水に濡れても使える紙があることを、ご存知だろうか?
どこかの誰かが開発した優れ物で、何とこれを使う事でお風呂でも勉学に励む事が出来るのだ。そう、今まさに俺は街の銭湯でそれを使用している。
何という機能性!流石にお風呂の中でペンで文字を書いたりは出来ないが、過去に記載した内容の振り返り程度であれば問題なく行える!時代はここまで進化したのか!思わずその場で小躍りしたくなるくらいだ。
──ミナト、お風呂の湯船には100秒間は浸かりなさい。
ふと、姉の言葉が甦る。小さい頃、まだ一緒にお風呂に入っていた時は口を酸っぱくして言われていたっけ。俺も俺でその教えを今でも律儀に守っているのだが、こと銭湯でもそれは同じだ。それにしてもこの銭湯、お客さん全然いないな…。
(98…99…100…!)
姉の教え通り、心の中で100数え終わった瞬間に思いっきり湯船から飛び上がる。ふふ、これで体はポカポカだ。後はコーヒー牛乳でも飲んで待合室でまったりでもしてようか──。
「──おい」
なんて思っていた時、隣から背筋が凍るようなドスの効いた声がした。完全にヤ○ザの声だった。その界隈の人の声質だ。
「水飛沫がかかっただろうが」
「あ…ごめんなさい…」
声の主の方へ顔を向けて謝罪。そこには髪を肩くらいまで伸ばした男が、湯船に肩まで浸かりながら目だけを俺の方へ向けていた。
…やけにガッシリした体つきをしてやがるな、この人。喧嘩とかめちゃくちゃ強そうなんだが。もしかして、とんでもない人に粗相をしちゃった感じか…?って、よく見たら刺青入っとる…!完全にそっちの道の人だ…!
「どこのモンだテメーは?」
「あ…アイムスモールシティズン…」
「あ?」
目がヤバい。下手なこと言ったら
「善良な高校生です」
「学校…行ってんのか…」
「あっはい!宿題とかあるんでお先に失礼します!」
こんな怖いヤツがいるお風呂に長居なんて出来るか!冷や汗で湯冷めしてきたわ!さっさと上がってコーヒー牛乳だけ買って帰ろう。
身が持たないと判断し、ジャバジャバと湯をかき分けお風呂から退散しようとする。すると、グワシッと背後から腕を掴まれた。サーっと血の気が引くのが嫌でも分かる。あれ?もしかしてここで死ぬ?
「そう焦るな。フルーツ牛乳でも飲んでけ」
出てきたのは予想の斜め上を行く平和な言葉。
あ、オッサンはフルーツ牛乳派なのね…。
風呂上がり、ポカポカになった体に流し込むはキンキンに冷えたコーヒー牛乳…。それが銭湯随一の楽しみであり、幸福の時間でもある。
「んだよ…フルーツ牛乳品切れかよ…」
今この時を除いては…。
一緒に湯船から上がり濡れた体をタオルで拭き、服を着てから銭湯のロビーにやって来た。本当はそそくさと帰りたかったところだが、こんなヤ○ザみたいな人に捕まったら「それじゃあお先」なんて言える筈も無い。
今の俺は無抵抗な小動物…!変に粗相を起こさないように、この場を乗り切るしかない…!頼む姉さん、力を貸してくれ…!
キュポンと音を立ててコーヒー牛乳の蓋を取り、2人してゴクゴクと飲み進める。うわ、こんなにも味を感じないコーヒー牛乳なんて初めてだ。
「たまにはコーヒー牛乳も悪くねぇな。うめぇ」
オッサンが言う。アンタはそうでしょうね。少しはこっちの身にもなってくれ。瓶を持つ手とか震えてんだわ。番台さんと目が合うがすぐに逸らされる。もうヤダ…。
「そういや高校生とか言ってたな。どうだ?学校は楽しいか?」
「ええまぁ…勉強とかやってて面白い…」
親戚のおじさんみたいなこと聞いてくるやん…。何で会って数分の若者にそんな質問が飛び出してくるんだ…?
「俺は堅苦しいことは嫌いだけどな、理論を突き詰めるのは性に合ってンだ。今もとある実験を日々…いや、テメェには関係ねぇか」
「ええまぁ…」
はいウソ。アンタみたいなゴリゴリの悪みたいな人が、フラスコ片手に実験とかしてる訳がない。なーんて思っても口には出せないけどね。
あ、コーヒー牛乳が空になった!そしたらもう解放してくれるよな?何されるか分かんないからさっさとこの人の傍から離れたいんだけど…!
「1本じゃ足りねぇよな。2本目買ってくるわ」
コンティニューだ…!1本で満足してくれよ…!俺ももう1本買うはめになるじゃねぇか…学生の財布の薄っぺらさ舐めるなよ…!
