それは私の人生にとって、光だった。
眩しくて、正視できないほどに、かけがえのないもの。
まだ赤ん坊だったあの子をこの手に抱きかかえた時の、あの重みを今でも指先が覚えている。
私自身もまだ小さくて、命の重さに振り回されるようにして、必死に抱き上げたっけ。
肺の奥まで凍てつくような、冬の日。
しんしんと舞い散る雪は、無慈悲に幼い体温を奪っていく。
ミナトにだけは寒い思いをさせまいと、ボロボロの上着と毛布で、ぐるぐる巻きに包み込んだ。
鼻水すら凍る極寒の中、腕の中のミナトだけが、驚くほどポカポカと温かかった。
公園の小さな山で雪を凌ぎながら、私は誓ったのだ。
この温もりを、世界から守り抜くこと。
この腕の中で無垢に笑う花を、絶やさぬように育て上げること。
それが、私の生を繋ぐ唯一の「使命」なのだと。
子ども二人きりでは、飢えに食い殺される。
私は施設の門を叩き、頭を下げて、私たちを「モノ」として拾わせた。
私たちを捨てた親を呪う暇があるなら、明日を生き抜く知恵が必要だった。
ミナトにだけは、不自由という檻の中で生きてほしくなかった。
施設の生活は、飢えこそ凌げても、魂までは満たしてくれない。
普通の家庭という「 "当たり前"から、私たちはあまりに遠い場所にいた。
無学のままで豊かにはなれない。
そう自分に言い聞かせ、私は自分の明日を削って、ミナトの未来を研ぎ澄ませることに尽力した。
ただ目の前の愛しい弟が、幸せな道を歩いて行けるように。
それだけが、私の祈りだった。
「姉さん……っ!!姉さんっ!!」
そんな最愛の弟が、涙を流して私を呼んでいる。
気が付けば、体は思考より先に動いていた。
ミナトの背後に迫る死線を、私は身代わりとなって受け止めた。
肉が裂け、骨を断たれる衝撃。
地面に叩きつけられた瞬間、視界はどろりとした鮮血に染まっていく。
命の終わりを感じていた──。
「……へい……き……?」
声が、震える呼気とともに漏れる。
喉にせり上がる鉄の味に邪魔をされて、上手く喋れない。
けれど、意識の芯だけは、氷のように冷たく冴え渡っていた。
「すぐ止血するから……!死なせない……こんな所で……!」
ミナトが学生服を脱ごうとする。
それで私を繋ぎ止めようとする。
けれど、私は震える手でそれを制した。
「ねえさん……?」
「汚れちゃう……じゃない……。せっかくの学生服が……」
「な……なに言ってんだよ……!そんなのどうでもいいよ……!俺のことなんか気にしなくていいから!今は自分のことを……!」
首を横に振る。
「自分のこと……なんかなんて……言わないで……」
時間はそう残されていない。
伝えなきゃ、この子に。
会えなかった分も含めて。
言葉を紡がなきゃ。
「私は……ここまでみたい……。だからよく聞いて……」
「嫌だッ!!死なせない……死なせないから……!」
「聞きなさい、ミナト……」
ミナトの開かれていた口が静かに閉じる。
涙はとめどめなく流れ続けている。
「今日あなたの顔を久々に見られて……嬉しかった……。大きく立派になったあなたを見ることが出来て……。もうそれは叶わないと……思っていたから……」
愛した人に裏切られ、そこから始まった囚われの日々。
もうミナトには一生会えないのだと思っていたから。
「学校にもちゃんと行ってるようで、凄く安心したよ……。……私の言うこと、ちゃんと守ってくれてたんだね……」
「うん……。たまに行けない時もあるけど……ちゃんと通ってるよ……」
「ふふ……そっか……」
ミナトのことだ、やむを得ない事情で他を優先しなきゃいけない時もあるんだろう。
それでいいんだ……自分のペースで……。
「ここに捕まっていた時……あなただけか唯一の希望だった……。辛くて寂しい日々が続いたけど……あなたの顔を思い浮かべるだけで……」
あの暗い地下で、あなたの顔を思い浮かべるだけで、私は「人」でいられた。
