2話目
「──僕に、何か用事ですか?」
「そう警戒するなよ。少し、近くで見てみたくてね♠︎」
近づいてくるヒソカの歩幅に合わせて僕も下がる。
僕の過剰なまでの警戒心は、この男の異常なまでの戦闘力が理解できてしまう故だった。
対面しているだけで冷や汗が出てくる。
甘かった。想定があまりにも甘過ぎた。
念を覚えて、天空闘技場に出場するのだ。ヒソカに出会う想定くらいはしていた。でも『知り合い』になる事ができれば、もしかしたらポイントを貰えるかもしれない。もし知り合いになれなくても、その時はしょうがない。
なんて、その程度の甘い見積もりしかして来なかった事を、いま僕は本気で、死ぬほど後悔してる。
禍々しいほどに練られた念。
オーラは性質を現すと言うが、これほどまでに、本能に訴えかけてくるほど恐ろしい物だとは思ってもいなかった。
見つかってはいけない。出会ってはいけない。興味を欠片でも持たれてはいけない。
この男は、そういう存在だ。
僕の中の警報器がガンガンと警鐘を鳴らし続けている。
いま戦えば絶対に勝てない事が理解できてしまう。
この男の念能力が想定通りなら、『隠』に警戒する必要があるが、戦闘を行いながら『凝』をする技術が僕にはない。
ヒソカ相手に、ぶっつけ本番で試す? あまりにも絶望的過ぎて冗談にもならない。
果たして逃げ道を塞がれた場合に、僕は生き延びる事が出来るだろうか。
「くっくっく。良い反応だ♥まるで小動物だね」
僕の警戒心すら、この男にすれば狩りのスパイスに過ぎないのだろう。
じんわりと流れる汗が頬を伝う、一瞬でも目を逸らせば殺られる。
その思いでヒソカのオーラをつぶさに観察し続けた。──思考が完全に醒めていく。ヒソカの能力は暫定だが原作から掴めている。今ばかりは原作の知識を信じて、『隠』と接近に最大限の警戒を置いておく。後の2割の意識を、無意識に置いた。万が一の想定外に、反射的に動けるように。
「……安心しなよ。極上の果実を、こんなところで擦り潰すほど、僕はおもちゃに困ってはいないから♣︎」
それでも警戒は解けない。
僕のことを瞬殺可能な相手の、殺害圏内に、いま僕は入ってしまっているのだから。生殺与奪権を、ヒソカに握られたまま安穏とする? 見逃されることを期待する? ……無理だ。決定を相手に委ねるなんて怖すぎる。一瞬でも隙があれば逃げる。そのつもりで、ヒソカを観察し続ける。
「……でも、キミは期待外れだったかな」
その言葉に、ドクンと心臓が跳ねた気がした。僕は期待外れ? 才能がない?
──媚びた方が。
不意に過ったその思考を、思い切り握りつぶした。
そんなの御免だ。生き恥を晒すくらいなら、死を選ぶくらいのプライドは僕にだってある。
「美味しく育つなら、生かしておく価値はあるけど……」
ヒソカが楽しそうに思案する。
言葉に意味はない。この男にとって言葉は遊びでしかないと理解した。僕は、生き延びるためにいま出来ることを、出来る限りやる。
だが、この状況で『
一瞬でも目を逸らせない。
いまある手札で、どう戦う。
逃げるために『電光石火』を使うべきか。いや、何がトリガーになって気を惹くか不明だ。不用意に動くことは出来ない。
全力の『練』をするべきか。いや、それも控えたい。万が一にもヒソカの気を惹きたくないし、何より意味がない。
念を覚えて1週間ほど。
そんな程度の低い『練』なんて、ヒソカに比べれば児戯にも等しい。ヒソカのオーラを見れば本能で理解できる。これはもう、いまの僕がどうこう出来るレベルじゃない。百害あって一利なしだ。
──それでも『練』を使って安心感を得たい。その欲求に抗うために、僕は必死に唇を噛み締める必要があった。
考え込むように「んん〜♥」と言いながらにんまりと笑みを浮かべているヒソカが。
僅かな間が空けて、
「うん♣︎……せっかくだし。──ここでヤるのも、ありかな♠︎」
にんまりと深い、あまりにも深い笑みを浮かべたヒソカが、一歩すら動いていないのに急激に近くに迫ってきたかのような体感を得る。
──ヒソカの、殺意の籠った『練』だった。
ゾクゾクゾクと総身に走る怖気は、もはや命に一刻の猶予すらないと思った身体の過剰反応だった。
最初はその気はなかったかもしれない。
でも今、ヒソカは、本気だ。その確信があった。
──間延びした時間の中で、思考は目まぐるしく加速した。
『
電気のタメを挟まなければ起動できない。その隙があまりにも長い。長すぎる。発動の予備動作と同時に首が飛んでいても不思議ではない。
『練』でせめても防御力を上げる? 無理だ、顕在オーラが桁違いすぎる。僕の『堅』では、ヒソカの『凝』すらガード出来ない。
なら座して死ぬのか。──いや、それだけは許せない。
