17話
都内某所。
閑静な高級住宅街の一角に、その邸宅はあった。
周囲を取り囲む高い塀と、重厚な鉄製の門扉。
外からでは敷地内の様子を窺うことすら難しく、門の傍らには重々しく監視カメラが設置されている。
もっとも、ここを訪れる人間にとって、そうした厳重な警備は特別なものではない。
この邸宅の主がかつて与党である市民党の幹事長を務め、日本の政界に絶大な影響力を誇った人物であることを考えれば、むしろ当然の備えと言えた。
その門扉の前で、一人の男が足を止める。
仕立ての良い濃紺のスーツに、磨き上げられた革靴。身なりに乱れはなく、その表情にも目立った変化はない。しかし右手に提げた鞄の持ち手を握る指には、僅かに力が込められていた。
男は小さく息を吐き、門の脇に設置されたインターホンへと手を伸ばす。
『お名前をお願いいたします』
数秒の間を置いて、落ち着いた女の声が返ってくる。
「嬉野総一郎です。本日、お約束をいただいております」
『……確認いたします。少々お待ちください』
短い沈黙。
やがて重々しい機械音とともに門扉が開かれた。
『お入りください』
一礼し、総一郎は敷地内へと足を踏み入れる。
門から玄関までは、手入れの行き届いた庭園が続いている。季節の草木が整然と植えられ、石畳の脇には小さな池まで設けられていた。
都心にありながら、周囲の喧騒はほとんど届かない。
それがかえってこの場所の異質さを際立たせる。
玄関先では、年配の女性が総一郎を待ち受けていた。
「嬉野様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました」
「本日は突然のお願いにもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
「いえ。主人からは、丁重にお迎えするよう申しつかっております。どうぞ、こちらへ」
男は頷き、使用人の女性に付いていく。
広々とした玄関。鏡面のように磨かれた床。壁には名のある画家のものと思しき絵画が飾られている。
だが華美な内装を総一郎は一瞥もしない。
相手は直江元幹事長。
高齢により政界の第一線を退いたものの、その発言は今なお鬼島現総理にまで届くと噂される人物だ。
総一郎自身も文部科学審議官という重要なポストに就いている高級官僚だが、その管轄する教育政策への発言力さえも、直江元幹事長には及ばない。
それ故、雑念など持てるはずがないというもの。
廊下を進むにつれ高まっていく緊張感。
やがて使用人の女性は、一枚の襖の前で立ち止まった。
「旦那様。嬉野様がお見えになりました」
「入らせろ」
襖の向こうから、低く豪胆な声が響く。
「失礼いたします」
女性が静かに襖を開く。
そこは、広々とした和室だった。
床の間には掛け軸が飾られ、庭に面した障子からは柔らかな日差しが差し込んでいる。
その中央に、一人の老人が座していた。
年齢を重ねた顔には深い皺が刻まれている。だがその眼光には衰えが見られず、未だ現役時代のままだ。
「ご無沙汰しております、直江先生」
「久しいな嬉野。まあ、とりあえず座れよ。そんなところに立っていてはおちおち話もできねえからな」
総一郎は勧められるまま、直江の向かいに腰を下ろした。
間もなく茶が運ばれ、二人の前に置かれる。
直江はそれを一口啜ると、何気ない調子で口を開く。
「要件は先に聞いている。だがよくも俺んとこに来れたもんだ。過去のことを恨んではいねえのか?」
ホワイトルームは直江が打ち出した計画。
ひまりと同様、総一郎もまた人生を狂わされている。
だが総一郎は表情を変えることなく即答する。
「憎しみの感情があることは否定致しません。ですが娘を守るためですから。そのような些細な感情で、頼る相手を変えるわけにも参りません」
「フン、随分と高く買ってくれる。確かに俺は最後の選挙を機に鬼島に付いた。ホワイトルームを捨て今や高育派の一人。だが既に病魔に侵される老いぼれに過ぎねえ。悪いがお前が望むような手助けはしてやれねえぜ」
「ご冗談を。鬼島総理も先生の動向は気にされていますよ」
「それは良くも悪くも同じ派閥に属するからだぜ。とうに俺の元を離反した綾小路が俺の声を気にするはずもなければ、他の彼奴らにも俺の声は届かねえ」
あくまで冷静な分析を直江は口にする。
だがそれで引き下がるつもりなら総一郎は来ていない。
少しの沈黙の後、事前に決めていた提案をする。
「月城に釘を刺していただくことはできませんか? 今でこそ綾小路の命令通りに動いていますが、元はと言えば直江先生に付いていたはずでしょう」
「知っての通り付いていただけだ。師事はされてねえよ。あいつはどう転んでも自分が有利になるよう、各方面に唾をつけてやがったからな。当然今も交流はあるがそれだけ。お前の期待には応えられそうにねえな」
そう言い切られ、総一郎は思考する。
月城は現在、絶妙な立ち位置にいる存在だ。