そうして買ってきた2本目のビン。今度は一気に飲み干して大きく息を吐く。この時間は一体なんなんだろうと思い始めてきた。
「何でお前はわざわざ学校に行ってまで、勉学に励むんだ?」
オッサンからの質問に、思わず顔を上げてそちらを向く。オッサンは空になったビンを見ているようで、その瞳だけは俺の方に向けていた。
勉強を頑張る理由…。理由か…。それは姉の教えだから。小さい時から姉には、勉強をしてお給料の良い企業に勤めなさいと言われていた。姉の言葉が原動力ではあるけど、何故姉はそんな事を言ったのか。オッサンが聞いているのはそういう真意の方だ。
俺が勉強をしている理由、それは…。
「自由な未来を保障する為だよ。俺…俺達は不自由な環境で生きてきたから、大人になったら自由な世界で生きたいってずっと思ってた。その為にはある程度の資金力が必要だ。無学のままじゃ豊かにはなれない。それが理由」
ほぅ…とオッサンが小さく漏らした。その後、底に残った僅かな飲み残しを喉に流し込みスっと立ち上がる。
「その考え方は嫌いじゃねぇな。まだケツの青いガキだが、ちゃんと先を見据えてやがる。立派なもんだよ」
ケツ…見られてたのか…。もしかしてそっち系の人だったり…?いや、変な事を考えるのはよそう。今は多様性の時代なんだから。
オッサンは俺の分の空きビンも捨てて来てくれた。何だか解散の雰囲気があるので俺も立ち上がり、靴箱から自分の靴を取り出しておく。
「名前は?ここによく来んのか?」
オッサンはブーツを履きながらそう聞いてきた。
「ミナト。ここに来たのは今日が初めて」
「そうか、俺ァ双城ってんだ。また顔合わせたら、そんときゃ一杯交わすか」
「俺まだ未成年だけど」
「今度はフルーツ牛乳でだ」
んじゃな、と双城とかいうオッサンは手を振りながら街の中へ消えていった。その背が完全に見えなくなってから、俺は緊張の糸が切れたかのようにその場にへたり込んだ。
「ぶふぅ…!しんどかったぁ…」
とりあえず何事も無くこの場を切り抜けられたことに安堵する。あの双城って人、何となく目がやばかった。それにあの刺青…カタギなんかでは絶対に無い。水かけた時は終わったかと思ったけど、何とかなったな…!
チラリとさっきまで居た銭湯の看板を見る。おし、ここには二度と来ないようにしよう。そう決めて俺も目的地へと向かった。
○
"喫茶ハルハル"…街中にこじんまりとしたスペースで営業をしているカフェ。柴さんにそこに行くよう伝えられていた俺は、看板を見つけ扉を開ける。
「いらっしゃませ〜…って、ミナトじゃん!」
「ヒナオさん久しぶり〜。元気してた?」
「うん、元気元気!」
バーカウンターの所から、快活な声を上げこちらに駆けてくるのはヒナオさん。ヒナオさんはこの喫茶ハルハルで情報屋をしている。
今の日本は刀社会、帯刀が許されている。そのせいで治安が悪化しているというアホな事態にも陥っているが、そんな中で身を狙われるのは大企業のお偉いさん。お金を沢山持ってる偉い人たちが自分たちの身を守る為にすることは、"妖術師"を雇うこと。そんな妖術師と身を狙われる人を繋ぐのがヒナオさんの仕事だ。
妖術師とは、妖術っていう人間離れした力を使える人達のこと。常識の外側にいる人たち、要するにめっちゃ強い人。一応俺もそれに当たるのかな…?国内にも大勢いるので、妖術関連で事故や事件が起きることも少なくない。
「あれ?少し見ない間にまた背伸びた?アンタいつまで成長期やってんの?」
「男子3日会わざれば刮目して見よってね。前の俺とは違うのだよ、主に偏差値とか」
「ま〜た賢ぶってる〜」
「賢ぶってるとは何だ!」
ツンツンとヒナオさんに二の腕をつつかれる。ヒナオさんとは、柴さんの紹介で繋いでもらった。俺も姉の行方を追っていたから、この店にも度々足を運んでいる。明るくて話しやすい良い人だ、ヒナオさんは。
「東京まで来てたんだな、ミナト」
ヒナオさんと乳繰りあっていると、俺の名前を呼ぶ声がする。そちらに顔を向けると、黒髪の短髪に赤い瞳、黒のロングコートに身を包んだ男が俺の方を見ていた。
「まあね。相変わらず死んだ魚みたいな目してるな、チヒロ」
「お前こそ、まだその似合ってない伊達メガネしてたのか」
「ふっふっふっふ」
「……」
プチンと俺の中で何かが弾ける。
「表出ろやオラァ!!その鬱陶しいコートビリビリに引き裂いてやんよ!!」
「1人で行けよ、寂しがり屋か?」
「ま〜たこの2人は…いつまで経ってもガキね…」
後ろからヒナオさんのため息が聞こえる。だってチヒロが生意気言うんだもん。ボケーッとした面で意外と口が達者だからなコイツは。気付けばいつもみたいに取っ組み合いになっているのだ。
「テメ!学ランのボタン取れちゃっただろうが!」
「そんなの勝手に直せ。お前じゃ無理だろうけど」
ムカつく野郎ではあるけどね!
