放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト   作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問

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17 蛮勇の後こそ恐怖が勝る

 廃墟と化したホテルの中は、外にも増して静寂が支配していた。

 壊れた自動ドアから一歩足を踏み入れると、ひやりとした淀んだ空気が肌を撫でる。カビと埃の混じった独特の匂い。かつては多くの客で賑わったであろうロビーは今は見る影もない。

 受付カウンターはひっくり返り、ソファは破れ、床には割れたガラスや用途不明のゴミが散乱している。月明かりが破れた窓から差し込み、その惨状を青白く照らし出していた。

 

 警戒を解くことなく、息を殺してロビーを横切り、奥へと続く薄暗い廊下へと進んだ。

 アシェラは先頭に立ち、大剣をいつでも抜けるように柄に手をかけ、鋭い視線で周囲を探っている。

 

「……ここにいても、いずれ見つかるでしょうね」

 

 廊下の壁にもたれかかり、アシェラが低く呟いた。彼女の声は、廃墟の静寂に妙に響く。

 

「あの蒼い靄は、執念深いわ。おそらく気配を辿って、必ずここにも来る」

「ああ……なんとなく分かる」

 

 根拠はない。だが、あの幻影の全てを拒絶するような絶対的な存在感を思い出すとそう確信するしかなかった。

 

「けど」

 

 アシェラは続ける。その声にはわずかな諦念と、しかし確かな覚悟が滲んでいた。 

 

「他の場所に隠れても、もっと早く見つかるだけ。ここは建物が大きいだけ、多少は時間稼ぎになるかもしれない。……現状、思いつく限りでは、これが最善策ね」

 

「……そうだな」

 

 俺も同意するしかなかった。絶望的な状況であることに変わりはないが少なくとも、屋外よりは遥かにマシだ。

 

 ホテルの中を探索を進める。客室が並ぶフロアへ。いくつかの部屋のドアは開け放たれていたり、蹴破られていたりしたが、ほとんどは固く閉ざされたままだった。どの部屋もおそらく中は荒らされ放題だろう。

 

 角部屋の窓から外の様子を窺うが、幸いあの蒼い光球の姿は見えない。一時的に見失ってくれたのだろうか。それとも別の場所を探しているのか。

 

 そんな中ある一室の前で、ふと足を止めた。

 海に面した角部屋。ドアプレートの番号は掠れて読めないが、なぜか妙に記憶に引っかかる。

 

「……確か、この部屋だったかな。昔、泊まったの」

 

 ほとんど無意識に言葉が漏れていた。

 アシェラが、怪訝そうな顔で俺を見る。

 

「……そう」

 

 彼女は短く相槌を打つだけだった。俺は埃まみれのドアノブに手をかけて開く。今は感傷に浸っている場合ではない。それでも、割れた窓ガラスの向こう、暗い海の広がる景色に、視線が吸い寄せられる。

 

「親父の仕事の関係で、連れてきてもらったんだ。ガキの頃だったけど……」

 

 独り言のように、俺は続ける。

 

「あの頃、ここから見た景色、海とか、停泊してる船とか……もっと、キラキラして見えた気がしたんだけどな。……今と大して変わらないはずなのに、なんだか、今はひどく寂しく見えるな……」

「……アンタのお父さんって」

 

 不意にアシェラが問いかけてきた。その声にはいつもの冷たさとは違う、ほんの少しだけ純粋な好奇心のような響きが混じっている気がした。

 

「何の仕事をしてるの?」

 

 その、あまりにもストレートな問いかけに俺ははっと息をのんだ。

 親父の仕事……?

 今の仕事は、確か……いや、それも曖昧だ。何か、管理職のようなもののはずだが具体的に何をしているのか、俺は知らない。

 

「え? 親父の仕事……? そういえば……」

 

 言葉に詰まった。

 母さんから俺が生まれて少ししてから転職した、と聞いた覚えはある。

 昔は今とは全然違う仕事をしていた、とも。だが、それが具体的にどんな仕事だったのか、俺は今まで一度も気にしたことがなかったのだ。

 

 家族なのに。一番身近なはずの父親のことを、俺はほとんど何も知らない。

 アシェラの問いに答えることができず、ただ曖昧に口ごもるしかなかった。

 

 そんな俺の様子を見てか、あるいは単に自分の発言を思い返したのか、アシェラはふっと息をついた。

 

