放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト   作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問

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18 『日常』に戻る時

 

「あなたは日常に戻りなさい」

 

 有無を言わせぬ響きを持った言葉が、深夜のロータリーに冷たく響いた。

 開いた車のドアの前に立ち尽くしたまま、その言葉の意味を反芻する。

 

「……でも!」

 

 声が勝手に出ていた。まだ何か言いたい。納得できない。このまま終わりなんて、そんなの──……

 

 か細い反論を聞いてアシェラは視線を落とした。アスファルトの染みをあるいは自分のつま先を見つめている。その顔には、先ほどまでの揺るぎない光とは違う、深い葛藤の色が浮かんでいるように見えた。

 

「……本当に、ごめんなさい、シュウ」

 

 絞り出すような、小さな声だった。

 

「……アンタを、こんな危険なことに巻き込んでしまった。本来なら、アンタが知る必要のない世界に」

 

 彼女は顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見据えた。瞳には後悔と、そして確かな謝罪の色が浮かんでいる。

 違う、踏み込んだのは俺だ。そんな言い方は筋違いだ。

 

 ──そう言ってやりたかったが、喉から言葉が捻り出せない。

 

「アンタがちゃんと日常に戻るために監視対象の指定は解くよう、上に掛け合うわ。約束する……けど、そうね」

 

 声のトーンがわずかに変わる。どこか感傷的な響き。

 

「ここ数日のことは……存外、悪くなかったわ。アンタの案内も、まあ、及第点だったし。それに……」

 

 少しだけ視線を逸らし、呟くように続けた。

 

「アンタが言ったこと。『死んだら悲しい』ってやつ。……あれは、まあ……少しだけ、響いたから。それは、本当」

 

 あまりにも意外な言葉。

 何か言おうとしても、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。

 何を言えばいい?

 

 言い淀んでいるのを、アシェラはじっと見ていた。

 そして、まるで自分の中の何かを振り切るように、あるいはこの中途半端な感傷を断ち切るように、彼女の表情からふっと全ての柔らかさが消え失せた。

 

 再び彼女は氷の仮面を被り、絶対零度の声が俺の戸惑いを切り裂いた。

 

「でも、これ以上はハッキリ言ってお互いのためにならない。手遅れになる前にただの一般人に戻りなさい。私たちのいる世界とアンタの世界は違う」

 

 彼女の深紅の瞳が、俺を射抜く。そこには、一片の同情も、迷いも読み取れない。

 

「それに」

 

 アシェラは、畳み掛けるように続けた。その声は、わずかに厳しさを増している。

 

「さっき、どんな思いをしたか忘れたの? あの恐怖を、また味わいたいとでも言うの?」

 

 そうだ、あの恐怖。心臓が凍りつくような、絶対的な。

 身近にある死、体感した死。

 ただ生きている上で、人間が直面してはいけない恐怖。

 

 半歩、後ずさる。

 

「私の近くにいれば、嫌でもまたアレは来るわよ。D細胞を持つ私をあの『蒼いの』は執拗に狙う。その傍にいて、今度こそアンタを守りきれる保証なんて、今の私にはどこにもない」

 

 守りきれない──その言葉が、とどめだった。

 そうだ、彼女は俺を庇って何度も危険な目に……。俺がいるから、彼女が……。

 

「だから、私の前から消えて。日常に帰って」

 

 アシェラは、静かに、しかし決定的な響きで言い放った。

 

「それがアンタにとって、最良の選択なんだから」

 

 もう、何も言えなかった。

 唇を噛み締めることしかできない。

 悔しさも、悲しさも、怒りも。

 全てが巨大な絶望感と、そして彼女の言う『事実』の前に、意味をなさなかった。

 

 アシェラは、そんな俺を一瞥するともう用はないとばかりに踵を返し、スポーツカーへと乗り込んだ。静かにドアが閉まる。

エンジンが始動し、黒い車体は滑るように動き出し、あっという間に夜の闇へと溶けていく。

 

 一人。

 誰もいない深夜のロータリーに、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 エンジン音も聞こえなくなった静寂の中で、アシェラの最後の言葉だけが、耳の奥で何度も、何度も、反響していた。

 


 

 

 アシェラと別れて深夜の道をただひたすらに歩いた。

 自宅の前にたどり着いたが、体は鉛のように重く心はそれ以上に疲弊しきっていた。

 

 玄関のドアをそっと開けると、リビングの明かりが漏れていた。母さんが起きていたらしい。

 ……来るか、いつもの小言が。そう身構えた。無断外泊に近い状況だ、叱られても仕方ない。

 

 だが、リビングから顔を出した母さんは一瞬息をのんだだけで、いつものような剣幕にはならなかった。

 

「……シュウ。……おかえり」

 

 ただ、静かに、心配そうな声でそう言った。

 

「……ただいま」

 

 俺は、母さんの視線を避けるように俯きながら、小さな声で返す。

 

「……何か、あったの?」

 

 問い詰めるような響きではない。ただ、純粋な心配がそこにはあった。

 

「……まぁ、うん」

「話せそう?」

「嫌、かな……」

 

 多分、人生で初めて明確に『嫌』と、本心から肉親を拒絶した。

 母さんはそれ以上何も言わず、ただ俺の後ろ姿を黙って見送っているようだった。その無言の気遣いが、今はかえって重かった。

 

 リビングのソファには相変わらず親父が座っていた。視線はテレビ画面に固定され、相変わらずアニメか何かをぼうっと眺めている。俺が入ってきてもこちらを見ようともしない。いつものことだ。だが、今の俺にはその無関心が冷たく突き刺さる。

 

 俺はその背中に向かって、ほとんど無意識に、掠れた声で問いかけていた。

 

「……なあ。叱らないのかよ。2日も連絡もなしに帰ってこなかったんだぞ」

 

