。落ちたらどうする」

「あら。心配してくださいまして?」

「後始末が増えるのが嫌なだけだ」

「ええ。そういうことにしておきましょう」

 

 メアリーが静かにため息をついた。

 

「お二方とも、井戸の前で戯れるのはお控えくださいませ」

「戯れてなどいない!」

「警部だけが騒がしいのですわ」

 

 ゾーイは井戸の中を覗き込んだ。

 

 ペンドルトンも、少し遅れて視線を下へ落とす。

 

 井戸は、涸れていた。

 

 少なくとも、石壁の内側に水面はない。

 ランタンの光は、途中まで乾いた石組みを照らし、その先で暗闇へ呑まれている。

 

 なのに。

 

 波の音がした。

 

 ざあ、と。

 

 遠くの岸へ、夜の海が寄せてくる音。

 

 ありもしない潮風が、井戸の底から吹き上がる。

 

 ペンドルトンの喉が、ひどく乾いた。

 

「水はないな」

「ええ」

「なのに、海がある」

「正確には、海へ届く穴があるのですわ」

 

 ゾーイの表情が険しくなる。

 

「先日の男へ注がれたものも、今回の死体を通ったものも、この穴から流れ出したのでしょう」

「神なのか」

 

 ペンドルトンが低く問う。

 

 ゾーイは鼻で笑った。

 

「神? こんなものが?」

 

 その声には、明確な侮蔑があった。

 

「海を神として崇めた祈りは、確かにここへ道を作った。けれど、道の先にいるものまで神であるとは限りませんわ」

「では、何だ」

「穴の向こうで、祈られた顔を被っているもの」

 

 井戸の奥から、低い水音が返ってきた。

 

 ゾーイは目を細める。

 

「先日の男に憑いていたものは、この道から零れた一滴。あの獣は、この場を守るために形を与えられた番犬。そして、戻された死体は――」

「道を開くための鍵か」

 

 ペンドルトンが言った。

 

「ええ。ようやく話が早くなってきましたわね」

 

 その瞬間だった。

 

 井戸の底で、何かが光った。

 

 ランタンの反射ではない。

 

 暗い水の底で、白いものが一瞬だけ浮かんだように見えた。

 

 顔だった。

 

 溺れた男の顔。

 先ほど草地へ横たえた死体の顔。

 見知らぬ女の顔。

 幼い子供の顔。

 

 それらが水面のない井戸の奥で、浮かんでは沈む。

 

 ペンドルトンは息を呑んだ。

 

「……何人いる」

「数えない方がよろしいかと」

 

 メアリーが銀の短剣を構え直す。

 

「数えたものに、向こうも数え返されます」

 

 井戸の周囲の溝へ、納骨堂から流れてきた黒い水が入り始めた。

 

 一筋。

 

 二筋。

 

 やがて、すべての溝が黒く満たされる。

 

 円形の儀式場全体が、巨大な器のように変わっていく。

 

「下がれ!」

 

 ペンドルトンがゾーイの腕を掴もうとする。

 

 だが、その前にメアリーが一歩動いた。

 

 警部の手を制し、ゾーイの斜め後ろへ立つ。

 

「お嬢様。溝が閉じます」

「分かっております」

 

 ゾーイは井戸から目を離さない。

 

「警部。入口を見なさい」

「入口?」

 

 ペンドルトンが振り返る。

 

 鉄格子の向こう。

 納骨堂へ戻る通路の床を、黒い水が覆い始めている。

 

 先ほどまで影の道で避けていた水が、今度は通路いっぱいに広がっていた。

 

 頭蓋骨の口から吐き出される水音が、急速に増えていく。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 ぼた、ぼた、ぼた。

 

 やがてそれは、雨のような音になった。

 

「退路を断つ気か」

「いえ」

 

 ゾーイが静かに答える。

 

「外へ流れ出る気ですわ」

 

 ペンドルトンの顔が変わった。

 

 上には、若い刑事がいる。

 応援も来る。

 回収される遺体もある。

 

 そして、その先には人の暮らす街がある。

 

「メアリー」

 

 ゾーイの声が鋭くなる。

 

「戻り道を閉じなさい。ここから一滴も上へ出してはいけません」

「承知いたしました」

 