「……らしくないことを聞いたわね。今は、そんな場合じゃなかったっていうのに」

 

 その声には棘はない。ただ淡々とした事実確認のような響きで、感傷から現実へと引き戻す。そうだ、今は親父のことなんか考えている場合じゃない。いつあの蒼い幻影に見つかるか分からないのだ。

 

「……探索を続けるわよ。もう少しマシな場所があるかもしれない」

 

 アシェラはそう言って再び廊下を歩き出した。慌てて思考を切り替え、その後を追う。

 

 エレベーターが止まったままの薄暗い階段を使い、最上階へと向かった。おそらくこのホテルで最もグレードの高い部屋があるフロアだろう。廊下の突き当たり、ひときわ重厚な扉の前でアシェラが足を止めた。ドアノブは壊されており、扉はわずかに開いている。

 

「……ここなら、少しはマシかもしれないわね」

 

 アシェラは慎重に扉を押し開け、中へと入っていく。俺も後に続いた。

 おそらくスイートルームだったのだろう。他の客室とは比べ物にならないほど広い空間が広がっていた。大きな窓からは今は夜景しか見えないが、昼間なら港と海が一望できたに違いない。

 だがその豪華だったであろう部屋も今は見る影もなく荒れ果てていた。家具はひっくり返り、壁には意味不明なスプレーの落書き、床にはガラス片やゴミが散乱している。それでも部屋の広さや残された調度品の残骸からはかつての荘厳さが辛うじて窺えた。

 

「……ひとまず、ここで少し休みましょう」

 

 アシェラは部屋の隅々まで素早く視線を走らせ安全を確認すると、窓際まで歩み寄り、破れた厚手のカーテンをきっちりと閉めた。これで、外からの視線は完全に遮断されたはずだ。

 ようやく少しだけ息をつける気がした。アシェラは壁に背を預けてずるずると座り込み、俺も近くの、比較的マシなソファの残骸に腰を下ろす。

 

 しんとした静寂が部屋を支配する。聞こえるのはお互いの荒い呼吸と、遠くで響く風の音だけだ。

 やがてアシェラが懐からあの薄い金属プレートのような通信機を取り出した。操作すると、微かな起動音と共に彼女は外部との連絡を取り始める。

 

「……私よ。現在位置、座標……。ええ、古いホテルの中。……状況は?」

 

 相手の声は聞こえない。アシェラは淡々と報告を続ける。

 

「……了解。それで、足の確保をお願いしたいの。対象は二人。……追われているから、できるだけ速いものがいいわ。可能な限り、急いで」

 

 そこで通信は終わったらしい。アシェラは通信機を仕舞うとはぁー……っと今度こそ隠す気もない、深くて重いため息をついた。そのまま、近くにあったキングサイズのベッド──もちろんシーツは汚れ、マットレスも一部が破れているが──へと、倒れ込むように体を投げ出しす。

 

 それから、襟元を緩め、胸元がほんの少しだけ肌けた。

 

「……あのな」

 

 思わず声をかけた。状況が状況だが、俺だって一応男なんだぞ。

 さっきの妖しい女のこともある。まだ少し善くないものが体に残っているのか、少しだけドキリとした。

 そんな俺の内心の動揺を見透かしたのだろう。ベッドに仰向けになったままのアシェラがこちらに視線を向け、呆れたように言った。

 

「……馬鹿ね。スイートルームだか何だか知らないけど、ただの廃墟じゃないの。安宿どころか、半分野宿みたいなものよ。こんな状況で、雰囲気も何もないでしょう?」

 

 ぐうの音も出ない正論だ。

 

「それに」

 

 彼女は続ける。その声にはほんの少しだけ、違う色が混じったような気がした。

 

「まだ私のセーフハウスの方が、よっぽど豪華よ。……何より、デライラがいるもの」

 

 そう言ってなぜか天井に向かって、虚空を優しく撫でるような仕草を始めた。まるで、そこに愛しい黒猫がいるかのように。その表情はほんの少しだけ柔らかく見えた。

 

「あぁ、デライラ……もふもふ……」

「お前、疲れてんだな……」

 

 その奇妙な光景にただ唖然としていた。しかしデライラを思い浮かべているらしい彼女の姿にほんの少しだけ、人間味のようなものを感じてしまったのもまた事実だった。

 

 しばらくアシェラはぼうっと天井を見上げ、虚空を撫で続けていた。まるで本当にそこにデライラがいるかのように。

 

