希望のエルマ   作:Gemini

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第一幕:聖女の誕生

「希望の家」と呼ばれる孤児院は、聖域の陽光が届きにくい外縁部にあった。裏庭に至っては、もはや忘れられた土地と言っても差し支えあるまい。伸び放題の雑草が人の背丈に迫り、錆びた鉄製の遊具が物悲しく傾いでいる。かつて花壇だったらしき場所には、黒ずんだ植物の残骸が転がっているだけだ。

その荒れた庭の一角に、二人の子供の姿があった。

エルマという名の少女。年は十歳になるかどうか。簡素な服を着た細い体躯は、この聖域の豊かさとは無縁に見える。それでも大きな瞳だけは、一点の曇りもなく澄んでいた。

もう一人はトビー。エルマより少し年長の少年。痩せてはいるが、その目つきには妙な鋭さがあり、どこか達観したような雰囲気をまとっている。子供らしい表情は乏しい。

エルマは、黒く枯れ果てた花の一つに小さな手をかざしていた。目を閉じ、何かを呟いている。子供がよくやる、無意味な遊びのように見えた。

だが、ふいにエルマの手のひらから、淡い緑色の光が発せられた。世界樹の葉漏れ日のような、柔らかい光だ。光は枯れた花に吸い込まれると、信じられない変化が起こった。茶色かった花弁は鮮やかな赤に染まり、萎びた茎は力強く立ち上がる。まるで時間が巻き戻ったかのように、一輪の花がそこに咲き誇ったのだ。ほんの数秒の出来事である。

「……また、やったのか」

声は背後から聞こえた。驚きは微塵もなく、むしろ、うんざりしたような響きだ。壁にもたれたトビーが、腕組みをして立っていた。

「見て、トビー! お花さんが!」

エルマは、今しがた咲かせたばかりの赤い花を手に取り、輝くような笑顔で振り返った。疑うことを知らない、純粋な喜び。

トビーは、差し出された鮮烈な赤色と、無邪気な笑顔を浮かべるエルマを、じっと見つめた。わずかに口の端を引きつらせ、無理に笑みを作ろうとしているようにも見える。彼は花を受け取ろうとはせず、ただ、その赤い色から目を逸らすように俯いた。

「……綺麗だな」

感情の抑揚のない声で、少年はそう呟いた。その視線の先には、再び生を得た赤い花と、それを無邪気に差し出す少女の姿。そして、足元に広がる荒れ果てた庭。

彼の目に何が映り、何を思ったのか。それは、彼自身にしか分かるまい。

 

 

数日後のこと。孤児院からの使いで、エルマは中央広場へ足を運んでいた。陽光のテラス。名前だけは立派だが、実際は埃っぽく、様々な人間の欲望と体臭が混じり合う場所だ。

広場の石畳の上で、小鳥が一羽、弱々しく身を震わせていた。巣から落ちた雛だろうか。行き交う人々は、足元の小さな命に注意を払う様子もない。それがこの聖域の日常というものだ。エルマは駆け寄り、いつものように小さな手をかざした。淡い緑の光。小鳥は一瞬で活力を取り戻すと、やや不自然な軌道を描いて空へと飛び去った。まるで何かに導かれるように。

「おい、見たか今の!」最初に騒ぎ出したのは、露店の果物売りだった。彼の甲高い声が火種となり、人垣はあっという間に膨れ上がる。「光ったぞ!」「鳥が!」「奇跡だ!」。情報の正確さなどどうでもいい。彼らに必要なのは、退屈な日常を忘れさせる刺激だけだ。やがて誰かが叫んだ。「聖女様だ!」。根拠などない。だが、その言葉は熱病のように広まった。

都合よく、と言うべきか。その場に三人の「有力者」が居合わせた。

ボルジア枢機卿。肥満した指で胸元の聖印をなぞり、人垣を分け入ってくる。いかにも聖職者らしい、憂いを帯びた表情で言った。「おお、アルボスよ、感謝いたします! この穢れた地に、かような清浄な魂をお遣わしくださるとは… 迷える子羊よ、神の家こそが、汝を守る唯一の場所である」。腹の底で算盤を弾く音が聞こえるようだ。

