悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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仄暗い底

 

 石段は、思いのほか深く続いていた。

 

 メアリーが掲げるランタンの光が、湿った壁を橙色に照らす。

 

 階段は狭い。

 大人二人が並ぶには足りず、ゾーイが先頭を歩き、その後ろをメアリー、最後尾をペンドルトンが続いていた。

 

 上から届く外気は、とうに消えている。

 

 代わりに、下から漂ってくるのは潮の匂いだった。

 

 海など、どこにもない山中の地下で。

 

 ぽたり。

 

 また、水音がした。

 

 ペンドルトンは足を止め、天井を見上げた。

 

「漏水ではないんだな」

「ええ」

 

 ゾーイは振り返らずに答えた。

 

「本当に水が漏れているだけなら、どれほど親切な現場だったでしょうね」

「親切の基準が低すぎる」

「怪異に関わると、雨漏り程度なら善良に思えてきますのよ」

 

 メアリーが壁へ指先を触れた。

 

 石は冷たい。

 だが、濡れてはいない。

 

「湿気はありますが、水滴はございません。音だけが先行しています」

「音だけ……」

「正確には、聞かされているのでしょうね」

 

 ゾーイが小さく鼻を鳴らした。

 

「水の音を聞かせ、海の臭いを嗅がせ、肺の奥に冷たさを思い出させる。随分と趣味の悪い招待状ですこと」

「招待を受けた覚えはない」

「向こうは招いたつもりなのでしょう。断るには、もう少々近づく必要がありますわ」

 

 ペンドルトンは、胸ポケットから携帯端末を取り出した。

 

 画面は点灯する。

 だが、通信表示は不安定に明滅していた。

 

「外へ連絡が通りにくい」

「地下ですので、当然では」

「この程度の深さで完全に切れる場所じゃない。上の部下へ状況を送れないのは困る」

 

 メアリーが静かに振り返る。

 

「戻られますか、警部様」

「それができる状況なら、とっくにそうしている」

 

 ペンドルトンは端末をしまった。

 

「戻るにしても、ここが何なのかを知らずに封鎖だけするわけにはいかん」

「立派ですわね」

 

 ゾーイが言った。

 

「いえ、訂正。面倒なほど立派ですわ」

「お前に褒められると嫌味にしか聞こえん」

「半分は嫌味ですもの」

「残り半分は」

「本音でございましょうね」

 

 メアリーが当然のように答える。

 

「お前が答えるのか」

「お嬢様は素直ではございませんので」

「メアリー」

「失礼いたしました」

 

 声の調子だけは、少しも反省していなかった。

 

 石段が終わる。

 

 三人の前に現れたのは、低い天井の通路だった。

 

 壁は礼拝堂上部と同じ石造りだが、造りが明らかに古い。

 漆喰はほとんど剥がれ、石の継ぎ目には白い結晶のようなものが浮いている。

 

 ペンドルトンはランタンの光へ目を凝らした。

 

「塩か」

「触らないでくださいませ」

 

 メアリーの声が、すぐに飛ぶ。

 

「分かっている。確認しただけだ」

「素晴らしい学習能力ですこと」

 

 ゾーイは壁へ近づく。

 

 指では触れず、目だけで白い結晶を追った。

 

「自然に浮いた塩ではありませんわね」

「何が違う」

「並びが綺麗すぎますもの」

 

 ゾーイが小銃の銃口で壁の一部を示した。

 

 白い結晶は無秩序に浮いているようで、よく見れば細い線を描いている。

 

 波。

 円。

 円の中心へ落ちていく、いくつもの細い筋。

 

 文字のようにも見える。

 だが、ペンドルトンには読めなかった。

 

「碑文か?」

「祈りの形でしょうね。文字になる前の、もっと素朴で厄介なもの」

「読めるのか」

「読みたくはありませんけれど、意味は分かりますわ」

 

 ゾーイは嫌そうに目を細めた。

 

「海へ還れ。海へ沈め。海へ満たせ。そんなところでしょう」

 

 ペンドルトンの眉が動く。

 

「海を崇めていた連中のものか」

「ええ。悪魔へ呼びかける形ではありません」

 

 ゾーイは通路の奥を見た。

 

「これは、海そのものを座に据えた祈りですわ。海を神と呼び、水へ沈むことを帰還と呼ぶ。溺れることを救いと取り違える、実に人間らしい信仰ですこと」

 

 ペンドルトンの眉間に、深い皺が刻まれた。

 