「はぁ……」

 

 だが、その手がぴたりと止まった。今度はどこか寂しげな、諦めたようなため息が静かな部屋に漏れた。

 ここにデライラはいない。そんな当たり前の現実にようやく意識が追いついたのかもしれない。

 

 彼女はゆっくりと、しかし確かな動きでベッドから身を起こした。その表情からは、もう先ほどの奇妙な緩みは消え、再び鋭い光が宿っている。

 

「……迎えが来るまであと20分弱、か。休憩は十分。これ以上一箇所に留まるのは得策じゃない。合流地点の裏口へ向かいましょう」

「ああ、俺もそう思う」

 

 俺もソファから立ち上がりながら頷いた。あれがいつどんな方法でここを嗅ぎつけてくるか分からない。じっとしているのは確かに危険な賭けだ。

 

 二人の意見は一致した。荒れ果てたスイートルームに別れを告げ、再び薄暗い廊下へと足を踏み出す。ドアを閉め、階段へ向かおうと数歩歩き出した、まさにその時だった。

 

 ──ぞくり。

 

 全身の肌が、粟立った。

 冷たいというのとは違う。もっと根源的な、魂そのものが直接握り潰されるかのような、絶対的な『圧』。

 

 それはこの廃墟となったホテル全体を、音もなく満たしている。ただそこに『在る』というだけで、空間そのものが悲鳴を上げているような、恐ろしいプレッシャー。

 

 俺とアシェラは同時に足を止めた。顔を見合わせる。互いの瞳に映るのは同じ色――驚愕と、そして避けられないものに対する確信。

 

 ──いる。

 

 間違いない。

 理屈ではない。本能が告げている。

 あの、蒼い幻影が。

 俺たちのすぐ近く……いや、もう既に、この建物の中に侵入しているのだ、と。

 

「な……なんでバレたんだ!? 」

 

 壁に背を押し付けたまま掠れた声で喘いだ。

 隠れた意味がなかったのか?

 それとも、もっと別の俺たちの理解を超えた方法で追ってきたのか?

 

 パニックになりそうな思考を、隣からの声が遮った。

 

「……理由なんて考えても仕方がないわ」

 

 アシェラは俺とは対照的に、驚くほど冷静な声で言った。だがその額にじわりと浮かんだ脂汗が、彼女もまた極度の緊張状態にあることを示している。

 

「アレはもう、そういう『理不尽』の塊よ。

 どうやって追ってきたか、なんて詮索するだけ時間の無駄。今はどう動くかだけを考えなさい」

 

 正論だった。原因を探っている余裕など今の俺たちにはない。それでも俺の口からは弱音が漏れる。

 

「……もっと、いい逃げ場があったんじゃないか?」

 

 もっと開けた場所なら、あるいは。そんな後悔が鉛のように胸に重くのしかかる。その時だった。

 

 こつん、と。

 軽い衝撃が俺の額に走った。

 

「……痛っ!?」

 

 見るとアシェラが人差し指で俺の額を軽く弾いていた。

 いわゆるデコピンだ。

 

「それは結果論でしょう」

 

 彼女は呆れたような、それでいてどこか叱咤するような目で俺を見る。

 

「あのままだと、もっと早く見つかっていたかもしれない。それにここに逃げ込んだおかげで時間を稼げて、少しは体力も回復できた。……それだけでも御の字よ。違う?」

 

 アシェラの言葉に、ぐっと詰まった。

 そうだ。彼女の言う通りだ。

 後悔したって始まらない。今、できることをやるしかない。

 

「……悪かった」

 

 小さく謝った。

 アシェラは「分かればいいわ」と短く返し、すぐに思考を切り替えたように周囲を見回した。

 

「とにかく、ここから移動するわよ。迎えとの落ち合い場所はこのホテルの裏口。最上階まで上がってきてしまったのは完全に失敗だったわね。降りないと」

 

 舌打ちしそうな表情だが、すぐに顔を上げる。

 

「でもこの建物の地理(なか)に関しては、さっき探索したこっちに分があるはずよ」

 

 彼女の目が、記憶を探るように細められる。

 

「……確か、五階。第二用務員室があったわね。資材や古い家具が山積みになっていて、隠れるにはちょうどいい場所がいくつかあったはず」

 

 掃除用具や壊れた椅子なんかが無造作に置かれた物置のような部屋だ。確かに、あそこなら身を隠しやすいかもしれない。

 

