放課後戦線/魔科不死戯アンダーナイト   作:果汁飲料撲滅委員会名誉顧問

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8 震える体

 

 それは突進というより、瞬間的な座標移動に近かった。目の前に迫る蒼い靄。死そのものが形を成して殺到する。

 だが、アシェラはそれを紙一重で回避してみせた。予測と反応、どちらが欠けても成り立たない神業。それがどれほどの奇跡か、見ている俺にすら瞬時に理解できた。

 

 反転。即座に、二度目の座標跳躍。

 今度はカウンターを狙ったのか、アシェラは迫る幻影の軌道上に、大剣を寸分の狂いもなく壁のように置いた。黒い鉄塊が蒼い靄を迎え撃つ――はずだった。

 

 ──()

 

 剣は、青い靄を完全にすり抜けた。

 まるで、最初からそこに物質など存在しなかったかのように。あるいは、剣という物理法則の概念そのものが、あの存在には通用しないかのように。

 

「なっ……!」

 

 アシェラの常の冷静さを失った、純粋な驚愕の声が漏れる。あまりにも出鱈目な現実。

 

 その刹那の硬直を幻影が見逃すはずがない。

 靄のような、実体があるのかないのかすら定かでない腕が伸び、アシェラの左腕を掴んだ。

 

 瞬間。

 ジュッ、と肉が焼けるような音が響き、黒いスーツの袖が触れられた箇所から白く変色し、急速に崩壊を始める。触れたものの構造情報を破壊する、絶対的な『拒絶』の零炎。

 

「──ッッ!! この……離しなさいよクソッタレ!」

 

 常の彼女からは想像もつかない、怒りと、そしてわずかなパニックをはらんだ絶叫。

 アシェラは掴まれた腕ごとスーツの上着を、力任せに引きちぎるように脱ぎ捨てた。床に落ちた黒いジャケットは、幻影に触れられた部分から急速に塵へと変わっていく。白いインナーだけになった彼女の肩が、荒く上下している。

 

 それでも、彼女の戦闘者としての本能は死んでいなかった。

 即座に大きく後ろへ跳び退き、忌まわしい『現象』から距離を取ろうとする。だが、跳躍し、空中へと逃れたその瞬間を狙いすましたかのように――幻影の中心部から蒼白い火の玉が、音もなく射出された。

 

「しまっ──」

 

 回避は間に合わない。

 空中でアシェラの体に寸分違わず直撃した。

 視界を焼く蒼の閃光。内臓を揺さぶる爆轟。ゼロ距離で炸裂した質量兵器か、あるいはそれ以上の『何か』。

 

「がはっ──……」

 

 アシェラの体は折れ曲がり、抵抗も許されず壁まで吹き飛ばされ、教室の本棚や瓦礫を木っ端微塵にしながら床へと激しく叩きつけられた。

 

 轟音と粉塵が収まり、訪れたのは死のような静寂。

 瓦礫の中に半ば埋もれるように倒れ伏したアシェラの姿が、窓から差し込む頼りない月明かりに照らし出される。

 彼女が着ていたインナーはその衝撃で無残に引き裂け、覗く白い肌には赤い擦過傷が網の目のように走り、生々しい血が滲んでいる。

 

「はぁっ、はぁっ──!」

 

 浅く、速い呼吸が、途切れ途切れに繰り返されていた。口の端からは、赤い血の筋がなおも細く流れ落ちている。それは、誰が見ても、彼女が限界に近いことを示す証だった。

 

 まずい。本当に、まずい

 あんなボロボロの状態で、まともに戦えるはずがない。

 再生は……彼女の体を覆う炎が身を焼いていて、傷口を塞いでいる──回復は望めない!

 

 アシェラが死ぬ──その確信に近い予感が、俺の思考を冷たく焼いた。

 

 何か、何か無いのか。この悪夢のような状況を覆せるものが。俺にできることは?

 

 必死で周囲を見回す。散乱した瓦礫。転がっている壊れた机。意味がない。

 あの物理を超えた現象(バケモノ)に、そんなもの通じるはずがない。思考だけが空転し、恐怖と絶望的な無力感が、鉛のように重く体を支配していた。

 

 だが、彼女はまだ、死んではいなかった。

 

 呻き声一つ漏らさず、アシェラは瓦礫に突き立てた大剣を杖代わりに、軋む体を引き起こそうとしていた。その細い腕が、痛々しく震えている。ぐらり、と一度大きくよろめく。

 

 ──見るからに、それは痛々しいほどの痩せ我慢だった。

 

 呼吸は乱れ、構えには先ほどまでの揺るぎなさが欠片もない。顔色は紙のように蒼白で、額には脂汗が光っている。

 それでも()だけは、まだ死んでいなかった。絶望的な状況下にあってもなお、強い意志の光を宿して、目の前の『現象』を睨み据えている。

 

 最後の抵抗に過ぎないのかもしれないことは、目にも明らかだった。

 どうする? 何ができる?

 焦りだけが意味もなく俺の中で膨れ上がっていく。

 

「逃げなさい、シュウ!」

 

 アシェラの絶叫が響いた。

 いつもの絶対的な響きを持つ命令ではなかった。強い語調の裏に焦りと懇願とでも言うべき切実な響きが混じっていた。本気でここから逃げてほしいと願う声だった。

 

 体はさらに震えた。

 逃げる?

 どこへどうやって?

 あの蒼い靄から?

