放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト 作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問
幸い、帰り道で新たな化け物に襲われることはなかった。それがこの夜の唯一の救いだったかもしれない。
背中のアシェラは最初はぐったりしていたが、途中からは意識もしっかりしてきたようで、時折身じろぎしたり、小さく息をついたりしていた。
この前はアシェラが家の近くまで送ってくれて、今夜はその役目を俺が果たしているのかと思うと、おかしな気分だった。そう思うとなんだかんだ言って、こいつは妙に律儀なところがある。
長い道のりの末、ようやくセーフハウスの建物にたどり着いたのは空が白み始める少し手前、午前3時を回った頃だった。
流石にへとへとで、アシェラを背負ったまま階段を上るのは拷問に近かった。夜も遅く、ドアを開けてもデライラの出迎えはなかった。
部屋に入ると彼女は自分で多少ふらつきながらも壁に手をついて立ち上がった。出血は完全に止まっているようだが、顔色はまだ悪く、疲れは全く取れていない様子だ。
「……悪いけど、シュウ」
アシェラが壁に寄りかかったまま俺を呼ぶ。
「冷蔵庫。一番下の棚、緑のパッケージのゼリー、取って」
言われるがままに冷蔵庫を開けると、確かに栄養補助食品のような緑色のゼリー飲料のパックがいくつか入っていた。それを一つ取り出して彼女に渡す。
アシェラはそれを受け取ると、手早く封を開け、一気に中身を飲み干した。行儀が良いとは言えない飲みっぷりだ。
そして、数秒後。
「……ふう」
彼女が息をつくと、目に見えてその顔色に赤みが戻り、浅かった呼吸も落ち着いてきた。体がたちまち回復していくのが分かる。
「な、なんだよ、それ……」
つい、その回復ぶりにドン引きしながら尋ねた。
「ああ、これ? 軍支給の超高カロリーゲルよ。緊急時の栄養補給と、組織再生用のエネルギー源。味は最悪だけどね」
アシェラは空になったパックをゴミ箱に放り投げながら、こともなげに言う。
「理論上は手足が全部無くなっても、これで再生分のエネルギーは賄えるわ」
そんなすごい代物なのか。
「って待て、なんで最初っから持ち運ばないんだよそれ。そしたらあんなに追い詰められずに済んだかもしれないじゃんか」
素朴な疑問を口にする。
すると彼女は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「保存性が最悪なの、これ。冷蔵してないと30分もすれば腐るのよ。それが一つ目の難点」
なるほど、かなりデリケートらしい。
「そして二つ目の難点。その腐ったゲルをもし誤って飲んだら、どうなるか……」
アシェラは、わざとらしく少し間を置いて、にやりと笑う。
「まあ、体験してみる? 向こう一週間はトイレと恋人になるけど。私で一週間だから、シュウはどうなるのかしら」
「い、いらねえ! 試すかそんなもん!」
想像しただけで背筋が凍る。絶対に飲みたくない。
「……まぁそういうわけで、これはあくまで緊急用。ダメージは回復できても、疲労までは取れないしね」
確かに彼女の顔色は戻ったが、目の下の隈や全体的な疲れた雰囲気は変わっていない。
「……それにしてもお互い、酷い格好ね。埃と汗まみれじゃない」
不意にアシェラが俺の汚れた制服を見て、顔をしかめた。
「そのままでこの部屋をうろつかれるのは、別に潔癖ってわけじゃないけど流石にちょっと……ね」
確かに廃幼稚園で暴れた後だ、汚れていないはずがない。
「シャワー浴びましょうか。私が先に浴びるから、アンタはそのあと。 タオルとかは棚にあるやつ、適当に使って」
言うと、彼女は当然のようにバスルームへ向かおうとして……また、こともなげに自分の着ているボロボロのインナーの裾に手をかけた。まるでここで脱ぎ始めるかのように。
「って、おい、待て待て待て! 何やってんだお前! ここで脱ぐな!」
反射的な叫びに、アシェラはきょとんとした顔で動きを止めた。
「ん? ああ、ごめん。いつもここには一人だから」
そう言って、インナーを着直して彼女はバスルームへと向かう。さっき俺をからかった時の面白そうな雰囲気はもう彼女の顔からは消えていた。もうその遊びには飽きた、とでも言うように。
そしてバスルームのドアに手をかけたところで、彼女はちらりと、温度のない視線だけをこちらに向けた。
「……ああ、それと」
低い、平坦な声。
「もし覗いたりしたら。ナニを根本からねじり切るから。覚えときなさいよ」
ひゅっ、と喉が鳴った。
本気だ、こいつの目は。
冗談めかしてはいるが、多分やる時は本当にやるんだろう。恐怖に背筋を凍らせながら、力なく頷くしかなかった。
パタン、とバスルームのドアが閉まる音がやけに大きく響く。
ようやく、一人か。
部屋に残され、どっと体の重さと疲労感が押し寄せてくる。アシェラが出てくるまで、少しは休めるだろうか……。
そのまま近くの壁にずるずると寄りかかり、浅い息を繰り返した。目を閉じて、意識だけでも飛ばしてしまいたい。
──だが、休まるはずがなかった。
シャワーの音が、静かな部屋に響き始める。
さっきまでの光景が、嫌でもフラッシュバックした。蒼い靄。
そうだ、忘れるな。
俺はとんでもない非日常の真っ只中にいて、いつまた『何か』に襲われるか分からない。
──なのに。
だというのに。
壁一枚隔てた向こう側で、アシェラがシャワーを浴びている。
その、あまりにも生々しい『事実』が、さっきまで苛んでいた恐怖も、疲労も、死の予感さえも、脳のメモリから一瞬で吹き飛ばしてしまった。
なんだこれは。俺の脳みそはどうなっている。
いや、違う。これは俺が悪いんじゃない。断じて。
そこまでアーパーになった覚えはない。
悪いのは、この状況だ。
背中に残る柔らかな感触。脳裏に焼き付いた脱ぎかけのアシェラ。そして、壁の向こうには今。
原始的で、抗いがたい
くそっ、なんだってんだ!