「ひとまずそこを目指して、そこから裏口へのルートを探りましょう」

 

 アシェラは目標を定め、俺を見た。その瞳にはもう迷いの色はなかった。

 プレッシャーは依然として、この空間全体を重く支配している。だが今は進むしかないのだ。

 再び息を殺しホテルの薄暗い廊下を、新たな目標地点へと向かって慎重に歩き出した。

 

 埃っぽいカーペットが敷かれた廊下を進み、非常階段の重い扉を開ける。

 

 最上階から、中間階へ。

 階下に降りるたびに、俺の中で黒い不安が鎌首をもたげた。

 

 本当に移動して正解だったのか?

 あのスイートルームで息を殺してやり過ごした方が良かったのではないか?

 

 考えるだけ無駄だと分かっていても思考は悪い方へ、悪い方へと転がっていく。

 背後から、あるいは頭上から、常にあの蒼い幻影の『圧』を感じている。

 それは弱まるどころか、むしろ徐々に、しかし確実に増しているような気さえした。まるで巨大な捕食者がゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてきているかのように。

 

 緊張と恐怖。

 それが胃の腑を直接掴むような不快感に変わり、喉の奥へとせり上がってくる。

 

「うぷっ……」

 

 まずい、吐きそうだ。

 込み上げる吐瀉感と、胃から逆流してくる酸っぱい液体。

 咄嗟に口元を押さえ、壁に手をついて立ち止まった。ここで音を立てるわけにはいかない。

 

 俺の様子に気づいたのだろう。

 隣にいたアシェラが無言で、手──口元を押さえていない方の──をそっと握ってきた。

 

「あ──」

 

 ひやりとした、けれど確かな温もりを持つ、小さな手。

 驚いてアシェラの方を見たが、彼女は前を見たまま何も言わない。ただ繋がれた手に、わずかに力が込められている。

 

 不思議だった。ただ手に触れられているというだけで、さっきまで喉元まで込み上げていた不快感がすうっと引いていくのを感じた。冷え切っていた指先に彼女の体温が伝わってくる。それがまるで命綱のように、ささくれ立った神経を落ち着かせてくれた。

 

「……ありがとう」

 

 安堵感。そうだ、ひたすらに安堵していた。

 一人じゃない、と。

 

 油断はできない。

 繋がれた手の温かさに少しだけ救われながらも、全身の本能(センサー)は依然として、周囲の異常な『圧』を捉え続けている。

 

 心臓の鼓動が破裂しそうなほど激しくなっている。

 ドクン、ドクン、と耳の奥で自分の血流の音が鳴り響いている。

 

 強くなっている。さっきよりももっと。

 

 ──近い。

 

 アシェラも同じことを感じているのだろう。繋いだ手にさらに力がこもる。

 半ば駆け出すようにして、階段を降り切った。五階。廊下の突き当たりに見える、『第二用務員室』と書かれたプレート。

 

 あと、少し──!

 

 息を切らしながら、目的の部屋の前にたどり着いた。ドアノブは古びて錆びついている。アシェラが素早くそれを捻り、音を立てないように、慎重にドアを開けた。

 中は掃除用具や壊れた備品が積み上げられた物置のような空間だ。埃っぽい匂いがするが、隠れる場所は確かに多そうだ。

 転がり込むようにして部屋の中へと入り、すぐに背後でドアを閉めた。

 

「ぷはっ──!?」

 

 ようやく許された呼吸。安堵からか、あるいは抑え込んでいた反動か、大きく一度だけ息を漏らしてしまった。

 その瞬間、アシェラの手が素早く伸びてきて俺の口を強く塞いだ。「しーっ」という無言の警告。慌てて頷き、自らの口を固く結ぶ。

 

 彼女はゆっくりと手を離し、改めて部屋の中を見回した。埃っぽく、カビ臭い匂いが充満しているが物陰は多い。

 

 幻影の気配はすぐそこまで迫っている。この部屋の中にいるわけではない。だが廊下の向こう、あるいはこの壁一枚隔てたすぐ外にいるような、肌を刺すような『圧』。

 下へ、裏口へ向かわなければならない。それは分かっている。だが、このプレッシャーの中でこれ以上動くのは自殺行為だ。

 

 ここでやり過ごすしかない。

 バリケードを作るのは愚策だ。「ここにいます」と教えているようなもの。

 ならば、このガラクタの山の中に紛れて息を殺すしかない。

 

 無言のまま、その結論は一致していた。どこに隠れるか──視線で示し合わせようとした、その直後だった。

 

 

 ぴきん

 

 

 猛烈な悪寒が、背筋を駆け上がった。

 さっきまでの比じゃない。全身の産毛が逆立ち、心臓が直接氷水で握り潰されたかのような、絶対的な危機感。

 

 脳が、魂が、絶叫している。

 来る。今、ここに!