「……教会筋で処理された、あの悪魔憑き案件も。これと関係があるのか」

「わたくしが処置した、あの患者のことですわね」

「記録には悪魔憑きとしか書かれていなかった。だが、祈祷の中止と、水音を訴える関係者、それに塩分を含む液体痕が残っていた」

 

 ゾーイは、小さく息を吐いた。

 

「ええ。あれは悪魔などではございませんでしたわ」

「では、何だった」

「ここに残る祈りと同じものに、触れられていたのです。海を神と呼び、沈めることを救いと呼ぶ、古くて質の悪い信仰の残り滓に」

 

 ペンドルトンは黙った。

 

 教会の記録では、悪魔憑き。

 だが、実態は違う。

 

 祓うために捧げられた祈りは、相手にとっては拒絶ではなく、餌だった。

 

「だから、祈祷を止めさせたのか」

「ようやくお分かりになりまして?」

「説明されなければ分からん」

「説明して理解できる方なら、まだ随分と救いがありますわ」

 

 ゾーイは歩き出した。

 

 通路は、ゆるやかに下っている。

 

 左右の壁には、途中から細長い窪みが並び始めた。

 

 最初は物を収める棚かと思った。

 だが、ランタンの光が奥まで届いた時、ペンドルトンは足を止めた。

 

 白い骨が積まれている。

 

 頭蓋骨。

 腕の骨。

 肋骨。

 小さな骨箱。

 

 左右の壁を埋めるように、無数の死者が納められていた。

 

「納骨堂か……」

 

 ペンドルトンの声が低くなる。

 

「修道院なら、珍しい造りではありませんが」

 

 メアリーが一つの窪みを見つめた。

 

「こちらは後から組み替えられておりますね」

「分かるのか」

「骨の並びが違います。奥のものは乾いて古い。手前のものだけ、妙に白く、臭いがありません」

 

 ペンドルトンは顔を顰めた。

 

「洗ったのか」

「洗われた、という方が近いでしょうね」

 

 ゾーイの声が冷たくなる。

 

 手前の頭蓋骨の口元には、黒い染みが残っていた。

 

 まるで、中から水を吐いた後のように。

 

 ペンドルトンは反射的に拳銃へ手を掛けた。

 

「動くのか」

「いまのところは、静かな死者ですわ」

 

 ゾーイは頭蓋骨の前でしゃがみ込む。

 

「ですが、静かにしておいてくれた者へ、随分と無礼な使い方をしたようですわね」

 

 メアリーが窪みの下へランタンを向けた。

 

 石床の隅に、まだ新しい蝋が固まっている。

 白ではない。

 青黒い、煤の混じった蝋だった。

 

 その脇には、細く折れたマッチ棒。

 そして、泥で擦れた靴跡。

 

「最近、人が入ったのか」

 

 ペンドルトンは屈み、靴跡を確認する。

 

「少なくとも、何百年前の信徒だけの仕事ではございませんね」

 

 メアリーが答えた。

 

 ペンドルトンは、青黒い蝋の欠片を見つめた。

 

「……入口脇で見つけた火の跡にも、妙な白い粒が混じっていた」

「先ほど、お二人で採取なさったものですか」

「ああ。照合しなければ断定はできん。だが、無関係とは思えんな」

 

 ゾーイは、床に残る黒い染みへ視線を落とした。

 

「上で火を焚き、下で続きを行った。あるいは、上は入口に過ぎなかった。どちらにせよ、随分と熱心な方がいらしたようですわね」

「同じ連中が、外とここを行き来していた可能性は高いな」

「連中、で済めばよろしいのですけれど」

 

 ゾーイが立ち上がる。

 

「人間が掘り返したのか。あるいは、掘り返させられたのか。そこはまだ分かりませんわ」

「死体を使ったのも、そいつらか」

「それも、まだ早い」

 

 ゾーイは淡々と答えた。

 

「死者を運び込んだ人間がいるとは限りません。今回の死体は、すでに水の道を通っておりましたでしょう?」

 

 ペンドルトンは黙って、黒い水の筋を見る。

 

 安置室の排水溝で途切れた足跡。

 旧修道院跡の闇から現れた、濡れた死体。

 

 人間を運ぶ必要など、最初からなかった。

 

「水さえあれば、どこからでも呼び戻せるということか」

「水そのものではありませんわ」

 

 ゾーイは小銃を持ち直す。

 

「水だと思わせるもの。水と見なされたもの。水へ繋がると信じられたもの。そういう隙間を、向こうは通路にしている」

「排水溝も、肺の中もか」

「ええ」

 

 ゾーイの声が、わずかに低くなる。

 

「人間の肺ほど、溺れたという物語を作りやすい器もありませんもの」

 

 その時だった。

 

