希望のエルマ 作:Gemini
富豪オルクス老の邸宅は、聖域の中心部に位置する壮麗な館だった。金箔で飾られた柱、磨き上げられた大理石の床、天井からは巨大な水晶のシャンデリアが下がり、壁には高価な絵画が隙間なく飾られている。富という富を吸い尽くしたような空間だ。だが、その全てが虚しく見えた。なぜなら、この館の主は、その富では買えないもの――健康と時間――を失いかけているからだ。
寝室は、豪奢さとは裏腹に、濃厚な薬草の匂いと、死の気配に満ちていた。天蓋付きの巨大なベッドに横たわるオルクス老は、骨と皮ばかりに痩せ衰え、浅い呼吸を繰り返している。かつて聖域経済界を牛耳った眼光は失われ、今はただ、混濁した目で天井の装飾を見つめているだけだ。あらゆる名医も匙を投げた、不治の病。彼は、その富の全てと引き換えにしても、あと一日、いや、あと一時間でも生きたいと願っていた。
そこに、ボルジア枢機卿が、エルマを伴って現れた。ボルジアは、病人の枕元で神に祈りを捧げる慈愛に満ちた聖職者の顔を作り、オルクス老の手を優しく握った。
「オルクス殿、アルボスはあなたを見捨ててはおられません。この子をごらんなさい。神が遣わされた、奇跡の使者です」
エルマは、ベッドの傍らに進み出た。豪華すぎる部屋と、重苦しい病の気配に少し気圧されながらも、痩せこけた老人の苦しそうな顔を見ると、純粋な同情心が湧き上がった。彼女は、以前見つけた「特別な薬草」の束を、震えるオルクス老の口元へと近づけた。
「おじいさま、これを…」
そして、小さな手を老人の額にかざし、一心に祈った。病が癒えるように、苦しみが和らぐように。淡い緑色の光が、エルマの手から薬草へと注がれる。すると、薬草はまるで生きているかのように鮮やかな緑を取り戻し、芳しい香りを放ち始めた。
ボルジアは、固唾を飲んでその様子を見守っていた。彼の目には、宗教的な感動ではなく、鑑定家が稀少な宝物を見つけた時のような、鋭い光が宿っている。
オルクス老が、かすかに動いた。薬草の香りを吸い込み、ゆっくりと目を開ける。その目に、微かな生気が戻っていた。血の気が戻り始めた顔で、彼はエルマの手を弱々しく握り返した。
「…あ…りが…とう…聖女…さま…」
それは、何年も忘れていた、力のある声だった。奇跡は起こったのだ。少なくとも、この場にいる人間にとっては。
「おお、アルボスよ…!」ボルジアは天を仰ぎ、感謝の言葉を述べたが、その目は素早くエルマが持っていた薬草の束に向けられていた。なんと素晴らしい効能。しかも、エルマの力があってこそ、真価を発揮する代物らしい。これは、独占せねばなるまい。他の誰にも渡してはならぬ。
「エルマ、よくやりました。さあ、オルクス殿はもうお休みになられた方がよいでしょう」
ボルジアはエルマを促し、名残惜しそうにする彼女を伴って部屋を出た。オルクス老は、新たな希望に満たされた表情で、安らかな眠りについていた。彼がボルジアに約束した莫大な寄付金は、すぐにでも教会に振り込まれるだろう。
廊下に出ると、ボルジアはエルマから薬草の束を半ば取り上げるように受け取った。そして、人懐っこい笑顔でエルマの頭を撫でた。
「この薬草は、教会で大切に保管しましょう。あなたは本当に素晴らしい力を持っている。まさに神の愛し子です」
エルマは、褒められたことに素直に喜びを感じながらも、ボルジアが薬草を見る目に宿る、ぎらついた光に、ほんの少しだけ胸騒ぎを覚えた。気のせいだろうか。
ボルジアは、エルマを下がらせると、一人廊下に残り、手の中の薬草を恍惚とした表情で見つめた。そして、誰に言うともなく、低い声で呟いた。
「…ふふ、これがあれば…。あの忌々しい自生地は、早々に始末せねばなるまいな…」