ホワイトルームの責任者である綾小路の指示でひまりを追い詰めようとしているが、今なお、表向きは高育派。彼はあくまで高育をより良くするための厳格化を掲げているのみであり、それ自体は決して、高育派である鬼島や直江の考えと真っ向から対立するものではない。
もちろん結果としてひまりがホワイトルームの手に落ち、その後ホワイトルームが成果を増すことは当然、高育派として鬼島も直江も望んでいない。
だがここで大事なのは、ホワイトルームを知る者がそもそも少ないということ。
派閥にはピンからキリまで様々な人間がいる。
その支持を集める存在である鬼島と直江は当然、月城の思惑を理解している。だがもしそれを妨げようとすれば、事情を知らない身内の疑念を呼ぶ。
―――高育の厳格化になぜ反対するのか、と。
直江は、本音ではそれを避けたいのかもしれなかった。
「断っておくが、お前の娘を案じていないわけじゃねえぜ。最初は8歳のガキが何寝ぼけたこと言ってやがると思っちゃいたが、その能力は本物だった。本音を言えばホワイトルームなんざより高育を良くするための礎になって欲しいぐらいだが、伝えそびれちまったな」
「……親としては、政界とは無縁に、のびのびと成長して欲しいものですが」
「ハハッ、そうだろうな。言いたいことは分かるぜ」
直江は豪快に笑い、そのままお茶を飲み干す。
だがその表情には若干の翳りが見えた。
「お前の娘が無事に高育を卒業したとして、三年後になるか。そん時はもう俺はいねえだろうな」
「……お加減が優れないのですか?」
「病院みてえな窮屈な場所で過ごしたくはねえから自宅療養させてもらっちゃいるが、まあそんなところだ。欲を言えばもう少し情勢の変化を見ていたかったが、俺の体はもうそこまで長くは保たねえらしい」
病気には敵わねえ、と直江は嘆息する。
「……ま、そういうわけだ。お前の娘には悪いが単独で頑張ってもらうしかねえよ。一応、鬼島には言っといてやるが俺と同じ考えだろうぜ」
「では、―――こういったお願いはどうでしょう?」
「ああ?」
まだ話があることに、怪訝な表情を浮かべる直江。
だがその表情は続く言葉によって驚きに変わり、それから時を置かずして、また大きく笑い飛ばした。
「ハッ、なんだ。俺への手向けのつもりか?」
「滅相もございません。ですがこれが娘のためになることを願っております」
「そうかよ。んじゃ、まあ楽しみにしといてやる」
直江は愉快な表情でベルをちりんと鳴らす。
すぐに現れる使用人。彼女に対して、そのままひと言。
「いつもの酒を持ってこい。二人分な」
その命を受け、使用人の女性はまた下がった。
*
同時刻、高育にて。
一人の男が窓から校庭を見下ろしていた。
その視線の先では高校生たちが鎬を削って体育祭に励んでおり、たった今、障害物競争を終えて昼休み前最後の競技―――二人三脚が始まろうとしている。
男は携帯端末を耳に押し当てたまま笑みを深める。
『次回の特別試験についてだが、こちらも準備を終えたところだ。何事もなければ予定通り始めろ』
「さすが、手際がお早い。パトロンの説得は難しいのではないかと考えていましたが……」
『奴らもホワイトルームに期待している、ということだ。必ず退学者が出る特別試験に同意するほどにな。だが無理をしている分、失敗は許されん。今回の試験で必ず奴を自主退学に追い込め。分かったか?』
威圧的な言葉を浴びせるのは綾小路篤臣。
その声音だけでも縮み上がってしまう者は多いだろう。
だが月城常成は、それを涼しい顔で受け流す。
「もちろんです。こちらも抜かりなく準備を進めて参りますよ」
少なくとも現時点で、裏切りは検討していない。
次回実施予定の特別試験。
これは純粋に学力を競うものであり、これまでのように小細工が効かない内容だ。月城も幾度となく考えたが、退学者をゼロにする方法は皆無だった。
失敗すればパトロンからの失望は免れられないが、失敗の余地はない―――月城はそう確信している。
「ですが懸念事項がないわけではございません。彼女の父親、嬉野総一郎先生の動向はいかがですか?」
『先ほど、直江の自宅に訪れたことを確認している。だが直江も協力はしないだろう。月城、貴様は表向き高育のために動いていることになっている。故にそれを妨げることはできない。違うか?』
「間違いありません。ですがお気をつけください。直江先生はすでに引退されたとは言え、各方面とのコネクションは未だ抱えたまま。少なくとも特別試験を無事に始めるまでは、怪しい動きが無かったか警戒するようお願いしますよ。綾小路先生と私が共倒れなんて笑えませんから」
『言われるまでもないことだ』
綾小路は元々、直江に師事していた身。
採り得る手段は知り尽くしている。
「結構です。ではそろそろ、通話を切らせていただきます。もうすぐ午前の部が終わりそうですから」
空いた窓から、大きな歓声が聞こえてくる。
何事かと思って月城が見下ろすと、その先では、嬉野・堀北ペアが他生徒に大差をつけて、二人三脚を一位で終わらせていた。何も知らず笑顔を弾けさせる少女を見て、月城は人知れず憐憫を覚える。
だが手心を加える気は、ありはしないのだった。