こちらご了承ください。
これは、ある1人の偉大なアメリカのウマ娘のお話である。
その娘は幼少期の事故により右脚に慢性的な脚部不安を抱えながらもなお、
その不屈の意志で第7代米国三冠ウマ娘として歴史に名を残した。
第二次大戦が終結して間もないアメリカにおいて、
ハンディキャップを持ちながらもそれをものともせず走り続ける彼女の姿に、人々は希望の光を見た。
そうして彼女は復興に向けて歩み出したアメリカという国の不屈の精神の象徴となったのである。
そのウマ娘を知るアメリカの人々は彼女を称え、こう呼んだ。
『Club-footed Comet (脚曲がりの彗星)』
アメリカウマ娘の歴史に燦然と光り輝く一筋の彗星。
そのウマ娘の名は…
Assault(アソールト)
日本語で「突撃」や「強襲」を意味するものである。
彼女は1943年3月26日、
アメリカの名ウマ娘を多数輩出しているケンタッキー州から少し離れた、
テキサス州キングランチ牧場で生を受けた。
父は同牧場の主人であるロバート・クリーバーグ。
母はウマ娘で名をイグアルといった。
そして因子を貰った因子親はボールドベンチャーというウマ娘だった。
ちなみにこの因子親というものだが、
ウマ娘の文化では子供が生まれた時に右耳飾りのウマ娘から
因子と呼ばれるものをもらうという習慣がある。
その時に因子を渡したウマ娘は因子親と呼ばれ、非常に名誉なこととされている。
人間もわかりやすくいうと名付け親のようなものだろうか。
なお因子親となったボールドベンチャーは現役時代米国二冠を達成した名ウマ娘で、
因子親としてはもう1人ケンタッキーダービーウマ娘を輩出している。
また母であるイグアルはレースに出ることはなかったが、
イグアルの祖母はなんとあの伝説の「初代ビッグレッド」マンノウォーの実の姉である。
つまり彼女はかなりの名因子と良き血を継いで生まれた、
名家のお嬢様と呼ばれるような存在だったのである。
そんな彼女だが、幼少期の頃は父のロバートの仕事を手伝って、
子供ながらに子牛の世話や動物たちと触れ合いながらすくすくと育っていった。
だがそんなある日、幼い彼女に悲劇が襲う。
ある日母のイグアルが牛舎の寝藁を取り替えるためにピッチフォークで藁を掬っていると、
外から娘の悲痛な叫びが聞こえてきた。
「うわあああぁぁぁん!!!!痛いよぉぉぉ!!!」
イグアルはすぐにピッチフォークを放り出し娘の元に向かうとそこには、
右足から大量の血を流しその血溜まりの中でうずくまりながら泣き喚いている愛娘を見つけた。
「どうしたの!?何があったの!?ママに見せてみなさいっ!」
イグアルはそう言って娘の脚を見るもそこには、
右足の甲の部分に巨大な杭が突き刺さり、
完全に貫通しているというあまりにも無惨な惨状がそこにはあった。
イグアルは泣きじゃくる娘を抱き上げると、すぐに母屋に向かった。
そして母屋のダイニングでお茶を飲みながら、
しばしの休憩をとっていた夫のロバートのところに向かった。
「あなた!あなた!大変よ!早くお医者様を呼んで!」
「どうしたんだイグアル!そんな血相を変えて!何があったんだい!?」
「この子が!この子が大怪我を!」
「!!!これは…!」
妻にそう言われたロバートは愛娘の惨状を見るとすぐ状況を理解した。
ロバートは妻のイグアルに、
「僕が行くよりウマ娘の君がお医者様を呼びにいった方が何倍も早い!
ここは僕が見ているからすぐに行ってきてくれ!」
「ええ!ええ!そうね!私が行った方が早いわね!
…落ち着きなさいわたし。わたしが焦ってどうするの!?