レディー・アナスタシア。流行の香水を強く漂わせ、レースのハンカチを目元にあてる仕草をする。「まあ、なんてことでしょう…! このような穢れなき御力を持つ方が、孤児院に…? いいえ、これはきっと、私のような者に手を差し伸べよという天啓ですわ。さあ、私の手をお取りなさい」。その目は、新しいダイヤモンドでも見つけたかのように輝いていた。

ギデオン団長。磨かれた胸当てを叩き、群衆の興奮を制するように手を上げる。「騒ぐな! この御力、悪用しようとする輩が必ず現れる! 我ら『獅子の牙』騎士団こそが、正義の名において、この聖女様をあらゆる脅威からお守りする!」。その声には、有無を言わせぬ所有権の主張があった。

彼らは代わる代わるエルマに甘い言葉を囁きかけ、柔らかな手、レースの手袋に包まれた手、硬い革の手袋の手を差し伸べる。エルマは、大人たちの突然の変化と、周囲の異様な熱気にただ戸惑い、小さな体を縮こまらせていた。神の家、優しい手、正義の騎士団…どれもが耳に心地よく響く。しかし、その言葉の裏にある何か得体の知れないものに、本能的な怯えを感じていた。

建物の屋根、その影に潜む人影があった。ゼノ。彼は眼下の光景を、まるで出来の悪い芝居でも見るように眺めていた。飛び去った小鳥が、彼の肩に止まり、何かを囁くように小さく鳴いたが、誰も気づかない。ゼノは微かに口の端を歪めた。役者は揃った。さて、どの脚本で踊らせるか。それだけの話だ。

 

 

ボルジア枢機卿の私室は、彼の内面を映し出す鏡のようであった。壁には金糸で刺繍されたタペストリーが掛かり、床には分厚い絨毯が敷き詰められている。磨き上げられた黒檀の机の上には、銀製のインク壺や羽根ペン立てが鈍い光を放つ。しかし、それらの豪奢さはどこか悪趣味で、調和というものを知らない。壁に飾られた聖人の肖像画の一つは、僅かに歪んで取り付けられており、その後ろに隠された何か(おそらくは金庫だろう)の存在を無粋に示唆していた。部屋には甘ったるい香が焚き込められ、祈りの場というよりは、むしろ密談や享楽のための空間といった方がしっくりくる。

 

部屋の主であるボルジアは、肘掛け椅子に深く身を沈めていた。その肥満した体躯は、上質な法衣の下で窮屈そうにしている。彼の前には、シスター・アグネスが恭しく控えていた。修道女らしい簡素な服装ではあるが、指にはめられた宝石の指輪や、手入れの行き届いた滑らかな肌が、彼女もまたこの部屋の豊かさの恩恵に与っていることを物語っていた。アグネスは、机の隅に置かれた銀の皿から、砂糖漬けの果実を一つ、指先で摘まんで口に運んだ。

 

「…して、アグネスよ。あの娘、エルマとか言ったか。どう思う?」

ボルジアの声は、蜂蜜のように甘ったるいが、どこか油断ならない響きを帯びている。

「はい、枢機卿猊下。まさにアルボスの御心に適いし、清らかな魂かと存じます。あの御力、まこと神の御業に違いありません」

アグネスは、手元のカップに注がれた上等な葡萄酒を、ゆっくりと回しながら答えた。その目は僅かに伏せられ、表情からは真意を読み取り難い。

「うむ、神の御業、か。実に都合の良い御業よな」ボルジアは満足げに頷き、腹をさすった。「あれは使える。いや、使わねばなるまい。そうだ、『生ける聖女』として祭り上げるのだ。信者どもは奇跡に飢えている。あの娘を担げば、寄付はこれまでの比ではあるまい。聖域のさらなる発展のため、とでも言っておけばよかろう」

