「何で君が虐められてるの?」
いじめっ子から助けてくれた男子――ミナトは、首を傾げていた。
場所は校舎裏。校庭から聞こえてくる掛け声も、ここまではどこか遠い。夕日に照らされた校舎の影が、私たちの足元から長く伸びている。
さっきまで私を取り囲んでいた子たちは、もういない。
それでも、制服の裾を握った指は、なかなか緩んでくれなかった。
「なんでって……分かんないの?」
「うん、分かんない」
「ええ……」
あんまり迷いなく返されて、こっちが首を傾げそうになる。
からかっているわけじゃ、なさそうだった。
ミナトはただ、私の返事を待っている。私が口を開く前から答えを決めている、いつものみんなとは違う顔で。
一体、どこまで本気で言っているのやら。
「授業で習ってるでしょ、戦争のこと。敵国を倒したのがお父さんなんだけど、なんかこう……無抵抗な一般人も……殺しちゃったみたいな……」
言葉にすると、ひどく嫌な感じがした。
自分まで、みんなと同じことを言っているみたいだった。
真実は知らない。
お父さんから、そんな話を聞いたことはない。戦争の話になると、いつも私の知らない昔のことばかりが、私の知らない誰かの口から出てくる。
だけど、クラスのみんなや町の人たちは、なぜか口を揃えてそう言う。
まるで、自分で見てきたことみたいに。
「それ、本当なの?」
「……分かんないよ。でも、みんながそう言うから……私以外のみんなが……」
最初は、違うと言っていた。
お父さんはそんな人じゃないって。優しいお父さんなんだって。
でも、そのたびに笑われた。
お前が知らないだけだと言われると、その先は何も言い返せなかった。実際、私は何も知らなかったから。
「お父さんのこと、信じてないの?」
「信じて――」
言いかけて、喉の奥が詰まった。
お父さんの顔が脳裏に浮かぶ。
サングラスと、顔に残る傷。
娘なのに、素顔をあまり見たことはない。何を考えているのか、分からない時だってある。
それでも、再会した時よりは笑顔が増えたと思う。
私が話しかければ、ちゃんと手を止めてくれる。どうでもいいような学校の話にも相槌を打って、私が笑えば、お父さんも少し遅れて笑う。
優しいお父さん。
お母さんが亡くなってからは、より一層優しくなった。
ちょっと過保護なところもあるかもしれないけど、そんなお父さんが、私は大好きだった。
みんなが話すお父さんと、私が知っているお父さんは、どうしても同じ人には思えない。
だから……。
「私は……違うと思う……。お父さんは、そんな酷いことしてない……」
声は、思っていたより小さくなった。
また笑われるかもしれない。
そう思うと、ミナトの顔を見ていられなくて、視線が少しずつ下がっていく。
けれど、返ってきたのは笑い声じゃなかった。
ぽん、と頭に手が置かれる。
顔を上げると、ミナトは優しく笑っていた。
「イヲリがそう思うなら、そうなんだよ。きっと」
「――うん……」
それだけだった。
証拠はあるのかとも、何も知らないくせにとも言われなかった。
私の言ったことを、そのまま受け取ってくれた。
そう思った瞬間、目の前の景色がじわりと滲んだ。
一度瞬きをしたら、頬に温かいものが伝う。慌てて俯いても、もう遅かった。次から次へと涙がこぼれて、止め方が分からなくなる。
さっきまで、泣かずにいられたのに。
嫌なことを言われても、我慢できていたのに。
ただ――家族以外に、味方でいてくれる人がいる。
それが、たまらなく嬉しかったのだと思う。
「ほら、ハンカチ。涙拭いて」
差し出されたハンカチに手を伸ばそうとして、途中で止まった。
転んだ時についた土で、手のひらが汚れていた。
「あー……じゃあ、じっとしてて」
ミナトは少しだけ身を屈めると、ハンカチの端を私の目元に当てた。