 納骨堂のどこかで、小さな音がした。

 

 からり。

 

 骨が転がる音。

 

 三人は同時に足を止めた。

 

 メアリーがランタンを掲げる。

 

 左右の窪み。

 積まれた骨。

 黒い染み。

 白い結晶。

 

 動くものはない。

 

 からり。

 

 今度は、すぐ横だった。

 

 ペンドルトンが拳銃を向ける。

 

 頭蓋骨の一つが、わずかに傾いている。

 

 その口の奥から、ぽたりと黒い水が落ちた。

 

 石床へ落ちた水は、弾けなかった。

 代わりに、細い線となって通路の奥へ滑っていく。

 

 続いて、別の頭蓋骨の口から水が落ちた。

 

 また一つ。

 

 また一つ。

 

 納骨堂に納められた死者たちが、口から黒い水を吐き始める。

 

「お嬢様」

 

 メアリーが銀の短剣を抜く。

 

「壊してはいけませんわ」

 

 ゾーイは即座に言った。

 

「骨は被害者です。喰らうべきものではありません」

「では、どうする」

「通り抜けます」

 

 ペンドルトンが耳を疑ったような顔をした。

 

「この中をか?」

「嫌なら上へ戻って、階段の入口で亡骸と心中なさってもよろしくてよ」

「そういう選択肢の出し方をするな!」

「では、歩きなさい。水を踏まないように」

 

 ゾーイの足元から影が伸びた。

 

 影は石床へ薄く広がり、三人の足元に細い道を作る。

 黒い水の筋は、その道の縁へ触れると避けるように揺れた。

 

「影の上だけを歩いてくださいませ」

 

 メアリーがペンドルトンへ言う。

 

「外れますと?」

「お靴の中が海になります」

「それは比喩か」

「確かめられますか?」

「遠慮する」

 

 三人は歩き始めた。

 

 左右の死者たちは動かない。

 ただ、開いた口から水を吐く。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 ぽたり。

 

 落ちた水はすべて、通路の先へ向かっている。

 

 まるで、地下のもっと深い場所へ、祈りを流し込んでいるようだった。

 

 やがて、納骨堂の先に鉄格子が現れた。

 

 古い。

 錆びている。

 だが、扉には比較的新しい鎖が巻きつけられていた。

 

 鎖は途中で断ち切られている。

 

「封じていたものを、誰かが開けた」

 

 ペンドルトンが言った。

 

「そう見えますね」

 

 メアリーが鎖の断面を確認する。

 

「工具を使っています。刃は新しい。数か月、いえ、もっと近いかもしれません」

「外の火の跡とも時期が合うか」

 

「随分と丁寧に、お墓の底へ泥靴で踏み込んだ方がいたようですわね」

 

 ゾーイは鉄格子の奥を覗いた。

 

 その表情から、軽口が消える。

 

「何が見える」

「嫌なものですわ」

「いつも以上にか」

「ええ。いつも以上に」

 

 鉄格子の奥は、円形の空間だった。

 

 天井は低い。

 壁には古い祈祷文が刻まれている。

 

 だが、それは上の礼拝堂で見た教会式のものではなかった。

 

 波の模様。

 沈む人影。

 円環の中心へ差し出される手。

 口を開いた魚のような意匠。

 そして、床一面に刻まれた細い水路。

 

 水路はすべて、部屋の中央へ向かっている。

 

 中央には、井戸があった。

 

 石組みの、古い井戸。

 

 蓋は外され、横倒しにされている。

 蓋の表面には十字の印が刻まれていたが、その下から削り出すように、波の文様が覗いていた。

 

「教会が封じたのか」

 

 ペンドルトンが呟く。

 

「おそらくは」

 

 ゾーイは慎重に部屋へ入った。

 

「もともとここには、もっと古い祈りがあった。後から来た教会が、それを覆い、封じ、忘れさせようとした」

「失敗したと?」

「長い年月の間は、成功していたのかもしれませんわ」

 

 ゾーイの視線が、断ち切られた鎖と外された井戸蓋へ向く。

 

「けれど、人間は封じられたものを見ると、なぜか開けてしまいますでしょう?」

「今回も誰かが開けた」

「そして、何かが応えた」

 

 メアリーが床へ膝をつく。

 

 井戸へ向かう水路の一つに、指を近づけた。

 触れはしない。

 

「お嬢様。こちらの溝、まだ新しく削られた箇所がございます」

「古い儀式を、誰かが継ぎ足したのね」

 

 ゾーイは吐き捨てるように言った。

 

「古代の信仰に、付け焼き刃の黒魔術。腐った煮込みへ、さらに腐った香辛料を足したようなものですわ」

 

