その日の宿題は、家族に自分の名前の由来を聞いてくることだった。
私はいつ話を切り出そうかと考えながら、夜ご飯の準備をしてるパパの周りを歩き回る。危ないよと嗜められるとすぐに少し離れたソファに飛び乗る。
「ねえパパ? ひまりって、なんでひまりなの?」
結局、私はそれからすぐに質問をした。
ソファの背もたれからひょっこり顔を出すと、キッチンにいるお父さんは手を止めて私に視線を向ける。
「急だな。学校で何かあったのか?」
「先生がね、聞いてきてって」
「なるほどな」
お父さんは少しだけ困ったように笑った。
「ひまりは覚えてないだろうけど、ひまりは、生まれた時すごく体が小さかったんだ」
「そうなの?」
「ああ。ちゃんと元気に育つか、心配なくらいに」
いわゆる低出生体重児だったとパパは言う。
「だからせめて、いっぱい太陽を浴びて、あったかい場所で笑える子になってほしいと思った」
「それで、ひまり?」
「ああ。お花の向日葵から名前を取ったんだ」
「ふーん、そうだったんだ」
「それともう1つ。ひまりのお母さんはもう天国にいるからな。寂しくなることもあるだろうけど、向日葵みたいにお天道様をずっと見ることができたなら、お互いに寂しく思わないで済むと思ったんだ」
そう言うパパの表情は世界一寂しそうだった。
私の中にママの記憶はない。なのに恋しくなることがあるんだから、ママと結婚したパパは私よりずっとずっと1人ぼっちなんだと子どもながらに思う。
「私はいなくならないからね、パパ」
「……ひまりは優しいね。本当に、あの人に似ているよ。人の気持ちの変化に敏いところが、特にね」
料理を終えて手を洗ったパパは、私に近づくと真っ先に頭を撫でる。その手のひらの感触と穏やかな微笑み、そして言葉の全てがこそばゆく感じた。
*
「着いたぜ、先生」
その言葉に私の意識はパチリと覚醒する。
目尻に溜まった涙を拭い、周囲を見た。
「ん……私、寝てた?」
「ええ、あの後すぐに。相当お疲れだったんでしょう。だいぶうなされてましたが大丈夫そうですか?」
その言葉に、私は先ほどの夢を思い出す。
未だ鮮明に残っている記憶。ただ、今はもう蓋をして、思い出さないようにしてたはずの記憶。あれは確か―――私が6歳になってすぐだったかな。
「……別に、悪夢を見てたわけじゃないの」
むしろ幸せな夢だった。
ずっとあのままだったら良かったのにと、そう思ってしまうほどに私はあの緩やかな時間が好きだった。
「ううん、そんなこと……私に言う資格無いか」
私は2人に聞こえない声量で、そう呟く。
あれから2年後。8歳になってすぐにお姉ちゃんの境遇を知り、私は自ら、自分から幸せを遠ざけた。
同時にお父さんからもあの時間を奪った。
そんな私が、今更、郷愁に心を揺れ動かしたところで、そんなの自業自得もいいところだろうと思う。
「何か言いましたか?」
「……ううん、なんでもない」
「そうですか……。ならいいのですが、気持ちの整理は着きましたか? お父さんと、話せそうですか?」
「……うん」
私は小さく頷いた。
確か、冷蔵庫には料理をするのに十分な材料があったはずだ。その辺り、お父さんはマメな性格だから。
「まずは、夜ご飯を作らないとだね」
「良いじゃん。お父さんもきっと喜ぶぜ」
「……ありがとね、2人とも。情け無いけど、ここまで言われて、やっと勇気が出た。私頑張ってくるよ」
シートベルトを外し、ふうと息を吐く。
まだ怖い。私が、どんなにお父さんに酷いことをしてきたのか。それを直視するのは、すごく怖い。
でも、機会がある内に話さないといけない。そのことを、私は2人に言われてようやく認識する。
