遡ること、2週間ほど前。
干支試験を終えて、船の上から高育の寮に戻ってきた私に待ち構えていたのはお父さんからの電話だった。
「もしもし、お父さん?」
『おはようひまり。今、時間は大丈夫かい?』
私はちらりと机上の時計を見た。
予定がないと言ったら嘘になるけど、船の上には仕事用の端末を持っていけなかったこともあって、政府の動向について気になることが山積みだった。
「大丈夫だよ。でも1分だけ待ってて」
それだけ伝えると、私は急ぎ、待ち合わせの相手に遅れる旨を連絡する。私から誘ったこともあって申し訳ない気持ちだけど、今回ばかりは仕方ない。
手早くやり取りを終え、私はお父さんの話を待つ。
「ここ2週間で情勢が大きく変わりつつあるからね。まずは簡単に整理したい。聞いてくれるかい?」
「うん、私も聞こうと思ってたから」
「じゃあまずは確認だ。ひまりと綾小路くんが高育に入学するまでの大まかな動きは覚えているかな」
「子ども扱いしないでよ。覚えてるよ」
私が不服を伝えると、お父さんは微かに笑った。
まず大前提に高育とホワイトルームがある。
前者は鬼島現総理が選任される以前から推し進めていたものであり、後者はすでに退陣された直江元幹事長が立案、そして綾小路篤臣に委託したもの。
両者の派閥は対立関係にあると言っていい。
というのも、双方の施設を長期間運営するには予算が足りない。だから将来的に片方は必ず閉鎖される。
そしてこの盤面において、有利は高育側にある。
世間からの認知度の問題だ。
ホワイトルームは無くなっても与野党内の権勢が大きく変わるだけで済む一方で、高育はそうはいかない。畳むには説明責任が生じるし信用も毀損する。
そういった保守的な考えがあって、そこにホワイトルーム派の強力な後ろ盾になっていた直江元幹事長が退陣したことも重なり、更にはダメ押しで私の仕事を介して築かれたコネクションの影響があった。
ここまでが綾小路くんを連れ出すまでの背景だ。
「なら次の段階だね。ひまりと綾小路くんが入学してから今日までの間に、綾小路先生に協力する者が現れた。それが月城だ。彼は直江元幹事長に近しい立場だったから、その影響力は今も軽視できない」
「そこに私の仕事の影響が重なった、だね」
私の仕事が間接的にホワイトルームの成果の証明をした。それを高育のこれまでの成果と比較され、高育側の権勢はここ数ヶ月でわずかに縮小傾向。
「加えてひまりと綾小路くんを不正入学させた疑いもあって、坂柳理事長は謹慎。月城理事長代理は高育の成果を上げるという建前で従来より厳しい試験を提案。こうして今に至るところまで大丈夫かい?」
「うん、納得したよ」
「その上でひまりに悪いニュースだ。先の船上試験では試験結果を改竄しようとする動きが見られた。今回は未然に防げたけど次はどうなるか分からない」
その報告に、私はひゅっと息を吸った。
「……まあ、こっちは何とかしてみせる。ひまりはひまりのために試験を頑張って。分かったかい?」
「…………うん、分かった」
「良い子だ。先の試験もよく頑張っていたね」
「ちょっとだけ、失敗しちゃったけど」
「高円寺くんのことかい? ははは、あれは仕方ない。高円寺コンツェルンの一人息子の自由奔放さは耳にしている。ひまりが気に病むことではないよ」
……初耳だ、親同士に繋がりがあったなんて。
世間は狭い。
「最後にだけど、今後は、ひまりと仕事以外の連絡をとるのは控えめになる。坂柳理事長同様に難癖をつけられたくないからね。代わりの連絡先としては今後、高育に人を遣わす予定だから安心しなさい」
それを最後に、お父さんとの通話は切れた。
これが、私と月城理事長代理の関係性。
そんなのここちゃんに言えるはずないって、それが半分正しくて半分違ってることに、私は後で気がついた。
*
ここちゃんとのデートは気まずいまま終わった。
寮に戻った私は、帰り際に見せられた表情を脳裏に浮かべて玄関でうずくまる。失敗した。そう、思った。
ここちゃんはたぶん、私のことを知りたかった。
それが一番現れていたのが最後の質問。
私はそれに、満足に答えられなかった。
仕方ないじゃない、と悪い私が耳元でうそぶく。
月城理事長との関係なんて言えるはずがない。
私の、どろどろの事情に巻き込めるはずがない。
だけどやりようはあったはずだ。
例えば試験から帰ってきた日、お父さんとの電話後、私は待たせていた各クラスのリーダーと集まった。
もちろん私の身の上の話はしていない。
でもあくまで、仮定の話として、試験結果が改竄されることがあったらどうするか―――そんな話はした。
その集まりに、ここちゃんを連れて行ってたら。
「……ここちゃん、今どうしてるかな」
映画の話も避けてくれた優しい子だ。
きっと映画観たあと、その話をしたかったはずなのに。そのために、お昼ご飯を食べる前に映画を観るっていう順番を、予定を組んでくれたはずなのに。
ここちゃんは、聞かないでいてくれた。
私が話したくないのだと察して、きっと何度も飲み込んでくれた。
なのに私は、それに甘えた。
言えないことは言えないから仕方ないと思った。
「……最低だ、私」
膝に顔を埋める。
このまま明日になれば、きっと私はまた考える。
ここちゃんを巻き込まないためには、このまま何も言わない方がいいんじゃないかって。そうやってもっともらしい理由を並べて、私は逃げてしまう。