これ以上に男子高校生の
この状況こそがある意味、男子高校生にとっては究極にして至高の
あいつ、反則的に美人なのが本当に困る!
俺だって、
頭がおかしくなりそうだ!
命の危機の次には生存本能が来るってのは
頭の中で
興奮と、自己嫌悪がないまぜになって、本当に意識が飛びそうだ。壁にゴンゴンと額を打ち付けたい衝動を、最後の理性で押さえつけた。
そんな自己完結型の悶絶ショーのクライマックスを見計らったかのように。
ガチャリ、と音がしてバスルームのドアが開いた。
そこに立っていたのは、湯気をふわりと纏ったアシェラだった。
簡素なバスローブを一枚、無造作に羽織っただけ。腰で緩く結ばれた帯の隙間から、白い肌が覗いていて。シャワーで濡れた銀色の髪からは、水の滴が艶かしく首筋を伝っている。
洗い立ての肌はほんのりと桜色に上気していて。
それは──あまりにも、無防備で、致死量を超えた何か。
ふわりと漂ってくる、石鹸なのかシャンプーなのか、清潔で、少しだけ甘い匂い。
さっきまでの惨劇の記憶を上書きする、壊滅的なまでの破壊力を持った芳香。
俺のなけなしの理性は、ここで完全に断線した。
「……上がったわよ。アンタも入りなさい」
アシェラがまだ少し気怠げな、しかし魔性すら感じさせる声で言う。
俺は、もう全ての思考を放棄した機械のように、あるいはその香りに魂ごと引き寄せられる亡者のように、ふらふらとバスルームへ向かった。
ドアを閉めた瞬間、逃げ場のない密室で甘い香りがさらに濃密になって俺の全感覚を飽和させた。まだ温かい湯気が視界を白く染める。
アシェラが残した、生々しい気配。
クラクラした。視界が歪む。
駄目だ。これは、本当に駄目だ。
健全なる男子高校生の
「ぱひゅっ……」
ぐにゃりと世界が暗転し──床に新しい赤い染みを派手に作りながら、その場に崩れ落ちた。
……我ながら情けない、盛大な鼻血を伴っての、完全なる意識のシャットダウンだった。
「ん……」
重い瞼を、ゆっくりとこじ開ける。
見慣れない、白い天井がぼやけた視界に映った。体の下には、少し硬いが沈み込むような布張りの感触……ここは、ソファの上か。
どれくらい眠って……いや、気を失っていた?
体を起こし、壁にかけられた時計に目をやって完全に覚醒した。
デジタル表示は、無慈悲にも『AM 10:03』を示している。
……午前、10時。
終わった。完全に終わった。学校はもう、遅刻確定どころの話じゃない。サボり決定だ。
慌てて枕元──いや、ソファのクッションの横に転がっていた自分のスマホを掴む。
画面を点灯させた瞬間、おびただしい数の通知に息をのんだ。不在着信、不在着信、不在着信……そのほとんど全てが、母さんからのもの。そのとんでもない着信履歴の数に、血の気が引いていくのが分かった。
これは……これは本気で怒られるやつだ。間違いなく。ああもう、完全にやってしまった……。
そして、なぜ自分がここにいるのか、なぜ学校をサボる羽目になっているのか──意識を失う直前の記憶が、最悪のタイミングで、しかし極めて鮮明に脳内で再生された。
アシェラのバスローブ姿。充満する甘い匂い。
「うおおおおぉぉぉぉぉ……!」
再びソファに突っ伏し、クッションに顔を埋めて羞恥と自己嫌悪に身悶えした。死にたい。いや、死んだ方がマシかもしれない!
「……朝から騒々しいわね。一体何やってんのよ」
不意に、頭上から冷ややかな声が降ってきた。
恐る恐る顔を上げるとそこにはエプロンを身に着けたアシェラが心底呆れきった、ゴミでも見るかのような目で俺を見下ろしていた。
「い、いや、これは……その……」
「言い訳はいいわよ。……それにしても、流石にあれは酷かったわね」
アシェラは、はぁ、と深いため息をつく。
それには欠片の冗談も含まれていないように聞こえた。純度100パーセントの、本気の呆れと軽蔑。
ぐさりと心が抉られる。
「……まあいいわ」
アシェラは、もう興味を失ったとばかりに踵を返した。
「わかったらさっさと起きなさい、童貞くん」
……童貞くん。
返す言葉など、何一つ、欠片も見つからなかった。
俺はただソファの上で蹲り、アシェラの去っていったキッチンの方角を力なく見つめるしかなかった。
クール系美少女に軽蔑されたい人生だった