その手つきは、思っていたよりぎこちない。涙を拭うたびに、痛くないか確かめるみたいに、少しだけ手が止まる。
「ありがとう……紳士だね……」
「姉ちゃんがうるさいからな。けど、持っといて良かったと初めて思ったよ」
ミナトが笑う。
つられて、私も少しだけ笑った。
こんなに近くで男の子の顔を見るのは、初めてかもしれない。
そう気づいた途端、目を合わせていられなくなった。
少し恥ずかしい。
でも、離れてほしいとは思わなかった。
涙が落ち着いてきても、心臓の鼓動だけは、なかなか元に戻ってくれなかった。
〇
「なにィ!? 男の子の友達だとぉ!?」
そんなミナトを家に連れて行くと、お父さんが今までに聞いたこともないような大声を上げた。
まだ、友達を連れてきたとしか言っていない。
それなのに、お父さんは私とミナトのいる方へ交互に顔を向け、何か言いかけては口を閉じた。
「お父さん……?」
呼びかけても、返事がない。
その後、口をパクパクとさせたかと思えば、お母さんの遺影の前で手を合わせ始めた。
「イノリ……ついにイヲリがぼーいふれんどを……俺は一体どうしたら……」
「ちょっと……何言ってるの……」
ミナトの方を見るのが怖かった。
変なふうに思われたら、どうしてくれるんだろう。
そんな私の気も知らず、ミナトは物珍しそうにお父さんを眺めている。さっきまで少し緊張していたはずなのに、もうその様子はなくなっていた。
お父さんは国の英雄。
剣術の腕はピカイチ。
だけど、今のお父さんを見て、初めて会った人がそれを信じてくれるかどうかは、ちょっと分からない。
それでも、剣術の話になった途端、ミナトの声は弾んだ。
あれはできるのか、これはどうやるのか。次々に飛んでくる質問に、お父さんも最初こそ戸惑っていたけれど、そのうち少し得意そうになっていた。
そして、話が進むうちに、ミナトはお父さんに弟子入りすることになった。
今まで通っていた道場には、もう行かなくなった。
お父さんが、もう行かなくていいと言ったからだ。
無駄に広い自宅には、子ども二人が並んで剣を振れるだけのスペースがある。そこを使えばいいと、お父さんは言った。
家に帰る楽しみが、一つ増えた。
隣で木刀を振る音がする。
手が痛いとぼやけば、ミナトが自分の手のひらを見せてくる。私より赤くなっているのに、まだやれると言い張るから、少しだけ笑ってしまう。
お父さんが席を外すと、どちらからともなく木刀を下ろして、取り留めのない話をした。
学校のこと。ミナトのお姉さんのこと。明日の稽古は、もう少し楽だといいね、なんてこと。
無駄に広いと思っていた家が、前より好きになった。
そこが、私たちの稽古場であり――。
ミナトと二人きりで過ごせる場所だった。
〇
大々的に行われていた虐めは、なりを潜めた。
ミナトが私のそばにいると、みんな何も言わなくなる。男子からのちょっかいも、彼が間に入れば、それ以上は続かなかった。
もう大丈夫かもしれない。
そう思えたのは、ほんの少しの間だけだった。
私を呼び止める場所が変わった。
声が小さくなった。
そして、必ず最初に、ミナトがいないことを確かめられるようになった。
「助けに来ないじゃん。あんたの王子様」
「……」
「何とか言えよ……」
リーダー格の女子が、鋭い目を向けてくる。
私は、ギュッと口を噤んだままだった。
言い返せば怒る。
謝っても、何に謝ってるのかと聞かれる。
何を言っても、この子たちが満足する答えにはならない。それは、もう分かっていた。
だから、黙っていた。
早く飽きてくれないかと、それだけを考えながら。
「まぁいいや。あれ、持ってきて」
顎をクイッと動かし、その女子は他の子へ指示を出す。
一人が、何かを大事そうに両手で持ってきた。
透明なビーカーだった。
