その夜、私の元には一本の電話があった。
中間テスト以降に習慣付けた仕事終わりの勉強を一度中断し、ペンを置いて端末を手に取る。綾小路くんからだ。こんな夜中に何の要件だろうと不思議に思いながら、応答ボタンを押して耳元に画面を当てる。
「もしもし」
「オレだ、綾小路だ。こんな時間に悪いな。まだ仕事中なら後でかけ直すが、今は大丈夫か?」
「全然大丈夫だよ。今日の仕事はもう終わってる」
話しながら、私は立ち上がって台所に向かう。
座りながらの仕事と勉強で血行が滞っていたところだ。脳への酸素供給が減ると集中力や思考力も下がるから、気分転換するには、今がいいかもしれない。
「そうか、それなら良かった。今日わざわざ電話したのは佐倉についてだ。伝えることがあってな」
「佐倉さん? そういえば、今日の放課後は櫛田さんと佐倉さんが一緒にケヤキモールに行ってたはずだけど、もしかしてそれに綾小路くんも同行してたの?」
私から櫛田さんにお願いをしたとき、他の人を誘ってもいいかと聞いてきたけど、まさか誘いたい人が綾小路くんだったとは。意外な組み合わせに私は驚く。
「ああ。それでオレたちは、放課後すぐに佐倉のカメラの修理をしに行ったわけだが、そのときに対応してくれた男の店員が少し不気味な様子だったんだ。それを一応、お前の耳には入れておこうと思ってな」
「……不気味な様子?」
「少なくとも店員は佐倉のことを知っている様子だった。それだけなら、入学後にカメラを買いにきた佐倉を覚えていたと考えても不思議ではないが―――」
そこで、綾小路くんはひと呼吸置く。
私はごくりと唾を飲んだ。
「店員が佐倉に向ける視線を気持ち悪く感じたんだ。佐倉も終始怯えた様子で顔を伏せていた。これは単に人見知りというだけでは説明がつかないだろう」
真っ先に思い付くのが痴情のもつれ。一方的な執着を向けられているとなれば、怯えるのも無理はない。
ともあれこれで私の中で疑問が1つ解決した。
今日のお昼、カメラを落とした直後の佐倉さんから受け取った違和感は、たぶんここに起因している。
「……だね。ちなみに男の人は何歳くらい?」
「40前後だな、いかにも中年のような容姿だった」
「うわ、最悪。佐倉さんから相談とかは特にされなかったんだよね? こういう系統の話って放置してたらやばいし、機会を見て私から聞いておこうと思う」
ひょんなことから口論に発展して、思わず刺してしまったなんてニュースとか、枚挙に暇がない。
そのくらい色恋沙汰は放置すると怖いものだ。
「お前が相談に乗ってやれるなら安心だな。ところで話は少し変わるが、嬉野も嬉野で、井の頭のことを放置しすぎじゃないか? 最近はまた普通に喋っているようだが、期待をさせるのも良くないだろ」
「……むう。恋愛とかは難しいの! 大変なの!」
「嬉野でも、か?」
「私でもだよ! 他のありふれた悩みと違って、テンプレ的な対応がないの。好意を断るのはどうしても相手を傷つける。ならせめて少しでも傷付けないようにしたいけど、相手次第で正解が違うんだもん」
それに、他人の相談に乗るのと、私の事情を自力で解決するというのではちょっと違う。
もちろん他人から相談されたら解決に向けて尽力するけど、自力で解決するのだと、そこに罪悪感が邪魔を差す。もっと良い方法があるんじゃないかと、冷静さを欠いて、結果的に右往左往してしまう。
「そうなのか。面倒くさいんだな、恋愛は」
「綾小路くんは一度経験してみてもいいと思うけどね。もちろん、せっかく手に入れた3年間をどう使うかは綾小路くんの自由だけど。でも恋愛なんて、ホワイトルームの中だとできなかったことだろうから」
「興味がないわけではない。だがそれはそれで相手に失礼な話ではないのか? オレはこの学校を卒業したらホワイトルームに戻る。別れるのは確定だろ」
淡々と、綾小路くんは悲しいことを口にする。
私はそれが不満で口を尖らせた。
「大人になってからは、結婚前提みたいなところがあるからその気持ちも分かるけど。学生恋愛ってそうじゃないから。そんなに心配することはないよ」
「なるほど。そういうものか」
淡々とした返答。
綾小路くんはどんな表情をしているのだろう。相手の顔が見えないのが電話の悪いところだ。だけど、将来のことを諦めてしまっているのは間違いない。
「……それに、綾小路くんはもう達観してるけど、私は綾小路くんと違ってまだ諦めてないからね。ここを卒業してすぐにホワイトルームに行ってしまう綾小路くんを、私はどんな顔で見送ればいいの?」
感情が昂り、私は肩を震わせる。
これ以上の犠牲は生みたくない。ホワイトルームが今後も存続していけば、犠牲になる子どもの数は指数関数的に増えていく。いずれ手に負えなくなる。
