ペンは剣よりも強し!   作:みかんフレーク

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第43話 日常

「何で君が虐められてるの?」

 

 いじめっ子から助けてくれた男子――ミナトは、首を傾げていた。

 

 場所は校舎裏。校庭から聞こえてくる掛け声も、ここまではどこか遠い。夕日に照らされた校舎の影が、私たちの足元から長く伸びている。

 

 さっきまで私を取り囲んでいた子たちは、もういない。

 

 それでも、制服の裾を握った指は、なかなか緩んでくれなかった。

 

「なんでって……分かんないの?」

 

「うん、分かんない」

 

「ええ……」

 

 あんまり迷いなく返されて、こっちが首を傾げそうになる。

 

 からかっているわけじゃ、なさそうだった。

 

 ミナトはただ、私の返事を待っている。私が口を開く前から答えを決めている、いつものみんなとは違う顔で。

 

 一体、どこまで本気で言っているのやら。

 

「授業で習ってるでしょ、戦争のこと。敵国を倒したのがお父さんなんだけど、なんかこう……無抵抗な一般人も……殺しちゃったみたいな……」

 

 言葉にすると、ひどく嫌な感じがした。

 

 自分まで、みんなと同じことを言っているみたいだった。

 

 真実は知らない。

 

 お父さんから、そんな話を聞いたことはない。戦争の話になると、いつも私の知らない昔のことばかりが、私の知らない誰かの口から出てくる。

 

 だけど、クラスのみんなや町の人たちは、なぜか口を揃えてそう言う。

 

 まるで、自分で見てきたことみたいに。

 

「それ、本当なの?」

 

「……分かんないよ。でも、みんながそう言うから……私以外のみんなが……」

 

 最初は、違うと言っていた。

 

 お父さんはそんな人じゃないって。優しいお父さんなんだって。

 

 でも、そのたびに笑われた。

 

 お前が知らないだけだと言われると、その先は何も言い返せなかった。実際、私は何も知らなかったから。

 

「お父さんのこと、信じてないの?」

 

「信じて――」

 

 言いかけて、喉の奥が詰まった。

 

 お父さんの顔が脳裏に浮かぶ。

 

 サングラスと、顔に残る傷。

 

 娘なのに、素顔をあまり見たことはない。何を考えているのか、分からない時だってある。

 

 それでも、再会した時よりは笑顔が増えたと思う。

 

 私が話しかければ、ちゃんと手を止めてくれる。どうでもいいような学校の話にも相槌を打って、私が笑えば、お父さんも少し遅れて笑う。

 

 優しいお父さん。

 

 お母さんが亡くなってからは、より一層優しくなった。

 

 ちょっと過保護なところもあるかもしれないけど、そんなお父さんが、私は大好きだった。

 

 みんなが話すお父さんと、私が知っているお父さんは、どうしても同じ人には思えない。

 

 だから……。

 

「私は……違うと思う……。お父さんは、そんな酷いことしてない……」

 

 声は、思っていたより小さくなった。

 

 また笑われるかもしれない。

 

 そう思うと、ミナトの顔を見ていられなくて、視線が少しずつ下がっていく。

 

 けれど、返ってきたのは笑い声じゃなかった。

 

 ぽん、と頭に手が置かれる。

 

 顔を上げると、ミナトは優しく笑っていた。

 

「イヲリがそう思うなら、そうなんだよ。きっと」

 

「――うん……」

 

 それだけだった。

 

 証拠はあるのかとも、何も知らないくせにとも言われなかった。

 

 私の言ったことを、そのまま受け取ってくれた。

 

 そう思った瞬間、目の前の景色がじわりと滲んだ。

 

 一度瞬きをしたら、頬に温かいものが伝う。慌てて俯いても、もう遅かった。次から次へと涙がこぼれて、止め方が分からなくなる。

 

 さっきまで、泣かずにいられたのに。

 

 嫌なことを言われても、我慢できていたのに。

 

 ただ――家族以外に、味方でいてくれる人がいる。

 

 それが、たまらなく嬉しかったのだと思う。

 

「ほら、ハンカチ。涙拭いて」

 

 差し出されたハンカチに手を伸ばそうとして、途中で止まった。

 

 転んだ時についた土で、手のひらが汚れていた。

 

「あー……じゃあ、じっとしてて」

 

 ミナトは少しだけ身を屈めると、ハンカチの端を私の目元に当てた。

 

