放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト 作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問
「ここが市営競技場だ」
目の前にそびえ立つ巨大な建造物のシルエットを見上げる。
閉鎖されてから何年も経つその競技場は、夜の闇の中で黒々とした塊のように鎮座している。外壁は汚れ、所々ひび割れているのが街灯の明かりで辛うじて見て取れた。入り口であろう場所は無骨な工事用のバリケードで固く封鎖されている。
本当に、こんな場所に鬼なんて出るのだろうか。
「……なあ、本当にここに入るのか?」
隣に立つアシェラに不安げに尋ねた。正直足がすくむ思いだ。
アシェラは不安など見透かしているかのように、静かに口を開いた。
「怖気づいた? でも、アンタが今夜一人でこの辺りをうろつくより私の後ろの方が、今のこの街を見るによほど安全だと思うけど?」
その言葉には妙な説得力があった。
確かに、昨日の化け物のようなヤツに遭遇する可能性を考えればこの規格外の少女のそばが一番安全なのかもしれない。家にこもっていたいの本音ではあるのだが。
言い淀んでいると、アシェラは「じゃあ、行くわよ」と短く告げた。
「え? どうやって、このバリケード……」
俺が言い終わるよりも早く、アシェラは驚くほど軽い動作で俺の体をひょいと横抱きにした。
「ちょっ、おい!? 何すんだ!」
「舌、噛むわよ。黙りなさい」
突然のことに抗議する間もなく、ふわりとした浮遊感が俺を襲う。
「うわわぁぁぁぁっ!?」
アシェラは俺を抱えたまま、まるで重力など存在しないかのように、高さのある工事用バリケードを一息に飛び越えた。
生きた心地がしなかった。 一瞬、何が起こったのか分からず、目が回りそうだ。
「……お、お前な! 飛ぶなら飛ぶって言えよ!」
「肝の小さい男ね、少しはドンと構えなさいよ」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど上ずっていた。
アシェラは静かに俺を地面に降ろすと、すぐに周囲に鋭い視線を走らせた。まだ少し足元がおぼつかないが、しかし彼女は構わず押し切るように言った。
「いい? ここからは私の指示に絶対に従ってもらうわ。絶対に、私の前に出ないこと。常に私の後ろにいて。何かあっても、勝手に動かない。……分かった?」
その迫力に反論できず、ただこくりと頷くことしかできなかった。
アシェラは返事を確認すると、もう一度周囲を見渡し、そして、闇に沈む競技場の入り口へと静かに歩き出した。緊張で早鐘を打つ心臓を抑えながら、その黒いスーツの後ろ姿を必死で追う。
割れたガラスを踏まないように注意しながら、通用口から競技場の内部へと足を踏み入れる。ひんやりとした埃っぽい空気が鼻をつく。外の微かな月明かりも届かない通路は完全な闇に包まれていた。
足音がやけに大きくコンクリートの通路に反響する。アシェラは夜目が利くのか、時折手に持った小型のライトを短く照らすものの、迷いのない足取りで先を進んでいく。俺はと言えば、彼女のすぐ後ろをついていくので精一杯だ。
解体工事の中止後、ここは不良たちの格好の溜まり場になっていた。夜中にバイクを走らせ、騒音問題としてかなり住民から苦情が出ていたが……例の『鬼』の噂の発端となった、不良の集団失踪事件。くだらない都市伝説だと思いたかったがこの場所に実際に足を踏み入れると、妙な現実味を帯びて感じられた。
アシェラはいくつかの部屋──選手控室やおそらくは倉庫だったであろう場所を手早く確認していくが、特に足を止める様子はない。中はどれも荒らされており、めぼしいものは何も残っていないようだった。
「……こっちにはいないみたいね」
彼女は小さく呟くと、さらに奥へと進路を変えた。どうやら目的地はこの建物の中心部らしい。
やがて俺たちはだだっ広いコンコースのような場所に出る。その先に、ひときわ大きなアーチ状の入り口が見えた。
「あそこが……」
おそらく競技場の心臓部である陸上コートへと続く通路だろう。
アシェラが、その暗い入り口に向かって、さらに慎重に歩を進める。息を殺してその後に続いた。入り口が近づくにつれて気のせいか空気がさらに重く、冷たくなったように感じる。
あと数歩で入り口をくぐる――というその時だった。
ピタリ、とアシェラが足を止めた。
彼女の背中が先ほどまでとは明らかに違う緊張感を帯びているのが分かった。まるで全身で何かを探るように彼女は微動だにせず、入り口の奥の闇を見据えている。
「……アシェラ?」
俺が小声で尋ねようとした瞬間、彼女が左手を軽く上げて俺を制した。
「……いる」
静かな、しかし確信に満ちた声だった。