中に入った水は少し濁っていて、底の方に黒っぽいものが沈んでいる。
最初は、泥か何かだと思った。
だけど、違った。
細長いものが、重なり合うように動いている。
ビーカーが揺れるのとは別に、それぞれが縮んだり伸びたりしていた。
これは――。
「じゃじゃーん。ミミズジュースだよー」
笑顔で、その子はそう言った。
思わず、一歩下がりそうになった。
背後にいた子の靴が床を擦る音がして、足が止まる。
目を逸らしたかった。
でも、逸らしたところで、それがなくなるわけじゃなかった。
「虐めるのやめて欲しかったら、これ飲み干しな」
冗談を言っている顔じゃなかった。
ビーカーを私の目の高さまで持ち上げ、返事を待っている。
その向こうで、他の子たちが顔を見合わせた。笑いを堪えるように口元を押さえている子もいた。
私だけが、笑えなかった。
ミナトと一緒にいられる時間は、前よりずっと楽しくなった。
なのに、その時間が来るまでの一日が、どんどん長くなっていく。
朝、教室へ入る前に足が止まる。
誰かに名前を呼ばれるだけで、肩が跳ねる。
それでも、家に帰る頃には、普通の顔に戻さなくちゃいけなかった。
「……耐えなきゃ……」
「は……?」
気づいたら、声に出ていた。
「耐えなきゃいけないの……私は……」
「……? ご立派だな……。さすが英雄の子だ……人殺しのな……」
周りで、くすくすと笑う声がした。
私は制服の裾を握った。
私の中には、一つの考えがあった。
私が「人殺しの子ども」という理由で虐められていることがお父さんにバレたら――。
たぶん、私とお父さんは別々に暮らすことになる。
そんなことを言われたわけじゃない。
だけど、あのお父さんなら、やりかねない。
自分が近くにいるから、こんなことになってしまったのだと。
私が嫌な思いをするくらいなら、自分がいなくなればいいのだと。
きっと、自分を責めてしまう。
お父さんは優しい。
私のためだと思ったら、私が嫌だと言っても、離れることを選んでしまうかもしれない。
やっと、一緒にいられるようになったのに。
朝、起きたらお父さんがいる。
帰ってきたら、声が聞こえる。
それがなくなることを考えるだけで、胸の奥が冷たくなった。
また、大切な人が遠く離れた場所へ行ってしまう。
お母さんと同じように。
会いたいと思っても、もう会えなくなる。
そして、離れていくのはお父さんだけじゃない。
ミナトも、そうだ。
もし、私がどこか別の場所へ行くことになったら。
放課後、一緒に帰ることも。隣で木刀を振ることも。お父さんに聞こえないくらいの声で、くだらない話をすることも。
全部、できなくなってしまう。
せっかく、明日が楽しみになったのに。
私の中で、絶対に避けたいことはそれだった。
なら、私は――。
何があっても、耐え抜かなきゃ。
どれだけ辛くても。
ここで泣いたことも、嫌だったことも、家に帰るまでに隠せばいい。
そうすれば、いつも通りにしていられる。
お父さんも、ミナトも、何も知らずに笑っていてくれる。
「やるの? やらないの?」
急かすように、ビーカーが差し出された。
これを飲めば、本当に終わるんだろうか。
聞き返したところで、きっと笑われるだけだった。
「……飲むよ……」
口にした途端、喉がきゅっと縮んだ。
それでも、手を伸ばした。
もう、誰も遠くへ行ってしまわないように。
私は、ビーカーを手に取った。
〇
「ミナト、お前……イヲリのこと、どう思ってる?」
放課後。
イヲリの家の道場で稽古をつけてもらっていた時、ふと座村さんから、そんな言葉が飛び出してきた。
木刀を握り直しかけた手が止まる。
何か、構えがおかしかったんだろうかと思っていたので、質問の意味を理解するまでに少し時間がかかった。
「いや……女の子だなぁって思ってるけど……」
