転生美少女、胃痛で死にそうです 作:匿名希望
申し訳ございません
目の前で狼が低く唸る。闇に溶けたその体は輪郭すら掴めず、二つの瞳だけが妖しく光を放つ。
牙をむき、ゆっくりと前脚を踏み出す──その瞬間、森全体の空気が凍りついたかのように重くなる。
(進化……このタイミングで!?)
災厄が成長することなど分かり切っていた。
(それが、倒された片方を吸収する……とか)
でたらめもいいとこだ。
体が無意識に後ろへ跳び、剣を握る手に力がこもる。
(いよいよ、本格的にまずいかもな……)
こちらは無理をしたせいで体にガタが来ている。それでも、さっきまでの狼なら──もう一度無理をすれば倒すことはできただろう。その後のことはともかく。
だが、今はどうだろうか。そう考えること自体が、答えを物語っていた。
狼が吠える。そして、その姿が一瞬ぶれた。
──次の瞬間には俺の体は宙を舞っていた。
「な──!?」
油断など、しているはずもなかった。一瞬たりとも目を離していない。ただの瞬き。その刹那で、狼は彼我の距離を詰めてきたのだ。
(速──すぎる!通り過ぎた動きの軌跡が見えるだけで、動きそのものが全く分からない!)
空中で必死に体を立て直す。が、それよりも早く再度衝撃が襲った。
横合いからの一撃に弾かれ、着地の形を失う。地面に足をつける間もなく、次の衝撃。
暗闇の中を黒い残影が駆け抜け、風を裂く音とともに爪が首筋を掠める。
次の瞬間には背後から牙が迫り、吐き出された熱い息が耳を焦がした。
「くっ!」
形勢は完全に逆転していた。
こちらは相手の居場所すらわからず、先ほどとは逆に速度でも負けている。限界まで身体強化を流して、その上で
一撃受ければ骨が軋み、かすれば血が散る。息を吸う暇も、視線を定める余裕すらも奪われる。
ほんの一秒に満たない間に、何度も殺意が通り過ぎていった。
(このままじゃジリ貧だ……いや、それ以前に反撃の糸口すら──)
攻勢に転じる、どころの話ではなかった。
こうしている間にも刻まれる傷は増えていく。打開の糸口を見つけようにも、少しでも気を逸らせば瞬く間に牙が俺を貫き、永遠に森で眠ることになるだろう。
更に言えば、厄介なのはただの常軌を逸した速さだけではなかった。
墨を垂らしたような漆黒の闇。暗いという表現すら生温い。まるで光を飲み込んだかのような暗闇こそが、最も恐れるべき敵だった。
(元から薄暗くはあったが……今は木漏れ日すらない完全な「闇」だ。どう考えてもまともじゃない)
一寸先すら見通せぬとはまさにこのことか、と場違いな考えすら浮かぶ。
超高速で暗闇の中を動き回り、その攻撃は一つ一つが致命的。いっそ笑えるほどに絶望的な状況だった。
(カウンターしかない。今どこにいるかわからなくても、攻撃をする瞬間は間違いなく「そこ」にいる。その瞬間に、至近距離で最大火力を打ち当てる)
一番の問題は、それが実行できるのか、ということなのだが。
言うのは簡単だが、超高速で動く相手にカウンターを当てるのは当然容易ではない。それも、視界を遮られているならなおさら。
だが、やるしかない。
(落ち着け。焦りこそ最大の敵。その時は必ず来るはずだ)
息を吐く。目を閉じ、剣を体の横に構えた。怖い。今すぐにでも逃げ出したい。だが、逃げることは許されない。他の誰でもない、自分自身が。
(大丈夫だ、自分の感覚を信じろ。……見えなくても、気配は感じられるはずだ)
後のことなど考えず、ひたすらに魔力を回して体を強化した。
微かに聞こえる音と、感じる気配のみを頼りに最低限の動きで四方八方の攻撃を捌いていく。
(前、右、前、上、左、後ろ)
一度でも間違えれば、死ぬ。極限状態であることが、逆に感覚を研ぎ澄ましてくれるようだった。
チャンスは一度切り、失敗すれば手痛い反撃を受ける上、二度とカウンターは打たせてくれないだろう。
(……違う、まだだ。呼吸を合わせろ、殺意の鼓動を聞け──)
爪が制服を切り裂き、牙が体に突き立てられる。致命傷になりうる攻撃だけを防いで、それ以外のリソースを敵の行動予測に充てる。
そうして耐え続け、最早立っているものやっとという状況になって──ようやく、その時は訪れた。
(──来る)
この短時間で浴びるほどに感じた殺意。巨大な悪意の感覚。俺の命を刈り取ろうとする意志が、体中に突き刺さる。
その殺気が最も強いのは──。
(右、後方ッ!)