ヒナオさんに場所を落ち着かせてもらい、カウンター席に座って出してもらったコーヒーを飲む。隣ではチヒロがグラスに注がれた水をゴクゴクと飲んでいた。
「…んで、柴さんに呼ばれて来たのはいいけどさ。何かあったの?」
「ああ…ちょっとな…」
グラスに目を落としながらチヒロが言う。含みのある言い方だな。それに、体の所々に新しめの傷がある。何だかきな臭くなってきたな。
「親父さん関連だな、手がかりになりそうな事でもあったか。それかアイツらに繋がりそうな誰かが見つかったとか?」
チヒロの肩が僅かにピクついた。ビンゴか、分かりやすいやっちゃな〜。
「勘だけは鋭いよな、ミナトは」
「だけとはなんぞや…!とりあえず何があったか教えてよ。妖刀を抜いた事についてもな」
チヒロとヒナオさんからの話はこうだ。
先日、ここ喫茶ハルハルに少女が来店。何者かに狙われているその子の保護を決めたチヒロ達は、様々な追っ手から少女を守っているとのこと。そしてその子を狙う奴らが、チヒロが探している人物と繋がっている可能性が高いという状況だ。
「…なるほど。追っ手から情報を抜き出しつつ、ヤツらへ繋がる道を模索しているって訳ね。──そんで、このちんちくりんが…」
「シャルです!!」
元気よく自己紹介をしてくれたのが例の少女。名前はシャルというらしい。聞くと、とある実験施設から1人で逃げ出してきたとのこと。
「シャルか、よろしく。俺はミナト」
「おねげーしやす!!」
「元気が有り余ってるな。後で俺とサッカーでもするか?」
「さっかぁ…?──する!!」
「よしキタ。後でボールだけ買ってくるからな」
サッカーがどんなモノなのか分かってなさそうだが、シャルは笑顔で答えてくれた。余った上着の袖をブンブン振り回している。何かの感情表現だろうか?まぁ子どもは元気が一番だからな。
「そうとなれば!乗りかかった船だ、俺もチヒロ達と一緒にシャルを悪いヤツらから守るよ」
「おぉ〜!それは頼もしい!」
「頼もしい〜!!」
「…いいのか?お前には別の目的とか、学校だってあるだろうに」
ヒナオさんとシャルが盛り上がっている中、冷静にチヒロは確認をしてくる。背負い込んでるな、相変わらず。背負った荷物にいつか押し潰されるんじゃないだろうか、この人。
「もしかしたら今回の件が、俺の目的にも多少なりとも繋がってくるかもしれないしな。勉強は普段からやってるから平気よ。それに、お前が守るって決めたんなら俺もそうするさ」
シャルを狙うヤツらが、もしかしたら楽座市について何か知っているかもしれない。姉さんを売ったあの男から充分な情報は聞き出せなかった。今は僅かな可能性でもいいから拾っていきたいんだ。それに、チヒロの目的とする毘灼関連についても何か分かることがあるかもしれない。
「ありがとう…ミナト…」
チヒロが薄く笑う。ま、チヒロはこっちから色々手伝ってやらないとすぐに1人でやろうとしちゃうからな。俺とチヒロの目的の方向性は似たようなところがあるから、持ちつ持たれつだ。
「よ〜し、そうと決まれば俺はボールを買ってくるぞ。シャル、ちょっと待ってな。お前にオーバーヘッドシュートを見せちゃる」
「おおお!!!なんだそれ!!!」
「良い子にして待ってるんだぞ!じゃな!」
シャルの頭をポンポンと叩いてハルハルを後にする。街の喧騒の中を歩きながら、これからの事を思う。
アイツ──姉さんが昔に愛していたという男が言う"楽座市"。チヒロの親父さんを殺した"毘灼"という妖術組織。そしてシャルを狙うヤツらもいる。
何だろう…気の所為だろうか…。何か大きなことが、これからこの国で起ころうとしているような気がするのは…。
○
「お買い上げ、ありあとあっした〜」
気の抜けるような声を出す店員のお辞儀を背に受けながら、購入したサッカーボールをクルクル回す。うん、我ながら良い目利きだ。素晴らしい仕上がりのボールを買えた気がするな。こいつを使って、シャルの有り余ってる体力を消費させてやるとするか。
…でもアレだな。シャルは狙われてるって言ってたな。ってことはあんまり外に出ない方がいいのか?いやでもボール買っちゃったしな。それに子どもがずっと家の中に居るのも可哀想に思えるしな。いやでも危険な事には変わりないからな。
そんな考えが頭の中をぐるぐる回り続けている。最終的な結論としては、誰か悪いのが来たら斬ればいいという事になった。うん、シンプルイズベストってやつだね。
「うお、考え事しながら歩いてたら変な路地裏来ちまった。どこだここ…?──ッ!?」
迷い込んだ路地裏の暗がり。そこで目にしたものに驚愕する。
そこには、人の死体が置き去りにされていた。
「んだよ…これ…」
和装に髪を結っている男の死体だった。見たところまだ若い…。が、肩から胴体にかけてバッサリと斬り付けられている。路地の壁にはベッタリと赤黒い血が付着していた。何だ…誰の仕業だこれ…?