あなたが生きているという事実だけが、私の魂の錨だった。
「──姉さん!!」
口から鮮血が溢れ出す。
ああ……こんな姿……ミナトには見せたくなかった……。
ミナトの最後の記憶に残る私が……こんな血だらけの姿じゃ……。
「だから今日……助けに来てくれて……本当に救われた……。心が救われたの……また……ミナトに会えたから……大事な弟が来てくれた……から」
そう……。
大事な……大事な弟……。
思い出が蘇ってくる。
寒い冬の日に伝わってきた温もりがあったこと。
施設の人に教えて貰いながら、オムツを変えてあげたこと。
この手に抱きながら、ミルクを与えたこと。
全部、全部昨日の事のように覚えている。
「本当はもっと一緒にいてあげたいけど……それは叶わないみたい……」
「そんな……そんなこと……!俺は……!」
「だから……私の想い……全部あなたに送るね……」
初めてご飯を食べさせた時のミナトの表情。
転んで膝を擦りむいた時に、痛くて悲しくて私に抱きついていた時の感触。
学校のテストでいい点を取った時の嬉しそうな顔。
忘れてない……ずっと私の心に刻まれている……。
「ミナト……あなたは優しくて強い子だから……誰かを想って生きなさい。自分じゃない誰かの為に……そんなことが出来る人は、そうそういないわ……。でも……あなたなら出来る……私の弟なんだから……」
震える指先で、ミナトの頬をなぞる。
私の血が彼の顔を汚していくけれど、構わなかった。
彼が握り返してくれた手の温もりが、あの日、雪の中で感じたものと同じだったから。
「自分1人だけの為に生きるのは、きっといつか限界が来る……。周りを見た的に誰も居ないなんて、そんな悲しいことになって欲しくないから……。だから……常に誰かの傍に居てあげて……」
他の子と喧嘩をして傷の手当をしてあげたこと。
気付けば身長を追い越されていたこと。
ふとした気遣いに胸が暖かくなったこと。
この子との記憶の全てが、大切な宝物。
──姉さんが選んだ人なら、きっと間違いは無いよ。俺は大丈夫だから。だから姉さんも、そろそろ自分の幸せのことを考えてよ。
施設を出ていくことをミナトに伝えた時のことは、今でもよく覚えている。
ミナトは快く送り出してくれたけど、私は知っているよ。
一瞬だけ寂しいそうな瞳をしてたこと。
姉さんは気付いてたよ。
「大切な人を作るのよ。いっぱいじゃなくていい、この人の為なら頑張れる……そう思える人を。そしていつか……一生をかけて守りたいと思える人を……見つけて……」
呼吸が浅くなる。
視界の端から、色が失われていく。
「もっと一緒に居たかった……!あなたの為に何かをしてあげたかった……!親が居なくて寂しい思いもいっぱいさせちゃって……ごめんね……!あなたが誰かと幸せになるまで近くに居てあげられなくて……ごめんね……」
謝罪なんてしたくなかった。
けれど、溢れ出した本音は、呪いのようにミナトに突き刺さる。
死んでいく私の言葉が、これからの彼の人生を縛り付ける鎖になることを知りながら、私は愛を紡ぐことを止められなかった。
泣かないで、ミナト。
最後に私に見せてほしいのは、絶望に歪んだ顔じゃない。
あなたが笑うだけで、私の地獄はすべて報われるのだから。
それが例え……呪いの言葉になってしまったとしても……。
寂しい……辛い……そんな思いが胸の中を渦巻く。
でも駄目だ、弱音なんて吐いちゃ。
そんな悲しいお別れは嫌だから……。
泣いてるミナトを見たくない。
出来れば笑っていて欲しい。
最後に笑った顔を見せて欲しい。
最後に映る景色は……笑顔であって欲しいから……。
「何言ってんだよ姉さん……。姉さんはもう、沢山のことを俺にくれたじゃないか……」
ミナトの両手が、私の冷えていく手を包み込む。