「まあ、素晴らしいお考えですこと。ですが、枢機卿猊下。あまり事を急ぎますと、他の…例えばアナスタシア様や、ギデオン団長あたりが横槍を入れてくるのでは?」アグネスは、あたかも心配するように眉をひそめてみせた。その実、自分の取り分が減ることを懸念しているのだろう。

「ふん、あの俗物どもめが。心配には及ばん。こちらには『神』という大義名分がある。それに、あの娘自身がこちらを選ぶよう、上手く誘導すればよい。少々『贈り物』でもしてやれば、子供など簡単に懐柔できよう。ゆくゆくは、あの娘が触れたもの全てを『聖遺物』としてだな…」

ボルジアの目は、遠い(金のなる)未来を見ているかのように細められた。アグネスは、静かに相槌を打ちながら、計算高い視線を自分の指輪に落とす。

強欲と追従。古来より繰り返されてきた、ありふれた人間の姿がそこにあった。甘ったるい香だけが、彼らの醜い算段を優しく包み込んでいる。それだけのことだ。

 

 

レディー・アナスタシアが運営する孤児院「希望の家」は、聖域の社交界における彼女の「慈善活動」の象徴であった。その名声に違わず、正面玄関だけは常に磨き上げられ、季節の花が飾られている。訪れる貴顕紳士淑女たちは、そこでアナスタシアの「献身」を称賛し、満足して帰っていく。内部の現実など、誰も気にしない。

 

一歩足を踏み入れると、空気は淀み、甘い香水の匂いにかび臭さが混じる。陽の光が届きにくい廊下は薄暗く、壁には子供たちの背丈につけられたであろう無数の手垢が黒ずんでいる。アナスタシアは、その薄汚れた廊下の隅で、ぼろきれで作られた人形を抱いて座り込んでいるエルマを見つけた。彼女は顔に完璧なまでの慈愛の笑みを浮かべると、絹の手袋に包まれた手をエルマに差し伸べた。

「まあ、エルマ。私の可愛い小鳥。どうしてこんな薄暗いところにいるの? あなたは皆の希望の光なのだから、もっと明るい場所で輝いていなくては」

その声は蜜のように甘く、仕草は舞台女優のように計算され尽くしている。他の子供たちが近くを通りかかっても、アナスタシアは一瞥もくれない。エルマは、差し出された手を恐る恐る握った。柔らかく、温かいはずの手袋の感触が、なぜかひどく冷たく感じられる。それでも、優しく微笑みかけられると、不安な心の一部が安堵を求めるように揺れた。

 

昼食の時間は、この「家」の現実を最も雄弁に物語っていた。粗末な木のテーブルに並べられたのは、水のように薄い野菜スープと、石のように硬い黒パンが一切れずつ。子供たちは、感情のない人形のように黙々とそれを口に運ぶ。誰も喋らない。それがここの規則なのか、あるいは喋る気力すら失っているのか。無論、アナスタシアの姿は食堂にはない。彼女は別の場所で、もっと上等な食事をとっているのだろう。

食事が終わると、トビーがエルマの隣に腰を下ろした。彼は、エルマが残したパン屑を指でつまむと、こともなげに口に放り込む。

「なあ、エルマ」彼は床の一点を顎で示した。そこには、赤黒い染みが残っている。「あれ、アナスタシア様がこないだこぼした葡萄酒の跡。上等なやつだったらしいぜ。俺たちのこのスープより、よっぽど栄養がありそうだ」。彼は肩をすくめ、子供らしからぬ諦めたような笑みを浮かべた。「あの人が言う『希望』ってのは、たぶん、俺たちの手の届かないところにあるもんなんだよ」

エルマは俯いた。トビーの言葉は、冷たい水のように心に染み込んできて、先ほど感じた安堵の温かさを掻き消していく。何かが違う。でも、何が違うのか、まだうまく言葉にできない。ただ、胸の奥がもやもやと曇っていくのを感じていた。

 

