放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト   作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問

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16 トレイサー

 

 倉庫に満ちる、絶対的な静寂。

 ただ目の前の蒼い人影だけが、まるで水面のように輪郭を揺らめかせている。

 時間すら凍りついたかのような錯覚。俺とアシェラは息を殺して、その存在から目を離せずにいた。

 

 ──ふと。

 (かたち)なき(かお)が、俺へと向けられた、気がした。

 違う。視線ではない。あの存在に『眼』などない。

 だが、凝縮された『怨念』の指向性が確かに俺という個体を捉えている。探るように、あるいは、値踏みするように。

 瞬間、呼吸が止まった。

 肺が酸素を拒絶する。全身の血が逆流し、脳が警鐘を乱打する。

 見られている、という感覚だけで、魂が圧し潰されそうになる。それは、死そのものに覗き込まれているかのような、根源的な恐怖。

 

 どれほどの時間が経ったのか。

 窒息しそうなほどのプレッシャーの中で、俺の意識は白く染まりかけていた。

 

 やがて──唐突に。

 幻影の『認識』が、俺から外れた。

 代わりにその指向性はアシェラへと移る。

 

 数拍。

 永遠とも思える静寂の後。

 

 予備動作など一切なかった。

 空間の法則が捻じ曲げられる。

 認識した、と思った次の瞬間には蒼い靄は既にアシェラの眼前へと『座標跳躍』していたのだ。距離という概念をまるで無視するかのように。

 

「ッ!」

 

 だがアシェラもただでは終わらない。臨戦態勢にあった彼女はその超常的な反応速度で幻影の初撃──触れたものを崩壊させるであろう靄の腕を避けてカウンターに一閃。

 

 しかし、反撃は空を切る。

 即座に繰り出されたアシェラの斬撃は廃幼稚園の時と同じく、抵抗なく蒼い靄をすり抜けただけだった。

 

「くっ……!」

 

 アシェラの苦々しい声が漏れる。

 物理攻撃がやはり通じない。それを再確認した彼女に選択肢はもはや一つしかない。

 

 回避。ただ、ひたすらに。

 幻影から放たれる蒼白い火の玉。あるいは、空間ごと抉り取るかのような靄の薙ぎ払い。

 

 それらをアシェラは紙一重で見切り、避け続ける。

 黒い影が、破壊された倉庫の中を縦横無尽に舞う。

 だがそれはあまりにも一方的だった。攻撃手段がない以上、どれだけアシェラが超人的な動きを見せようとも、いずれは捕まる。消耗し、追い詰められ、そして──……。

 

「……ダメだ、このままじゃ!」

 

 遠巻きに、壁の残骸に身を隠しながら戦況を見ていた俺にもそれは痛いほど理解できた。攻撃手段がなければ、いつかは終わる。それは自明の理だ。

 

「何か……何か、俺にできることは……!」

 

 思考が焦燥に駆られる。無力感に歯噛みする。だが、不意に思い出した。アシェラから半ば無理やり押し付けられるように渡された、いくつかの『道具』のことを。

 

『いい? アンタは前に出ないこと。それが絶対のルールよ。けど、万が一……本当に万が一、私がどうしようもなくなった時のためにこれだけは持っていなさい。これは攻撃用じゃないわ。あくまで逃げるための時間稼ぎよ』

 

 俺は震える手でジャケットの内ポケットを探った。冷たい金属の感触に触れる。

 取り出したのはずしりと重い円筒形の煙幕手榴弾(スモークグレネード)

 

 逃走用の、時間稼ぎ。

 

 そうだ、アシェラを勝たせる必要はない。

 ただここから、この絶望的な状況から二人で生きて逃げるための時間を稼げれば──!