 

 正常な判断なんて、もうできなかった。

 目の前の絶望的な光景と、アシェラの悲痛な叫びに、体が竦むだけだった。

 

 ボロボロになりながらも決して諦めずに幻影を睨みつけるアシェラの横顔が、やけに鮮明に目に映っていた。

 

 ふと──ここ数日で見ただけの彼女の様々な表情が、走馬灯のように一つ、また一つと脳裏を駆け巡っていく。

 初めて会った路地裏での冷たい視線。

 猫にだけ向けるだらしのない顔。

 カフェで苦手なコーヒーに顔をしかめた俺を見て、意地悪く笑った顔。

 父親の話をする時の、少しだけ寂しそうな横顔。

『私の後ろの方が安全よ』とぶっきらぼうに、でも確かに俺を守ろうとした言葉。

 今、俺を逃がそうと必死になっているその表情(カオ)

 

 震えはまだ止まらない。足は竦んだままだ。

 逃げろという本能が、生存本能が、頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。

 

 でも──。

 

 アシェラの声が、彼女の表情が、頭から離れない。

 このまま見ているだけなんて、絶対に嫌だ。

 あいつを一人で戦わせて俺だけ逃げるなんて、できるはずがない。

 

 本能を、恐怖を、無理やり理性でねじ伏せる。

 歯を食いしばった。

 

 視界の端に赤い筒が映った。教室の隅に転がっていた消火器だ。

 それに吸い寄せられるように駆け寄り、重いそれをひっつかむように持ち上げた。冷たい金属の感触が震える手にやけにはっきりと伝わる。

 

 これで消えるはずがない、分かってる。

 あの蒼い靄にただの消火剤が効くわけがない。下手したら俺が先に消される。死ぬかもしれない。

 

 それでも、もう止まれなかった。

 彼女を一人で戦わせて死なせるなんて、絶対に嫌だった。それがなぜかは分からない。分からないけど今はただ、動くしかなかった。

 

 重い消火器を不格好に構え蒼い幻影に向かって、ただ真っ直ぐに突っ込んだ。

 

「うおおおおおっ!」

 

 意味などない。それでも俺は叫びながら、消火器のレバーを握りしめる。白い粉末が蒼い靄に向かって噴射される。虚しい抵抗。だが、今はこれしか──……

 

「何やってるのよ馬鹿!」

 

 背後からアシェラの悲鳴に近い声が響く。

 蒼い人型は白い粉を浴びても微動だにしない。まるで降りかかる雪を受け流すかのように。あるいはそもそも干渉という概念が、この存在には届かないかのように。

 

「このぉぉぉっ!」

 

 もうヤケクソだった。理屈も恐怖も押さえつけて走る。

 残ったアドレナリンの全てを込めて、重い消火器そのものを幻影に投げつけた。

 赤い鉄塊が蒼い靄に触れた、あるいは触れる寸前──……

 

 閃光。

 

 消火器がまるで内部から高熱で炙られたかのように破裂し、凄まじい爆音と衝撃波を教室中に撒き散らした。

 

「アンタ何やってるのよ、死にたいの!?」

 

 爆風と立ち込める白い煙の中でアシェラの怒声が鼓膜を打つ。

 だがそれに構わず瓦礫の中に膝をついていた彼女の腕を掴んだ。まだ熱い。生きている。

 

「いいから逃げるぞ、二人で!」

 

 理屈じゃない。ただ、ここから離れなければならないという衝動。

 アシェラの手を引いて、出口へと駆け出そうとした──直後だった。

 

 目の前の煙が、あるいは空間そのものが、ぐにゃりと歪む。

 

 気づけば──蒼い幻影は、瞬間移動でもしたかのように、俺たちの目の前に立っていた。

 

 もうダメだ。終わった。

 固く目を瞑った。来るであろう衝撃、あるいは消滅に、ただ身を硬くする。

 

 

 

 

 

 

 だが──予想された結末は、いつまで経っても訪れなかった。

 

 

 恐る恐る、目を開く。

 そこには――俺の鼻の先、触れるほどの距離に、あの(かたち)なき顔があった。

 青白い靄が、ただ静かに、俺を覗き込んでいた。

 時間も、音も、思考さえも停止したかのような、絶対的な静寂の中で。

 

 視線ではない。この存在に(まなこ)などない。

 それは、ただ純粋な『怨念』という概念が俺という個体を認識した、というだけの現象。

 

 理解を超えた存在に、呼吸が止まる。逃走本能が絶叫を上げる。

 だというのに──目を、逸らせない。逸らしては、いけない。

 根源的な恐怖と、それに拮抗する奇妙な義務感が、俺をその場に縫い付けていた。

 

 思考は白く染まる。

 破裂しそうな心臓の音だけが生の証明。

 震える腕が、勝手に動いた。

 すぐ傍らにいるアシェラを、力なく引き寄せる。

 守る?  馬鹿な。こんな行為に意味などない。

 ただこの絶対的な虚無の前で、何か温かいものに触れていたいという、赤子のような欲求だったのかもしれない。

 あるいはただの、最後の意地か。

 

 時間の感覚が溶解する。

 世界から音が消え、色が褪せ、ただ目の前の蒼い靄と、腕の中の微かな体温だけが現実。

 

 一秒が永劫に。あるいは、永劫が一秒に。

 人の認識を超えた時間が流れた気がした。

 

 やがて──唐突に。

 蒼い靄が揺らめき、俺たちへの『認識』を解除したかのように、すっと後退した。

 

 興味を失ったのか、目的を果たしたのか、あるいは単なる気まぐれか。理由は不明。あの存在に、人の理屈は通用しない。

 

 人型は重力という法則(ルール)を嘲笑うかのように、ふわりと浮上し、天井の崩れた穴から夜空へと昇っていく。

 そして、インクが水に溶けるように、あるいは最初から何もなかったかのように、その蒼は闇に溶けて、消えた。

 

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