「教会筋の患者も、ここからの影響か」

 

 ペンドルトンは井戸を見ながら問う。

 

「先日の男は、ここから漏れたものに触れたのでしょう。あるいは、ここへ向けた儀式の余波を浴びた」

「今回の遺体は」

「余波ではありませんわ」

 

 ゾーイの声が冷える。

 

「こちらへ戻すために使われた、明確な器です」

「何を戻す」

「まだ見えておりません」

 

 ゾーイは井戸の縁へ歩み寄った。

 

「ですから、見に来たのでしょう?」

 

 ペンドルトンは舌打ちし、彼女の隣まで進む。

 

「子供みたいな体で、平然と井戸を覗き込むな。落ちたらどうする」

「あら。心配してくださいまして?」

「後始末が増えるのが嫌なだけだ」

「ええ。そういうことにしておきましょう」

 

 メアリーが静かにため息をついた。

 

「お二方とも、井戸の前で戯れるのはお控えくださいませ」

「戯れてなどいない!」

「警部だけが騒がしいのですわ」

 

 ゾーイは井戸の中を覗き込んだ。

 

 ペンドルトンも、少し遅れて視線を下へ落とす。

 

 井戸は、涸れていた。

 

 少なくとも、石壁の内側に水面はない。

 ランタンの光は、途中まで乾いた石組みを照らし、その先で暗闇へ呑まれている。

 

 なのに。

 

 波の音がした。

 

 ざあ、と。

 

 遠くの岸へ、夜の海が寄せてくる音。

 

 ありもしない潮風が、井戸の底から吹き上がる。

 

 ペンドルトンの喉が、ひどく乾いた。

 

「水はないな」

「ええ」

「なのに、海がある」

「正確には、海へ届く穴があるのですわ」

 

 ゾーイの表情が険しくなる。

 

「先日の男へ注がれたものも、今回の死体を通ったものも、この穴から流れ出したのでしょう」

「神なのか」

 

 ペンドルトンが低く問う。

 

 ゾーイは鼻で笑った。

 

「神? こんなものが?」

 

 その声には、明確な侮蔑があった。

 

「海を神として崇めた祈りは、確かにここへ道を作った。けれど、道の先にいるものまで神であるとは限りませんわ」

「では、何だ」

「穴の向こうで、祈られた顔を被っているもの」

 

 井戸の奥から、低い水音が返ってきた。

 

 ゾーイは目を細める。

 

「先日の男に憑いていたものは、この道から零れた一滴。あの獣は、この場を守るために形を与えられた番犬。そして、戻された死体は――」

「道を開くための鍵か」

 

 ペンドルトンが言った。

 

「ええ。ようやく話が早くなってきましたわね」

 

 その瞬間だった。

 

 井戸の底で、何かが光った。

 

 ランタンの反射ではない。

 

 暗い水の底で、白いものが一瞬だけ浮かんだように見えた。

 

 顔だった。

 

 溺れた男の顔。

 先ほど草地へ横たえた死体の顔。

 見知らぬ女の顔。

 幼い子供の顔。

 

 それらが水面のない井戸の奥で、浮かんでは沈む。

 

 ペンドルトンは息を呑んだ。

 

「……何人いる」

「数えない方がよろしいかと」

 

 メアリーが銀の短剣を構え直す。

 

「数えたものに、向こうも数え返されます」

 

 井戸の周囲の溝へ、納骨堂から流れてきた黒い水が入り始めた。

 

 一筋。

 

 二筋。

 

 やがて、すべての溝が黒く満たされる。

 

 円形の儀式場全体が、巨大な器のように変わっていく。

 

「下がれ!」

 

 ペンドルトンがゾーイの腕を掴もうとする。

 

 だが、その前にメアリーが一歩動いた。

 

 警部の手を制し、ゾーイの斜め後ろへ立つ。

 

「お嬢様。溝が閉じます」

「分かっております」

 

 ゾーイは井戸から目を離さない。

 

「警部。入口を見なさい」

「入口?」

 

 ペンドルトンが振り返る。

 

 鉄格子の向こう。

 納骨堂へ戻る通路の床を、黒い水が覆い始めている。

 

 先ほどまで影の道で避けていた水が、今度は通路いっぱいに広がっていた。

 

 頭蓋骨の口から吐き出される水音が、急速に増えていく。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 ぼた、ぼた、ぼた。

 

 やがてそれは、雨のような音になった。

 

「退路を断つ気か」

「いえ」

 

 ゾーイが静かに答える。

 

「外へ流れ出る気ですわ」

 

