放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト 作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問
港湾地区へ近づくにつれ、街の様相は奇妙な反転を見せ始めていた。
昼間ならば人通りがあるはずの表通りが打ち捨てられた川床のように静まり返り、深い闇に沈んでいる。
逆に本来ならば暗く湿っぽいはずの裏通り。怪しげな酒場や店のものか、あるいはもっと正体の知れない何かが点々と、しかししぶとい生命力のように明かりが灯り、くぐもった喧騒が漏れ聞こえてくる。
まるで夜が、世界の表と裏をひっくり返してしまったかのようだ。
肌を撫でる夜風には錆と潮の匂いが濃く混じり始めている。
この先に広がるのは俺の知らない、この街のもう一つの姿。
夜の港湾地区に足を踏み入れるのはこれが初めてだった。慣れない空気に、無意識に喉が渇く。
「……本当にここ
思わずそんな呟きが口をついて出た。
まるで異国に迷い込んだような、足元がおぼつかない感覚。
背中に冷たい汗が滲む。
「
隣を歩くアシェラは俺の緊張などどこ吹く風、こともなげに言い放った。
その声には経験に裏打ちされた響きさえある。
そう思うと同時に胸にちくりとした痛みが走る。
目の前の少女と、俺が生きる日常との間にある埋めようのない溝。
それをうっすらと感じて、どこか悲しくなった。
俺の感傷など置き去りにして、アシェラは躊躇なく裏路地へと分け入っていく。
後に続く。途端、鼻をついたのは甘ったるい香水と安酒が腐ったみたいに入り混じった、不快な匂い。思わず、喉の奥がひくついた。
道端には汚れたブルーシートが点在する。その下に横たわる人影。無意識に視線が滑り、シートの隙間から覗く虚ろな目と合ってしまった。気まずさに慌てて目を逸らす。
疲れているわけじゃない。なのに、アスファルトを踏む足取りがどこか覚束ない。
自分の住む街の一部のはずだ。噂には聞いていた。
だが実際にこの空気に触れると、まるで違う惑星に来たかのように感じられる。
皮膚が粟立つような、異物感。
「無理はしないで」
前を歩くアシェラが、振り向きもせず事もなげに言った。
「いや、なんか居心地が悪いだけ。こういうところは初めてだし」
強がりではなく本音だった。
見慣れない風景と澱んだ空気が、ただただ落ち着かない。
彼女はふっと息を漏らす。声に、微かな苦笑の色が混じった気がした。
「実際に来てみないとわからないものよね。まぁ、踏み込まなくてもいい場所もあるんだけれど」
再び歩き出す。アシェラは迷いなく、闇の奥へ奥へと進んでいく。
騒がしかった人の気配は次第に遠のき、静寂が支配し始めた。
その静寂の中で。
不意に頭がくらくらするほど濃厚な、甘い匂いが鼻腔を刺した。
花の蜜とも、熟れすぎた果実とも違う、もっと暴力的なまでの甘さ。
思わず壁に手をつく。眩暈がした。
見ればアシェラも自分の口元を手で覆っている。
「なぁ、ここ。おかしいぞ」
「わかってる。私に毒は効かない、けどこれは……」
言葉を濁す。彼女ですら、この匂いの正体を掴みかねているようだ。
それでもその足は止まらない。
急いでポケットからハンカチを取り出し、口と鼻を覆う。
気休めにしかならないかもしれない。それでも、今はこうするしかなかった。
アシェラは僅かに眉を寄せたまま匂いの源を探るように、より濃度の高い方向へと歩を進めた。
俺もハンカチで口元を押さえながら、必死に後を追う。
路地の壁にもたれかかるように、あるいはゴミ袋の山に埋もれるように。
焦点の定まらない目をした人間が数人、転がっていた。虚ろな瞳は虚空を見つめ、微かに口を開けている。まるで魂だけがどこかへ抜け落ちてしまったかのようだ。
「なぁ、これって、かなりやばいんじゃ……」
アシェラの背中に声をかける。尋常じゃない光景だ。
「ドラッグの類……。けど、ただの中毒というよりは……。コカインでもヘロインでもない、これは……?」
が、アシェラは俺の言葉に答えるでもなくぶつぶつと独りごちる。彼女にとっても未知の物質らしい。
やがて、その強烈な甘い匂いが飽和する地点へとたどり着いた。
古びた廃ビルの裏口。非常階段の錆びた鉄骨の下。
……──女がいた。
長い
腰まで届くかという、燃えるような赤髪が夜の闇の中でも滑らかに艶めいていて目が離せない。
体にぴったりと沿う、黒いドレスのような服。その曲線は、計算され尽くしたかのような、完璧な
一言で表すなら──「魔女」。
齢も、人種さえも判然としない、超越的な美貌と、人を惑わす気配。
彼女がこちらを見る、瞬間──……
ドクン
心臓が大きく跳ねた。全身の血が沸騰するような熱。
理性が、思考が一瞬で焼き切れる。
体が勝手に、あの女を欲している。抗えない。
甘美な匂いと、目の前の女の存在が本能を直接掻きむしる。
まるで誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、ふらふらとにじり寄りそうになる。
「っ……!」
咄嗟に自分の顔を両手で覆う。まずい、おかしくなる。
それに気づいたのかアシェラが素早く俺の腕を掴み、手で制した。
彼女の指先の冷たさが、わずかに熱に浮かされた意識を引き戻す。
「──いらっしゃい、可愛いお客さん。打ち合わせと聞いてた人とは違うけど」
魔女としか形容しようのない女が、くすくすと喉の奥で笑うような声で言った。
「悪いけど、ただの通りすがり。で、これは何? 貴女は?」
アシェラが俺を背後に庇うように立ちながら、射抜くような視線で問い詰めた。
「あら、通りすがり、ね。普通なら抗薬を飲んでなければ、この距離だと理性なんてないと思うのだけれど」
女はアシェラを値踏みするように見つめる。
「……これ、ドラッグ?