 

「っ……!」

 

 体が、恐怖で勝手に震えだすのを止められない。

 アシェラが俺の異常な様子に気づき、「どうしたの?」と訝しげな視線を向けてきた。

 だが説明している暇など、一瞬たりともなかった。

 

「くそっ……!」

 

 ほとんど反射的にアシェラの腕を掴んでいた。

 そして近くにあった背の高い掃除用具ロッカーへと彼女の体を無理やり押し込んだ。

 

「ちょっ、何するの!?」

 

 ロッカーの中から、くぐもった抗議の声が聞こえる。構うものか。

 

「絶対にそこから出るな!」

 

 ロッカーの扉を外から押さえつけながら、切羽詰まった声で叫んだ。

 

「いいな、絶対だぞ!」

 

 そう言い終えた、まさにその直後だった。

 

 

 ゴォォォンッ!!

 

 

 凄まじい轟音と共に俺たちが今しがた入ってきたばかりの、用務員室の入り口のドアが灼熱によって吹き飛んだ。

 熱波が、爆風が、部屋の中の埃とガラクタを巻き上げる。ドアがあった場所は高熱で融解した金属とコンクリートの残骸が赤く光り、不気味な煙を上げていた。

 

 隠れる暇などない。アシェラをロッカーに隠すので精一杯だった俺は、完全に無防備なまま部屋の中央に立ち尽くしていた。

 

 そして──。

 

 舞い上がる粉塵と、立ち込める煙の中。

 ドアがあったはずの、その焼け爛れた空間に。

 

 音もなく。

 

 『それ』は立っていた。

 

 揺らめく、蒼い人影。

 人の形をしただけの『何か』。熱とも冷気ともつかない、矛盾した気配が、じりじりと肌を焼く。

 

 『それ』が、俺を捉えた。

 視線ではない。だが分かった。完全に認識された。

 

 見つかった──!

 

 瞬間、心臓が氷塊になったかのようにドクンと一度だけ大きく跳ねて、動きを止める。

 

 全身の血が、急速に凍りついていくような感覚。

 指一本動かせない。

 体が意思とは無関係に、その場に縫い付けられてしまったかのようだ。

 

 思考が、恐怖で白く染まる。

 声も出ない。

 呼吸すら、忘れていた。

 

 背後は壁。

 目の前には静かに揺らめく、蒼い『死』。

 

 逃げ場なんてどこにも、なかった。

 揺らめく輪郭の奥、(かたち)がないはずのそれがじっと、俺だけを見据えている。

 

「………っ」

 

 声にならない呻きが漏れた。

 体が、本能的に後ずさる。一歩、壁際へと。

 すると幻影もまた音もなく一歩、こちらへ距離を詰めた。ほんのコンマ数秒にも満たないような、僅かな移動。

 だというのに心臓そのものに肉薄されたかのような、絶対的な恐怖が俺を襲う。

 

 視界の端、掃除用ロッカーの扉についた覗き窓のような僅かなガラス部分。

 アシェラの心配そうな、あるいは何かを訴えるような強い視線が突き刺さるのを感じた。

 

 出てくるな。動くな。

 声にならない思いを込めて、小さく、しかし強く、首を横に振った。

 

 また、一歩後ずさる。

 幻影も、また一歩、距離を詰める。

 じり、じりと。蜘蛛が獲物を追い詰めるように。

 あるいは死そのものがゆっくりと、しかし確実に迫ってくる。

 

 まだ死んでいないのが奇跡のように思えた。

 前も似たような状況だった。だからこそ『死』という概念はより認識を強め、リアルに全身を包み込んでいる。

 いつ存在ごと消滅させられてもおかしくない。そのいつ終わるとも知れない恐怖の持続。

 

「か、はっ──……」

 

 息が、できない。

 喉が、灼けつくように痛い。肺が潰れてしまいそうだ。殺される前に、窒息して死ぬんじゃないか。

 

