特別試験が終わると、次は体育祭がやってくる。
事前に説明があった通り、特別試験があった1年生は体育祭におけるクラスポイントの変動はない。そのため全体的に気楽な空気が流れてはいるものの、堀北会長や南雲副会長たちから釘を刺された手前、ひとつのイベントとして楽しむ意味もあって私たちは真面目に練習に取り組んでいた。
今回、種目は全部で13個ある。
その大半は全員参加のようで、普通の学校と比べるとハードなスケジュールになることが予想される。
一方で最近は、仕事と学業と生徒会役員としての活動と忙しく、入学前は日課としていた体力維持のトレーニングもできていない。自然に鈍っていた体を体育祭に向け徐々に元に戻すためにも、早朝、私はランニングをすることに決めた。
ラフな格好に着替え、寮のロビーを出る。
まだ6時前なのもあって日差しは強くない。それでも外は蒸していて、服の内側に熱がこもり始める。
軽く準備運動を済ませると、私は誰もいない道を駆け始める。寮の周りを走り続けるのは誰かに見られたら恥ずかしいし、寮から少し離れたところを、道順は特に気にせず全身で風を感じる。
目安としてはだいたい1kmを6分半のペース。
今の私にはこのくらいがちょうど良かった。
しばらく走っていると、前方からこちらに向かって走ってくる人影が見える。こんな時間から走っている人もいるんだな、なんて自分のことを棚に上げて思いながら、私は何気なく視線を向ける。
そして、すぐに後悔した。
見覚えのある金髪に、整った顔立ち。遠目でも分かるその姿は、間違いなく南雲副会長のものだった。
(…………)
私は何事もなかったかのように視線を逸らすと、ちょうど差しかかった分かれ道で進行方向を変える。
別に南雲副会長から逃げるためじゃない。
もともと道順は決めていなかったんだから、たまたま、ただなんとなくこっちに行きたくなっただけ。
……うん、そういうことにしておこう。
そんな言い訳を心の中で並べながら、私は少しだけ走る速度を上げた。
これで鉢合わせることもないはずだ。
そう安心していたのも束の間のことだった。
「早いなひまり、朝っぱらから特訓か?」
「……っ!?」
不意に声をかけられ、危うく足がもつれそうになる。慌てて顔を後ろに向けると、そこには先ほどまで正面から走ってきていたはずの南雲副会長がいた。
副会長はペースを上げ、軽々と私に並ぶ。
「止まらなくていいぜ。むしろこれが限界か?」
「……おはようございます。いえ、もうちょっと早く走れますけど……」
「ならペースを上げようぜ。これじゃ軽すぎるからな」
それはほぼ命令だった。
私は心の中でため息をつき、足を早める。
これで撒くことができたらよかったんだけど、副会長はまだまだ余裕のある表情のまま並走してくる。
「…………」
こうなったらもう逃げるのは諦め、私は今の速度を維持する。やろうと思えば入学以前のようにより速くできるけど、それで怪我でもしたら意味がない。
そのまま言葉を発することなく走ること15分。
私が立ち止まると副会長もすぐに足を止めた。
「……ふぅ」
まだ肩で息をするほどの疲労じゃない。それでもリハビリとしては、十分な負荷をかけられた気がする。
「もう終わりか?」
「そうですね、私はちょっと休憩を挟みます。もし物足りないようでしたら私のことはお構いなくどうぞ」
「可愛い顔してるのに可愛げのない後輩だな。まったく、堀北会長から何か吹き込まれているのか? 前にも同じことを言ったと思うが、ひまりから恨みを買うような覚えはないんだがな」
困ったかのように、副会長は大袈裟にため息をつく。
「確かに直接何かされた覚えは……初めてお会いした時に俺の女になれってセクハラされたぐらいですね」
「それがそんなに嫌だったのか?」
「後から振り返ってみれば、それなりに……。あの時は時代錯誤な要求に戸惑いと冷笑が先にきましたが」
「俺は冷笑されていたのか」
「あはは、さすがにそっちは冗談です。それはさておき噂が本当なら警戒しない方が難しいと思いますよ」
もしこれがデマだったら誠心誠意謝るけど。
でもそんなことには絶対ならない。
堀北会長は無責任な嘘を吹聴するような人じゃないし、他の生徒会役員の方々も本当だと保証していた。
「噂、ね。いったいどんな噂なんだ?」
「先輩が敵対していた同学年の生徒を片っ端から退学にさせたこと。そして現在、2年生全体の実権を握っていること。多額のプライベートポイントを保有し、実力のある下位クラスの生徒を1名のみAクラスに引き抜くと公言していること。どれも事実……なんですよね?」
「事実だな。だがどれもルールの範囲内だぜ」
「それはそうかもしれません。ですが将来的に、副会長は私たち1年生にも手を入れるおつもりですよね。今でさえ3年生の争いに首を突っ込んでいるとお聞きしています。後輩としては不安にもなります」
実力があっても下位クラスに落ち込んでいる生徒は、当然わだかまりを抱えている。だから南雲副会長の提案はその人たちにとっては福音だろうしその気持ちは正しいものだと思うけど、クラス内に疑心暗鬼を生む懸念がある。