私も、私のお父さんも、色々と恨みを買う仕事をしている。特に綾小路先生率いるホワイトルームの陣営からは目の上のたんこぶのような存在だろう。
ここ日本でも、機密を追っていた記者が突然行方知らずになった―――というような話は枚挙に暇がない。
私が今こうして怪我ひとつなく生きてられるのは、ひとえに綾小路先生が私に利用価値を感じてたからで。先ほどの話を断った以上、どれだけ保険をかけてもお父さんといつ話せなくなるか分からない。
だから―――。
私は歯を食い縛り、この場で意思を固める。
「その調子です。いってらっしゃい、先生」
「―――うん、行ってきます」
そのまま、すぐに帰宅すると、早速手を洗って夜ご飯を作る準備を始める。もう逃げない。そう自分に言い聞かせるように、私自身を戒めるみたいに。
*
夜の7時を回った。
私は夜ご飯の用意のほとんどを終え、あとはお父さんが帰ってきてからボウルの中の肉だねを焼くだけ。
だからやることが無くなり、私はすぐ落ち着きを無くす。緊張がピークに達していた。何をしてお父さんを待ったらいいか分からず玄関前で右往左往する。
(……大丈夫、私、落ち着いて。お父さん帰って来たらまずお帰りなさい、……だよね? その時にはもうここにいて、あと荷物持ってあげなきゃ……)
いつもはやらないこと。
この時間、いつもは私はまだ仕事中で、お父さんは勝手に帰ってきて自炊して、夜ご飯を食べている。
私はお父さんにお帰りなさいと言うこともなく、仕事が終わる9時過ぎに栄養をとって、その間特に喋らず、結局一言も交わさずに就寝する日も多い。
だから勝手が分からず、心拍だけ早くなる。
だけど時間はどうやら待ってくれないらしい。
玄関の上がり框を右に行ったり左に行ったりしていると外から鍵を取り出す音がかすかに聞こえて、私は慌てて、裸足のまま土間に降りて鍵をあけた。
「……あ、お、お帰りっ!」
ドアを開けると、お父さんと目が合う。
その表情は困惑と驚きが半々で入り混じっていた。
「あのっ、に、荷物持つね!」
「え? あ、ああ……」
私がひったくるように受け取ったのは、お父さんが手に提げていた通勤鞄と、家の近くのコンビニの袋。
中には買ったばかりの弁当が入ってて私は固まる。
失敗した―――。そう思った。
「どうかした?」
「え、あ、ううん! お父さん、今日はお弁当買ったんだ……。め、珍しいね? いつもは……」
「そうかい? ここ最近はずっと弁当だよ」
「え? でも、冷蔵庫に野菜とか……」
「ああ、ひまりが帰ってくるって聞いたから。使うかなと思って最近買い足したりして―――ひまり?」
ぼろっと、目から大粒の涙がこぼれる。
知らなかった。昔のお父さんはもっと料理をする人だったから。冷蔵庫を見て、食材が割と揃ってて、今も自炊してるんだって私は勝手に勘違いして。
ずっと、ずっと会話もせずに、顔さえ合わせようとしなかったから、そんなことですら私は知らなくて。
「ごめ……ごめんなさい……っ」
「ど、どうしたんだ……? お父さん、なにかひまりを傷付けるようなことをしてしまったかな……?」
「違くてっ……そうじゃ、なくて……っ」
なんでもっと見ようとしなかったんだろう。
ただ、行ってらっしゃいだったり、お帰りなさいを言うだけのことさえ、なんでしてこなかったんだろう。
「親不孝な娘で、ごめんなさい―――」
「とりあえず、落ち着いて。まずは中に入ろう。それから、とりあえず腰を据えて話さないか?」
その言葉に、私は泣きじゃくりながら頷く。
背中をさすってくれるお父さんの手つきは、昔よく頭を撫でてくれたあの感触と変わっていなかった。
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