 メアリーは即座に道具鞄を開いた。

 

 銀の釘を四本。

 黒い封印布。

 細い鎖。

 

 それらを手に、鉄格子の方へ駆ける。

 

「待て! 閉じたら、お前たちも戻れなくなるぞ!」

 

 ペンドルトンが叫ぶ。

 

 メアリーは振り返らなかった。

 

「上へ出してから戻る道を考える方が、よほど手遅れでございます」

 

 銀の釘が、石床へ打ち込まれる。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 鉄格子の向こうで、黒い水が膨れ上がった。

 

 メアリーが黒い封印布を広げる。

 布は空中で伸び、通路の幅いっぱいへ張りつくように広がった。

 

 水がぶつかる。

 

 濡れた獣の咆哮のような音が響いた。

 

「っ……!」

 

 メアリーの足が、石床の上をわずかに滑る。

 

「メアリー!」

「問題ございません、お嬢様」

 

 彼女の金色の瞳が、細く開かれる。

 

「お嬢様がお進みになる道を、後ろから汚させるわけにはまいりませんので」

 

 最後の銀釘が打ち込まれる。

 

 黒い布が、壁と床へ縫い止められた。

 

 水音が遮られる。

 

 完全に消えたわけではない。

 向こう側で、何かが何度も封印へ体当たりしている。

 

 だが、少なくとも、すぐに上へ流れ出ることはない。

 

「これで、退路は塞がったわけか」

 

 ペンドルトンは低く言った。

 

「ご不満で?」

「不満で済む状況なら、まだましだった」

 

 彼は拳銃の弾倉を確認する。

 

「外へ出すよりは、ここで止める方が正しい。それだけだ」

 

 ゾーイが、ちらりと彼を見る。

 

「本当に、どうしようもなく人間ですわね」

「褒めているのか」

「最大限に」

 

 井戸の底から、笑い声が聞こえた。

 

 声ではない。

 

 水が、骨が、濡れた祈りが擦れ合い、笑いに似た音を作っている。

 

 円形の水路に満ちた黒い水が、井戸へ流れ込む。

 

 涸れていたはずの穴の奥から、逆に水がせり上がってくる。

 

 暗く。

 粘つき。

 海の匂いを満たしながら。

 

 井戸の縁へ、一つの手がかかった。

 

 人間の手に似ていた。

 

 だが、指の間には膜が張り、皮膚の下を細い魚の骨のようなものが蠢いている。

 

 続いて、もう一つ。

 

 両手が、井戸の縁を掴む。

 

 ゾーイは小銃をゆっくりと構えた。

 

 そのスカイブルーの瞳が、深い闇を真っ直ぐ見据える。

 

「ようやく、番犬の飼い主がお顔を見せる気になりましたのね」

 

 井戸の底から、濡れた声が返った。

 

『……いの……れ……』

 

 ペンドルトンの背筋へ、冷たいものが走る。

 

『……しず……め……』

 

 それは命令だった。

 

 祈りを求める声。

 沈むことを救いと呼ぶ声。

 人間の肺を海へ繋ぎ、死者を器にして這い上がってくる声。

 

 ゾーイの口元から、微笑みが消えた。

 

「なるほど」

 

 その足元で、影が静かに広がっていく。

 

「神様のふりを続けるには、少々、浅瀬へ出すぎましたわね」

 

 井戸の中から、何かが身体を引き上げ始める。

 

 水を纏った腕。

 骨の浮いた肩。

 溺れた人間たちの顔を、薄い膜のように重ねた頭部。

 

 それは、底から這い上がってくる。

 

 祈りを喰らい、死者を通り道にして。

 

 人の世へ。

 

「警部」

 

 ゾーイは視線を逸らさずに言った。

 

「撃てると仰いましたわね」

「ああ」

「なら、死なない程度に足掻きなさい」

 

 ペンドルトンは拳銃を構えた。

 

「淑女を手助けできるたぁ、英国紳士冥利につくな」

 

 ゾーイの瞳が、ほんの僅かに楽しそうに細まった。

 

「結構」

 

 井戸から現れたものが、裂けるように口を開く。

 

 水底の声が、地下の儀式場を満たした。

 

「では、お相手いたしましょう」

 

 影が、牙を剥いた。

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