その顔には、先ほどの慈愛の仮面は欠片も残っていなかった。新たな金蔓を手に入れた強欲な商人の顔。それだけだ。薬草は、使い方次第で人を救うこともできれば、破滅を招くこともできる。無論、ボルジアの選択は後者であろう。それもまた、人間の性というものか。
レディー・アナスタシア主催の慈善晩餐会は、彼女の社交界における影響力を示す舞台装置として、完璧に設えられていた。場所は彼女自身の壮麗な邸宅の大広間。天井からは星屑のように煌めくシャンデリアが下がり、壁には金縁の鏡と絵画が飾られ、テーブルには銀食器とクリスタルグラスが眩いばかりに並んでいる。運ばれてくる料理は、見た目も香りも最高級のものばかりだ。聖域の贅沢を知り尽くした貴族たちが、最新の流行の服に身を包み、洗練された(と彼らが信じている)会話を交わしている。今宵の主役は、もちろんアナスタシアと、彼女が「見出した」奇跡の少女、エルマだ。
「さあ、エルマ、あなたの出番よ」舞台袖で、アナスタシアはエルマの肩を優しく叩いた。その声は甘いが、視線はエルマではなく、広間を満たす貴族たちへと注がれている。近くにいた別の孤児が、おずおずとアナスタシアのドレスの裾に触れようとしたが、彼女は気づかないふりをして、冷たくその手を振り払った。「練習通りに、心を込めて話すのよ。皆、あなたの言葉を待っているわ」
エルマは、アナスタシアから渡された羊皮紙を握りしめ、緊張で強張った足取りで、広間の中央に設けられた小さな演台へと進んだ。一斉に注がれる視線。貴族たちの好奇と期待、そして値踏みするような目が、彼女の小さな体に突き刺さる。
「わ、私は…孤児院『希望の家』のエルマです…」震える声で、エルマは話し始めた。それは、アナスタシアが考え、何度も練習させた言葉だった。「レディー・アナスタシア様は、私たちにとって、太陽のようなお方です。いつも温かく、優しく、私たちに希望を与えてくださいます。あの日、アナスタシア様が私を見つけてくださらなければ、私は今も暗い片隅で…」
エルマは、書かれた言葉を辿りながら、孤児院での日々を思い出そうとした。水っぽいスープ、硬いパン、アナスタシアの無関心な視線…しかし、目の前の煌びやかな世界と、羊皮紙に書かれた「美しい物語」が、その記憶を上書きしていく。彼女は、自分が誰のために、何のために話しているのか、分からなくなりそうだった。
「…アナスタシア様のおかげで、私たちは毎日、温かい食事と、清潔な寝床で、幸せに暮らしています。心から、感謝しています…」
言い終えると、広間は感動したような拍手に包まれた。貴婦人の中には、レースのハンカチで目元を押さえる者もいる。彼らは、この「感動的な物語」に酔いしれ、自らの「慈善の心」を確認して満足しているのだ。中には、退屈そうに欠伸を噛み殺したり、隣の相手と別の噂話に興じたりしている者も散見されたが、大勢には影響しない。アナスタシアは、満足げな笑みを浮かべ、エルマを優しく抱きしめた。計算通りの成功だ。
エルマは、拍手の中、逃げるように演台を降りた。人々の視線から隠れるように、広間の隅、給仕用の通路へと向かう。ちょうどその時、壁の影からひょっこりと顔を出した者がいた。トビーだった。彼はどうやってか、この厳重な警備を潜り抜け、こっそりと様子を窺っていたらしい。
「よお、大女優」トビーは、皮肉っぽい笑みを浮かべて囁いた。「ずいぶん感動的なスピーチだったじゃねえか。『温かい食事』ねえ…今日のスープ、いつもより水っぽかったけどな」
「トビー…!」エルマは声を潜めた。「どうしてここに…」
「ちょっと野次馬さ。それより、あんた、本気であんなこと信じてんのか? あの人たちが、俺たちのことなんてこれっぽっちも考えてないって、まだ分かんねえのか?」