僕の憧れたウヴォーギンなら、喜んで前に踏み出す。獣染みた、笑みを浮かべながら。
──発想の転換、というべきかもしれない。
逃げ一辺倒だった思考に、一筋の光明が差すように。
地獄に垂れた、一本の蜘蛛の糸に、必死でしがみつくように。冷静に考えれば蜘蛛の糸などすぐに切れてしまう。なのに縋り付いてしまうように。
極限の状態では、その一瞬の光明が明暗を分ける。
身体は反射的に『前に』飛んだ。
ヒソカの、悍ましいまでのオーラに気圧されながらも、ゾクゾクとした痺れが腹から湧き上がってくる。
僕の口元は弧を描いている。引き攣っていない自信はない。
だけど、確かに、いま僕は笑っていた。
理由なんてない。勝てる見込みもない。だけど、笑みが溢れて止まらない。
「──『
バチリと電撃が身を覆う。
継続時間は僅かに10秒。この時間で、圧倒的な格上であるヒソカ相手に、どう戦えばいいのか。
答えはない。最善手など存在しない。
少しでも多く、拳を打ち込む。ただそれだけが、いま僕に出来る事。
喉が割れんばかりに声を上げる。
恐怖を振り払うように、勇気を腹の底から引っ張り上げるように、震える身体を叱咤するように、声をあげて拳を振り抜く。
目を見張ったヒソカの頬に、飛び上がった僕の拳が突き刺さる。
雷速となったおかげなのか、それともあえて受けたのか。僕には察することができない。
それでも、一撃が入れば感電させられる可能性があった。
宙に飛び上がったあとは、可能な限りの拳を打ち込みまくる。
オーラの攻防力移動はお粗末としか言いようがない。だから『練』の状態で、ひたすらに殴り続ける。
『凝』すらしていない拳を、
念能力者と戦うのなんて、これが初めてだ。
ダメージを与えられているのかどうか。オーラを削れているのかどうか。そんなの察しようがない。
でも、筋繊維の震えが、電撃によるものだと理解することは出来る。ヒソカが能力を使えば、ゴムの能力で絶縁される可能性がある。
だけど、もしそうなったとしても、ヒソカの初動が、身体を動かそうとする起こりが、感覚的に見える。いまこの瞬間だけは、僕の時間だった。
圧倒的な格上を、ひたすらに殴り続ける快感と、この怪物が始動し始めるであろう未来への恐怖。
その二つが混在する中で、僕はひたすらに拳を叩き込み続けた。その度に、腹の奥底から湧き上がる、言葉にすら出来ない高揚を感じながら。
──素晴らしい。
その思考は、至極当然のものとしてヒソカの脳裏を痺れさせた。
天空闘技場の舞台の上にいる、この少年をみた時。
ヒソカの食指は震えるほどに動いた。だが、足りない。圧倒的に足りないものがある。
他を圧倒するほどの才能。
溢れんばかりの才能を、無に帰して余りある欠点が。
青い果実が、熟さずに腐った結末を見ることほど虚しいものはない。ステージに上がることすら見るに堪えない者が、かつての才能が腐り果てた姿ならば、それはもはや冒涜的とすら言える。
それならいっそ、腐り堕ちる前に、青い果実として味わい尽くすのが、せめてものマナーというものだろう。ヒソカはそう確信している。
それでも言葉遊びを含めたのは、余りにも惜しかったからに過ぎない。もし、万が一でも美味しく熟すのなら、いま食べてしまうのは勿体無い。
そう思わせるほどの才能は、即座に刈り取る選択肢をヒソカに与えなかった。
自らの観察眼に絶対の自信を持つヒソカが、そうであって欲しいと色気を出したくなるほどに、その才能は魅力的だったからだ。
そして、少年は生死の境目で、ようやくその才能の片鱗を開花させた。
あまりに遅い。だが悪くはない。ヒソカにとって、果実が熟すのであれば、どのような焦らしも我慢も楽しみの一つ。
積み上げて、積み上げて、積み上げて。最後に崩れ落ちた熟した果実を、この手に納めるまでの、素晴らしい余興。本番を迎えるまでの、待ちの時間も、ヒソカは嫌いではなかった。
だからこそ、いま、まさにこの瞬間。
果実が美味しく熟していく様を、身体で感じながら、ヒソカは絶頂に居た。
──素晴らしい。
その一言に、ヒソカの全てが集約されていた。
時間とは有限だ。
10秒という時間は、余りにも儚く過ぎ去った。
最後の一撃を、拳で腹に叩き込み、反動で退いた。
ヒソカが復帰するまでに一秒あるかないか。その時間でどの程度の距離まで逃げられるのか不明だ。
でも、この場でオーラと充電を消費し尽くした状態で居るよりはマシ。
そう判断して、残ったオーラと充電を完全に消費し尽くすつもりで、僕は脱兎の如くその場から離脱する。
去り行く僕の耳に、聞こえるはずのない声が、聞こえた。
「──ヤリ逃げ、っていうのも、悪くはないね♥」
背筋を震わせながら、全速力で、僕は逃げ出した。