その一言で心臓は凍りついたように跳ね上がった。
いる? 何が? まさか本当に――。
アシェラは背中のギターケースのストラップに触れる。
あの暗い陸上コートの中に、『何か』がいる。俺たちは今、その入り口に立っているのだ。
張り詰めた空気が俺たちの間に満ちていた。
アシェラに制されたまま息を殺してアーチ状の入り口の奥を窺った。
そこは通路というより、直接観客席の下層部分に繋がっているようだった。
彼女は躊躇なくその薄暗い観客席エリアへと足を踏み入れる。俺も慌てて後に続いた。
数段の階段を上がると、視界が一気に開けた。
目の前に広がっていたのは月明かりにぼんやりと照らし出された、広大な陸上競技場のフィールド。それを取り囲む巨大なすり鉢状の観客席だった。
打ち捨てられて久しいのだろう、トラックには雑草が茂りフィールドのあちこちには用途不明のゴミのようなもの――
否。よく見ると、破れた服の切れ端や泥に汚れた靴。錆びた金属片のようなものが散らばっている。無残な狩りの跡を示す墓標のように。
そして、『それ』はいた。
「……あれが……鬼……?」
思わず声が漏れた。だが、噂に聞くような角の生えた鬼の姿とは違う。
ずんぐりとした、異常なまでに筋肉が膨れ上がった巨体。まるで岩塊のような筋肉の塊が不格好な人型を成している。身長は3メートルを優にあるだろうか。のそりのそりと目的もなくフィールドを歩き回っているその姿は、鬼というより歪んだ『巨人』と呼ぶ方がしっくりきた。
そんな異形を目の前にして、強烈な恐怖が足元から這い上がってくる。
しかし、隣のアシェラの反応は、俺の予想とは少し違っていた。
「あれはあれで厄介だけれど、ここへ来てただの
彼女は巨人を冷静に観察しながら、小さく鼻を鳴らした。
その声には昨日対峙した化け物に対するような未知への警戒よりも、むしろ「理解できる範疇の相手」に対するような響きだ。
彼女の妙に落ち着いた態度に恐怖は完全に消えはしないまでも、少しだけ和らいだ気がした。少なくとも彼女にとっては対処不能な相手ではない、ということなのだろう。
「まあ、あんなでも放置はできないか」
アシェラは独りごちると、背中のギターケースに手をかけた。
「光学迷彩解除」
凛とした声が、静かな競技場に響く。
彼女がストラップを引くと同時に、ギターケースの周囲の空間が、ぐにゃり、と一瞬陽炎のように歪んだ。次の瞬間には、あの無骨で巨大な、黒々とした大剣が彼女の背中に現れていた。
大剣を背負い直し、アシェラは俺の方を振り返った。
「シュウはそこの特等席で大人しく観戦してなさい、ポップコーンがないのが残念だけど」
そう言って、悪戯っぽく片目をつぶる。こんな状況で冗談を言う余裕があるらしい。
「……善処するよ」
俺は、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。観戦なんて冗談じゃない。
アシェラは俺の返事を聞くともう一度フィールドの巨人に向き直り、観客席からフィールドへと続く階段へ、静かに、しかし確かな足取りで歩き始めた。
「こんばんわ、いい夜ね」
アシェラはそう笑って巨人に話しかけた。静けさの支配する競技場にその言葉は染み入り、巨人も彼女に振り向く。
話しかけなければ不意打ちもできたものを、と思わずにはいられないが俺は言われた通り黙って観客席の陰に隠れるしかない。
「ウゥゥゥ……」
回答は低い唸り声、それを聞いて彼女は背中の大剣を抜刀、しかし構えることはせずだらりと脱力している。
「この国に来て、いろんな異常を見てきたけれど。まさかアンタくらいの異常適合者で安心するなんて思いもしなかったわ」
そう言いながらアシェラは軽快に跳び、一息で観客席からコートへ。アスファルトに音もなく軽やかに降り立った。中央で唸る巨人を一瞥しても彼女は臆する様子もなく、まるで散歩でもするかのような足取りで歩き始める。
中ほどまで進んだところで彼女はぴたりと足を止め、まるで子供をあやすかのように。あるいはただ単に面倒くさそうに、巨人に呼びかけた。
「ほら、かかってきなさいよ。いつまで唸ってるつもり?」
その挑発が引き金になったのだろう、巨人の全身の筋肉がみるみるうちに膨張し、岩のような巨体が明らかに殺気立って躍動した。
「ガァァァァッ!」
地響きのような低い咆哮を放ち――刹那、巨人はアシェラへと大地を蹴り、踏み込んだ。
質量。ただ純粋な破壊衝動だけを推進力にして、剛のような巨躯が直線軌道でアシェラへと殺到する。
常人であればその疾走が巻き起こす風圧だけで吹き飛ばされ、衝突すれば塵も残らないだろう。
だが――あまりにも、単純すぎる。
アシェラは、その巨躯が巻き起こす暴風の中、微動だにしない。
迫る質量。衝突の寸前。
彼女はただ、こともなげに、背丈ほどもある黒い
ゴウッ!