「そういう意味じゃなくてだな……」
どうやら、座村さんが思っていた返答とは違う答えを返してしまったらしい。
頭をポリポリとかきながら、座村さんは続ける。
「その……なんだ。異性としてどう思ってるかってこととか……。あいつも年頃の女の子だろ? もしかしたら、色恋の一つや二つくらいあるんじゃないかと……」
「色恋て……。俺たち、まだ小学生だよ……」
「最近の子は進んでるって言うじゃないか。ほら……父親として、ちょっと……な?」
な、と言われても。
さっきまで、俺の打ち込みを軽くいなしていた人と同じ人物とは思えない。剣を持たせればあれだけ迷いなく動くくせに、今は言葉の一つ一つにつっかえている。
めんどくさいおっさんが、そこにいた。
娘を想う気持ちは、まぁ、分からんこともない。
イヲリは、何でも平気そうな顔をしようとするところがある。気になるのも、分かる。
――分かるのだが。
それと、俺がこの話に付き合わなきゃいけないかどうかは、別の問題だと思う。
下手なことを言ったら、稽古が終わるまで質問されそうだった。
俺は小さくため息を吐きながら、再び木刀を構えた。
手のひらに、じんわりと痛みが走る。
握り方が悪いのか、単に慣れていないだけなのか。聞きたいことは、こっちにも山ほどあった。
「訳わかんないこと言ってないで、もっと俺に剣術教えてよ。アンタはもっと凄い技持ってんだろ?」
実際、座村さんは強い。
どこを狙っても、こちらが振り切る前に木刀を押さえられる。たまにいけそうだと思って踏み込めば、気づいた時には体勢を崩されている。
しかも、本人は大して動いていない。
こっちはこんなに汗をかいているのに、どうにも納得がいかなかった。
「けどよ、お前こんなおっさんから剣術習って何する気なんだ?」
座村さんの言葉に、一瞬思考を働かせる。
強くなれたら、できることは色々あると思う。
けれど、そういう大きな話をするのは、何となく照れくさかった。
なので、一番身近な使い道を答えることにした。
「学校の剣道の授業で無双する」
「お前な……」
呆れたような声だった。
さすがに、ふざけすぎたかもしれない。
そう思っていると、座村さんは少しだけ口元を緩めた。
「けど、それは浪漫だ」
「でしょ」
分かってくれるらしい。
さすが国の英雄。話が早い。
座村さんがスクッと立ち上がる。
ようやく稽古の続きかと思って構え直したら、伸びてきた手は木刀ではなく、俺の頭に乗った。
そのまま、くしゃくしゃと髪をかき混ぜられる。
「ちょっと、何すんの」
文句を言っても、その手はすぐには離れなかった。
大きくて、少し乱暴な手だった。
姉ちゃんに撫でられる時とは、何かが違う。頭ごと揺らされるようで、落ち着かない。
なのに、払いのける気にはならなかった。
……なんでだろう。
何故か胸が、少しだけ暖かくなった。
ようやく手が離れてから、俺は片手で髪を直した。直ったのかどうかは、よく分からない。
座村さんは縁側の方へ向かい、煙草を取り出していた。
「休憩?」
「ああ。ちょっとな」
それならそうと、先に言ってほしい。
木刀を下ろすと、急に腕が重くなった。俺はその場に腰を下ろし、痛む手のひらを開いたり閉じたりした。
開け放たれた戸の向こうから、涼しい風が入ってくる。
座村さんが煙を外へ吐き出す。その横顔は、さっきまで俺に妙な質問をしていた時より、少し穏やかに見えた。
「お前にならイヲリを任せられるかもな」
「ん? 何か言った?」
顔を上げると、座村さんは煙草を持った手をひらりと振った。
「いや、何でもねぇよ」
その声には、まだ少し笑いが残っていた。
俺は首を傾げてから、また手のひらに目を落とした。
小さく呟かれた言葉は、聞き返す間もなく、煙草の煙と共に空へ消えていった。