 その手つきは、思っていたよりぎこちない。涙を拭うたびに、痛くないか確かめるみたいに、少しだけ手が止まる。

 

「ありがとう……紳士だね……」

 

「姉ちゃんがうるさいからな。けど、持っといて良かったと初めて思ったよ」

 

 ミナトが笑う。

 

 つられて、私も少しだけ笑った。

 

 こんなに近くで男の子の顔を見るのは、初めてかもしれない。

 

 そう気づいた途端、目を合わせていられなくなった。

 

 少し恥ずかしい。

 

 でも、離れてほしいとは思わなかった。

 

 涙が落ち着いてきても、心臓の鼓動だけは、なかなか元に戻ってくれなかった。

 

            〇

 

「なにィ!? 男の子の友達だとぉ!?」

 

 そんなミナトを家に連れて行くと、お父さんが今までに聞いたこともないような大声を上げた。

 

 まだ、友達を連れてきたとしか言っていない。

 

 それなのに、お父さんは私とミナトのいる方へ交互に顔を向け、何か言いかけては口を閉じた。

 

「お父さん……?」

 

 呼びかけても、返事がない。

 

 その後、口をパクパクとさせたかと思えば、お母さんの遺影の前で手を合わせ始めた。

 

「イノリ……ついにイヲリがぼーいふれんどを……俺は一体どうしたら……」

 

「ちょっと……何言ってるの……」

 

 ミナトの方を見るのが怖かった。

 

 変なふうに思われたら、どうしてくれるんだろう。

 

 そんな私の気も知らず、ミナトは物珍しそうにお父さんを眺めている。さっきまで少し緊張していたはずなのに、もうその様子はなくなっていた。

 

 お父さんは国の英雄。

 

 剣術の腕はピカイチ。

 

 だけど、今のお父さんを見て、初めて会った人がそれを信じてくれるかどうかは、ちょっと分からない。

 

 それでも、剣術の話になった途端、ミナトの声は弾んだ。

 

 あれはできるのか、これはどうやるのか。次々に飛んでくる質問に、お父さんも最初こそ戸惑っていたけれど、そのうち少し得意そうになっていた。

 

 そして、話が進むうちに、ミナトはお父さんに弟子入りすることになった。

 

 今まで通っていた道場には、もう行かなくなった。

 

 お父さんが、もう行かなくていいと言ったからだ。

 

 無駄に広い自宅には、子ども二人が並んで剣を振れるだけのスペースがある。そこを使えばいいと、お父さんは言った。

 

 家に帰る楽しみが、一つ増えた。

 

 隣で木刀を振る音がする。

 

 手が痛いとぼやけば、ミナトが自分の手のひらを見せてくる。私より赤くなっているのに、まだやれると言い張るから、少しだけ笑ってしまう。

 

 お父さんが席を外すと、どちらからともなく木刀を下ろして、取り留めのない話をした。

 

 学校のこと。ミナトのお姉さんのこと。明日の稽古は、もう少し楽だといいね、なんてこと。

 

 無駄に広いと思っていた家が、前より好きになった。

 

 そこが、私たちの稽古場であり――。

 

 ミナトと二人きりで過ごせる場所だった。

 

            〇

 

 大々的に行われていた虐めは、なりを潜めた。

 

 ミナトが私のそばにいると、みんな何も言わなくなる。男子からのちょっかいも、彼が間に入れば、それ以上は続かなかった。

 

 もう大丈夫かもしれない。

 

 そう思えたのは、ほんの少しの間だけだった。

 

 私を呼び止める場所が変わった。

 

 声が小さくなった。

 

 そして、必ず最初に、ミナトがいないことを確かめられるようになった。

 

「助けに来ないじゃん。あんたの王子様」

 

「……」

 

「何とか言えよ……」

 

 リーダー格の女子が、鋭い目を向けてくる。

 

 私は、ギュッと口を噤んだままだった。

 

 言い返せば怒る。

 

 謝っても、何に謝ってるのかと聞かれる。

 

 何を言っても、この子たちが満足する答えにはならない。それは、もう分かっていた。

 

 だから、黙っていた。

 

 早く飽きてくれないかと、それだけを考えながら。

 

「まぁいいや。あれ、持ってきて」

 

 顎をクイッと動かし、その女子は他の子へ指示を出す。

 

 一人が、何かを大事そうに両手で持ってきた。

 

 透明なビーカーだった。

 