それは人から放たれる災い、殺意のある突風。
物理法則を嘲笑うかのような乾いた打撃音。巨人の凄まじい突進の運動量は、まるでバットで打ち返されたボールのように、容易く受け止められ――そして、捻じ曲げられたベクトルに従って弾き返される。
その巨体は、信じられない速度と角度で夜空へと打ち上げられた。綺麗な放物線を描き、フィールドの遥か彼方、観客席の暗がりへと叩きつけられ、轟音と共に砂塵を巻き上げる。
まさしく、呆れるほど綺麗な場外ホームランだった。
観客席の暗がりに叩きつけられた巨人が巻き上げた砂塵がゆっくりと舞い落ちていくのを、俺はただ呆然と見つめていた。
アシェラの一撃はあまりにも規格外で、現実感がなかった。
しかし、その衝撃は不快な音によって上書きされる。
重い骨が砕けながらも無理やり元の位置に戻ろうと擦れ合うような、鈍い破壊と再構築の響きだった。
それは、熱した鉄に肉を押し付けるように、肉体が焼け付きながら急速に繋がり合っていく音。
不気味な音は、砂塵の中からもうもうと立ち上り始める白い蒸気から。
蒸気の向こうで先ほどまで明らかに砕かれていたはずの巨人の巨躯が、その輪郭を取り戻していくのが見えた。折れたはずの骨が繋がり、裂けた筋肉が盛り上がり、潰れた部位がありえない速度で復元していく。
それは生物の持つ治癒能力などという生易しいものではない。粘土をこね直すように、ただただ圧倒的な生命力がその体を再構成していた。
俺がその異様な光景に驚愕していると、フィールドに立つアシェラから小さく、しかしはっきりと舌打ちが聞こえた。
「このタイプで再生能力も待ち合わせてるか……やっぱり、この街はおかしい」
忌々しげな呟き。やはり、あの程度の一撃では仕留めきれていなかったらしい。この再生能力は、彼女にとっても厄介なものだということか。
やがて蒸気が薄れ、瓦礫の中から完全に元の姿を取り戻した巨人がゆっくりと立ち上がった。その双眸には、先ほどよりもさらに強い憎悪と破壊衝動の色が宿っていた。
「グオオオオオオオオッ!!」
今度は、ただの突進ではない。全身の筋肉をさらに膨張させ、怒りと殺意を込めた絶叫と共に、巨人は再び大地を蹴った。
二度目の突撃は、一度目よりも明らかに速かった。
怒りに任せた巨人の猛進はただの質量の暴走に見える。それでもアシェラはやはり真正面から迎え撃つつもりらしい。大剣を構え直すというより、自然にそこに剣があるだけのように見えるのは、彼女の常なのだろうか。
巨人の太い腕が薙ぎ払うように振るわれる。次いで岩のような拳。
アシェラはその獣じみた攻撃を、最小限の動きで冷静にかわしていく。ひらり、ひらりと、まるでじゃれつきをあしらうように。観客席から見ている俺の目には、黒いスーツと岩塊が高速で明滅するようで、目で追うのがやっとだ。
だが、攻撃をかわしただけでは済まなかった。
巨人の拳が地面を叩く、突如として二人の足元の地面が轟音と共に崩れた。
脆くなっていたのだろう、古い競技場の地面が戦闘の余波に耐えきれなかったらしい。
「……っ」
砂塵が舞い、巨人の巨体がバランスを崩してよろめく。
その隙をアシェラが見逃すはずもなかった。崩れる足場の上、彼女自身の体勢もやや不安定、それでも即座に反応し、再び黒い大剣を叩き込んだ。
ゴッ、と鈍い音が響く。
巨人はまたしても弾き飛ばされ、観客席へと叩きつけられた。だがアシェラも万全ではなかったせいか、今度の一撃は一度目ほどではなかったらしい。巨人は観客席のコンクリートを砕きながらも、瓦礫の中で体勢を立て直してずしんと重い音を立てて着地してみせた。
終わらない。終わってくれない。
あの化け物は、まだ、しぶとく生きている。
早くこの目の前の異常な光景が終わってほしい、と切に願った。
