橋本くんとの話もそこそこに廊下に出た私だけど、部屋に戻る前、またすぐに別の用事が舞い込んできた。
スカートのポケットに入れていた携帯端末がぶるぶると振動し、取り出してみると茶柱先生からのメールだ。その内容は今すぐここに来いというもの。
私は突然の呼び出しに訝しみながらも、頭の中の地図を頼りに、指定された場所に少し急ぎ足で向かう。
ドアをノックすると聞こえてくる返事。
中の部屋は1つの教室程度には広く、ただ教室とは違って、中にはこれといった物が置かれていない。先生はその真っさらな壁に背中を預けていた。
「こんにちは、茶柱先生。何かご用ですか?」
「ああ、突然の連絡で悪いな。学校側のアドレスを使ってメールを送ったことで驚いたかもしれんが、安心してくれ。試験に関連することではない」
「……そう言われても安心できませんが」
これまで学校には何度も騙されてきた。
私が警戒心をあらわにすると、先生は微かに笑う。
「フッ、確かにそうだ。だが今回に限っては安心してくれていい。そもそも教師である私自身、事情を把握できていないのだが―――先ほど坂柳理事長から連絡を受けてな。お前に繋いで欲しい、と」
「……坂柳理事長から、……ですか?」
私は言葉をそっくりそのまま聞き返す。
これまで、坂柳先生とは何度か会ってきた。だけどそれはいずれも私から接触を図ったもの。一方で今回は坂柳先生から、それもわざわざこんなタイミングでの連絡―――。嫌な予感が頭をよぎる。
「とりあえず折り返し電話する。少し待て」
私が頷くと、茶柱先生は携帯を取り出す。
坂柳先生のほうも私が到着するのを待っていたのか、先生が電話をかけて繋がるのはすぐのことだった。
手渡された先生の携帯端末。
その画面には確かに理事長の名前がある。
「……もしもし」
「こんにちは、ひまりさん。急に呼んでしまって悪いね。本当なら世間話に花を咲かせたいところだけど、そんな時間もない。単刀直入に本題に入るよ」
普段は穏やかで落ち着いた口調から、今は少しの焦りが伝わってくる。私は思わず唾をごくりと飲む。
「―――ああ、その前に茶柱先生はそこにいるかな? すまないが内密な話だ。席を外してもらって欲しい」
私はちらりと視線を向ける。
それだけで茶柱先生は意図を汲み取り、廊下へと出ていった。私はドアとは逆方向の壁際まで移動して、ここでの会話がなるべく漏れないよう配慮する。
「茶柱先生には離席いただきました」
「悪いね。それで本題だけど、―――近々、僕はこの学校の理事長の任から下ろされることになる可能性が出てきた。まずはそれを君に伝えたかった」
「……何かあったのですか?」
「建前では、学校側が規定している入学制度。それを無視するような形でひまりさんを強硬的に入学させたこと、それに対するケジメということらしい」
「それは、申し訳ありません……」
「謝る必要はないよ。さっきも言った通り、これはあくまで建前だ。ひまりさんに責任があるはずもない」
建前であることを、先生は強調する。
それでも申し訳なくなる私。とはいえこれ以上謝って時間の浪費はせずに、私は大人しく次の言葉を待つ。
「建前ということは本当の理由が存在する。これが今回の本題なんだけど……」
「……何やらきな臭い予感がしてきました」
「―――鋭いね。正直、この学校の存続さえ危ぶまれるような事態になっていると言っていいかもしれない」
坂柳先生は悪い冗談を言う人じゃない。
私は何があったのかと考えを巡らせる。
「そもそもこの学校、そしてホワイトルームが作られた背景についてひまりさんは知っていたかな?」
「はい。存じています」
日本の少子高齢化に端を発した人材不足に対して、与党が打ち出した施策だったと私は聞いている。
発起人は現総理大臣の鬼島先生だ。
ただ、与党も当然に一枚岩じゃない。
様々な手法が検討され、表向き、最終的にはこの学校が国の政策の一環として建てられ、ただその裏ではホワイトルームの計画が始まっていたらしい。
「それは良かった。早い話が、この学校のこれまでの成果について疑問を呈する人が増えているんだ。これまでの歴史の中で数多くの著名人を輩出しているものの、それが投じた額に見合っているのかとね」
以前からそうした話は度々耳にしていた。