それに何より、気に入らない相手を片っ端から消すようなやり方が私の性に合わないのは自明の理だ。
もしかしたら私の友達にも危害が及ぶ。
個人の能力で負ける気はないものの、2年生全体を掌握しているということは、本来なら同学年で争う要素のある特別試験さえも我が物顔でコントロールできるということ。4クラスに連携をとらせて1年生を貶めることも試験の種類によっては可能だろうし、そうなった時、私でも全員を守り切るのは厳しくなる。
「そうか、そういやお前は甘ちゃんだったな。1年が受けた特別試験のことは聞いたぜ。最初の無人島試験は良かったが船上試験ではクラスポイントを争わず、先日の特別試験でもクラスポイントを捨てたんだってな」
「…………それが、どうかしましたか?」
「そうピリピリするなよ。これでも俺は感心してんだぜ。Dクラスのお前を生徒会役員に抜擢した会長の目は正しかったってことだ。その能力だけならな」
それはつまり、逆に言えば他は認めてないということ。
南雲副会長は私に背を向け、寮に向けて歩き出す。
話はこれで終わりだとでも言うようだった。
「ま、好きにやるといい。俺は俺で、まずは会長をAクラスの座から引きずり降ろす。安心しろよ、それが終わるまでお前に構う暇なんてないからな」
その言葉には、嘘がないように見えた。
それでも油断なんてできるはずもない。私は不安を抱えながら、視線を切って別方向に走り始める。
*
それからしばらくして、私は寮の入り口まで戻ってきた。
南雲副会長との遭遇は想定外だったけど、運動自体は悪くなかったと思う。久しぶりにまとまった距離を走った割には疲労も少ないし、明日以降も少しずつ負荷を増やしていけば、体育祭までには元の調子を取り戻せそうだ。
そんなことを考えながら寮の自動ドアへ向かおうとした時、ふと見覚えのある人影が目に入った。
(……あれ?)
入り口から少し離れたところに、清隆くんが立っていた。
何をするでもなく、ただぼんやりと前方を眺めている。いつもの無表情ではあるものの、どこか考え込んでいるようにも見えた。
こんな朝早くから何しているんだろう。
そう思っていると、すぐに視線に気が付いたのか、綾小路くんは私に顔を向けた。
「……ひまりか」
「おはよう、清隆くん。こんなところでどうしたの?」
「ああ、おはよう。少し考え事をしていただけだ」
そう答えると、清隆くんはおもむろに歩いてくる。
「朝から走っていたのか?」
「うん。体育祭もあるし、ちょっと体を動かそうと思って」
答えながら、私は額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
……あ。
そこで、ふと気付いた。
「ま、待って。清隆くん、あんまり近づかないで」
「……どうした?」
「いや、その……今、走ってきたばっかりだから。汗くさいかもしれないし」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
別に、今まで汗をかいた姿を見られたことがないわけじゃない。だけどこうして、朝から二人きりで顔を合わせるとなると、何となく気になってしまう。
そんな私の心情を知ってか知らずか、清隆くんは意味が分からないという表情で、足を止めなかった。
「別に、そんなことはないと思うが」
「……いやいや、そんなこと―――」
「むしろいい匂いがするくらいだが?」
「…………ぇ?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
清隆くんは何事もなかったかのように私の隣までやってくる。
「シャンプーか何かの匂いだろうな。少なくとも、不快に感じるようなものじゃないぞ」
「……そ、そういう問題じゃないんだけど」
「他にどんな問題があるんだ?」
気まずい沈黙が私たちの間に流れた。
それでもなんとか言葉を捻り出し、私は間を繋げる。
「……清隆くん」
「なんだ?」
「他の女の子にはそういうこと、あんまり言わない方がいいと思うよ。最近、セクハラとかそういうのに世間の目が厳しくなってきてるんだよ?」
「そうなのか?」
「そうなの!」
思わず声を大きくしてしまう。清隆くんは少し不思議そうに私を見つめ、それから軽く頭を下げられた。
「ひまりが嫌だったなら謝罪する」
「……や、私は別に、いいけど…………」
「いいのか」
「……やっぱり今の無し。私、シャワー浴びたいし先に帰るね。清隆くんも外いるなら水分摂るんだよ」
「ああ、分かっている」
私たちは手を振り、寮の前で一度別れる。
清隆くんにはまだ考えたいことがあるみたいだった。
私の部屋で一悶着あったあの日以来、清隆くんは時々、何か考え込むような仕草を見せることがある。それはたいていはほんの一瞬で、少なくとも私以外の子は気付かないぐらいのものだけど、それでもちょっと不安だ。
そう思う内に、今だけは、南雲副会長のことが頭から抜けていた。
体育祭はやることもないのでダイジェストでお送りする予定です
特別試験編第7話の挿絵差し替えを行いました(2026/11/06)