 全身の血液が、恐怖で沸騰し、あるいは凍りつき、逆流してくるような感覚。

 内臓を今すぐにでもぶちまけてしまいそうな、猛烈な嘔吐感が込み上げてくる。

 視界がぐにゃりと歪み始めた。

 

 後ずさる。

 だが、背中に冷たく硬い感触。

 壁だ。

 退くことすらできない。完全な袋小路。

 

 絶望的な状況。最後の最後に、まるで遺言のように、掠れた声が勝手に漏れた。

 

「……ここには、誰も……いない、ぞ……」

 

 意味なんてない。ただの、最後の悪あがき。

 ぎゅっと強く目を瞑った。来るであろう衝撃に、あるいは消滅に、ただ身を硬くする。

 

 こうなった以上、死ぬのは覚悟している。

 もう二度目だ、一思いに()るといい。

 

 それで、お前の気が済むのなら。

 アシェラが生き残れるのなら。

 

 ……──あれ、俺は。

 なんで、彼女に肩入れをしているんだっけ。

 

 死ぬ前に考えたのは、そんな詮無きことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 何も、起こらない。

 予想された痛みも、熱も、冷気も、何も。

 ただ、耳鳴りのような静寂だけが、そこにある。

 

 恐る恐る、瞼を上げる。

 目の前に、それはいた。

 触れられそうなほどの、至近距離。

 

 だが。

 

 幻影は俺に触れることなく、ふ、とその存在を希薄にした。そして重力など存在しないかのように、一直線に真上へと昇っていく。

 

 ゴウッ、と。

 この古いホテルの天井を、分厚いコンクリートを、まるで紙を突き破るかのように容易く貫通し、そのまま夜空の闇へと蒼い光の尾を引きながら消えていった。

 

 後に残されたのは破壊された用務員室の残骸と、耳鳴りのような静寂。

 そして、立ち尽くす俺一人。

 

 思考がまだ追いつかない。

 だが、体が先に限界を訴えていた。

 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。

 

「はっ、はっ、は──っ!」

 

 堰を切ったように、抑え込んでいた息が激しく漏れ出した。

 

 まるで生まれて初めて呼吸をするかのように、必死で酸素を取り込もうとする。だが、それと同時に胃の奥底から熱いものが込み上げてきた。さっきまで理性で押し殺していた、あの悍ましい感覚。

 

 また、見逃された。

 また、生き残った。

 また、生き残れた。

 

「うぷっ……!」

 

 もう、我慢できなかった。

 死を理解していたからこそ、二度目はより鮮明で、生々しく己の終わりを思い知らされたからこそ、耐えられなかった。

 

「おえぇぇぇぇっ!」

 

 膝から崩れ落ち、床に汚物をぶちまけた。胃の中身と一緒にさっきまで支配していた恐怖そのものを、全て吐き出すかのように。

 

 何度も、何度も。

 喉が焼けつくように痛い。涙で視界が滲む。

 

 ようやく嘔吐感が収まっても、体の震えが止まらなかった。ガタガタと歯の根が合わないほどの激しい悪寒が一気に全身を支配する。

 

「が、うっ……」

 

 寒い。寒い。寒い。まるで、真冬の氷水に突き落とされたかのように。

 

 その時だった。

 ガチャリ、とすぐそばで金属音が響きロッカーの扉が勢いよく開かれた。

 

「シュウ、アンタ──!」

 

 その声には俺の無事を確認した安堵と、こんな無茶な状況に陥ったことへの怒りのような響きが混じっていた。

 彼女の深紅の瞳が、床に蹲る俺の惨状を捉え、わずかに見開かれる。

 

 だが、俺は。

 アシェラの顔を見た瞬間。

 彼女が無事だったことへの安堵か、あるいは極限の恐怖から解放された反動か。

 

 理由は分からない。ただ自分でも抑えきれずに、熱いものが目から溢れ出してきた。

 

「こわ……」

 

 声が、震える。

 

「怖かった……! う……あああああああああああっ!」

 

 もう、駄目だった。

 見栄も、意地も、何もかもかなぐり捨てて。

 子供のように、声を上げて、ただ思い切り、全力で泣いていた。みっともないと分かっていても、涙も嗚咽も、止めることができなかった。

 

「……ぅっ……ひっぐ……うぅ……」

 