全身の力を、残る魔力を剣へ叩き込んだ。
刹那、黒い影が闇より躍り出る。
「そ、こぉぉぉおおおっ!!!」
衝撃。次いで、雷光。
真っ白になった視界の中で、腕を通して狼を切り裂く感覚だけが伝わってくる。
そして。
白光が支配する世界のなかで、パキン、という小さな音と、剣が砕ける感覚だけがあった。
視界を焼いた白が、ゆっくりと晴れていく。
耳鳴りの奥で、森は不気味なほど静まり返っていた。手応えは、確かにあったはずだ。全霊を込めた一撃は、完璧に捉えたはずだった。
だが、森を包む暗闇は未だ晴れる気配を見せず、ただ黒と静寂だけが支配している。
右手へ視線を向けると、そこには砕け散り、柄だけとなった「剣だったもの」が握られていた。
やがて、黒の中から一つの影が姿を見せる。
果たして、それは。
全身から流れる血で真っ黒だった毛並みを赤に染め上げ、爪も牙もかつてとは比べ物にならない程にボロボロになっていたが。
確かに健在な「災厄」そのものだった。
◇
(仕留め、きれなかった……!)
剣が限界であることはわかっていた。それでも、あと少しは耐えられると思っていたが……。
(魔力を込めすぎた……?いや、ああでもしなければここまでダメージを与えられなかった。悪いのは、今の一撃で仕留められなかった俺だ)
目の前の狼を睨む。血を流し、ボロボロになった体。もう一度か二度、攻撃を当てさえすれば倒すことができるだろうことは容易に見て取れた。
それが、可能であるかは別として。
(もう
狼がこちらを睨んでいる。その瞳には俺に対する怒りがありありと浮かんでいた。
狼が、一歩踏み出す。
──それを避けれたのは、偶然か、あるいは今までの攻防による必然か。
とにかく、殺気を感じた瞬間に右に飛んだ。
直後に、先ほどまで俺がいた場所に爪が突き立てられる。
「ガっ……!?」
焼けつくような痛みが肩を走り、視界が赤に染まる。
(避けたはず……なのに!?)
攻撃は間違いなく避けたはず。なのに、
(振り下ろされた爪と、背後からの牙……
あり得ない。目の前にいるのは一匹だけのはず。
だが、肩から響く鈍痛がそれが幻ではないことを確かに証明している。
全く同時に、しかし別々の方向からの攻撃が俺を狙っていたことを……!
一体どうやって?その答えはすぐにわかった。
「影が……分裂している……!?」
違う。より正確に言うなら、
墨を垂らしたように滲み、裂けた影が別の牙と爪を生み出している。
最早、それはただの狼ではなかった。暗闇そのものが姿を借り、形を成した怪物。
(……物理的に、闇と一体化している……!?)
考えている間にも、攻撃は止まない。一つの攻撃を避けても、全く同時に視界外から別の攻撃が飛んでくる。体を走る傷は瞬く間に増えてゆき、地面を血で濡らした。
反撃の術すら失い、攻撃を避けきることも出来ず、嬲られるように踊る。
今はまだ、動けている。しかし、それも時間の問題だった。
(相手も限界のはずだ、どうにか攻撃さえ当てられれば……)
そう思う。しかし、その「どうにか」がどうしようもなく遠い。
傷を負ったものの更に進化し、闇に溶けての攻撃を可能とした相手と、剣を失い、魔力も減っている俺。
どちらが有利かなど、火を見るよりも明らかだった。
「ぐっ……あぁぁぁあああぁッ!!!!」
超スピードで駆けてきた狼の牙が腹部へと突き刺さる。カッと、燃えるような痛みが広がった。
咄嗟に振り払おうとするも、逆に爪の攻撃を受け、更に弾き飛ばされる。なんとか受け身を取るも勢いを殺すことは出来ず、何度か転がった後に木にぶつかることで漸く止まった。
「がッ……!」
朦朧とした意識の中で眼前を見つめる。少し離れた場所から、狼がこちらを睨みつけていた。
(血を、流しすぎた……このままだと……)
視界が霞む。指先が冷たい。柄を握りこんでいる手がまるで他人の腕のようだ。
意識が朦朧としている。このまま何もできなければ、数秒後には間違いなく死ぬだろう。
(死ぬ……のか?俺は。こんなところで?)
