放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト 作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問
コンテナが壁のように積み重なる港湾地区は、不気味なほど静まり返っていた。
潮風に晒され、錆びついた巨大な鉄の箱と打ち捨てられたような倉庫群。
その多くはシャッターを固く閉ざし、あるいは破れた入り口から空っぽの内部を覗かせている。
夜の闇と静寂が、もぬけの殻となった建物の寂寥感を一層際立たせていた。
「この街って……鉄鋼団地とやらもそうだったけれど、廃墟が多いわね」
アシェラが、コンテナの隙間から見える廃倉庫に視線をやりながら、何気なく呟いた。まるで、ただ風景の感想を述べるかのように。
「あぁ、俺も詳しいわけじゃないんだけどな。オイルショックやらなんやら、昔の景気の波に思いっきり影響されて、閉鎖した工場とか倉庫が多いらしい。なんとか
「なるほど。そうなれば必然的に、こうした倉庫も使われなくなる、というわけね」
「ま、全部が全部、死んでるわけじゃないけどな。ほら、あそことか」
指差した先。少し離れた区画にある倉庫のシャッターには明かりが灯り、荷物の搬出入が行われている気配があった。シャッターには、見慣れた黒猫の宅配業者のマークが描かれている。
「それはそれとして……シュウ。あなたから見て、怪しいと思う場所は?」
アシェラが、ふと視線を俺に戻して問うた。
情報がない以上、土地勘のある直感に頼る部分もあるのだろう。
「って言われてもな……。俺もガキの頃に来たきりだし、ここ。社会科見学の記憶とか、必死で掘り起こしてるんだぞ、これでも」
「一つの街の地理を完全に把握しろって言う方が無茶な話か……」
「そりゃそうなんだが……あぁ、でも」
不意にさっきの公園──裏路地を抜けた先で一息ついた、あの場所から見えた景色を思い出した。
コンテナ街を一望できた、少し小高い場所。
そこから見た光景の中に、一箇所だけ妙に引っかかったものがあった。
「今喋ってて、改めて気になったところはある」
「と、いうと?」
「高台から見た時に少しな。場所は……多分、もうちょっと西の方だ。いくつかコンテナの列を回り込んだ先だと思うんだけど。この辺の古びた建物に似合わない、小さいけどやけに新しくて……なんか、真っ黒な倉庫があったような気がする」
「……よく見ていたわね」
「いや、なんとなく違和感があっただけだ。気のせいで、何もないってことも大いにあるぞ」
「いいえ、見てみる価値はあるわ。行きましょう」
アシェラは即断した。わずかな違和感でも、今は無視できないということだろう。
彼女は迷いなく、俺が示した西の方角へと歩を進める。
進むにつれて、周囲の空気はさらに淀んでいく。
コンテナの壁はより高く、密集し、迷路のように視界を遮る。
時折現れる倉庫は先ほどまで見てきたものよりもさらに傷みが激しく、潮風に混じって、埃と、何かが腐り落ちたような匂いが強くなる。
まるでこの区画全体が、人が立ち入ることを拒んでいるかのようだ。
ここにはもう価値のあるものなど何もないのだと、雄弁に物語っているかのように──。
──しかし、そこに『それ』は、あまりにも不自然に存在していた。
「……いかにもね」
アシェラが呆れたような、あるいは納得したような、複雑な声色で呟いた。
「いや、まさかここまで露骨とは……」
俺も、目の前の光景に愕然として同じような感想を漏らすしかなかった。
他の朽ちかけた建物とは明らかに異質。
周囲の荒廃を嘲笑うかのように、それは完璧なまでの『黒』を纏って鎮座していた。
つるりとした金属質の壁面。綺麗な長方形に切り出された、巨大な鉄の塊。
まるでブラックボックスだ。
だが、足を止めさせたのはその異様な外観だけではない。
倉庫の唯一の入り口と思われる、正面の黒い扉。
その中心に赤黒いような、鈍い光を放つ複雑な紋様が刻まれていたのだ。
幾何学模様と、見慣れない文字のようなものが組み合わさったそれは──どこから、どう見ても。
映画やゲームでしか見たことのない、『魔法陣』のような代物だった。
「これ……さっきの女の罠ってことは?」
ごくりと唾を飲み込みながらアシェラに尋ねた。あの魔女めいた女が、ここに誘導したのだとしたら。
「……なくもないけれど」
アシェラは扉の紋様から目を離さずに答える。
「ここ以外に、今は手掛かりもないわ」
言葉少なに倉庫の周囲をぐるりと回ってみた。だがどこまで行っても、窓一つ、通用口一つ見当たらない。完全に閉鎖された鉄の箱。入り口は、あの不気味な紋様が刻まれた正面扉だけ。
「……しょうがないわね」
アシェラは小さく息を吐くと、背負っていたギターケースを静かに地面に下ろし、着ていた黒いジャケットを無造作に脱ぎ捨てた。白いインナー姿が露わになる。夜風が彼女の汗ばんだ肌を撫で、銀髪がさらりと揺れた。
「お、おい。何する気だよ」
突如として軽装になり始めたアシェラに、困惑の声を上げる。
しかし、彼女は俺の声など聞こえていないかのように、壁に向き直り、すぅ──、と深く息を吸い込んだ。
目を閉じ、まるで祈るかのように集中力を高めていく。
その場の空気が、ぴりりと張り詰めた。
「
短い気合一閃。
次の瞬間、彼女の右拳が、鞭のようにしなり──黒い鉄壁へと叩き込まれた。
ゴォンッ!!
