私とホワイトルームを罰する方法   作:花音ゆず

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第6話

 

 ことり、と。

 黒い陶製のマグカップが机の上に置かれた。

 中を満たすシルクホワイトのミルクから、ほのかな蜂蜜の香りが立ち昇る湯気と一緒に運ばれてくる。

 

「はい、どうぞ」

 

 慣れた手つきで作られたそれを、私はお父さんに促されるまま手に取る。

 陶器越しに伝わるかすかな温かみ。こくりと小さく飲んだ時の、蜂蜜の優しい甘みと、コクのあるミルクの味わい。その両方からどこか懐かしさを感じる。

 

「そのホットミルクは、昔ひまりが好きだったんだよ」

「……そう、だったっけ」

「ああ、寒い日には良く作っていた。もうあの時から何年か経っているから、昔より甘さは控えめに作ってみたんだけど……、お口に合いそうかな?」

「うん。ちょうどいい甘さで、美味しい」

 

 私は鼻をすすりながらも少し微笑む。

 

「そう―――良かった。落ち着いたみたいだね」

 

 お父さんは穏やかな表情で私の対面に座る。

 その顔を直視できずに私は俯く。

 訪れる沈黙。私は突然泣き出してお父さんを困らせてしまった気まずさに、話の切り出し方が分からない。

 

 そんな中、お父さんはおもむろに口を開く。

 

「キッチン見たよ。お父さんのために夜ご飯を作ってくれていたんだね。ありがとう、ひまり」

「……がくて」

「ん?」

「ちが、くて……。私、お父さんが、いつも夜ご飯にコンビニのお弁当食べてるなんて知らなくて……」

 

 そう言い、私は口を引き結ぶ。

 いつからだったのだろう。これがもし、私が高育に通う前だったら、私は何を見てきたんだろうと思う。

 

「仕方ないよ。お父さんとひまりは、仕事の影響で生活サイクルが全然違った。そうだろう?」

「……でも、でもっ! 何年も一緒に過ごしてて、気付ける場面なんていくらでもあったよ!」

 

 それは例えば、拭かれた食器の有無や、ゴミ袋の中身。あるいは夜ご飯を食べた直後の部屋のにおいだったり、冷蔵庫の中の食材の減り方だったり。

 そういうのを、私は見てこなかった。

 

「それは、そうかもしれないけど」

「でしょ?! だから、私なんて―――」

 

 言いかけて、私はハッとした。

 お父さんと仲直りしようとしてたはずだ。なのにこれじゃ、ただ勝手に自分自身を詰っているだけで。

 

「……ごめんなさい。取り乱しちゃって」

「ううん、いいんだ。いいんだよひまり。お父さんにとってはそんなこと些細なことだ。それより今、夜ご飯を作ってくれたその気持ちが何より嬉しい」

「で、でもお弁当が……」

「弁当はまた後日食べたらいいさ。疲れてるだろうに、せっかくひまりが夜ご飯を作ってくれたんだから」

 

 お父さんの表情が確かにほころぶ。

 ―――今なら、お父さんなら、きっと私の話を聞いてくれる。そう直感させられて、気付けば私は口を開いていた。

 

「私ね、……お父さんと、仲直りしたいな。今までずっと酷いことをして生きてきた。お父さんに心配ばっかりかけて、そのことを歯牙にもかけないで」

「それはお父さんも一緒だ。ひまりに無理して欲しくない一心で、その気持ちをあまり慮ってやれなかった」

「……じゃあ、お揃い?」

「はは、お揃いだ。ひまりの優しいところはお母さん譲りだが、不器用なところはお父さん譲りなのかもな」

 

 そう言って笑うお父さんに釣られて、私も笑みをこぼす。じゃあ仕方ないと、悲観的な私にそう思わせるぐらいお父さんのは晴れやかな笑いだった。

 

「だからひまり、過去のことはお互い水に流そう。その上で今後の話をできたらなと思うんだが―――」

「……うん、それがいいと、私も思う」

 

 そうして、私は本音を打ち明ける。

 自分への罰として仕事をしてきたこと。

 でもその過程であの子たちと接して、私はこの仕事にやりがいを感じてること。それから自分都合で仕事を放り投げるのは、無責任だと感じること。

 

「……お父さんからしたら、当時まだ8歳になったばかりのひまりに、責任なんてあるはずがない。当然こうした仕事をしないといけないという義務もない。だから何度も仕事を辞めさせようとした」

「私も、理性では、私がおかしなことをしてるのは分かってる。でもどんな経緯があってもこれは私の仕事で、だからそれを辞めてしまうのは、あの子たちを放っておくのは選択肢として私には無いよ」