…すぐ戻ってくるからちょっと待っててね!」
そう言ってイグアルは隣町の医者を呼びに母屋を飛び出した。
父のロバートは泣きじゃくる娘を宥めながら、いったい何があったのか事情を問う。
痛みで混乱している娘の支離滅裂な説明になかなか理解が追いつかないところもあったが、
大体の状況は理解できた。
どうやら外で遊んでいた娘が、牛の寝藁としてまとめていた麦わらロールから飛び降りた際、
回収され忘れていた測量用の杭の真上に飛び降りてしまい、
それが右脚に突き刺さってしまったようなのだ。
しかも運が悪いことに、
その杭は積み重なった枯れ草や枯れ枝に巧妙に隠されてしまっていたため、
誰もそこに杭があることに気づかなかったのである。
事情を察したロバートは直ぐに井戸から綺麗な水を汲んできて、
土や藁まみれになっている娘の傷を洗い流しベッドに寝かした。
だが専門家ではない自分ではできることにも限界がある。
ロバートは娘の状況を見つつ、ヤキモキしながら妻と医者の到着を待っていた。
待つこと1時間30分。
イグアルが隣町に住んでいる医者を背中におぶって息を切らせて帰ってきた。
道すがらイグアルが事情を説明していたので、医者はすぐに治療に取り掛かった。
戦後まもない時代のため物資は少ないながらも、なんとか消毒と応急処置を施した。
一旦娘は危険な状態を脱して小康状態に落ち着いたものの、
適切な設備がないこの状況ではあくまで応急処置のみで縫合をすることができず、傷口は開いたままガーゼで覆うしか方法がなかった。
次の日、ロバートとイグアルの夫婦は娘をテキサス大学の附属病院に連れて行った。
そこで適切な治療を受けたことで破傷風などの重篤な感染症等に罹ることはなかったが、
右足の甲からつま先までがいびつに歪んでしまい、生涯歩様が不安定になってしまった。
またこの怪我の影響からか腎臓も悪くし、
足首や膝にも問題を抱えるようになってしまったのである。
ただ彼女はこんな右脚になっても誰よりも走ることが好きだったし、
走ることの才能に恵まれていた。
運良く彼女の生まれたキングランチ牧場では、
父親のロバートが仔ウマ娘たちに向けた育成クラブチームを運営していたため
彼女にも走る場が与えられていたし、
レースに出走できるほどに成長した彼女も
いつか他の子と同じようにアメリカウマ娘レースに出走することを夢見るようになった。
しかしながら右足が歪みかつ健康面でも問題ばかりで、
かつ名ウマ娘をあまり輩出していないテキサス出身の彼女を誰も評価することはなかった。
当時のアメリカではAHRA(American Horse-Girl Racing Association アメリカウマ娘競走協会)がなく、各レース場のレース主催者が運営を行っていた。
そのため出走登録を行おうとも登録前の身体検査の際に歪んだ右脚を見られるやいなや、
どのレース運営からも出走を拒否されてしまったのである。
またどこかのチームに加わってレースに参加しようとしても、
同じ理由によりチームへの加入を断られ続けてしまった。
彼女はこのことを悲しみ、しばしばふさぎ込むようになってしまった。
「自分の右脚はなんでこんな形になってしまったんだろう。
この右脚さえまともなら、誰にも負けはしないのに。」
悲しみ嘆く娘を見て、
両親は同じテキサス出身のマックス・ハーシュトレーナーに相談を持ちかけた。
ちなみにこのハーシュ師だが、
かつてアメリカトリプルクラウンの三冠目であるベルモントステークスを勝利して、
「20世紀のアメリカ名ウマ娘100選」に選出されたグレイラグに、
メトロポリタンハンデキャップを勝ちアメリカウマ娘殿堂入りも果たしたサラゼン、
そして彼女の因子親でもある二冠ウマ娘のボールドベンチャーといった
数々のウマ娘を手掛けた名伯楽である。
そんなハーシュ師がなぜこんなところにいるかというと、
なんと晩年は故郷のテキサスに帰り、近所にあったキングランチ牧場の仔ウマ娘育成クラブチームの専属トレーナーをしていたのである。
ちなみに彼女が駆け足で走る姿を初めて見た時のハーシュ師の印象は、
正直勝ち上がるどころかデビューできるかどうかさえも危うんでいた。
実際に育成クラブチームの模擬レースに向かう際に躓いたり転んだりする事もあったという。
しかし不思議な事にレースを走る段階になるとなぜか驚くほど安定した脚取りに変わっていた。
ハーシュ師は彼女のその姿を見てどこか光るものを感じていた。
またお世話になっている夫婦からの依頼についてもなんとかして受けたいと考えていた。
そのためハーシュ師は1日だけ考える時間をもらった後、
正式にアソールトの指導と自分の過去の実績を用いての推薦という形で
レースへの出走を取り付けると約束してくれた。
この時の彼女の喜び具合と両親の感謝の念は、筆舌を尽くしても表現できるものではなかった。
彼女改めアソールトを管理することになったハーシュ師は、
まず彼女の歪んでしまった右脚のハンデをフォローするため特製の靴と蹄鉄を用意した。