爆発音にも似た、重く鈍い轟音がコンテナ街の静寂を引き裂いた。
「どわっ!?」
衝撃波が、数歩離れていた俺の体までビリビリと震わせる。鼓膜の奥で、金属音が低く長く反響した。
とんでもない威力だ。並の建物の壁なら大穴が開いていてもおかしくない。だが──。
アシェラが拳を引いた後の黒い鉄塊──もとい、倉庫の壁面には。
傷ひとつ、へこみ一つ、ついていなかった。
「……流石に、こたえるわね」
アシェラはわずかに痺れたような右手を軽く振りながら、忌々しげに呟いた。
その表情には殴った手応えのなさと、壁の異常なまでの硬度に対する驚きと苛立ちが滲んでいる。
アシェラは無言でジャケットを羽織り直した。物理的な突破が不可能となれば、選択肢は限られる。俺たちは再び、あの不気味な紋様が描かれた正面扉へと向き合った。
「……これ、血ね」
アシェラが扉に刻まれた赤黒い紋様に軽く触れて、静かに言った。乾いてはいるが生々しい鉄の匂いが微かに漂う気がする。
「マジに本物っぽいじゃん……やめてくれよ、そういうの」
「さて、どうしたものかしら……」
アシェラが顎に手を当て、思案顔になる。この紋様自体が鍵なのか、あるいは別の解除方法があるのか──……
「お。鍵穴あるじゃん」
壁だと思っていた扉の表面を何気なく触っていて、紋様のすぐ下、目立たない位置に小さな穴が開いているのを見つけた。全体が真っ黒だから、注意して見なければ完全に見落としていただろう。
「鍵、ねぇ。……となると、現状はどうしようもない、かしら」
アシェラの声にわずかに諦めの色が混じる。
正規の鍵がなければ、この扉は開かない、と。
「まぁ待てって。こう見えて、俺だって昔はちょっとした悪ガキだったんだぜ」
が、ニヤリと笑って、背負っていた学校指定の鞄から筆箱を取り出した。
中を探り、ゼムクリップを一つ取り出す。それを慎重に折り曲げ、即席のピックを作った。
「アンタ、そういうことできたのね。……この前の屋上も、そういう手口?」
アシェラが、意外そうな目を向けてくる。
「んにゃ、アレはまた別。あそこの鍵は普通にスペア持ってるしな」
それを手に入れた経緯が悪戯の副産物って意味では、関係あるかもしれないけれど。
言いながら完成したクリップの先端を、黒い扉の鍵穴へとそっと差し込んだ。
──何か、ぬちょりとした粘つくような嫌な感触が指先に伝わる。血か、あるいは別の何かか。だが、その奥にある鍵穴内部の構造自体は普通のものだった。これなら、いけるかもしれない。
「なんか拍子抜けだな。この紋様とか壁の硬さとか散々ヤバそうな雰囲気出しといて、鍵穴はこれ……。うーん、ここ、どうなってんだ……?」
「ま、確かにこれだけ怪しげな防御なら、肝心の施錠部分だけ普通というのは解せないわね」
「でも構造がちょっと特殊でな。ピンの数が多いし、配置も嫌らしい。普通なら専門の業者とかじゃないと、多分開けられないタイプだ。刺して確かめたカンジは偶然、ウチの玄関の鍵と構造が似てるからどうにかなりそうだけど」
「それはそれで、すごい偶然ね……?