 声にならないような嗚咽が、喉の奥から途切れ途切れに漏れ出す。感情が決壊したダムの水のように濁流となって溢れ出す。

 

 全てがぐちゃぐちゃになって俺の中で渦を巻き、自分の輪郭すらも曖昧に溶けていくような感覚。

 息が苦しい。頭が痛い。ただ、嗚咽を漏らすことしかできない。

 

 不意に、ふわりとした温かさが、俺の体を包み込んだ。

 驚いて顔を上げると──いや、上げる前に、分かった。

 アシェラに抱き止められていたのだ。

 床に蹲る俺の体を、彼女がその細い腕で、しっかりと抱きしめていた。

 

「………」

 

 彼女は何も言わない。

 ただその手が俺の頭をまるで壊れ物を扱うかのように、優しく撫でていた。

 時折背中をゆっくりと、宥めるようにさすってくれる。

 無言の仕草がどんな言葉よりも深く沁みた。

 

「ぅ……っく……ひっぐ……」

 

 嗚咽はまだ止まらない。涙も溢れてくる。

 それでもアシェラの腕の中、彼女の体温を感じているとさっきまでの凍えるような寒気が少しずつ和らいでいくような気がした。

 

 まるで、生まれたての赤ん坊のように。

 あるいは、嵐の中で必死に何かにしがみつくように。

 ただ彼女の腕の中で、その温かさに包まれてしばらくの間、声を殺して泣き続けていた。

 


 

 どれくらい、そうしていただろうか。

 アシェラの腕の中で声を殺して泣き続けていた。

 やがて嗚咽の波も少しずつ収まり、残ったのは疲労感とぐちゃぐちゃになった感情の残骸だけだった。

 

「……立てる?」

 

 頭の上から静かな声が降ってきた。アシェラが、こちらを覗き込んでいる。

 

「ん……」

 

 まだ少ししゃくりあげながらも、こくりと頷いた。

 アシェラはゆっくりと俺から体を離すと、立ち上がるのを手伝ってくれた。

 足元がおぼつかない。さっきまでの恐怖と緊張で、全身の力が抜けてしまったようだ。

 

「……行くわよ」

 

 アシェラはまるで迷子の子供の手でも引くかのように手をしっかりと握った。

 破壊された用務員室を後にし、再び薄暗い廊下へと歩き出す。彼女に手を引かれるままただ、その背中についていった。

 

 やがて、建物の裏口らしき場所へとたどり着いた。

 錆びた鉄の扉がわずかに開いている。外には深夜の冷たい空気が待っていた。

 

 そこには一台の車が音もなく停車していた。流線形の、いかにも高そうな黒いスポーツカーだ。

 

 近づくと運転席側のドアが静かに開き、中から一人の男が降りてきた。

 見覚えのある顔だった。スーツを隙なく着こなし、穏やかな笑みを浮かべている。間違いない、アシェラと一緒に行ったカフェにいた、あの責任者らしき店員だ。

 

 「……お疲れ様です」

 

 アシェラに向かって丁寧に頭を下げた。その物腰は完全にプロのそれだ。やはりただのカフェ店員ではなかった。アシェラの『協力者』なのだろう。

 

 アシェラは頷き返し、俺を促してスポーツカーの後部座席に乗り込んだ。彼女も隣に滑り込む。男はすぐに運転席に戻り、静かにエンジンを始動させた。

 

 車内には、重たい沈黙が流れていた。俺は、まだしゃくりあげが止まらず、ただ窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。

 

 不意に運転席の男が、バックミラー越しにアシェラに話しかけた。

 

「……報告にあった、例の蒼い幻影ですか。やはり、イレギュラーがあったようですね」

「……えぇ。でも収穫はあったわ。D細胞由来とは考えにくい現象を起こすタイプを確認したわ。あれは……おそらく」

 

 俺の頭を撫でながら、しかしその声は完全に『仕事』のそれに戻っていた。冷静で、感情の色がない。

 

「……その件ですが」

 

 運転手の男はアシェラの簡潔な報告を受けて、重々しく口を開いた。

 

「こちらでも関連情報をいくつか掴んでおります。アシェラ、貴女の現場での判断通り、今回の事態は単なるD案件では収まらない可能性が高い、と分析されています」

 

 アシェラの手がぴたりと止まった。彼女は眉をひそめ、バックミラー越しに男を睨む。

 