アシェラは強い。強いけど、相手はあの化け物だ。万が一、何かあったらどうするんだ。あんな無茶苦茶な戦い方をしていて、本当に無事で済むのだろうか。
俺がそんなことを考えている間にも、アシェラは動いていた。
コートから観客席へ――まるで地を蹴るのではなく、空間そのものを蹴って加速したかのような、弾丸めいた速度で、彼女は瓦礫の中に着地したばかりの巨人に肉薄する。
「くたばれッ!」
殺意を込めてアシェラが巨人を蹴った。
そこからは凄まじい、一方的な蹂躙だった。
黒い大剣が閃き、巨人の岩のような体を斬り、叩き、打ち据える。
続けざまに叩き込まれる蹴りが、分厚い筋肉をえぐるようにめり込み、重い打撃音を響かせる。アシェラの人間離れした猛攻に、巨人がいた辺りの観客席が、まるで爆撃でも受けたかのようにめちゃくちゃに破壊されていくのがここからでもはっきりと分かった。
「デタラメだ、こんなの!」
思わず声を上げてしまうほどの惨状、競技場そのものが大きく揺れる。
だがその猛攻の最中、一瞬の隙が生まれたのか。あるいは、巨人が再生能力に任せて攻撃を耐えきったのか。巨人の岩塊と見紛う剛腕が、唸りを上げて振るわれた。
アシェラはそれを咄嗟にガードしようとしたようだが、完全には避けきれなかったらしい。
鈍い衝撃音、ただの拳の音が反対側の観客席にいるのに大きく響いた。
次の瞬間、彼女の体がまるで木の葉のように軽々と、しかしとんでもない勢いで吹き飛ばされた。観客席の椅子を薙ぎ倒し、破壊しながら、一直線に──俺のまさに目の前まで!
「うおおおおっ!?」
咄嗟に身を固くする。しかし、叩きつけられるかと思われたアシェラは地面に激突する寸前で空中で体勢を制御し、派手な破壊音を響かせながらもしっかりと着地した。
「……まいった、まさか足場がここまで不安定なんて」
粘ついた血の痰がアスファルトにぺっと吐き捨てられる。
アシェラはすぐに顔を上げ、事もなげに口元を手の甲で拭うと、煙を上げる壊れた観客席の奥を睨みつけた。
次の瞬間、観客席の奥から轟音と共に巨大な何かが飛来した。
砕けたコンクリートの塊──いや、観客席の座席部分が丸ごとだ。それが、俺たち目掛けて一直線に迫ってくる。
「おいおいおい!」
思わず、声が出た。続け様に、二つ、三つと、巨大な瓦礫が同じように投げつけられる。まるで大型トラックが突っ込んでくるような質量と速度だ。避けられるわけがない。
「そこ、動くな!」
俺の悲鳴に重なるようにアシェラの鋭い声が響いた。
有無を言わせぬ絶対的な命令。その声に、恐怖で縫い付けられたように体が固まる。
アシェラは俺を背にかばうように半身になりながら、飛来する瓦礫を冷静に迎え撃った。
一つ目。黒い大剣が一閃し、分厚いコンクリート塊は容易く両断され、俺たちの左右を虚しく通り過ぎた。
二つ目。今度は剣ではなく、しなやかな動作から繰り出される鋭い回し蹴り。投げつけられた鉄骨混じりの瓦礫が、メキメキと嫌な音を立てて砕け散る。
三つ目。最後の一塊を、アシェラは再び剣で正確に、そして力強く弾き飛ばした。
立て続けに飛んでくる凶器を、アシェラは危なげなく、むしろ淡々と処理していく。すごい、と感心する暇さえなかった。
その三つ目の瓦礫が弾かれた、まさにその直後だった。
舞い上がる砂塵と破片の向こうから、巨人の巨躯が躍り出た。
瓦礫の投擲は陽動、あるいは時間稼ぎ。本命はこの突進だった。アシェラは瓦礫を処理した直後で、わずかに反応が遅れた。
ゴッ、と肉と骨がぶつかる鈍い音が、今度ははっきりと、すぐ目の前で聞こえた。
巨人の拳が、アシェラの顔面を真正面から捉えていた。
アシェラの手から黒い大剣が滑り落ちる。
目の前で起こった光景に、俺は思わず叫んでいた。
「アシェ……」
ダンッ!