 中に入った水は少し濁っていて、底の方に黒っぽいものが沈んでいる。

 

 最初は、泥か何かだと思った。

 

 だけど、違った。

 

 細長いものが、重なり合うように動いている。

 

 ビーカーが揺れるのとは別に、それぞれが縮んだり伸びたりしていた。

 

 これは――。

 

「じゃじゃーん。ミミズジュースだよー」

 

 笑顔で、その子はそう言った。

 

 思わず、一歩下がりそうになった。

 

 背後にいた子の靴が床を擦る音がして、足が止まる。

 

 目を逸らしたかった。

 

 でも、逸らしたところで、それがなくなるわけじゃなかった。

 

「虐めるのやめて欲しかったら、これ飲み干しな」

 

 冗談を言っている顔じゃなかった。

 

 ビーカーを私の目の高さまで持ち上げ、返事を待っている。

 

 その向こうで、他の子たちが顔を見合わせた。笑いを堪えるように口元を押さえている子もいた。

 

 私だけが、笑えなかった。

 

 ミナトと一緒にいられる時間は、前よりずっと楽しくなった。

 

 なのに、その時間が来るまでの一日が、どんどん長くなっていく。

 

 朝、教室へ入る前に足が止まる。

 

 誰かに名前を呼ばれるだけで、肩が跳ねる。

 

 それでも、家に帰る頃には、普通の顔に戻さなくちゃいけなかった。

 

「……耐えなきゃ……」

 

「は……?」

 

 気づいたら、声に出ていた。

 

「耐えなきゃいけないの……私は……」

 

「……? ご立派だな……。さすが英雄の子だ……人殺しのな……」

 

 周りで、くすくすと笑う声がした。

 

 私は制服の裾を握った。

 

 私の中には、一つの考えがあった。

 

 私が「人殺しの子ども」という理由で虐められていることがお父さんにバレたら――。

 

 たぶん、私とお父さんは別々に暮らすことになる。

 

 そんなことを言われたわけじゃない。

 

 だけど、あのお父さんなら、やりかねない。

 

 自分が近くにいるから、こんなことになってしまったのだと。

 

 私が嫌な思いをするくらいなら、自分がいなくなればいいのだと。

 

 きっと、自分を責めてしまう。

 

 お父さんは優しい。

 

 私のためだと思ったら、私が嫌だと言っても、離れることを選んでしまうかもしれない。

 

 やっと、一緒にいられるようになったのに。

 

 朝、起きたらお父さんがいる。

 

 帰ってきたら、声が聞こえる。

 

 それがなくなることを考えるだけで、胸の奥が冷たくなった。

 

 また、大切な人が遠く離れた場所へ行ってしまう。

 

 お母さんと同じように。

 

 会いたいと思っても、もう会えなくなる。

 

 そして、離れていくのはお父さんだけじゃない。

 

 ミナトも、そうだ。

 

 もし、私がどこか別の場所へ行くことになったら。

 

 放課後、一緒に帰ることも。隣で木刀を振ることも。お父さんに聞こえないくらいの声で、くだらない話をすることも。

 

 全部、できなくなってしまう。

 

 せっかく、明日が楽しみになったのに。

 

 私の中で、絶対に避けたいことはそれだった。

 

 なら、私は――。

 

 何があっても、耐え抜かなきゃ。

 

 どれだけ辛くても。

 

 ここで泣いたことも、嫌だったことも、家に帰るまでに隠せばいい。

 

 そうすれば、いつも通りにしていられる。

 

 お父さんも、ミナトも、何も知らずに笑っていてくれる。

 

「やるの? やらないの?」

 

 急かすように、ビーカーが差し出された。

 

 これを飲めば、本当に終わるんだろうか。

 

 聞き返したところで、きっと笑われるだけだった。

 

「……飲むよ……」

 

 口にした途端、喉がきゅっと縮んだ。

 

 それでも、手を伸ばした。

 

 もう、誰も遠くへ行ってしまわないように。

 

 私は、ビーカーを手に取った。

 

            〇

 

「ミナト、お前……イヲリのこと、どう思ってる?」

 

 放課後。

 

 イヲリの家の道場で稽古をつけてもらっていた時、ふと座村さんから、そんな言葉が飛び出してきた。

 

 木刀を握り直しかけた手が止まる。

 

 何か、構えがおかしかったんだろうかと思っていたので、質問の意味を理解するまでに少し時間がかかった。

 