 

 意を決して、隠れていた鉄骨の残骸から飛び出した。

 震える腕に全神経を集中させ、ピンを引き抜く。冷たい金属の感触。ずしりとした重み。

 

「アシェラ──ッ!」

 

 叫びながら持てる限りの力で蒼い幻影とアシェラの間、その空間へと全力で放り投げた。

 放物線を描き、それは倉庫の床へと転がる。

 

 閃光。

 そして、轟音。

 

 煙幕手榴弾が起動する。ぶわり、と濃密な灰色の煙が急速に周囲へと広がり視界を完全に奪い去った。光と音と煙。感覚が飽和し、自分がどこにいるのかすら分からなくなる。

 

 混沌の直後だった。

 ぐん、と。

 体が巨大な磁石にでも引き寄せられたかのような凄まじい力で横薙ぎに引っ張られた。

 抵抗する間もない、圧倒的な力。

 何が起こったのか理解する前に、俺の体は宙を舞っていた。

 

 次に視界が像を結んだ時――アシェラに横抱きにされていた。

 彼女は俺というお荷物を抱えたまま、夜の倉庫街を影のように疾走していた。先ほどまでの戦闘の消耗など微塵も感じさせない、驚異的なスピードで。

 

「──っ!?」

 

 声にならない悲鳴を上げる俺のことなど意にも介さず、アシェラは目の前に立ちはだかる煉瓦の壁を躊躇なく蹴った。

 

 跳躍。

 信じられない高さまで舞い上がり、そのまま隣の建物の屋根へと軽々と着地する。さらに屋根から屋根へ。重力など存在しないかのように、あるいは夜の闇を駆ける獣のように、彼女は戦場となった倉庫から凄まじい速度で離脱していく。

 眼下を流れていく、荒廃した港湾地区の景色。吹き付ける夜風が、やけに冷たい。

 

 どれくらいそうしていただろうか。いくつかの建物を飛び移り、ようやく追手の気配がないと思える距離まで離れたところで、アシェラはようやく、とあるビルの屋上に降り立った。

 俺をそっと屋上の床に降ろすと彼女は肩でわずかに息を整えながら、短く、しかしはっきりとした声で言った。

 

「……助かったわ、シュウ。ありがとう」

 

 ぶっきらぼうだが、偽りのない感謝の響き。

 まだ激しく打つ心臓を抑えながら、その言葉を反芻していた。

 役に立てた。この、どうしようもない状況で。アシェラの、あの絶対的な彼女の助けになれた。

 

 その事実がじわりと胸の中に温かいものを広げていく。思わず頬が緩みそうになった。柄にもなく少しだけ、誇らしいような気持ちにさえなったその時だった。

 

 

 ぴきん

 

 まただ。

 頭の芯を直接針で刺されるような、鋭い痛み。

 直感。警告。

 間違いない。

 あの蒼い靄は──幻影は、まだ諦めていない。

 

 顔面蒼白になりながら、アシェラに向かって叫んだ。

 

「アシェラ! あれ……追ってくるぞ!」

 

 安堵の空気は一瞬で消し飛び、再び肌を刺すような緊張感が夜の空を支配した。

 切羽詰まった叫びに、アシェラは弾かれたように振り返った。その深紅の瞳が見つめる先──戦闘を繰り広げていた倉庫街の方角へと向けられる。

 

 そして、二人で息をのんだ。

 

 倉庫の屋根の上、その闇の中から。ふわり、と。

 まるで巨大なシャボン玉のように青白い光を放つ球体が、ゆっくりと空へと浮上していくのが見えたのだ。大きさは……バスケットボールくらいだろうか。音もなく、しかし確かな存在感を伴って夜空の中へと昇っていく。

 

 あの光球は、間違いなく俺たちを探している。その動きには、明確な意志が感じられた。

 

「……まずいわね」

 

 アシェラが低く呟く。彼女の表情にも、焦りの色が浮かんでいる。

 

「あの状態で、どこまで索敵範囲があるか分からないけど……」

「屋上はダメだ、開けすぎてる! 戦えないなら、隠れなきゃ意味がない!」

 

 必死の提案にアシェラは一瞬だけ驚いたように俺を見た。だがすぐに状況を判断したのだろう。彼女は強く頷いた。

 

「……ええ、そうね。アンタの言う通りだわ」

 

 その判断は、驚くほど速かった。

 彼女は一瞬で身を翻すと、躊躇なく屋上の縁から飛び降りた。

 

「おいっ!?」

 

 声を上げる間もなくアシェラは俺の腕を掴み、一緒に夜の闇へと落下していく。

 数階分の高さ。地面に叩きつけられる──!