「絶対に、そんなことさせない。仕事だからじゃない。子どもが犠牲になるからだけじゃない。綾小路くんはもう私にとって大切な友達だから、だから、卒業後のことなんて気にしないでいいんだよ―――」
私が、必ず、あの施設を終わらせるから。
「勝機はあるのか?」
「もちろんあるよ。私と、私のお父さんはこれまでずっと、ホワイトルームを閉鎖するように各所に要請してる。その甲斐もあって綾小路くんはホワイトルームを抜けて、この学校に来られたんだから」
「そうだったのか。嬉野には感謝しないとな」
「その言葉、卒業した後に会うことがあったら、私のお父さんに言ってあげて。きっと喜ぶだろうから」
「そうだな、そうさせてもらおう」
心なしか力強い言葉が返ってきて、私は嬉しくなる。
「ちなみに、また話題を変えてもいいか?」
「ん? なに?」
「須藤の件だ。明日の昼には生徒会で審議が行われるだろ? おそらく、証拠不十分で判決は引き伸ばされるだろうが、それでも早急に須藤を弁護するための材料が必要だ。オレはそれに心当たりがある」
一瞬、時間が止まった気がした。
ドクンドクンと脈打つ鼓動だけが頭に響く。
だけど思考が滞ったのはほんの一瞬のこと。その発言の意味が側頭葉から浸透し、私は声をあげた。
「そ、それは本当……?!」
「ああ。確証があることではないがな。それに必ずしも状況が好転するとは限らない。だが佐倉が事件の目撃者である可能性が高いことは知っておくべきだ」
衝撃の発言に、私は喉を鳴らす。
「佐倉さんが……目撃者……?」
「ああ。嬉野は気が付いていなかっただろうが、お前がクラス全体に呼びかけをしたとき、佐倉だけが俯いていた。まるで顔を見られまいとするようにな」
「引っ込み思案だから、じゃないのかな?」
「その可能性も確かにある。だが嬉野には、1つ見落としていることがある。それが何か分かるか?」
言われて、私はこれまでの言動を振り返る。
私は南雲副会長と一緒に2年生に聞き込みした。3年生は堀北会長が担当してくれた。1年生は堀北さんに任せた。他クラスから目撃者は見つからなかった。
……
「自分のクラスには、聞き込みしてない……」
「そうだ。お前は最初にクラスメイトに協力を呼びかけた。だがその後に誰からも自己申告がなかった時点で、クラスの中には目撃者がいないと思い込んだ」
意識していなかったけど、……確かにそうだ。実際に目撃者の有無を確認してないのはそういうこと。
「クラス全体に須藤を助けることに協力する空気が醸成されていた。それで安心してしまったのかもしれないな。仲間に疑いの目を向けないことはお前の長所でもあるのだろうが、同時に視野を狭める」
「……どうしてすぐに教えてくれなかったの?」
「嬉野なら途中で気がつくと思っていたからだ」
だがその判断は誤りだったと綾小路くんは言う。
その言葉は私の胸に深く突き刺さる。
「別に嬉野を責めているわけではないぞ? 今日考えたことだが、お前は個々と向き合う力に長けている。だがそれでカバーできない部分も当然あるだろう」
「……あはは、そう言ってくれると、心が救われる、な……。過去の私を思い切りぶん殴りたいけど」
「完璧な人間なんていない。過去を反省して次に活かすことも大事だが、今は次の行動を考えるべきだ」
「……そうだね、そうする。ありがと綾小路くん」
とりあえず、佐倉さんとはすぐに話す機会を設けたい。店員との関係は聞けたら聞く感じでいこう。
私は明日以降の予定を頭の中で思い描きながら、沸騰したお湯を陶器製のコップに注ぐ。黒漆の濡れたような蝋色の表面に、真剣な表情が小さく映りこむ。
「ああ。だがあまり考え込むなよ。嬉野は色々と、背負い込みがちなところがあるからな」
「あはは、そうだね。肝に銘じておこうかな」
「是非ともそうしてくれ。じゃあな」
そう言って、通話はぷつりと切られた。
*
嬉野との通話を切り、オレはひと息つく。
伝えようとして結局伝えなかったことが1つだけあった。
(……オレの考えすぎ、ならいいんだがな)
嬉野は個々を見るのに長けている。
櫛田は俯瞰する能力がある。
オレが昨日、なんとなく考えてみたことだ。
ならば不可解なことが1つだけある。
櫛田は、目撃者がDクラス内にいる可能性に思い至らなかったのか?分かっていたのではないか?
交友関係の広いあいつのことだ。
とっくに、須藤を擁護できる情報を得ていてもおかしくないはずだが、少しもそんな話はない。
「探りを入れてみた方がいいかもしれないな」
そもそも―――。
実力順で各クラスに配属されるなら、櫛田のような生徒がDクラスにいるはずはないのだから。
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