だが、俺の声が終わるより早く。とアスファルトを蹴る力強い足音が響いた。
顔面への直撃を受けたはずのアシェラは倒れるどころか、むしろその衝撃を利用するように踏み込み、低い姿勢から体勢を立て直していた。
「こんなテレフォンパンチなら──!」
彼女の、怒気をはらんだ声が飛ぶ。
「
次の瞬間、巨人の振り抜かれた腕と交差するように、アシェラの右の拳が、寸分の狂いもなくその顔面に叩き込まれていた。
轟音。
それはもう、ホームランなどという生易しいものではなかった。
先ほどの比ではない、とんでもない勢いで巨人の巨躯が反対側の観客席まで一直線に吹き飛んだのだ。観客席の壁に激突し、コンクリートを粉々に砕き、まるで爆発でも起きたかのような衝撃と砂塵を夜空に巻き上げて──……
そして、そのままぴくりとも動かなくなった。
戦闘の余波で舞い上がった砂埃が、月明かりの下でゆっくりと落ちてくる。
あの光景からは信じられないほどの静寂が、廃競技場を支配していた。
目の前で起こったあまりにもあっけない、そしてあまりにも暴力的な決着に、ただ呆然と立ち尽くす。
巨人が動かないことを確認し、それから恐る恐る、すぐ近くにいるアシェラの方へと視線を向けた。さっき、まともに殴られていたはずだ。
「アシェラ、お前……」
声をかけようとして、俺は言葉を失った。
彼女は殴られた頬のあたりを手で押さえていたが……いや、違う。押さえていた手の隙間から、うっすらと白い湯気のようなものが立ち上っているのが見えたのだ。
そして、彼女がゆっくりと手を離した時、そこには打たれた痕跡すらほとんど残っていなかった。
俺の視線に気づいたのだろう、アシェラは修復が終わったらしい自分の頬に軽く触れるとふっと皮肉げな笑みを浮かべた。
「何よ、その顔。化け物を見るような目で見ちゃって」
その言葉に、ただ妙に冷静になっている自分に気づいた。もう驚くことにも慣れてきたのかもしれない。
「いや……そういうわけじゃないけど」
そして半ば衝動的に、学校指定の鞄から一応用意していた救急セットを取り出した。中から小さな消毒液のボトルと絆創膏を取り出して、彼女に見せる。
「でも、痛いもんは痛いだろ? これ、使うか?」
再生するから痛くない、なんて理屈は俺には分からない。殴られたら痛い。血が出たら手当が必要だ。ただ、それだけのこと。俺の差し出したものと、顔を交互に見てアシェラは一瞬きょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間。
「……ふっ……くくっ……あはははっ」
堪えきれないというように、彼女は声を上げて笑い出した。それはこれまでの彼女からは想像もできないような、年相応の、どこかおかしそうな笑い声だった。
「そうね、痛いわ! うん。お腹が痛い、すっごく痛い!」
ひとしきり笑って、涙目になりながらアシェラは言う。
「気持ちだけ受け取っておくわ。でも、治療は必要ない。苦戦したわけでもないし、これくらいどうってことないわ」
そう言って、彼女は俺の手を軽く押し返した。その顔にはもう先ほどの皮肉な色はなく、ただ純粋な笑顔だった。
赤バーサンキューっっっ
頑張りたいです