体が冷えていく。血が抜けていく。魂が凍えていく。
(いいじゃないか。所詮、中身はただの凡人だったんだ。それにしては頑張った方だろ)
そうだ。平和な現代から転生なんてして、それが何の因果か「公爵令嬢」ときた。周囲からの期待に応えて、頑張って。
もう十分だろう。だから、ここで死んだっていい。ここで終わったって──。
「いい……わ、け……ないで、しょう!」
まだだ。
血を吐いて体を起こす。腹部の傷から、ぴゅうと血が漏れた。
なけなしの魔力を回し、腹部に空いた穴に治癒をかけて表面だけでも穴を塞ぐ。
霞んだ眼に力を入れ、眼前を睨んだ。
「ま……だ!まだ!
やるべきを、やる。この世界に生まれて、力を持っていることを理解して、他でもない
それが、まだ、何もできていないのに。
「死ぬわけには……い、か、ないッ!」
状況は絶望的だ。
──それがどうした。
まだ「芽」だ。本番はこれの比じゃないだろう。
──そんなの、わかりきってたことだ。
ここでこんな様じゃあ、災厄を倒すなんて夢のまた夢だ。
──その通りだ。でも。
だからと言って。
それが諦めていい理由にはならない。
そうでしょう?
◇
「とは、言ったものの……」
実際、ここから逆転するのは相当に厳しいというのも事実だ。こちらは満身創痍で、精々魔法を一発撃てるかどうか、と言った具合。
傷はあちらも似たようなものとはいえ、他はまるで比べ物にはならない。
と、そこまで考えて、ふと違和感を感じる。
(なぜ、攻撃してこない?)
先ほどまではあんなに激しく攻撃してきていたのに。
もう死んだとでも思っているのか、今は攻撃をしてくる気配がない。
更に、違和感はそれだけではなかった。
(最初は血を流しすぎたからだと思ったけど、違う。本当に周囲が
見れば、狼もどこか動きづらそうにしている。更に言えば、先ほどまで出ていた影も今は見当たらない。
暗闇の外で、何か音がした気がした。
(わからない。けど、間違いなくチャンスだ)
相手は一匹。影の奇襲はなく、攻撃方法は近接だけ。
これなら、何とかなるかもしれない。
問題は、どうやって攻撃を当てるか。結局はそこに終始する。
いくら動きが鈍っていると言っても、今の俺はそれ以上だ。最早一歩歩くだけでも命がけ、と言った状態。先ほどのような高速戦闘なんて、天地がひっくり返っても無理だろう。
そんな状態で相手に確実に、かつ至近距離で攻撃を当てなければいけない。
そんな都合のいい方法が──。
「あるにはあります、が」
ちらと腹部の傷へ目を落とす。辛うじて傷を塞いだだけのそれは赤黒く腫れており、少しでも無茶をすればまた傷が開くであろうことは想像に難くない。
もっと言えば、傷を塞いだだけで流れた血が戻ってきたわけでもない。
(悩んでいる時間はないか)
覚悟を決め、狼へ向けて雷撃を放つ。すぐに吸収されて空に溶けるように霧散するが、別に攻撃することが目的ではないので構わない。
これは挑発だ。お前の敵は生きているぞ、お前の敵はこちらだ、と告げるための。
目論見通り、狼はすぐにこちらに気がついた。あと数秒も経たずにこちらへ攻撃をしてくるだろう。
残った魔力の殆どを腕に回す。
狼がこちらへ駆けている。
恐ろしく速いはずのそれが、何故かスローに見えた。
口を開き、牙を突き立てようとしている。
──そして、俺は。
その口に対して腕を
激痛。強化してるにも関わらず、ばきり、と骨が砕ける音がした。でも、これで──。
「つ、か……まえ、た!」
狼の牙が腕の骨を砕き、その激痛に意識が飛びかける。だが、その牙こそが、俺の腕をその場に縫い付ける、最高の枷だった。噛まれた腕で、口内に突き立てた「剣だったもの」をさらに深くねじ込む。絶対に、離さない。
「
祈るように、最初の言葉を紡ぐ。途端に、腕を噛む顎の力が強まった。ばきり、と骨がさらに砕ける音が、頭蓋に直接響く。
「……
腹の傷が開き、熱い血が再び流れ出すのが分かった。視界が白く点滅する。だが、まだだ。まだ終われない。
「
パチパチ、と制御を失った魔力が火花となって、血と汗に濡れた前髪を焦がす。腕の感覚はもうない。ただ、自らが定めた役割を果たすためだけに、言葉を続ける。
「
世界から、音が消えた。
「
そして、最後の言葉が紡がれる。
全ての痛みを、決意を、そして後悔を、最後の一言に込めて。
「──