午後になると、アナスタシアは客人を連れてきた。竪琴を抱えた、有名な吟遊詩人だ。詩人は、エルマの「奇跡」の話に感銘を受けた表情を作り、アナスタシアに深々と頭を下げる。

「この子の清らかな御業を、ぜひ聖域中に歌で伝えさせてください。レディー・アナスタシア様の深い慈愛に包まれて、この小さな希望の光がいかに輝いているかを!」

「ええ、お願いするわ。人々の心を打つように、感動的にね。もちろん、私の名前と、この『希望の家』の素晴らしさを、くれぐれも忘れずに織り込んでちょうだい」

アナスタシアは、詩人の耳元で囁きながら、そっと金貨の入った袋を手渡した。詩人は恭しくそれを受け取る。

物語は、こうして作られていく。真実がどうであれ、人々が求める「美しい話」に仕立て上げられ、消費されていくのだ。エルマの戸惑いも、トビーの諦観も、スープの薄さも、その物語の中では語られることはない。それが世の常というものだろう。

 

 

ギデオン団長率いる「獅子の牙」騎士団の詰所は、ボルジア枢機卿の私室やアナスタシアの孤児院とは対照的に、質実剛健を装っていた。石造りの壁は剥き出しで、床には砂埃が舞っている。壁には「民衆と共に」「正義は力なり」といった勇ましいスローガンが墨痕鮮やかに書かれているが、よく見ると所々インクが掠れ、薄汚れているのはご愛嬌か。磨き上げられた剣や槍が壁に掛けられている一方で、部屋の隅には埃をかぶった雑多な武具が積み重ねられており、その落差が奇妙な印象を与えた。

 

部屋の中央では、団長のギデオンが、部下であるバルトを前に熱弁をふるっていた。ギデオンは平民出でありながら、そのカリスマ性と剣の腕で団長の地位にのし上がった男だ。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その目には野心の色が隠しようもなく宿っている。

「聞け、バルト! 我々が待ち望んだ時が来たのだ! あのエルマという娘…あれは天が我らに与えたもうた『革命の旗印』よ!」

ギデオンは拳を握りしめ、力強く言い放った。その声は、聞く者の心を掴み、奮い立たせる力を持っている。

「腐敗した貴族ども、己の贅沢のために民を虐げる聖職者…奴らはもはや聖域の寄生虫だ! 我ら『獅子の牙』が、民衆を率いて立ち上がり、真の正義を取り戻さねばならん! そして、その先頭に立つのが、あの『聖女』エルマなのだ!」

 

バルトは、ギデオンの言葉に目を輝かせ、心酔しきった表情で頷いていた。彼は貧しい村の出身で、ギデオンの掲げる理想に強く共鳴し、団に入ったのだ。団長の言葉は、彼の信じる正義そのものに聞こえた。

「はい、団長! あの御方ならば、きっと民衆も我らに…!」

「そうだとも!」ギデオンはバルトの肩を力強く叩いた。「あの娘の純粋さ、その『奇跡』の力は、我らの大義を何よりも雄弁に語るだろう。少々手荒なことをしても、あの娘を我らの『象徴』として掲げれば、民衆は疑うまい。むしろ、我らを解放者として崇めるはずだ。利用できるものは、何でも利用する。それが勝利への道だ」

ギデオンの口調は熱を帯びていたが、エルマを語るその目には、道具を見るような冷たさが一瞬よぎった。バルトは、その一瞬の冷たさに、胸の奥で微かな棘のようなものを感じた。エルマを『象徴』として『利用する』…その言葉の響きが、なぜか腑に落ちない。だが、偉大な団長の言葉に異を唱えることなど、彼にはできなかった。彼はその小さな違和感を、熱狂の奥底へと押し込めた。

 

「…準備は進んでいるな、バルト?」ギデオンは声を低めた。「地下の『客室』は、いつでも使えるようにしておけ。我らの『正義』に異を唱える愚か者が現れぬとも限らんからな」