……けど、ふむ」
アシェラは言うと、何か考え込むように少し黙り込んだ。
俺も口を閉じ、指先の感覚に集中する。
多重になっているシリンダーの構造は理解した。
いくつかのピンが、妙に粘りつくような抵抗を示すが焦らず、一つ一つ感触を確かめながら解除していく。
ウチの鍵がこのタイプじゃなかったら、あるいは俺が昔、鍵を忘れてはこうやって開けるような悪ガキじゃなかったら完全に手詰まりだった。大見得を切っただけで、赤っ恥をかくのは勘弁だ。
「こういう細かい作業こそ、お前ができそうなもんだけどな。特殊訓練だのって、やらねーのか?」
作業しながら、ふと疑問を口にする。
「それこそ裏方の仕事よ。私は現場担当。こういう細かいことは苦手なの。アンタがいなかったら、今夜は諦めて明日にでも専門家を呼んで対処するつもりだったわ」
「へぇ、意外や意外だな。しかしここ、むずいな。もうちょい細いクリップは……」
筆箱を再び漁り、もう一回り小さい装飾用の細いクリップを見つけ出す。
それを折り曲げ直し、作業を続行する。
こうしてピックをいじっていると、なんだか子供の頃を思い出す。家の鍵を忘れて締め出された時に親に怒られるのが嫌で、必死になってこうやって開けたものだ。
『
ふと、指先に確かな手応えを感じた。
最後のピンが、カチリと軽い音を立てて定位置に収まる。
「お。開くな、これ」
「やるじゃない。少し見直したわ」
「偶然が重なっただけだけどな、他の変な構造の鍵だったら多分無理だった」
クリップを慎重に捻る。
ガチャリ、と重々しい金属音が、扉の内部で響いた。開いた。
アシェラが、クリップを引き抜くのと同時に、扉のわずかな隙間に指をねじ込んだ。
「おりゃっ……! 案外重いわね、この扉。ますます中が怪しい……!」
彼女が渾身の力を込めると黒い鉄の扉がギィィ……と軋むような音を立てて、ゆっくりと内側へと開き始めた。
ごくり、と無意識に生唾を飲み込んだ。
軋む音を立てて重々しく開かれた黒い扉の向こう──そこに広がっていたのは、倉庫と呼ぶにはあまりにも異質な光景だった。
まるで
壁際には、人間がすっぽり収まってしまいそうな巨大なガラス製の
床には割れたカプセルのガラス片が無数に散乱し、きらきらと鈍い光を反射している。
部屋の中央にあったらしい金属製の作業台はひっくり返り、その引き出しは全て開け放たれているが、中は空っぽだ。壁に取り付けられた棚にも、何一つ物は残っていない。
ひやりとした空気と埃っぽい匂い、そして微かに鼻をつく薬品のような刺激臭。
持ち去るものは持ち去り、壊すものは壊して、全てが終わった後に完全に放棄された──そんな印象を受ける空間だった。
「はぁ……七面倒なことになったわね」
アシェラが荒れ果てたラボの中を見渡しながら、深くため息を吐いた。
その声には、明確な困惑と警戒の色が滲んでいる。
「どうしてだ?」
「……過去に似たような施設に来たことがあるだけよ。でも、いくつか違和感があるわ」
「違和感?」
「入口のアレ──紋様は確実に、何らかの働きをしてたはず。それなのに、物理的な鍵穴はごく普通の構造で、中は……この有様。それに」
アシェラは壁を軽く叩く。
「この空間も、どう考えても異常よ。外観から想像できる容積より、明らかに内部が広いわ。まるで空間そのものが圧縮・拡張されているような……。詰まるところ、私の知らない
アシェラですらも未知の領域。その言葉に、再びごくりと生唾を飲み込んだ。
彼女の知識体系から外れた何かが関わっているとなれば、俺にとってはもはや理解不能な超常現象の世界だ。
……──それこそ、あの蒼い靄のように。
「……ますますヤバい雰囲気だな。で、中入って調べるのか?」
「そうね……。アンタはここで待機していてもいいけれど……いや、やっぱり来てちょうだい。何があるかわからないからこそ、下手に離れられる方が嫌な予感がするわ」