トビーの言葉が、エルマの胸に突き刺さった。さっきまで感じていた混乱と違和感が、確かな形を持った疑念へと変わり始める。あの拍手、あの笑顔、あの温かい言葉…その全てが、薄っぺらな嘘のように思えてきた。
「…わからない」エルマは、か細い声で答えるのが精一杯だった。
「ふん、まあ、すぐに分かるさ」トビーは肩をすくめると、再び影の中へと姿を消した。「せいぜい、お姫様ごっこを楽しめよ」
エルマは一人、その場に立ち尽くした。胃の腑が冷えるような感覚。さっきまでいた華やかな広間が、今はまるで、張りぼての舞台装置のように色褪せて見えた。胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に、壊れ始めている。
貴族たちの嬌声と、食器の触れ合う音が、遠くに聞こえる。彼らにとって、エルマのスピーチは、今夜の豪華なディナーを彩る、ちょっとした余興に過ぎない。それだけのことだ。
貧民街は、聖域の華やかさとは隔絶された泥濘だった。腐臭漂う路地には痩せた犬がうろつき、陽の光も届かぬ家々からは、絶望の色を映した目だけが覗いている。そこへ、ギデオン団長と「獅子の牙」が現れた。磨かれた武具が、この煤けた場所では異様に輝いて見える。荷馬車に積まれた袋が、人々の視線を釘付けにした。
「同胞よ! 顔を上げよ!」ギデオンの声は、この澱んだ空気を切り裂くように響いた。「腐敗した者どもが貪る富は、本来汝らのものだ! 我らはその一部を取り戻した! これは支配者からの施しではない! 汝らが勝ち取るべき権利の、ほんの始まりに過ぎぬのだ!」
熱狂が伝播する。「ギデオン様!」「我らが団長!」。飢えた胃袋と、抑圧された怒りが、彼の言葉を神託のように受け入れた。真偽など、もはや問題ではない。必要なのは信じられる旗印だけだ。
エルマは、配給の列に立つ人々の前に立たされた。彼女が手渡すパンは、石のように硬く、酸っぱい匂いがした。穀物の袋はずしりと重いが、中身は半分以上が籾殻(もみがら)だった。貴族がこんなものを食べているとは到底思えない。背後では、騎士団員が列に割り込もうとした子供を乱暴に突き飛ばし、仲間と下卑た笑い声を上げている。エルマは唇を噛み締めた。差し出す手が震える。これが、ギデオン団長の言う「権利」の味なのだろうか。
バルトは、群衆を制するように立ちながら、その光景から目を逸らしたい衝動に駆られた。この籾殻混じりの穀物は、団長が懇意にしている悪徳商人が、賞味期限切れの古古米に混ぜて納入したものだ。パンに至っては、家畜の飼料用だったと聞く。団長は言う、「大義のためには清濁併せ呑む必要がある」と。だが、目の前の、希望を求める人々の顔と、エルマの痛ましげな表情を見ていると、胃の腑が冷たくなるのを感じる。彼は無意識に、剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめていた。
「聖女様…ありがとうございます…」栄養失調で歯の抜けた老婆が、震える手でパンを受け取り、エルマに縋るように頭を下げた。エルマは、その老婆の濁った目を見返すことができず、俯いた。ありがとう、と言われる資格が、自分にあるとは思えなかった。この老婆は、硬いパンと籾殻を「権利」だと思って感謝しているのだ。その事実が、鉛のようにエルマの心を重くした。
ギデオンは、高台からその全てを満足げに見下ろしていた。民衆の熱狂、エルマの存在感、騎士団の威容。全てが計算通りだ。この単純な生き物たちは、僅かなパンと勇ましい言葉で、容易く彼の駒となる。彼は、この光景に、未来の自分の権力の礎を見ていた。