「姉さんが居たから今まで生きてこられた。姉さんが居たから大事な友達にも巡り会えた。全部姉さんのおかげなんだよ。姉さんが俺と生きてくれたから、俺は寂しくなんか無かったよ」
ああ……この子は……本当に……。
「姉さんがくれた物は、全部俺の中にある。……心配しないでよ。ちゃんと……ちゃんと生きて……!」
本当に……優しい子……。
「幸せになるから……!姉さんに心配させないくらい、胸張って前向いて生きていくから……!だから……だから……!」
記憶と現実が重なる。
どれだけ時が経っても変わらないモノがある。
目に映る弟の笑顔は……あの頃のままだった……。
「ありがとう……あなたが俺の姉さんで……本当に良かった……」
その言葉に心が暖かくなる。
失われていく体温とは裏腹に、じんわりと染み渡るものがあった。
思いやり……この子にはそれがちゃんと備わっている。
本当にいい子に育ってくれた。
「私も……あなたが弟で良かった……。ありがとう……私を姉にしてくれて……」
──思い残すことは無い。
心は、驚くほど静かだった。
死という淵に立ちながら、陽だまりの中にいるような心地よさ。
怖くない。痛くない。
ミナトがここにいる。
私の愛したすべてが、目の前で生きている。
ミナトが近くに居てくれるから。
ミナトが手を握ってくれているから。
ミナトが笑っていてくれるから。
ミナトが生きていてくれるなら……それだけで充分だ……。
「ずっと愛してるよ……」
瞼が落ちる。
心臓の鼓動が、遠い雷鳴のように小さくなっていく。
けれど、ミナトの掌の熱だけは、暗闇の先まで私を導いてくれた。
短い人生だった。
けれど、後悔なんて、どこを探しても見当たらない。
ミナトの未来が、光に満ち溢れることを。
あの子が守り抜く世界が、少しでも優しいものであることを。
悲しみを残してしまうかもしれないけど、この子なら強く生きてくれる。
そう信じている。
だから後は見守ろう。
空の上からこの子の未来が良いものになるように祈ろう。
ミナトの未来が光満ち溢れる、幸せなものになるように。
それが姉である私の最後の願いだから──。
『おねえちゃん!!ボクね、おねえちゃんを守れる強い人になる!!』
『あら、カッコイイこと言ってくれるね。将来が楽しみだ』
『おねえちゃんは今までボクを守ってくれたから、今度はボクがおねえちゃんを守るよ!!』
『そっか……優しい子だね……ミナトは……』
些細な欲から始まったこの伝統は、長年に渡り人々を熱狂させ、悲しみを振り撒いてきた。
繰り返される悲しみの連鎖を断ち切る為に。
もう二度と幸せを奪われないようにする為に。
刀を振るった。
連綿と受け継がれてきた楽座市は、当主の死を以て終わりの時を迎える。
帰ってきた自由と、その裏側に残された大きな傷跡。
一生消えることのない傷を背負い、俺は歩んで行く。
それが残された俺に出来ること。
自分じゃない誰かの為に生きる。
そしていつの日か……幸せを……。
一生をかけて守りたいと思える人に出逢うまで……。
「ほら起きなさい、いつまで寝てるのよ。学校遅刻するわよ」
「う〜ん……もう朝か……」
「夜更かしなんてしてるからよ。知ってんのよ、昨日遅くまで起きてたこと。部屋の電気ずっとついてたでしょ」
「それもあるけど……。最近変な夢見るんだよね……」
「あらそう大変そうね──。てかアンタのスマホさっきからずっと鳴ってるわよ」
「え、うそ。うわやっば……今日朝早い日だった……!友達からめっちゃメッセ来てる!ってか家の前に居るって!もう出なきゃ!」
「あっ……!こらイヲリ!!お弁当!!」
最近夢に見る、小学校の時の記憶。
よく一緒に遊んでいたあの男の子の名前が。
ずっと思い出せないでいた。
ぼんやりとこういう展開になるんだろうなと思いながら、ここまで書いてきました。
救えなかった命はありますが、生きる糧は残されています。
少年が刀を握る意味は、1人の少女に託されました。
次から新章です。