その日の夜のことだった。
仕事もないため普段より早くお風呂に入り、微睡んでいた私の意識は、インターホンの音で覚醒する。
時刻はとうに22時を回っている。
こんな時間に誰だろうか―――、そう思ってドアの小窓を除くと、暗闇の中に綾小路くんが佇んでいた。
「……こんばんは。どうしたのこんな時間に」
「突然悪いな。少し込み入った話がしたいんだ」
「それ、今じゃなきゃダメ? まあ私だから良いけどさ、普通、夜中に女の子の部屋に押しかけちゃだめだよ」
「…………悪い。そこまで気が回らなかった」
バツが悪そうに目を逸らす綾小路くん。
気が回らなかったのは事実だろう。
ホワイトルームはこういうことは教えてくれない。あの場で生き残れば生き残るほど、外部との接触の機会は閉ざされて、常識を持つ必要性さえなかった。
それを改めて思い知らされたように思えて、私に彼を責められるはずもなく、胸の奥がきゅっと痛む。
「ううん、いいんだよ。少しずつ分かっていけばいいんだ。私も強い口調になっちゃってごめんね」
「……気にしないでいい。おかしいのはオレだからな。だが、その上で少しでも早く話したいことがある。嬉野には悪いがこれから時間をとれないか?」
「いいけどその前に、とりあえず中に入らない? 誰かに見られて、辺な噂立てられたくないでしょ?」
綾小路くんを部屋に招き入れ、机と紅茶を用意する。紅茶は自分で飲むことのない来賓用のものだ。透き通った橙色の表面から湯気がたちのぼり、まだ熱いカップを受け取った綾小路くんは静かに話し始めた。
「嬉野に話したいことというのは、他でもない櫛田のことだ。放課後の様子を見ていただろ? それで、オレの行動を不思議がっているように見えたからな」
「私の疑問解消のために来てくれたってこと?」
「主な目的はそうなる。その上で嬉野に忠告したいこととしては、あまり櫛田に肩入れすべきじゃないということだ。仲良くすべきじゃないとも言えるだろう」
突飛な忠告、ということもない。私も櫛田さんのおかれた立場には前々から疑問を抱いていた。
学力も高く、身体能力も平均以上で、友達が多い彼女。それがDクラスに配属された時点で、学校のシステムか私の中の彼女、どちらかが間違いだと分かる。
もし学校側のクラス分け基準に不備がないなら、櫛田さんは然るべきしてDクラスになったということ。
学力や身体能力、コミュニケーション力以外の、彼女を構成する何らかの要素。それが原因なら、きっとその要素は他を打ち消して余りある欠点なのだろう。
「……その反応、お前はオレの意図を理解していたみたいだな。その上で櫛田と仲良くしていたのか?」
「そうだね。ごめん、心配させちゃったかな」
「嬉野にとって対処できないほどの脅威とは思っていない。だが念には念を入れる必要がある。この学校は一癖も二癖もあるような生徒が集まっているからな」
確かに。その言葉に、私は思わずくすっとする。
知ってる人が見れば私や綾小路くんだって、その一癖やも二癖もある生徒の中の1人に見えることだろう。
「……今の会話に笑う要素があったか?」
「ごめんごめん、気にしないで。綾小路くんの忠告は真剣に受け止める。協力関係だもんね私たちは。大丈夫、ポイント集めを疎かにするつもりはないよ」
この学校は他の生徒を退学にさせられる。
例えば、さっきの前提が正しいとして、何らかの要因で櫛田さんが暴走してしまったとき。それによって誰かが退学すれば、私はきっと絶望を抑えられない。
綾小路くんに協力できるほど心の余裕を保てない。
幾重にも妄想を重ねた、なんとも現実味の薄い話ではあるけど、警戒するに越したことはないのだろう。
「ただ私は、その上で櫛田さんの……味方でありたいな。裏の顔があるのかもしれないけど、それでも櫛田さんのおかげで、彼女の優しさに救われた人がいる」
それも今、綾小路くんの目の前に。
中間試験のとき。誰かが退学してしまうかもしれないと怯えていた私に寄り添い、抱きしめて、私の心を落ち着かせてくれたことを私は忘れていない。
だからたとえ、その行動の下で打算があっても。私は決して軽蔑もしなければ裏切られたとも思わない。
そもそも、人間は打算的な生き物だと。
いつしか櫛田さんに語ったことだってある。
自然な会話の中で、その考えを彼女に伝えたのだって、色々な可能性を想定した上で、私は櫛田さんの味方だよということを遠回しに伝えるためだった。
「なるほどな。お前の主張は理解した」
「……うん、だから、ごめん。きっと私って危なっかしいって思われてるよね。色々背負いすぎだって」
綾小路くんだけじゃない。お父さんも、坂柳先生も、私のせいで心配になってるのを私は知っている。
「でもこれだけは譲れない。これは私を私たらしめる価値観だから。だからお願い、私が無理しようとしてるように見えても、見守っていて……欲しい、かな」
「分かった。そこまで言うならオレは静観しよう」
「ありがとう。このこと、
その言葉に、綾小路くんは目を丸くする。
「―――いつのまに、
「忘れてた? 私、人を見る目はあるんだよ? だから綾小路くんが私に優しくする理由も分かるよ」
彼にとっては、私が協力者だから?