未知の状況下では、分散する方が危険だと判断したのだろう。彼女らしい判断だ。
「わかった」
短く答え、アシェラの後を追うように一歩踏み出した。
いつものように、彼女の背中を追う。
改めて見渡すラボの内部は、やはり不気味だった。整然としていれば未来的なのかもしれないが破壊され放棄された今は、ただただ空恐ろしい。まるで、出来の悪いSF映画の中に迷い込んでしまったような気分だった。
割れた培養槽の残骸や、散乱するガラス片を避けながら慎重に奥へと進んでいく。
やがて一番奥まった、少しだけ開けたスペースにたどり着いた。そこにはひときわ大きな、しかしこれも破壊された何かの装置の残骸があるだけで、他には何もない。壁も途切れ、完全な行き止まりのようだった。
「……ここで行き止まり、ね。結局、何もな──」
アシェラが諦めたようにそう言って引き返そうと踵を返し──……
ケヒッ
粘りつくような、嘲るような──不気味な、甲高い笑い声が響いた。
それは、床からではない。壁からでもない。もっと
「アシェラ、上だ!」
本能的に叫びながら見上げていた。
そこに、『それ』はいた。
闇よりも濃い影。天井の鉄骨から伸びる、錆びて赤黒く変色した極太の鎖。その鎖に幾重にも、まるで拷問具のように絡め取られ、逆さ吊りにされた異形の『何か』。
最初に目に入ったのは
夜そのものを切り取って張り付けたかのような、巨大な
翼の付け根から下がるのは、歪んだ人の
そして、その胴体に不釣り合いに乗っているのは──象徴的なまでの、
ねじくれた二本の角は天井を突き破らんばかりに長く鋭く、額には禍々しい
噂に聞く『悪魔』。
見上げた位置からでも、その全長は軽く人間の三倍はあるとわかる巨躯。
鉄骨と鎖が軋む音すら立てずに、ただ絶対的な質量と存在感をもって、頭上にぶら下がっていた。
まるでこの
「
アシェラの凛とした声が、静まり返ったラボに響いた。
その言葉に応じるようにギターケースが次の瞬間、あの黒々とした巨大な
「下がってなさい」
振り向いた彼女の横顔は先ほどまでの苛立ちや驚きが嘘のように消え去り、冷徹な戦闘者のそれへと完全に切り替わっていた。深紅の瞳が、ただ目の前の『敵』だけを捉えている。
まもなく。
張り詰めた静寂を破ったのは、金属音ではなかった。
ぶちり、と。
肉を引き千切るような──そんな、ひどく生々しくて不快な音が、天井から響いた。
見れば『悪魔』を吊り下げていた極太の鎖が、その根元からまるで腐って溶け落ちたかのように千切れている。
そしてあの巨躯が──重力など存在しないかのようにふわり、と。
音もなく、ラボの床へと降り立った。
着地の衝撃も、土埃一つ舞い上がらない。
ただ、静かに。
悪夢そのものが、目の前に具現化した。
「ぎ、ひっ」
山羊の頭がゆっくりと持ち上がり、固く閉じられていた瞼が開かれる。
その奥から覗いたのは、赤く爛々と輝く、
その歪んだ顎から、嗤うような、引きつるような音が漏れた。
次の刹那。
音もなく床に降り立った悪魔──その周囲の空間が、ぐにゃり、と陽炎のように揺らめき始めた。何もないはずの虚空に、亀裂でも入ったかのように。
ぽつり、ぽつりと、まるで空間の傷口から滲み出すかのように、赤黒い光の球体が現れ始める。
一つ、二つ、三つ……その数は瞬く間に増殖し、悪魔の巨躯の周りを不規則な軌道を描きながら、衛星のように浮遊し始めた。一つ一つが、まるで不吉な
「おい、アシェラ! これって……!」
「えぇ、わかってる。でも退かない。せっかく手掛かりが目の前にぶら下がっていて、むざむざと逃がすほど私は臆病でもない!」
アシェラは、迫る脅威にも怯むことなく大剣を構え直し、言い放った。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
悪魔の周囲を漂っていた赤黒い