あまり知られていないことではあるが、ウマ娘の蹄鉄は走りの補助道具であるため、
専用の蹄鉄を作れば脚の歪みにより生まれる影響を補正できるのではないかと考えたのである。
特製の靴と蹄鉄を与えられたアソールト。
最初はバランスを崩して転んでしまったり、走りづらい感覚があったが、
この靴と蹄鉄を履いている間は走っている時にずっと感じていた痛みが全く起きない。
ハーシュ師の考えは大当たりだった。
しかし順調にトレーニングを積んでいけると思ったら、
彼女の虚弱な体質から、しばしば脚からの内出血が見られてしまう。
ハーシュ師は細心の注意を払ってアソールトを管理、指導した。
そんなことを続けながらハーシュ師の指導のもとトレーニングを積んで、
ジュニア期の6月からベルモントパークレース場で行われた
ダート4.5ハロン(およそ900m)のメイクデビューで初出走をしたが、
勝ちウマ娘から14バ身差の12着に沈んでしまった。
アソールトはレースから帰ってきた際には
涙を流しながら悔しがってはいたが、
その涙はレースに敗れた悔しさだけではなかった。
彼女としては初戦惨敗であっても大きな喜びが胸にあった。
ただレースで走る。たったそれだけの簡単なことでも私には難しいことだった。
だが今はそうではない。それだけで私は満足だと彼女はハーシュ師に言った。
そこからおよそ1週間後の6月12日に同じベルモントパークレース場で出走した未勝利戦では、勝ちウマ娘から1と3/4バ身差の5着に敗退。
さらにそこから10日後のこれまた同じベルモントパークレース場で出走した未勝利戦では、勝ちウマ娘のミストオゴールドから3バ身差の2着に敗退してしまう。
デビューしてからわずか1ヶ月で3戦。
ほぼ毎週での出走ペースである。
時代もあるだろうがなかなかのハイペースだ。
当初ハーシュ師はアソールトの体調を加味して月に1回程度の出走でプランを組んでおり2戦目を1ヶ月後に設定しようとアソールトに伝えたが、アソールトがその出走ペースを頑なに反対した。
アソールトは言う。
「先生が私の体調を考えてくれているのは痛いほど伝わってきます…ゲホッ。
そのお気持ちは本当にありがたいものですが…グフッ。はっきり言ってそれは余計な気遣いというものです…ゴホッゴホッ。私は今まで走ることができなかった分を取り戻りしたいんですウググ…。それに走ってる方が体調もいいですし。アイタタタ」
ハーシュ師はアソールトの言葉を聞き、最初は「言ってることは立派だが、そんなボロボロの体で言うことじゃない。連戦なんて走れるわけないだろう」と思ったし実際に彼女にも言ったそうだが、頑なにアソールトは「やだやだ!絶対走るんです!あ痛ァ!」と言って折れず最終的には彼女の強い希望に添う形で強行軍になる連戦でのレースを設定した。
そして翌月7月に出走したアケダクト競馬場ダート1100mの一般競走を1と1/4バ身差で制して、4戦目にしてようやく勝ち上がった。
この勝利の際には父のロバートと母のイグアルが観戦しており、
その時の2人は勝った当人のアソールトとハーシュ師よりも喜んでいたようである。
走ることができず塞ぎ込んでいた娘を見てきた両親からすればこの喜びようは当然かもしれない。
だが当のアソールトはテンションが上がりまくって周りの観客に自分の娘自慢をしだした両親の姿に、ほんの少し引いていたそうな。
その後5戦目のイーストビューS(ダート1200m)、先の戦いで競ったミストオゴールドとの2度目の対決では、8バ身半差5着と完敗した。しかし6戦目のフラッシュS(ダート1100m)、ミストオゴールドとの3度目の対決にて単勝オッズ71倍の11番人気ながら、写真判定に持ち込まれる激戦を演じ、鼻差でようやく勝利を収めて2勝目を挙げた。
しかしその後は9/5のバビロンH(ダート1200m)でサザンプライドの4バ身差3着。9/12のカウディンS(ダート1300m)でノックダウンの4バ身差4着。10/8のジャマイカ競馬場ダート1200mの一般競走では後の好敵手ロードボスウェルの3バ身差2着と3戦続けて勝つことが出来なかった。
その後アソールトは体調を崩しがちになり寝込むようになってしまったので、ハーシュ師はジュニア級での競走はここまでにし、年明けまでゆっくり休養に充てることにした。
アソールトのジュニアクラスは6月から10月のおよそ4ヶ月で、
9戦して2勝を挙げるに留まった。
4ヶ月の間に9戦。先ほども言ったがなかなかのハイペースであり、
走ってきた距離は900mから1,200mとスプリント距離ばかり。
メジャーな距離であるマイルやクラシックディスタンスは一度も走ったことはない。
この時まではアソールトのことを誰も知らなかった。
気にも留めていなかった。
よくいるウマ娘のうちの1人だとみんなが思っていた。
なんならトレーナーのハーシュ師もそう思っていたかもしれない。
だが翌年、彼女がクラシック期に上がった時、彼女は覚醒の時を迎える。
そしてアメリカ競馬史に燦然と輝く、一つの伝説を刻むことになるのである。