「……やはり、そうなの」

「ええ。特に『蒼い幻影』や今回の『悪魔』……我々のデータベースには該当しない『C案件』に該当する可能性があります。D細胞とは異なる原理で動く極めて危険な対象であり、その二つが入り混じった非常事態でもあると」

 

 男は淡々と、しかし深刻な響きで続ける。

 

「そして……残念なお知らせとなりますが、先ほど合衆国国防総省(オクタグラム)より正式な通達がございました。現状、こちらに応援部隊を派遣する余力はないとのことです」

 

 アシェラは何も言わなかった。ただ、唇をわずかに噛み締めたように見えた。

 

「……申し訳ありません」

 

 男は、心から残念そうに言った。

 

「つまり……現状このエリアで複雑怪奇な状況に対応できる戦力は、貴女お一人、ということになります」

 

 車内に、再び重たい沈黙が落ちた。

 アシェラしかいない。この訳の分からない怪物が複数蠢く街で、たった一人で戦わなければならない。

 その事実が、重く胸にのしかかってきた。

 アシェラは頭を撫でるのをやめて窓の外の闇を見つめていた。その横顔は街灯の光を受けて、ひどく儚げに、そしてどこか追い詰められたように見えた。

 

「……それと、アシェラ」

 

 沈黙を破ったのは再び運転手の男だった。

 その声は先ほどよりもさらに低く、慎重な響きを帯びている。

 

「……これは、まだ推測の域を出ませんが」

 

 男はバックミラー越しにアシェラの反応を窺うように、言葉を続けた。

 

「あの『蒼い幻影』ですが……D細胞を持つ者だけを標的にしている可能性が高いのではないか、と」

「……どういうこと?」

 

 アシェラが、鋭く問い返す。

 

「確証はありません。ですが、これまでの出現パターン、そして攻撃対象を分析する限り、その傾向が見られます。貴女のような適合者、あるいは異常適合者のみに強い敵意を示しているように見受けられるのです」

 

 男は、そこでわずかに言葉を切った。そして、バックミラー越しに、ちらりと、後部座席に座る俺の方を見た。

 

「……ええ。貴女の連れている、そこの『協力者』の方のおかげでその傾向がよりはっきりと見えてきた、とも言えますね」

 

 幻影は俺を認識したはずだ。触れるほどの距離まで近づいてきた。だというのに、俺は消されなかった。

 それは、俺がD細胞を持っていないから……?

 

 だとしたら?

 だとしたら、アシェラは──?

 

 隣に座るアシェラの横顔を盗み見た。彼女は何も言わず、ただ窓の外の闇を睨みつけている。だが、その握りしめられた拳が白く変色しているのが分かった。

 

 D細胞を持つアシェラが、常にあの幻影の最優先ターゲットであるという可能性。

 重い現実に、かけるべき言葉を見つけられずにいた。

 ただ車内に満ちる重苦しい空気が、さらに密度を増したように感じられた。

 

 「……アシェラ」

 

 運転手の男が静かに、しかし念を押すように言った。

 その声には彼女への気遣いとは違う、どこか非情な響きすら含まれているように聞こえた。

 

「わかっていますね」

「……えぇ」

 

 アシェラは窓の外の闇を見つめたまま、短く、しかし重く答えた。

 

「言われなくても」

 

 その声は、凪いだ湖面のように静かだった。だが奥底には計り知れないほどの覚悟と、あるいは諦念が渦巻いているような気がした。

 

 それきり、車内には再び沈黙が訪れた。

 スポーツカーは滑るように夜の街を走り抜けていく。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 車窓を流れる景色が見慣れたものへと変わっていく。

 コンビニの明かり、ファミレスの看板、そして駅前のロータリー。俺の地元の、日常の風景。

 

 スポーツカーはゆっくりと速度を落とし、ロータリーの隅に、音もなく停車した。

 

 カチャリ、と軽い金属音。

 俺が座っている側の後部座席のドアが静かに開いた。

 

「シュウ」

 

 彼女は、真っ直ぐに俺を見ていた。

 その深紅の瞳には、もう迷いの色はない。揺るぎない覚悟を決めた光が宿っていた。

 

 どこまでも強く、そして、ひどく痛々しい光だった。

 彼女はゆっくりと、しかしはっきりとした声で俺に告げた。

 

「あなた、日常に戻りなさい」

 

 その言葉が最後の宣告のように、深夜のロータリーに静かに響き渡った。

 

 

 

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