やがて配給は終わり、熱狂は去った。残されたのは、僅かな(そして質の悪い)食料と、人々の心に新たに刻まれた「ギデオンへの期待」という名の熱病。腹の足しにもならぬその熱病が、果たして飢えよりも先に彼らを蝕むことになるのか、それとも…。まあ、どちらにせよ、この泥濘の現実が変わることは当分あるまい。それもまた、一つの真理というやつだ。
聖域の古文書庫は、忘れられた知識と時間の埃が堆積する場所だった。高い天井まで届く書架には、革や羊皮紙で装丁された無数の書物が、墓標のように整然と、あるいは無造作に並んでいる。空気は乾燥し、紙とインクの古い匂いが満ちていた。差し込む光は僅かで、書架の影が迷宮のように伸びている。エルマは、ボルジア枢機卿に命じられた「古代の薬草に関する記述」を探して、この静寂の中にいた。分厚い書物を紐解きながらも、彼女の心はここ数日の出来事でざわついていた。
ふと、エルマは背後に人の気配を感じて振り返った。書架の深い影の中から、音もなくゼノが現れた。まるで、最初からそこにいたかのように。エルマは息を呑み、警戒心を露わにした。この男は、いつも不意に現れ、不穏な言葉を残していく。
「やあ、聖女様。こんな埃っぽい場所で熱心だね。何かお探しかな?」
ゼノの声は、この静かな空間には不似合いなほど軽い響きを持っていたが、その目にはいつもの冷ややかな光が宿っていた。
「あなたこそ…」エルマは言いかけて口をつぐんだ。この男に何を言っても無駄な気がした。
「まあ、立ち話もなんだ。少し休憩したらどうだい?」ゼノはそう言うと、近くの書見台に寄りかかった。その動きはさりげなかったが、彼が動いた拍子に、外套の内ポケットから数枚の紙片がはらりと床に落ちた。古びた羊皮紙の切れ端のようだ。
ゼノはそれに気づかぬふりをして、別の書架に目を向けている。エルマは、床に落ちた紙片に視線を落とした。拾うべきか、無視すべきか迷ったが、好奇心が勝った。彼女はそっとそれを拾い上げる。
一枚目には、どこかの部屋の見取り図の一部らしきものが描かれていた。壁の一部が奇妙な構造になっている。ボルジア枢機卿の私室の、あの歪んだ肖像画の裏側だろうか…?
二枚目には、子供の名前らしきものがいくつか、乱雑な字で書き連ねられていた。そのうちのいくつかは、孤児院から最近「里子に出された」とアナスタシアが言っていた子供たちの名前と一致する気がする。しかし、行き先を示すような記述はない。リストの最後には、判読不能な記号が添えられていた。
三枚目には、禍々しい紋様と、古代文字で書かれた短い警告文のようなものが記されていた。「…魂を喰らう代償…制御不能なる憎悪…持ち主に返る呪い…」。ギデオン団長が部下に見せていた、あの新しい剣に刻まれていた紋様に似ているような…。
エルマの手が震えた。頭が混乱する。ただの偶然? ゼノの悪戯? それとも…。彼女がこれまで見てきたこと、感じてきた違和感が、これらの紙片によって、恐ろしい形を結び始めようとしていた。否定したい。信じたくない。でも、無視するにはあまりにも符合しすぎている。
「おや、何か面白いものでも見つけたかな?」ゼノが、いつの間にかエルマの背後に立っていた。その声には、愉悦の色が隠しきれていない。
エルマは慌てて紙片を握りしめ、ゼノから隠そうとした。
「別に…なんでもない…」
「そうかい? だがね、エルマ。真実というものは、必ずしも心地よい姿をしているとは限らない。時には、知りすぎることが不幸を招くこともあるのさ。さて、君はその『なんでもないもの』をどうするのかな?」
ゼノは、意味深な笑みを浮かべると、再び影の中へと溶け込むように姿を消した。彼の言葉が、エルマの心に重くのしかかる。どうする? この紙片をボルジアに? アナスタシアに? ギデオンに? いや、彼らに見せればどうなる? 握り潰して捨てる? 見なかったことにする?
