「おはようございます」
階段を降りたところで声がした。
畳敷きのこぢんまりとした居間の真ん中に小さなテーブルが置かれ、ごはんやみそ汁が湯気を
立ている。ほどなく奥の台所から湯のみを手にした利江と、和服にエプロンをつけた母親
らしき女が現れた。
《吉野春江 28歳 夫の遺した家で下宿を営んでいます》
その設定関係ある?とは口にしなかった。
年齢より若くというか幼く見えるのはまあ、仕様だろう。
「よく眠れました?」
「はあ、まあ」
「ケンちゃん、はやくはやく」
待ちきれないとばかりに卓についた利江がポンポンと隣の座布団をたたく。急かされるまま
座布団に腰を下ろすと同時に「いただきます!」と利江が椀を引き寄せた。
「もう、はしたない。健一さんもどうぞ」
「あ、はい」
相づちを打ちつつ差し出された湯のみを受け取る。手に伝わる温度と茶葉のにおい。
「いただきます」
「はいどうぞ」
みそ汁をすする。次に白飯と分厚い卵焼き。
味覚にも不具合は無いようだ。
「…おいしいです」
「ふふ、おそまつさまです」口に手を当てて春江が笑った。
妙に気を遣う食事を終え用意した着替えを済ませると、ランドセルを背負った利江が
玄関に立っていた。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
利江に手を引かれ、ガラガラと引き戸が開く。舗装のない砂利道に似たような家々がひしめき
合い、所々に木製の電柱が見える。
「おはよう。リエちゃん」「おはよう、おばあちゃん!」
道を歩くお年寄りのあいさつに倍のボリュームで利江が答えた。
「おはよう。気をつけて行きな」「うん、気をつける!」
会うたびに挨拶を返し、返す度につないだ方の手がぶんぶんと振られる。
そんな調子で歩くこと十数分、ようやく学校らしき建物が見えてきた。
「リエちゃん、おはよう」
黄色い帽子に赤のランドセルを背負った少女がふたり、道の先で手を振っている。
背格好からして同学年くらいか。
「おはよう!あっちゃん!」
ぱっ、と手を離した利江は「またねケンちゃん」とあっちゃん達に向かって駆け出した。
「おう新入り」
朝の通りは通学中の学生や背広のNPCでにぎわっていたので、誰に呼ばれたのか
すぐにはわからなかった。
「もう歩いて平気なのか」
声のほうを振り返ると、白いシャツにスラックスをはいた中年が立っている。
見た目に心当たりはなかったが、すぐに見当はついた。
「オレだよ、ほら、あの…」「あー、わかりますわかります」
何のヒントにもなりそうにない身振り手振りに、とりあえず返事をする。
まさかこの段階で正体がばれてまずいフラグも立たないだろうが、周囲のいぶかしむ視線を
無視して話を続けるのは抵抗がある。なにより声がでかい。
「いやー急所は外れたって言ったってあんなに血が出ちゃあよ、顔なんか真っ白で本当にし」
「場所変えませんか」
通学路を離れてしばらく歩き、橋のかかった川をわたると、やたら交通量の多い道に出る。
角ばった車が行き交う通りに沿って進むうちに道幅は広がり、高い建物が目立ち始め
やがてチュートリアルで見た街並みへと変わった。
「もしかして、移動はいちいち歩かないといけないのか、これ」
《その必要はありません。自動車などを使用することでより効率的》
「いやそうじゃなくて」
「どうした。何か言ったか?」歩きながらおっさんが振り返った。
「ああ、いや。この辺は初めてで…」
NPCとはわかっていても、何かと気をまわしてしまうのは挙動のリアルさ故か。この調子では
気軽に質問もできない。
「悪いな。こっちも色々事情があって、場所の方も…ああ、そこ左な」
オフィス街の大きな道をひとつ折れると、アーケードつきのやや暗い路地に入る。
うどん屋。時計屋。そして古本屋。
「ここだ」
看板には『喫茶・カラオケ TAOTAO』の文字。丸みをおびたアーチ状のひさしにオレンジの
ビニールをはった、文句のつけようのない喫茶店だ。
おっさんこがガラス戸を押すと、カラカラとベルが鳴ってコーヒーのにおいが流れる。
なかは思いのほか広かったが、客の姿はなくカウンターには初老のマスターが一人。
その前には丸イスが並び、奥にはソファ席が見える。
「コーヒーセット2つ」
注文をしながらおっさんが奥のソファに座ったので、自分はその向かい側に腰を下ろした。
テーブルにはメニューと朝刊がおかれている。4月5日 土曜日。元号や西暦は見当たら
ないが、記事は細かく書き込まれている。
「よくわかったな」
言いながら、おっさんは6・4・5と指で数字を示す。
「はい、まあ、声で」
声も何も他に該当者はいないのだが、わざわざ説明はしなかった。
お待たせしました、とコーヒーとトーストを置いて店員が去ると、645はタバコを取り出した。
「上から言われてな。お前さんの世話をすることになった」
「世話…」
「まあ、教育係ってヤツよ。今後も仕事を続ける上で…続けるんだよな?」
「続けますよ。金も欲しいし」
NOと言ったらどうなるか、興味がなくはなかったが、ここは素直に答えることにした。
「そうか。じゃあ、またあとでな」
一瞬の浮遊のあと、息が止まるような風圧が全身を叩いた。座っていたソファがぱっくりと割れ、そのままダストシュートのような細長い空洞を地下深くまで滑り落ちたのだ、と理解するのは
しばらく後のことで、その場の主観視点では何が何やらわかるはずもない。
だん、と足裏に伝わる感触で、ともかく床に着いたことを理解する。
続いて見えたのは、ひんやり湿った空気に立ち込めるドライアイスのような煙。
機械か内臓か判然としない造形の壁を、光源のわからない赤黒い光がぬらぬらと照らしている。
ここはどこか、と訊くまでもなかった。
アジトだ。