ひまりは自分の能力を、世界中を探せばもっと優れた人はいると謙遜する。
確かに、通常のカウンセリングに関してはそうかもしれない。いくら才能に恵まれていたとしても、精神医学等を正規に学んだわけではない弱冠16歳の子どもでは、その道のプロとして名を連ねることは難しい。
だが、ことホワイトルームに限れば話は変わる。
ホワイトルームは何も努力信仰の施設ではない。
科学的、心理的根拠をもって後天的に天才を作り上げようという試みには、当然、専門家が関わっている。
もちろん、公の場に晒すことのできる施設ではないためあの男が頼りにできる筋は限られていたが、限られた資源を最大限活用するため、ホワイトルームはメンタルケアに長けた者も雇っていた。
だがその成果は微々たるもの。
つまりこの分野において、ひまりは専門家に勝っている。
故にこそあの男が野放しにするはずもない。
その予感はすぐに現実のものとなる。
夏休み明け、最初の特別試験。
ひまりから事前に共有された直近の事情を知らずとも、体育祭の前に急遽差し込まれたこの試験にあの男が関わっているであろうことは想像に難くない。
だが事はそう、単純ではなかった。
オレが違和感を覚えたのは設問2の段階。
ひまりの性格と能力を考えれば設問1の答えは明らかだ。敵もそれを予期できない半端者ではない。
またあの程度のペナルティでひまり自身が窮地に陥るはずもなく、その段階では詳細は不明だったが、あれはフェイクの可能性が高いとオレは見た。
だがそこからの設問3及び4の難易度は想定より数段低く、オレは前提を改める。この満場一致特別試験自体が、カモフラージュに過ぎないのだと。
そこからの思考より、大事なものは結論にあった。
本命の特別試験は別に存在し、その存在を口外することにはリスクがある。その結論に至った時、オレは、直接的にひまりを助ける手段を封じられた。
恐らくそこまで考慮された上で作られた試験。
あの男がいかに本気であるか伺える。
だからこそひまりが自力で試験を攻略した時、オレの中では、形容し難い何かが手に負えないほど膨れ上がる。
恐らくこれが、衝き動かされるということなのだろう。
思考するよりも先んじて、手が出ていた。
時刻は午後9時を少し回った頃。
まだ仕事をしている可能性もあったが、オレはスマートフォンを取り出し、通話履歴からひまりの名前を選択する。数回の呼び出し音の後、聞き慣れた穏やかな声が耳に届いた。
『もしもし、清隆くん?』
「突然悪いな。仕事は終わったか?」
『うん、さっき終わったところ。どうかしたの?』
その問いに、すぐには答えられなかった。
ほとんど衝動的にかけた通話。
だが数秒で話すべき内容の整理をオレは終える。
「……そうか。今から、部屋に入ってもいいか?」
『今から? 別に、大丈夫だけど……』
「なら、直接会って話したいことがある」
少しの沈黙が流れる。
『……分かった。じゃあ、待ってるね』
ひまりはそれ以上、電話で用件を尋ねてくることはなかった。
こちらの声色から何かを察したのかもしれない。
通話を終え、オレは部屋を出た。
同じ寮内とはいえ、女子の部屋をこの時間に訪ねるのは、あまり褒められた行動ではないだろう。
もっともひまりの部屋に足を運ぶこと自体は初めてではない。今更その点を気にする必要もないか。
エレベーターを降り、目的の部屋の前で立ち止まる。
インターホンを押すと、間もなく室内から足音が聞こえてきた。
「はーい」
軽い返事とともに、扉が開く。
姿を現したひまりは、普段の制服姿ではなく、ゆったりとした部屋着に身を包んでいた。
「いらっしゃい、清隆くん。ごめんね、まだご飯作ってる途中で」
「いや、突然訪ねたのはオレの方だ。気にしないでくれ」
「うん。……あ、でもちょっとだけ待っててね」
そう言うと、ひまりは一度室内へ引っ込み、すぐに戻ってきた。
手には来客用のスリッパがある。
「どうぞ、入って」
いつもと変わらない笑顔だった。
今日、あれだけの試験を終えたばかりだというのに、少なくとも表面上は疲弊している様子もない。
だがそれを額面通りに受け取れるほど、オレもひまりとの付き合いが浅いわけではない……はずだ。
「……お邪魔する」
差し出されたスリッパに履き替え、オレはひまりの部屋へと足を踏み入れた。
クミンの食欲を唆る匂いが側に感じられる。
「今日はカレーか」
「あはは、うん正解。シチューとかポトフとかと一緒で具材を切って煮込むだけだから簡単でさ。よかったら食べて帰る?」
「いや、悪い。夕飯はもう摂った後なんだ」
「……まあ、それもそうだよね。もうこんな時間だし」
ひまりもオレが食べると思ってはなかったのだろう。
時計を見て、大袈裟に肩を竦めてみせる。
「体調を崩してはいないか?」
「うん? 別に悪くないよ。試験に仕事にと続いてさすがに疲れてはいるけど、あとはご飯食べてお風呂入って、歯を磨いて寝るだけのつもりだから。私のことが心配で来てくれたの?」
揶揄うように、ひまりは目を細める。
オレはすぐに否定しようとし、できなかった。
「……いや、…………そうだな。そうなるか」
「え?」
「心配、……いや、これは不安か? 次の特別試験のことで、オレにはひまりに提案したいことがある」
きょとんとした丸い瞳がオレを見つめる。
驚くのも無理はない。
オレ自身、自らの言動に驚いている。ホワイトルーム時代、オレを熱心に気にかけていた子どもが脱落し縋ってきた時ですら、オレは何もしなかった。
「……とりあえず、座ろっか」
ひまりに促され、オレはベッドの淵に腰掛ける。
ひまりも間を少し空けて隣に座り、続く言葉を待っていた。