エルマは、古文書庫の静寂の中、ただ一人、震える手で紙片を握りしめたまま立ち尽くした。知識は光だと言われる。だが、時にそれは、人を焼く業火ともなる。知ってしまったという事実は、もう消せない。彼女の純粋な世界は、この瞬間、決定的な亀裂を生じたのだ。それもまた、人間が背負うべき業(カルマ)の一つなのかもしれない。
影溜まりの悪臭にも慣れたのか、クロウは以前ほどの怯えを見せず、淡々とゼノに報告を続けていた。彼の足元には、くしゃくしゃになった羊皮紙の束が散らばっている。それらは、聖域の上流階級で交わされる、匿名の悪意そのものだった。
「…へい、てな訳でして。枢機卿様はアナスタシア様の横領疑惑の証拠(捏造かもしれやせんが)を掴んでご満悦。アナスタシア様はギデオン団長の武器密輸ルート(こっちは確かな筋かと)の情報を手に入れて、反撃の機会を窺ってる様子。んで、団長は枢機卿様の愛人スキャンダルをどう料理しようか思案中ってところでさ」
クロウは肩をすくめた。「どいつもこいつも、自分のことは棚に上げて、他人の足を引っ張るのに夢中ですぜ」
ゼノは、クロウが集めてきたそれらの情報を、まるで駒を並べるように机の上に広げ、指先で弄んでいた。一つ一つは、ありふれた中傷や、根拠の薄い噂に過ぎないものも多い。だが、組み合わせ、少し手を加え、適切な相手に、適切なタイミングで囁けば、それは致命的な毒となり得る。
「面白いじゃないか」ゼノは呟いた。その声には、化学者が新しい化合物の反応を観察するような、冷たい好奇心が滲んでいた。「例えば…アナスタシアの横領金が、ボルジアの愛人への贈り物に使われている、とか。あるいは、ギデオンの呪われた武器は、アナスタシアがボルジアを呪殺するために用意したものだ、というのはどうだろう?」
「へ…? そ、そんな馬鹿な…!」クロウは目を丸くした。あまりにも荒唐無稽な組み合わせだ。
「馬鹿げているからいいのさ。人は、信じたいものを信じる。特に、憎しみや恐怖に駆られている時はね」ゼノは、数枚の紙片を手に取ると、クロウに指示を出した。「これを、それぞれの『関係者』に、それとなく届けてやれ。匿名の手紙でも、偶然耳にした噂話でもいい。手段は任せる」
ゼノの蒔いた毒は、瞬く間に聖域の上層部へと広がっていった。
ボルジアは、アナスタシアが自分の愛人まで手懐けている(そして自分の金を使っている)と信じ込み、怒りに顔を紫に変えた。アナスタシアは、ギデオンが自分を排除するために呪いの武器を用意していると確信し、恐怖と憎悪に震えた。ギデオンは、ボルジアとアナスタシアが裏で手を組み、自分を陥れようとしていると考え、先手を打つことを決意した。
彼らは、情報の真偽を確かめようともせず、ゼノが巧妙に仕掛けた疑心暗鬼の罠に、いとも簡単に嵌っていったのだ。互いへの不信感は決定的なものとなり、もはや修復は不可能。水面下での牽制や足の引っ張り合いは終わり、剥き出しの敵意が、破滅へのカウントダウンを刻み始めた。
エルマ? あの娘のことなど、彼らの頭からはすっかり消え失せていた。今はただ、目の前の敵をどう排除するか、それだけだ。
ゼノは、影溜まりの屋根の上から、見えざる糸で操られる人形たちの、滑稽で醜い足掻きを眺めていた。彼の口元には、満足げな笑みが浮かんでいる。計画は最終段階へと移行する。あとは、彼らが自ら破滅の舞台へと駆け上がっていくのを待つだけだ。
人間の愚かさとは、学習しないことにある。歴史は繰り返す。権力者は腐敗し、互いに喰らい合い、自滅していく。いつの時代も、どこの世界でも見られる、ありふれた光景。そして、それを観察するのは、なかなかどうして、飽きないものだ。