 親父は、画面から一度も目を離さないまま答えた。

 

「そんなこと、するだけ無駄だろう」

 

 ……もう、何も言う気になれなかった。

 踵を返し、自分の部屋へと引きこもった。

 

 部屋のドアを閉め、鍵をかける。そして、ベッドに倒れ込むように布団に潜り込んだ。

 途端に、抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。

 

 アシェラのこと。

 化け物のこと。

 突き放されたこと。

 

 誰にも、何も話せない。分かってもらえない。

 母さんは心配はしてくれているのかもしれないが結局、本当のことは言えない。

 親父も何を考えているのか分からないから、頼ることなんてできそうにない。

 

 どうしようもない孤独感が恐怖や悲しさ、悔しさといった感情と一緒くたになって、熱い涙になって止めどなく溢れ出す。声にならない嗚咽を漏らしながら、俺は子供のように、ただひたすらに、みっともなく泣きじゃくった。

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 涙も枯れ果て、叫ぶ声も出なくなり、心も体も完全に空っぽになった頃、猛烈な疲労感が、まるで重い毛布のように俺の意識を覆い始めた。

 そして、そのまま。

 まるで泥の中に沈んでいくように、深く、抗いようのない眠りに落ちていった。

 


 

 どれほどの時間、泥のように眠っていたのか。

 俺は布団の中で、ただかろうじて呼吸だけを繰り返す肉の塊になっていた。

 

 そして、気づけば月曜日の朝だった。

 まるでプログラムされた機械のように、あるいは長年の習慣という名の呪縛によって、いつもの起床時間きっかりに、俺の意識は強制的に現実へと引き戻された。

 

 ベッドから這い出し、機械的に顔を洗い、歯を磨く。

 鏡に映る自分の顔は、生気がなく、まるで他人のようだった。

 シャワーを浴びるのも、制服に袖を通すのも、全てが億劫で、重い。指一本動かすのにも、鉛を引きずるような抵抗を感じる。全ての行動に、心の底から嫌気がさしていた。

 

 それでも、体は動く。

 『やらなくてはいけない』──ただ、その義務感だけが、俺という名の抜け殻を動かしているようだった。

 

 いっそこのまま本当に部屋から一歩も出ずに、世界との接続を完全に断ち切ってしまえたなら、どれだけ楽だろうかと一瞬思う。だが悲しいかな、俺にはそれすらもできない。中途半端にこの日常にしがみついて、全てを投げ出す覚悟も、本当に引きこもってしまう勇気もないのだ。

 

 結局俺はどこまでいってもこんな風に流されるだけの半端者なんだろう、と自嘲する。

 

 そうだ、俺はもうあの非日常から追い出されたんだ。

 アシェラにはっきりと拒絶された。

 日常に戻れ、と。

 ならば、『日常』に帰らなければならない。

 帰る場所なんて、もうここしか残っていないのだから。

 

 ただ、錆びついた機械のように。

 けれど、何事もなく過ごせればそれでいい。

 

 空っぽの頭で、空っぽの鞄を持って、自分の部屋のドアを開けた。

 いつも通りの、けれど今はひどく色褪せて見える、朝が始まろうとしていた。

 

 ダイニングテーブルには既に朝食が並べられていた。

 そして、珍しいことに、親父も既に席について新聞を広げている。いつもならギリギリまで寝ているか、リビングのソファでテレビを見ているかのどちらかなのに。母さんの姿は見えない。ここ数日で気を揉んだのだろう、多分まだ寝ている。

 

 その証拠に朝はシリアルのフレークだった。

 

 それを見た瞬間、ほんの数日前の、アシェラのセーフハウスでの奇妙な朝食の記憶が嫌でも鮮明に蘇ってきた。

 

 ──やめろ、思い出すな。

 

 内心で強く念じ、蘇る記憶を振り払おうとした。だが一度焼き付いた光景は、そう簡単には消えてくれない。

 

「……」

 

 ちらりと、親父の方を横目で見る。新聞を広げたまま、面と向かっているはずなのに、相変わらず俺に一瞥もくれず、何も言わない。俺が席を立ったことにも、ほとんど食事に手をつけていないことにも、何の反応も示さない。

 

 結局朝食には手をつけられずそのまま玄関へと向かい、黙って家を出た。

 胸の中に渦巻くのは、週末から続く重たい疲労感と、どうしようもない虚しさと、そして、まだ名前のつけられない、奇妙な喪失感だけだった。

 

 空っぽの頭で、空っぽの鞄を肩にかけ、自分の部屋のドアを開けた。

 いつも通りの、けれど今はひどく色褪せて見える、朝が始まろうとしていた。

 

 外は嫌っていうほど空が晴れ渡っていた。

 ちくしょう、こんな時に限って。空の青さが、太陽の明るさが、今はただただ憎らしい。

 世界は俺の気分なんてお構いなしに、いつも通りに回っている。

 

 太陽を心の中で呪いながら、駅へと続く遠回りの緩やかな坂道を、重い足取りで登り始めた。

 

 学校へ行く。

 昨日までのことを忘れたふりをして、日常に戻る。アシェラに言われた通りに。

 

 とぼとぼと坂を登り、それが終わりかけて、ぼろぼろの駅舎が見えてきた。

 いつもと同じ、見慣れた風景。

 ……その駅前のロータリーに誰かが立っているのが見えた。

 

 朝の日差しを浴びて、やけに輝いて見える、快活そうな人影。

 その人影が、こちらに気づいて大きく手を振った。

 

「シュウ〜!」

 

 満面の、朝の日差しよりも眩しいくらいの笑顔で、レイナがそこにいた。

 そのあまりにも日常的で、あまりにも眩しい光景に、俺はただ、立ち尽くしていた。

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