 そう思った瞬間、アシェラは俺を抱えて空中で巧みに体勢を制御し、下の路地裏に衝撃を殺しながら着地した。

 

「……行くわよ!」

 

 体勢を立て直す間もなく、アシェラは再び俺の手を引き迷路のような路地裏を駆け抜ける。どこへ向かっているのか分からない。ただあの蒼い光球から逃れるように、物陰から物陰へと、息を殺して移動していく。

 

 やがて古びたビルの間の、特に暗く狭まった一角にたどり着いた。アシェラは俺をその暗がりへと押し込むと、自らも壁に背をつけて息を潜めた。

 

「……静かに」

 

 彼女が囁く。頷き、呼吸すら最小限に抑える。心臓の音がやけに大きく聞こえた。

 二人で、恐る恐る、ビルの隙間から空を見上げる。

 

 そこには──。

 ゆっくりと、しかし確実に蒼い光球が移動していた。サーチライトのように、地上を舐めるように。

 間違いなく俺たちを探している。

 

 「……シュウ」

 

 隣で同じように息を潜めていたアシェラが、囁くような小声で俺に問いかけた。

 

「この近くにもっとマシな隠れ場所はないの? このままじゃ見つかるのも時間の問題よ、できるだけ入り組んだ建物とか……」

 

 彼女の声には切迫した響きがあった。俺の案内役としての知識に今は頼るしかないのだろう。

 この港湾地区はそれこそ廃墟だらけだ。だが、あの光球から完全に身を隠せるような場所となると……。

 必死に頭の中の不鮮明な地図を広げた。倉庫、空き地、崩れた防波堤……どれも不十分だ。焦りだけが募る。

 その時、ふと脳裏に遠い記憶の断片が引っかかった。

 

(……ホテル……?)

 

 そうだ。かなり昔、まだ小学生くらいの頃だったか。親父の仕事の関係だったか、家族で一度だけこの近くのホテルに泊まったことがある。確か港湾地区の再開発計画に合わせて鳴り物入りでオープンした、全国チェーンのビジネスホテルだったはずだ。だが……。

 

「……ホテルなら、一つ心当たりがある」

 

 アシェラに小声で答えた。

 

「かなり昔に泊まったことがあるんだ。でもこの辺の再開発が頓挫して、すぐに潰れたって聞いた。今のこの街の状況を考えれば、たぶん今も廃墟のままのはずだ」

 

「廃墟のホテル……。場所は分かるの?」

「確かここを出て、すぐそこの角を左に曲がって、二つ目の通りをまた左……だったと思う」

 

 記憶は曖昧だが、なぜかその道順だけは妙にはっきりと覚えていた。子供心に海が見える部屋からの景色が印象的だったからかもしれない。アシェラはわずかに躊躇うような表情を見せたが、すぐに頷いた。

 

「……分かったわ。アンタの記憶を信じるしかないわね。行くわよ」

 

 再び、息を殺して暗がりを移動し始めた。蒼い光球の動きを常に警戒しながら、物陰から物陰へと素早く駆け抜ける。心臓が早鐘を打っている。

 

 ──夜の闇の中に不気味なシルエットを描いて佇む、十階建てほどの古びたビル。

 壁面のホテル名を示すであろう看板は、文字が掠れてほとんど読み取れない。窓ガラスは割れ、壁は汚れ、周囲には雑草が生い茂っている。かつては最新の設備を誇ったであろうビジネスホテルは見る影もなく朽ち果て、巨大な廃墟と化していた。正面玄関の自動ドアは壊れ、内部の暗闇がぽっかりと口を開けている。

 

「……あった」

「ここなら……」

 

アシェラも、廃ホテルの様子を素早く観察し、頷く。

 

「ええ。一時的に身を隠すには十分ね。入りましょう」

 

 壊れた自動ドアの隙間から廃墟となったホテルの中へと、音もなく滑り込んだ。ひんやりとした埃っぽい空気が俺たちを迎える。ひとまずあの蒼い光球の視界からは逃れられたはずだ。壁に寄りかかり、ようやく安堵のため息をついた。

 

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