 

 これがもし、私以外でもできることだったら違ったけど。そうじゃない以上はここだけは譲れない。

 

「ひまりの考えは分かった。……その上で、提案だ。仕事を続けるのは認める。お父さんも可能な限り支援するよ。だけど自分を罰しながら生きるのは、もうこれっきりにしなさい。分かったかい?」

「……すぐには、難しいけど」

「いいや、すぐにだ。こればかりはお父さんも譲れない。ひまりはひまりが思ってるよりずっと、大勢から心配され続けていることに気がついて欲しい」

 

 その真剣な眼差しに、私は目を逸らしたくなる。

 だけど逃げるのはもうだめだ。

 ずっと、ずっとお姉ちゃんのことばかり考えて生きてきたけど。これから他のことも考えていかないと。

 ―――そう、心の中で自らに言い聞かせる。

 

「お父さんはね、ひまりが自分を追い詰める度に、苦しかった。父親としてただ情けなかった。ひまりは多くの子どもたちの心を救ってきたというのに、私は実の娘1人さえも救えなかったのだから」

 

 その言葉には、悔恨が色濃く滲んでいた。

 私はぎゅっと胸が締め付けられる。

 

「……それは、私がお父さんを見てなかったから」

「ホワイトルームの子どもたちだって、最初、ひまりのことを見ていなかっただろう? むしろ心ここに在らずといった様子だった。それでも心を通わせていったのを、お父さんはずっと見ていたよ」

 

 だからここまで関係性が拗れてしまったのは、ひとえに自らの力不足のせいなのだとお父さんは言う。

 私はそれを否定しようとして―――できなかった。

 先生として、ホワイトルームの子どもたちにどうアプローチしていったらいいのかは分かるものの、家族としての関わり方が私には分からない。

 

「でもひまりが変わろうとしてくれてるなら、お父さんにも言えることがある。これ以上、ひまりが自分を傷付けるところをお父さんは見たくないよ」

「……その言い方は、ずるいよ」

「はは、ずるいかもな。何せひまりの良心に訴えかけるぐらいしか、ひまりを止める方法が分からないんだ」

 

 言葉だけを切り取れば自虐に聞こえる発言。

 けれどその穏やかな表情には、それ以上に隠しきれない安堵が滲んでいた。

 

「さて、湿っぽい話はここまでにしよう。せっかくひまりが夜ご飯を作ってくれるんだから。できることなら、楽しい話をしながら一緒に食べたいだろ」

 

 お父さんは私の返事を待たずに立ち上がる。

 私も遅れてすぐにキッチンへと向かった。

 まだ私の中で、完全には気持ちは纏まっていない。でもお父さんのお願いに応えないという選択肢は今の私にはなくて、だから話を引き延ばして答えを聞かせる代わりに、私は仕上げをしようと思う。

 

「お父さんはソファで休憩しててよ。ハンバーグのソースはなにがいい?」

「そうか? うーん、そうだな。ならお任せで」

「えー、お任せ? じゃあ―――」

 

 私はどうしようかと考えながら手を洗い、ボウルの中で常温に戻しておいた肉だねを掬う。ジュウ、とフライパンの上で音を立て始めたハンバーグの匂いが、静かだった家の中に少しずつ広がっていく。

 

 その温かさを、今度こそちゃんと大切にしたい。

 私は心の中でそう思った。

 

 

 

 

 

 

 帰りの車の中は変に賑やかになるのではなく、静かだった。ただ、行きとは違ってその静けさは気まずくなく、むしろ心地よい沈黙に眠気がやってくる。

 

「明日からクルーズ旅行だっただろう。めいいっぱい楽しむために、今日はゆっくり休むんだぞ」

「……私、行ってもいいのかな」

「まだそんなこと言っているのか。2週間も仕事をできないというのは確かに不安だろうが、お父さんのほうでも、可能な限りフォローはしておくから」

 

 だから行きなさいと念押しされる。

 ここまで強く言われてしまうと、今の私には首を横に振ることができない。

 やがて車は学校近くに停車し、微睡みの縁から私は起こされる。もっとゆっくりできるはずだったけど、帰りの時間は私が思ってたよりずっと短かった。

 

「じゃあ……、私は行くから」

「ああ、いってらっしゃい。楽しんでくるんだぞ」

「……うん! 行ってきます。送ってくれてありがと」

 

 名残惜しさを振り切り、私は車を降りる。

 こんなにあっさりと和解できるならもっと早く素直になればよかった。……ううん、それは無理か。きっと私1人ではそんな勇気は出なくて、あの子たちの働きかけがあったからこそ、今があるんだ。

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