「嫌な予感がする…」
そう口にした時だった。離れた所から爆音が聞こえてきた。何事かと思い、壁伝いに建物の屋上に飛び上がる。そこから辺りを見渡すと、ちょうど東側に煙が立ち昇っているのが見えた。…待てよ、この方向は…。
「ハルハル…チヒロ達がいる方じゃ…!」
脳が危機を悟った。俺は建物の屋根伝いにチヒロ達のいる方へ全力で駆け出す。まさかシャルを狙うヤツらが直接お店の方に…?場所が割れてたのか…どこかで見られてた…?
俺と合流するまでに、チヒロも数回追っ手と交戦したという。シャルと出会って僅か数日の間で連戦だったと。思っている以上に敵の数が多いのか…?それとも、誰か名の知れた妖術師が刺客を雇ってけしかけている…?悪い予想はいくらでも立てられる…。
その時、今度はビカッと光が発せられた。方角は同じ、チヒロ達がいる方。何だ今の光は…雷のような音も鳴り響いていた…。でも天気は別に悪くない…。人工的な雷ってことか?
「…──ってことは、やっぱ妖術師共の仕業か!」
足に込める力を更に強め、速度を上げる。襲撃してきたのが妖術師なら、相手はチヒロがしている。非戦闘員のヒナオさんとシャルを守りながらだと分が悪い。なら俺も参戦してチヒロの負担を減らさないと。
「
腰に差した白刀を解放し、
飛ぶように駆け、ようやく現場に到着する。ヒナオさんのお店の周りは酷い有様だ。建物の窓ガラスは割れ、地面も抉れている。妖術師の戦いが繰り広げられている何よりの証拠だ。
視線の先にチヒロは居た。既にボロボロの状態で、地面に膝をついている。だけど、チヒロの周囲には金魚が浮遊するように顕現されている。"妖刀"──
だが、そんなチヒロ目掛けて刀を振り下ろそうとしているヤツが居る。アイツだ、間違いない。アイツが襲撃してきたんだ。俺が外に出ている間に。
「チヒロっ!!!」
「あ?」
「…──ミナト!」
建物の屋上から飛び上がり、今まさにチヒロに斬り掛かろうとした男に向けて椿姫を振り下ろす。俺のことに気が付いた男は、持っていた刀を椿姫にぶつけてきた。キィンと甲高い音と火花が辺りに飛び散った。
刀をぶつけ合わせた敵と目が合う。どこかで見たことのある顔…。肩辺りまで伸ばされた黒髪がたなびいている…。見覚えのある服装…。
あの日の銭湯での出来事が一気に甦ってくる。俺は知っている。この男を見たことがある。こいつと話した記憶がある。
フルーツ牛乳が品切れで機嫌を悪くしていた。代わりに飲んだコーヒー牛乳が1杯だけでは足りずに2杯目も注文していた。次もし会えたら、フルーツ牛乳を飲み交わすと言っていたあの男…。個人的には二度と会いたくないと思っていた、目の前のコイツは──。
「双城!!」
「あぁ?テメーあん時の高校生か?」
龍を背に纏うその男は、白く光る椿姫を見て口角を僅かに上げる。
顕現されるは龍の形をした雲。
「交わすのが刀になっちまったなァ!!」
"妖刀"…チヒロの父親である六平国重が鍛造した、戦争を終結へ導いた力。特殊な加工法でしか作刀が出来ず、世に出回っているのは僅か7本。
その一振りである"