「は、はい!」バルトは反射的に答えた。「客室」と呼ばれる地下室が、実際には何に使われる場所なのか、彼は知っていた。知っていて、目を背けている。

ギデオンは満足げに頷くと、窓の外、彼がこれから支配するであろう聖域の街並みに目をやった。その横顔には、民衆の解放者というよりは、新たな支配者の相貌が浮かんでいた。

正義。革命。解放。耳障りの良い言葉は、いつの時代も権力を欲する者の便利な道具となる。それが人間の歴史というものだ。バルトのような若者がその熱に浮かされ、やがて現実を知って絶望するか、あるいは自身もまた染まっていくか。どちらに転んでも、ありふれた結末に過ぎない。

 

 

影溜まり。その名は体を表す。聖域の光とは無縁の、湿った裏路地。鼻をつくのは、腐敗した生ゴミと汚水の混じった悪臭。足元にはぬかるみが広がり、壁という壁には意味不明な記号や悪意のこもった落書きが幾重にも重ねられている。ここでは、影のように生きる者だけが呼吸を許される。

 

その奥深く、雨漏りの染みが地図のように広がる天井の下に、情報屋クロウはいた。部屋は古紙と得体の知れない物品で溢れ、ランプの弱々しい光が埃の中で揺らめいている。クロウ自身も、この淀んだ空気に溶け込むように、痩せこけ、猜疑心に満ちた目をしていた。過去に犯した「しくじり」の記憶が、常に彼をこの場所に縛り付けているかのようだ。

音もなく現れた人影に、クロウはびくりと肩を震わせたが、すぐに卑屈な媚び笑いを浮かべた。

「お待ちしておりやした、旦那。抜かりはありやせん」

 

そこに立っていたのはゼノだった。外套のフードがその表情を隠している。クロウは、そのフードの下にあるであろう冷たい視線を想像し、背筋に汗が滲むのを感じた。

ゼノが放った革袋が、鈍い音を立てて床に転がる。金貨だ。クロウは這うようにそれを拾い、重さを確かめると、震える手で油紙の束を差し出した。

「へい、お約束の…枢機卿様ご執心の『愛人』が、敵対派閥の男爵と密会してる証拠写真でさ。それから、アナスタシア様の『慈善事業』、どうも帳簿の数字と孤児の数が合わないようで…消えた子供がどこへ行ったのか、妙な噂も。あと、ギデオン団長が闇市場から仕入れてる武器、あれ、実は古代の呪詛が込められた禁制品でして…」

 

一つ一つ報告するクロウの声は、後半になるにつれて僅かに上擦っていた。彼自身、情報の持つ危険性を理解しているのだ。

ゼノは書類と写真を無言で受け取り、ランプの光にかざした。密会写真に写る男女の顔、帳簿の不自然な数字、禁制品の武器に刻まれた禍々しい紋様…それらを眺めるゼノの口元に、隠しようのない愉悦の歪みが浮かんだ。まるで、美しい毒虫の標本を丹念に観察するかのようだ。

「…実に、興味深い」ゼノは低い声で呟いた。「この『消えた子供』の行き先、もう少し探ってみろ。それから、この呪われた武器、使用した場合、術者にどのような『代償』があるのかもな」

 

「へ、へい…! かしこまり…!」クロウは必死に頷いた。ゼノの要求は、常に命懸けの領域に踏み込ませる。だが、逆らえばどうなるか、彼は身をもって知っていた。

ゼノは満足げに頷くと、音もなく影の中へと溶け込むように消えた。

クロウは、金貨を握りしめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。手の中の金は重いが、心はそれ以上に重い。ゼノが蒔こうとしている破滅の種。その片棒を担いでいる自覚が、冷たい泥のように彼に纏わりつく。

 

だが、それがどうしたというのだ。この影溜まりでは、誰もが何かの代償を払い、何かに怯えながら生きている。情報という名の劇薬が、また誰かの運命を狂わせ、誰かの歪んだ好奇心を満たすだけ。悪意の歯車は、今日も変わらず、軋みながら回り続ける。それだけの話である。

 

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