凄まじいわね。東洋の神秘を見た気がするわ」
アシェラが皮肉を返す。
「私の流派はどちらかといえば
女は肩をすくめた。
「ますます魔女じみてるわね。直近でそういうのは、ちょっといい思い出がないのだけれど」
彼女の手が、背中のギターケースのストラップへと、僅かに伸びた。
(……ああ、くそ……)
頭の芯が痺れるようだ。
女の声が、直接脳を揺さぶる。
視線が勝手に動く。アシェラの引き締まった背中、戦闘服越しの肩甲骨のライン、汗で張り付いたインナーの僅かな曲線。それすらも今は、妙に扇情的に映る。
目の前の女にも視線が吸い寄せられる。黒いドレスの胸元、深く切れ込んだ谷間。紫煙を吐き出す、艶やかな唇。
全身が熱い。
体の奥から、抑えきれない欲求が突き上げてくる。
頭がおかしくなりそうだ。
こんな状況で、俺は──!
「まぁまぁ、そう物騒になりなさんな」
女が、ふわりと笑みを深めた。
「私にとっても貴女にとっても、この出会いは偶然だったようだし。どうこうする気はないわ」
「……いつもならひっ捕えてるところだけれど、この空間にあまり長居したくはないわね。私はいいけど、ツレが限界みたいだし」
アシェラが俺をちらりと見て、突き放すように言う。その言葉が、逆に俺の羞恥心を煽った。
「あら、そっちの坊やは……。あー、そっちも立ってるのが不思議ね?」
女の視線が、俺へと注がれる。まるで内臓まで見透かすような、ねっとりとした視線。
「で、ご同業かはわからないけれど。貴女は何をしにここへ?」
アシェラは話を本題に戻した。
「『悪魔』か、あるいは蒼い亡霊を探してる。何か、知ってる?」
初対面の、どう見ても普通じゃない相手への、あまりにも直接的な問いかけだった。
アシェラは、この女が間違いなく『あちら側』の人間だと判断したのだろうか。そんな疑問が頭をよぎる間にも、女は意味ありげに頷いていた。
「へぇ……なるほど」
女はゆっくりと
空気が、ピンと張り詰める。
「亡霊はわからないわ。噂にも聞かない」
女は静かに告げる。
「ただ──外れの倉庫街。あそこに『悪魔』はいるってね」
その言葉に、アシェラがわずかに目を見開いた。
しかし、次の瞬間にはもう表情を消している。
「そう。情報感謝するわ。じゃあ、私はこれで」
言うや否や、アシェラは俺の腕を強く掴んだ。
有無を言わさぬ力で引きずるように、彼女はこの異常な甘い匂いが充満する場所から、足早に立ち去った。
……──背後で、女のくすくすという笑い声が聞こえた気がした。
二人の足音が遠ざかり、路地の闇に完全に溶けていくのを見送って。
「へぇ、あれが」
そう呟き、
紫煙が細く長く、夜空へと昇っていく。
噂に聞く通り、ベアトリーチェの
まさか、本人が直々にこの東洋の島国へ乗り込んでくるとは思わなかったが。
「科学の局地、か。
神秘とは対極の存在。わざわざ
──でも、手土産にはこれ以上ないわね。ここで出会ったのは偶然だけれど、少々準備は早めましょうか」
ベアトリーチェは壁から背を離し、しなやかに立ち上がった。
悪戯っぽく口の端を吊り上げ、彼女は廃ビルの通用口のドアに手をかける。
ギィ、と錆びた蝶番が鳴き、ドアを開ける。
むわりとした熱気と共に、建物内部から反響する声が漏れ聞こえてきた。
高く、切ない女の喘ぎ声。低く、苦悶に満ちた男の呻き。時折混じる、短い悲鳴。
「あらあら、まだお楽しみの最中だったかしら。でも残念ね」
ベアトリーチェは微かに眉を寄せ、呟く。
「今夜でこの夢の時間は一旦おしまい。また新しく、もっと素敵な工房を設けなければ」
慣れた足取りで薄暗い廊下を進み、奥まった一室のドアを開ける。
部屋の中には、先ほどの甘い匂いがさらに濃密に漂っていた。
「そういえばあの子はともかく、なんで坊やの方も無事だったのかしら?」
ベアトリーチェは小さく首を傾げる。銀髪の少女はともかく、ただの少年があの状況で正気を保てたのは解せない。
「まぁ、いいか。機会があったら、
「ぶべべべべ!!!」
裏路地を抜けて転がり込んだ、街灯がぽつんと灯るだけの小さな公園。
その隅にある古びた蛇口に、俺は迷わず顔面から突っ込んでいた。流れ出す冷水が、沸騰しそうな頭を一気に冷やす。
焼き付いた魔女の残像と、自分の内側から湧き上がる抗いがたい衝動。
それを振り払うように、ただひたすら水に打たれる。
「ちょっと、アンタ! 犬じゃないんだから水飛ばさないでちょうだい!」
背後からアシェラの咎めるような声が飛ぶ。しぶきがかかったらしい。
「悪いけど今は無理だ! 滝行に励む坊さんの気持ちが、今なら痛いほどわかる!」
顔を上げられない。
まだ
今、アシェラの顔を見たら──また、あの、その……!