オレは先ほど用意した話をそのまま続ける。
「提案というのも難しい話ではない。次回の特別試験、ひまりは何もしなくていい。全てオレがやる」
「……どういうこと?」
困ったような笑み。
オレは躊躇しながらも、その理由を説明していく。
「あの男は、敵対する者を徹底的に追い込むことを好む。ひまりも聞いたことがあるだろう。周辺を嗅ぎ回っていた記者の失踪。批判の野次を飛ばした野党議員の自殺。そうした話の数々を」
「……あの男っていうのは、綾小路篤臣のことだよね。その辺のことは誰から聞いたの?」
「ホワイトルームが停止した際、オレの身の回りの世話を担当していた執事から教わったことだ。だがそれは今はどうでもいい。問題は今後……いや、次回想定されるあの男のやり方にある」
ペナルティの質的に、次が確実に本命の試験と言える。
「次回特別試験における退学リスクの倍化。A対B、C対Dというクラス対抗の構造。ひまりも分かっているだろう。あの男はひまりの手で、Cクラスの生徒を退学にさせようとしている」
「…………」
「今回、ひまりはクラスポイントを代償にペナルティを回避した。だがそれ自体があの男の思う壺だ。今回クラスポイントを代償にしたことで、次回は勝ちにいかざるを得ない。勝つことでCクラスの生徒を退学に追い込むことが分かっていても、今のひまりはDクラスのリーダーとして、わざと負けることが許される立場にない」
ただ単に、周囲の生徒を巻き込むのではない。
その手で周囲の生徒を退学させる。
それがひまりの精神を最も追い詰める方法。
「……そういう試験じゃない可能性もあると思うけど。そういう厳しすぎる試験の実施は、教職員の方々や高育の保守派が黙ってないんじゃないかな」
「いや、オレはそうなると確信している。だからこその提案だ。次の試験ではオレが小宮に引導を渡す」
「……意味分からないよ。そんなこと言われて、はいそうですかって私が綾小路くんに任すと思うの?」
「それは―――」
「私を心配してくれるのは嬉しい。確かに、そういうことになったら私は堪えられないかもしれない。……でもだからって自分が傷付かないために責任を放棄するなんて、私にはできないよ」
ひまりは自身の胸に手を当て、そう言い切る。
以前なら押し潰されていたかもしれない重圧。
それを跳ね除けて意志を押し通す姿勢にオレは成長を感じながらも、素直に認めることはできない。
最悪、ひまりも騙しながら小宮を―――。
「ねえ。今さ、悪いこと考えたでしょ?」
「悪いこと? なんの話だ」
「とぼけないでよ。いくら綾小路くんでも、私に隠れてそういうことしようとしたら絶対許さないよ」
それはまるで、心を見透かすような。
だが同時にひまりらしくない言葉だった。
「強がるな。オレが本気を出せば、ひまりに気付かれずに小宮を退学に追い込むことなど造作もない」
「…………なに、それ」
「幻滅したか? だがオレは元からそういう人間だ」
目的のために手段を選ぶつもりは無い。
ホワイトルームにいた時から、それは変わらない。
「……そんなことされたら、私、堪えられないよ」
「何?」
「清隆くんさ、……目的が迷子になっちゃってるよ。私を傷付けないために汚れ役を引き受けようとしてくれて。でも私、清隆くんがそうするのを止めれなかったら、私自身をきっと憎むよ」
その言葉に、オレは頭を鈍器で殴られた気がした。
考えれば分かる話だ。
オレがひまりの代わりをしても、ひまりは傷付く。その単純な話がつい今までのオレには抜けていた。
「……なら、オレはどうすればいい」
そのことに気付いた瞬間、迷いが口をついて出る。
ひまりは微笑み、オレの近くに腰をずらした。
着ている服同士が触れ合う距離。
ふとフローラル系の香水が鼻腔をくすぐる。
「ごめんね、清隆くんを不安にさせて」
その表情を、オレは直視できない。
「……私もね、実は不安だよ。不安だらけ。相手の非道さは知ってるし、理解してるつもりだから、何となくこういうことされるんだろうなって、分かる」
「私を精神的に追い詰めて、自主退学させて。その後は上の圧力で私の仕事を止めさせて、子どもたちを助けることさえ禁じられて、……たぶん交換条件として、ホワイトルームで働けって迫られることになるんだと思う」
ひまりにとって今の仕事はアイデンティティだ。
少なくとも、犠牲になっているホワイトルームの子どもを全員助け切るまでは、それは変わらない。
故にその脅しはあの男がしそうなやり方だった。
体の震えが、服越しにも関わらず微かに伝わってくる。
「……怖いよ、私だって。怖くないわけないよ。…………でもね、私は……何もしないで、諦めたくない」
「……その結果、自分が傷付くとしてもか?」
その質問に対する答えは、もはや聞くまでもない。
ひまりはこくりと頷いた。
「清隆くんを安心させる要素になるかは分からないけど、一応、私だって考え無しじゃないよ? もし次の試験がそういう感じでも退学を避ける方法はあるかもしれないし……希望的観測を抜きにしても、一応、今からできる対策はしておくつもり」
「今からできる対策か」
「うん。っていうのも―――」
ひまりはそこから、自身の策を打ち明ける。
それは確かにオレの得たかった答えではない。
だがオレの中で、勝算が少しずつ形を帯びてくる。
「どう? これなら、勝ち目あるんじゃない?」
「……確かに、な」
「うん。だから、無理なこと言ってるのは重々承知なんだけど……、私のこと信じてもらえないかな」
その提案に、オレは肯定も否定も返さなかった。
ここから入れる保険があるんですか?