でもこれまで、そうした批判の声はほとんど黙殺されていたはず。当然だ。政策として打ち出してしまった以上、簡単に引っ込みのつく計画じゃない。
一方で成果が出てないわけじゃないから、しばらくは国民を騙しながら運営される―――そう思っていた。
だけど坂柳先生は私の考えを間接的に否定する。
それについて思い当たる節が1つだけあった。
「……まさか私のせいですか?」
「いや、ひまりさんのせいじゃない。それは断じて違う。ただ―――そうだね、ひまりさんの仕事の影響で、与党の上層部の中でも意見が割れている」
「私の仕事が、かえってホワイトルームの有用性を証明しつつあるから。……そういうことですよね?」
帰ってきたのは長い沈黙。それが、答えだった。
私はつい嘆息する。
私のアプローチによって社会復帰した、元ホワイトルーム生の子どもたち。その彼らが政府の斡旋した仕事に就いて成果をあげることは、間接的にホワイトルームの成果を示すことになると分かってはいた。
でも私が仕事を始めてから7年が経っている。
今になってそれが意見を割らせる要因になったことには、何か他に働きかけがあったと考えるべきだ。
「…………僕は正直、ひまりさんにこの事実を伝えるのを躊躇っている。だけど僕が言わなくても、じきに政府の人間がひまりさんに決断を迫るだろう」
「決断、ですか」
坂柳先生は重々しく頷いた。
電話だからその姿が見えたわけじゃないけど、それが脳裏に浮かぶような間を開け、先生は話を再開する。
「―――現状、ホワイトルームには致命的な問題がある。子どもたちの精神を壊してしまうこと、その解決策が、ほとんどひまりさんに依存してること」
私はそれに同意する意味で首を振った。
「その属人化を解消するため、精神状況が良好なホワイトルーム生に対してノウハウを提供して欲しいという声がひとつ。これはまだ穏健な考え方だ」
「……私自身、これをこうすれば解決しますよっていうのを言語化できていれば。それに相手の子がそれを望んでいるならとっくにそうしていますよ」
簡単に教えられるような程度のスキルだったなら、私もこれまで、1人で突っ走ってなんかしていない。
「そうだね。だからこういう声も多い―――」
そこでまた、しばらく先生は黙り込む。
おそらくここが先生の渋る原因なのだと確信する。
「先生?」
「……すまないね。その、言いにくい話なんだが…………早いうちに子どもを作ってもらうのはどうかと、そんな非人道的な考えも今は強まりつつある」
「綾小路くんのお父さんが根回しでもしましたか」
ちょうど先週、私は綾小路先生からそれに近しい―――卵子の提供について、断ってきたところだった。
この流れを偶然と考えるには出来過ぎている。
「……そうだね、綾小路先生が裏で動いているみたいだ。そしてこの話が僕の謹慎にも繋がってくる」
謹慎になれば必然、理事長の席が空く。
「今の綾小路先生なら、そのポジションに、ホワイトルーム側から人を送り込むことだってできそうです」
「そうだね。ただ学内にいる限り、ひまりさんに直接、危害を及ぼす真似はしてこないはず。ただ―――」
「……ただ、なんですか?」
「……ただ、恐らくこの学校は大きく揺るがされる。ひまりさんが要求を呑まない限り、他の生徒が何人も退学してしまうような試験も厭わないだろう」
その日いちばんの衝撃に、私は絶句する。
それは最も効果的な脅しだった。私がホワイトルームに協力しない限り、無関係な人が巻き込まれる。
ギリっと、私は奥歯を噛み締めた。
手のひらに食い込んだ爪が薄皮を突き破る。
「そんなの、高育側が認めるはずが……」
「理事長である僕がひまりさんの入学にあたって不正を働いた疑惑。これがある限り、ホワイトルーム側に強く出られない。高育側は新たな試みという建前で厳しい試験作りを容認するしかない考えだよ」
「っ、そんな―――何か手立ては……!」
焦る私を宥めるよう、先生は言葉を続ける。
「当然、こちらもやられっぱなしじゃない。ひまりさんのお父上が上の人たちにかけ合ってくれて、新たな制度を導入することが決まったんだ―――」
その詳細は、この場では明かされなかった。
公平性の観点から直接は教えられないと。
ただすぐに分かるというその後の坂柳先生の言葉通りに、翌々日には、新たな特別試験が発表された。