ううん、きっとそうじゃない。私なんかの手を借りずとも彼は学生生活をやり遂げられる。それだけの実力があるから、最高傑作だと讃えられていたのだ。
じゃあ……彼なりの優しさなのかな?
ううん、それも違う。なんて言うと失礼だから直接口にしないけど、ホワイトルームを生き抜いてきた彼が、単なる優しさだけでここまでするとは思えない。
だから本当の理由は、その奥にある。
この学校に入って最初に坂柳先生に会ったとき、先生は綾小路くんを呼び止めた。私は理事長室を出ていたから会話内容は聞いてないけど、推理は可能だ。
物事に関わる全員の性格、思考回路、それから会話の流れ。全てを整理すると答えは1つに収束する。
「綾小路くんは坂柳先生に、私を守るよう依頼されたんだよね。元を辿れば提案したのは私のお父さんから。私のわがままでずっと心配かけちゃってるから」
「正解だ。さすがは嬉野だな」
「全然褒められたことじゃないけどね。裏を返せば私は色々迷惑をかけてるってことだもん。だからこそ、このことは先生に言わないでおいて欲しい……かな」
坂柳先生はもちろん、お父さんにこれ以上の心配をかけたくない。私は親不孝な娘だけど。せめて少しくらいは、大好きなお父さんの荷物を増やしたくない。
その気持ちを余さず伝えるように、私は綾小路くんの瞳を見つめる。やがて目の前の彼は静かに頷いた。
「そうだな。嬉野の意思をオレは尊重する」
「……ありがと。ごめんね、本当の立場は逆であるべきなのに。私ばっかり助けられちゃっているよね」
「気にすることはない。そこまで推理できたならもう分かっているだろう。オレを助けるために入学しろという父親の命令は、お前のための嘘だったのだと」
お父さんは綾小路くんのために私を入学させたんじゃない。他ならぬ私のために、私に普通だった頃に戻って欲しかったがために、私を入学させたんだ。
だから私は綾小路くんを守らないといけない立場にいない。綾小路くんはたぶんそう言いたいのだろう。
「……うん。でも、私には矜持がある。綾小路くんを守りたい。卒業したらそこで終わり、なんてことにさせたくない。だから助けられてばかりは情けないよ」
そう言うと、綾小路くんは珍しく笑みを見せる。
「意固地だな」
その言葉に、私はウインクを返した。
センチメンタルな空気のままにもさせたくない。
「子どもだからね。さて、湿っぽい話はこれで終わりにしよう。悲劇の女の子を気取るよりも、私はやっぱり、みんなを守れるかっこいい子でいたいもん」
「そうだな。須藤の件は順調か? 今日は確か、Cクラスの……龍園?と話をしに向かっていたはずだが」
「順調だよ。とりあえず事前準備は全部終えたかな」
ただその前に、やらなきゃいけない別件が1つ。
佐倉さんと対話をすることだ。目撃者だから、ではなく、家電量販店の店員との関係が気にかかるから。
そう思った矢先のことだ。私のスマホの着信音が、誰からかメッセージが送られてきたことを告げる。
その送り主を確認するため、私は視線を落とす。
「えっ? 佐倉さん?」
「ついに耐えられなくなったようだな。目撃者ではないとクラスメイトに偽り続ける、その罪悪感に」
「……そうみたいだね。でもびっくりしちゃった。期限ギリギリまで悩むのかもって思ってたから」
どうやら少し、見積もりが甘かったらしい。
私は内心反省しながら即座に返信をする。佐倉さんが心変わりをする前に、約束を取り付けた方がいい。
「うん、これでよしっ……と。早速だけど明日、佐倉さんとは話してみるよ。綾小路くんも同席する?」
「いや、そういうのはオレは得意じゃないからな」
「分かった。じゃあ終わったら、報告だけするね」
私がそう言ってしばらくすると、綾小路くんは立ち上がる。カップの中の紅茶はもう空になっていた。
「じゃあ、また明日な。見送りは不要だ」
「うん。今日は来てくれてありがとう。私が力になれることだったら、なんでも言っていいからね」
綾小路くんが部屋から去り、静けさが戻る。
私はひとつ深呼吸をした。まだ11時にもなっていないけど、明日に備えて今日は早く寝ることにしよう。