「だめ、……だめだよ私、こんな弱気じゃ」
ぱんっ、と鼓舞するように両頬を叩く。
砕けそうになる足に力を入れて立ち上がる。
今ならまだ間に合うかもしれない。
今日のことを、今日のうちに話したい。
明日になってお互いに何事もなかったように振る舞ってしまう前に。ここちゃんが「もう何についても聞かない方がいいんだ」と、諦めてしまう前に。
話せないことは話せない。
それでも、ここちゃんに伝えられることはある。
「……行かなきゃ」
私は鞄を放り投げて自室を飛び出し、ここちゃんの部屋までひた走る。
言わなかったという過去は取り消せない。
言えない事実は変わらない。
でもちゃんと、向き合うべきだ。
言えないなら言えないなりに、言うことがある。
さっきはそれを咄嗟に返すことができなかった。
だからこそ―――今度こそ、それを言おう。
エレベーターを待つ時間すら惜しくて、階段を駆け上がる。普段なら廊下を走ったりなんかしないけど、今だけは、そんなことは気にしてられなかった。
ここちゃんの部屋がある階に辿り着く。
そこから先も迷わず足を動かして―――目的の部屋が目前に迫ったところで、私は歩調を緩めて息を整える。
それでも心臓はうるさいままだった。
おそるおそる右手を持ち上げる。
一瞬だけ、無意識に止まってしまった指先。
だけど覚悟を決めて、私はインターホンを押し込む。
「……ひまちゃん?」
少しの沈黙のあと返ってくる力ない反応。
それからまた少しして、恐る恐るとドアが開く。
「ごめん、ここちゃん」
開口一番に私はそう伝えた。
ここちゃんは目をぱちぱちとさせ、私を見つめる。
それは続きの言葉を待っているかのようだった。
私はごくりと喉を鳴らした後、言葉を繋ぐ。
「さっきの質問なんだけど……月城先生と私の関係については、今は話せない」
ここちゃんの表情が僅かに曇る。
「……ごめん。でも……これは、ここちゃんだから話せないわけじゃないの。それだけは分かってほしい」
「…………」
「ここちゃんを信用してないわけでもない。むしろ、その……巻き込みたくなくて。だから私は―――」
勢いのまま言葉にしてから、それはここちゃんにとっては、言い訳にしか聞こえないことに気付く。
案の定、ここちゃんの表情は晴れなかった。
だけど俯くことなく、その瞳は私だけを見ている。
「……私ね、今日すっごく楽しみにしてたんだ。初めて、だよね。ひまちゃんと2人で遊べるのが嬉しくて、どんな映画なら楽しんでくれるかなとか、どこでご飯食べようかなとか、昨日もずっと考えてた」
「……うん」
「今日も楽しかったよ。本当に楽しかった。ひまちゃんも楽しそうにしてくれて……それは、嬉しかった」
そこで一度、言葉が途切れる。
「でも、映画が終わった後は、ひまちゃんがすごく遠くにいる気がした」
「…………」
「何回呼んでも返事してくれなくて。やっと気付いてくれたと思ったら、映画のこと考えてたって……でも、たぶん違うんだろうなって、すぐ分かった」
その声音に、責めるような意味合いはなかった。
それでも私は、反射的にごめんと呟く。
「謝ってほしいわけじゃないよ」
ここちゃんは困ったように笑った。
「ひまちゃんは……その、悩んでることを、相手が誰であっても言えないって言ったよね」
「……言った」
「それならそれで、別にいい。誰だって知られたくないことはあるもん。私にもある。……でも、だからって1人で全部抱え込んじゃったら壊れちゃうよ」
視界の端で、ここちゃんの手が握りしめられる。
「内容が言えなくても、隣で寄り添うことはできる。その方がきっと楽だって思うのは、私の自惚れかな」
「違う!」
気が付けば、私は反射的に叫んでいた。
「……全然。全然、自惚れなんかじゃないよ」
「それなら、何も言えないことを、何も言えないけどって言って頼っていいんだよ。……ううん、頼ってほしい。それが私の自惚れじゃないなら、ひまちゃんの力になれるなら、私はなんだってしたいよ」
ここちゃんの泣き笑いが私の虹彩に焼き付く。
……それは、考えてもみなかったことだった。
私の中にあったのは話すと話さないの2択だけで、話せないことを話すなんて選択肢は見えていなかった。
「……私ね、ひまちゃんのことが好き。自己紹介の時に助けてくれてからずっと好き。クラスを引っ張って、他のクラスと戦っててすごく格好良かった」
その消え入りそうな告白に、私は思わずここちゃんを凝視する。
その視線に気づいてここちゃんは少しはにかみ、だけどそのすぐ後には、その表情は真剣なものに戻った。
「でもそんな私ともここでお別れ。憧れを引きずってたら、対等な関係になれないって思うから。だから今日からはまた、友達として付き合いたいな」
それは、過去の自分との決別の言葉。
生半可な覚悟でできることじゃないと私は感じる。
「……なら、わがまま言っていい?」
だからこそ私は言葉に詰まらなかった。
今の私がここちゃんのためにできることは、何だろうって、そう考えたわけじゃない。ただここちゃんの覚悟に呼応するように、私も1歩前に踏み込む。
「言えないことは、今も言えないままだけど、……それでもここちゃんがいいなら、胸を貸してほしいな」
そのお願いに、今度こそここちゃんは微笑んだ。
曇らせ回避