 ペンドルトンの顔が変わった。

 

 上には、若い刑事がいる。

 応援も来る。

 回収される遺体もある。

 

 そして、その先には人の暮らす街がある。

 

「メアリー」

 

 ゾーイの声が鋭くなる。

 

「戻り道を閉じなさい。ここから一滴も上へ出してはいけません」

「承知いたしました」

 

 メアリーは即座に道具鞄を開いた。

 

 銀の釘を四本。

 黒い封印布。

 細い鎖。

 

 それらを手に、鉄格子の方へ駆ける。

 

「待て! 閉じたら、お前たちも戻れなくなるぞ!」

 

 ペンドルトンが叫ぶ。

 

 メアリーは振り返らなかった。

 

「上へ出してから戻る道を考える方が、よほど手遅れでございます」

 

 銀の釘が、石床へ打ち込まれる。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 鉄格子の向こうで、黒い水が膨れ上がった。

 

 メアリーが黒い封印布を広げる。

 布は空中で伸び、通路の幅いっぱいへ張りつくように広がった。

 

 水がぶつかる。

 

 濡れた獣の咆哮のような音が響いた。

 

「っ……!」

 

 メアリーの足が、石床の上をわずかに滑る。

 

「メアリー!」

「問題ございません、お嬢様」

 

 彼女の金色の瞳が、細く開かれる。

 

「お嬢様がお進みになる道を、後ろから汚させるわけにはまいりませんので」

 

 最後の銀釘が打ち込まれる。

 

 黒い布が、壁と床へ縫い止められた。

 

 水音が遮られる。

 

 完全に消えたわけではない。

 向こう側で、何かが何度も封印へ体当たりしている。

 

 だが、少なくとも、すぐに上へ流れ出ることはない。

 

「これで、退路は塞がったわけか」

 

 ペンドルトンは低く言った。

 

「ご不満で?」

「不満で済む状況なら、まだましだった」

 

 彼は拳銃の弾倉を確認する。

 

「外へ出すよりは、ここで止める方が正しい。それだけだ」

 

 ゾーイが、ちらりと彼を見る。

 

「本当に、どうしようもなく人間ですわね」

「褒めているのか」

「最大限に」

 

 井戸の底から、笑い声が聞こえた。

 

 声ではない。

 

 水が、骨が、濡れた祈りが擦れ合い、笑いに似た音を作っている。

 

 円形の水路に満ちた黒い水が、井戸へ流れ込む。

 

 涸れていたはずの穴の奥から、逆に水がせり上がってくる。

 

 暗く。

 粘つき。

 海の匂いを満たしながら。

 

 井戸の縁へ、一つの手がかかった。

 

 人間の手に似ていた。

 

 だが、指の間には膜が張り、皮膚の下を細い魚の骨のようなものが蠢いている。

 

 続いて、もう一つ。

 

 両手が、井戸の縁を掴む。

 

 ゾーイは小銃をゆっくりと構えた。

 

 そのスカイブルーの瞳が、深い闇を真っ直ぐ見据える。

 

「ようやく、番犬の飼い主がお顔を見せる気になりましたのね」

 

 井戸の底から、濡れた声が返った。

 

『……いの……れ……』

 

 ペンドルトンの背筋へ、冷たいものが走る。

 

『……しず……め……』

 

 それは命令だった。

 

 祈りを求める声。

 沈むことを救いと呼ぶ声。

 人間の肺を海へ繋ぎ、死者を器にして這い上がってくる声。

 

 ゾーイの口元から、微笑みが消えた。

 

「なるほど」

 

 その足元で、影が静かに広がっていく。

 

「神様のふりを続けるには、少々、浅瀬へ出すぎましたわね」

 

 井戸の中から、何かが身体を引き上げ始める。

 

 水を纏った腕。

 骨の浮いた肩。

 溺れた人間たちの顔を、薄い膜のように重ねた頭部。

 

 それは、底から這い上がってくる。

 

 祈りを喰らい、死者を通り道にして。

 

 人の世へ。

 

「警部」

 

 ゾーイは視線を逸らさずに言った。

 

「撃てると仰いましたわね」

「ああ」

「なら、死なない程度に足掻きなさい」

 

 ペンドルトンは拳銃を構えた。

 

「淑女を手助けできるたぁ、英国紳士冥利につくな」

 

 ゾーイの瞳が、ほんの僅かに楽しそうに細まった。

 

「結構」

 

 井戸から現れたものが、裂けるように口を開く。

 

 水底の声が、地下の儀式場を満たした。

 

「では、お相手いたしましょう」

 

 影が、牙を剥いた。

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