「はぁ──。共感はなくはないけど、なんかアンタってホント単純よね」
呆れたような、それでいて妙に納得したような声。
その声に、つい、無意識に顔を上げてしまった。
月明かりと街灯に照らされたアシェラが、腕を組んで立っている。
さっきの路地での緊張か、あるいはここまで走ってきたせいか、彼女の額や首筋にはうっすらと汗が光っていた。普段の人形めいた完璧さとは違う、生々しい気配。
それが、どうしようもなく敏感になってしまった俺の嗅覚を──そして別の何かを、強く刺激して──……
「ぶべべべべ!」
再び蛇口に頭から突っ込む。
冷水、冷水プリーズ!
本気で犬なのか、俺は!
「……もう置いていこうかしら、コイツ」
心底うんざりした、という響きを隠さないアシェラの声がすぐ近くで聞こえた。
「そ、それは本気で困る……!」
水の流れの中で、くぐもった悲鳴を上げる。
ようやく頭の中の嵐が少しだけ収まってきた。
これ以上やると本気で見捨てられかねない。
蛇口から顔を離し、びしょ濡れのまま、恐る恐る顔を上げた。
「しかし、アンタよくあれに耐えられたわね。毒物に耐性のある私でも少しキツかったのに」
はぁ、とため息を吐きながらアシェラがどこか労るような、それでいて探るような視線を向けてくる。
「昨日のアレですら気絶するレベルのチェリーボーイなんだから、あれより明らかにヤバかった今日のに耐えられたのが、正直不思議でならないわ」
痛いところを的確に抉ってくる。が、言われても俺にはピンとこなかった。
確かに今日のは明らかに
「一応、聞いておくけど。心当たりは?」
アシェラが真顔で問うてくる。
そう言われてもな、と自分の内面を探ってみる。
あの甘い匂い、魔女のような女の異常なまでの色香。確かに抗うのは大変だった。だが、なぜ完全に呑まれなかったのか。探しても、探しても、特別な理由はとんと浮かんでこない。
──……いや、待て。一つだけ、本当に、心底しょうもないことが頭をよぎった。
あの女は確かに、とんでもない美人だった。
スタイルも抜群だった。だが、なんていうか好み、というか──心の琴線に触れるタイプは、どちらかというと……。
ちらり、とアシェラを見る。
「……何よ、その顔」
「げ」
しまった、顔に出ていたらしい。アシェラの目がすっと細められる。
「げ、とはなんだ。げ、とは」
じとーっとした、何かを白状しなさいと言わんばかりの視線が突き刺さる。
まずい、これは非常にまずい流れだ。
「いや、こればかりは言えない、ウン。心、いいや
しどろもどろになりながら、必死で首を横に振る。
「何よそれ……、気味が悪いわね」
「体とかそういう物理的な話じゃないんだ!
あくまで心の持ちようの話で!
大事なことは絶対に隠してない、これは本当にしょーもないことだから勘弁してくれ!」
もはや懇願に近い。
あまりの必死さに、さすがのアシェラも追求する気をなくしたらしい。
ふん、と鼻を鳴らして呆れたように視線を逸らした。
「そこまで言うなら、まぁいいわ。時間の無駄だし。で──……」
アシェラが言葉を切り、公園の先──海の方向を見つめた。
その視線の先には、巨大なクレーンとコンテナが積み重なった、無機質な影の群れが見えていた。
港湾地区の、倉庫街だ。
「あの女が嘘をついていないなら、あそこに『悪魔』が出る。……このまま行くけれど、アンタは大丈夫?」
からかいの色が消え、至って真剣だった。俺の覚悟を、改めて問うている。
濡れた顔を手の甲で拭い、真っ直ぐに彼女を見返す。
「あぁ、大丈夫だ。行こう」
「そ。なら引き続き案内、頼むわ」
「流石に一から十まではわからんけどな。任された」
短いやり取り。それで十分だった。
再び歩き出す。目指すは、闇に沈むコンテナ街。
こうして夜は、また深く更けていく。
予約投稿ミスってて昨日忘れてました