「いや……女の子だなぁって思ってるけど……」

 

「そういう意味じゃなくてだな……」

 

 どうやら、座村さんが思っていた返答とは違う答えを返してしまったらしい。

 

 頭をポリポリとかきながら、座村さんは続ける。

 

「その……なんだ。異性としてどう思ってるかってこととか……。あいつも年頃の女の子だろ? もしかしたら、色恋の一つや二つくらいあるんじゃないかと……」

 

「色恋て……。俺たち、まだ小学生だよ……」

 

「最近の子は進んでるって言うじゃないか。ほら……父親として、ちょっと……な?」

 

 な、と言われても。

 

 さっきまで、俺の打ち込みを軽くいなしていた人と同じ人物とは思えない。剣を持たせればあれだけ迷いなく動くくせに、今は言葉の一つ一つにつっかえている。

 

 めんどくさいおっさんが、そこにいた。

 

 娘を想う気持ちは、まぁ、分からんこともない。

 

 イヲリは、何でも平気そうな顔をしようとするところがある。気になるのも、分かる。

 

 ――分かるのだが。

 

 それと、俺がこの話に付き合わなきゃいけないかどうかは、別の問題だと思う。

 

 下手なことを言ったら、稽古が終わるまで質問されそうだった。

 

 俺は小さくため息を吐きながら、再び木刀を構えた。

 

 手のひらに、じんわりと痛みが走る。

 

 握り方が悪いのか、単に慣れていないだけなのか。聞きたいことは、こっちにも山ほどあった。

 

「訳わかんないこと言ってないで、もっと俺に剣術教えてよ。アンタはもっと凄い技持ってんだろ?」

 

 実際、座村さんは強い。

 

 どこを狙っても、こちらが振り切る前に木刀を押さえられる。たまにいけそうだと思って踏み込めば、気づいた時には体勢を崩されている。

 

 しかも、本人は大して動いていない。

 

 こっちはこんなに汗をかいているのに、どうにも納得がいかなかった。

 

「けどよ、お前こんなおっさんから剣術習って何する気なんだ?」

 

 座村さんの言葉に、一瞬思考を働かせる。

 

 強くなれたら、できることは色々あると思う。

 

 けれど、そういう大きな話をするのは、何となく照れくさかった。

 

 なので、一番身近な使い道を答えることにした。

 

「学校の剣道の授業で無双する」

 

「お前な……」

 

 呆れたような声だった。

 

 さすがに、ふざけすぎたかもしれない。

 

 そう思っていると、座村さんは少しだけ口元を緩めた。

 

「けど、それは浪漫だ」

 

「でしょ」

 

 分かってくれるらしい。

 

 さすが国の英雄。話が早い。

 

 座村さんがスクッと立ち上がる。

 

 ようやく稽古の続きかと思って構え直したら、伸びてきた手は木刀ではなく、俺の頭に乗った。

 

 そのまま、くしゃくしゃと髪をかき混ぜられる。

 

「ちょっと、何すんの」

 

 文句を言っても、その手はすぐには離れなかった。

 

 大きくて、少し乱暴な手だった。

 

 姉ちゃんに撫でられる時とは、何かが違う。頭ごと揺らされるようで、落ち着かない。

 

 なのに、払いのける気にはならなかった。

 

 ……なんでだろう。

 

 何故か胸が、少しだけ暖かくなった。

 

 ようやく手が離れてから、俺は片手で髪を直した。直ったのかどうかは、よく分からない。

 

 座村さんは縁側の方へ向かい、煙草を取り出していた。

 

「休憩?」

 

「ああ。ちょっとな」

 

 それならそうと、先に言ってほしい。

 

 木刀を下ろすと、急に腕が重くなった。俺はその場に腰を下ろし、痛む手のひらを開いたり閉じたりした。

 

 開け放たれた戸の向こうから、涼しい風が入ってくる。

 

 座村さんが煙を外へ吐き出す。その横顔は、さっきまで俺に妙な質問をしていた時より、少し穏やかに見えた。

 

「お前にならイヲリを任せられるかもな」

 

「ん? 何か言った?」

 

 顔を上げると、座村さんは煙草を持った手をひらりと振った。

 

「いや、何でもねぇよ」

 

 その声には、まだ少し笑いが残っていた。

 

 俺は首を傾げてから、また手のひらに目を落とした。

 

 小さく呟かれた言葉は、聞き返す間もなく、煙草の煙と共に空へ消えていった。

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