白衣の戦士   作:海野ミウ

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pixivに載せているものと同様の内容ですが、あちらと違い最終話まで載せる予定です。


1.黄──準緊急

 

ギャアギャアと鳴く海鳥の声がうるさい。

 眠っていられなくなった女は怠い瞼をゆっくりと持ち上げて、窓から射し込む朝日を見ながら緩慢に瞬きをした。

 

「……」

 

 時計を見るといつもの起床時間には早いが寝直すには遅い。ううん、と女は顔を擦って、もう起きてしまうことにした。いつだってやるべきことは山積みだ。

 湯を沸かして、その間に顔を洗って、オンボロのトースターでパンを焼く。その間もずっと鳥が鳴き喚いている。

 まだあまりはっきりしない頭でトーストを頬張り、コーヒーで流し込む。やっとエンジンがかかってきたところで予定を確かめようと彼女はメモを開いて、

 外からギャアギャアと喚き声がする。

 

「……⁉」

 

 女はぎょっと椅子を蹴立てて立ち上がり、慌てて外へ駆け出した。

 寝ぼけて気付かなかった──あんな声の海鳥はこの国にはいない。

 

 あれは人の声だ。

 

 女の住まいは貧しい農村の一角だ。少し歩いて丘を下ればすぐ砂浜に出る。

 彼女を起こすほどの大声はその砂浜のほうから聞こえた。尋常でない気配の元に急いで駆けていく。

 見えてきた海岸には巨大な漂着物──船が鎮座していた。そういえばここのところ海が荒れていた、と女は思い出す。さらに人まで漂着しているのが見えて彼女は眉を厳しくした。

 遠目には動けているようだが、全員無事で元気ならああも必死に騒ぐまい。

 

「──どうしましたか!」

 

 息を切らしつつ呼びかけると、固まって何かを覗き込んでいたツナギの集団が一斉に振り返った。二十人ほどはいるだろうか。なんかシロクマみたいのもいるが気にしている場合ではない。

 

「怪我人ですか? 意識はありますか」

「あ、あんたは」

「私はベンジャミン・フローレンス」

 

 女は礼儀正しくフルネームで名乗った。初手の印象が肝心だ。

 

「医者です。怪我人の容態は?」

「キャ、キャプテンが目を覚まさなくて。水は吐かせたんだけど」

「診せてください」

 

 自分より背の高い集団を搔き分けてキャプテンとやらに寄っていく。

 寝かされているのはこちらも大柄な男性だ。女は刺青の入った胸が上下しているのを素早く確認した。心肺蘇生の必要はなさそうだ。左手で脈を取りながら右手で聴診器を取ろうとして、今は持っていないことに気付いて眉をしかめた。代わりに斑模様の帽子を剥いで頭部を確認する。目視できる外傷、出血はなし。

 

「すぐそこに私の病院があります。運んでくれますか。みなさんもどうぞ。その人の頭はできるだけ揺らさないようにしてください」

 

 大声で騒いでいたとはいえ意識のある人々もぼろぼろの格好をしている。女はその場の人間を促して立たせた。

 女の名はフローレンス。

 寒村で小さな診療所を営む、怪我人を見捨てられない程度のごく一般的な医者である。

 

 

 

 

 

 

 運び込んだ男性の処置が終わるころには、朝食に淹れたコーヒーはとっくに冷め切っていた。

 処置室から出ると心配そうな顔をした男たちがどやどやと寄ってきて、口々にキャプテンの容態を聞く。女医は一旦落ち着くように手振りをした。

 

「容態は安定しています。それほど低体温でもありませんでしたし、外傷は手当てをしました。脱水と貧血があったので点滴で補っています。水を吐かせるのも早かったようですし、無事に目を覚ますでしょう」

「よかった……」

「安心している場合ではないですよ」

 

 女医がぴしりと言い放つと全員が緊張した目でこちらを見つめ直す。デカい男の集団だが怯んでられるか、と彼女は腹に力を込めた。

 

「他にも怪我人がいるでしょう? こっちへ、手当てします。それから洗濯は外の井戸でどうぞ。適当に物干しも使っていいです。新しい服が欲しければ……村の人たちに聞いてみてください。何かと交換なら譲ってくれるかもしれません」

 

 ハイ怪我人はこっち、と目についた男をぐいぐい引っ張って処置室に押し込む。まくし立てたがちゃんとわかったようで、二十人がいくつかのグループに分かれてパッと散った。

 女医はこっそり息をつく。理解力があって助かった。

 

「骨折してるなら早く申告しなさい痛いでしょ⁉ 薬物アレルギーは? ない? じゃあはい痛み止めを出しますから用法の通りに頓服してください、──そこ! 汚い包帯で満足しない! 縫って清潔な包帯を巻くからこっちへ! はいはい塩水に浸かった傷口洗うから痛いですよ! がーまーん!」

 

 野戦病院か? 

 

 急患が大量になだれこんだとはいえ、女医には通常の診療業務もある。さすがにベッドに人を寝かせているので往診はキャンセルしたが、忙しかろうと何だろうと人は来るものだ。

 

「先生、お疲れかい」

「あはは……」

 

 馴染みの老爺にあっさり看破されて女医は苦笑した。

 

「マボットさんみたいに安定してて、お薬をきちんと飲んでくれる患者さんなら私も楽なんですけどねえ」

「おうおう。今度先生にうちのトマト差し入れてやらぁ。うまいぞ」

「ありがとうございます」

 

 この老爺は多少頑固なのを除けば本当に手のかからない患者だ。体調はきちんとコントロールできていて、いつもきっちり指定の日にやってくる。女医のやることは体調と近況を聞いて一応血圧を測って薬を処方するだけである。

 お変わりないですかーないですかそうですか、これで済む患者ばかりなら本当に楽だが、人間そうもいかない。

 この村に医者はたったひとりだ。時間を問わず患者はやってくる。

 

 血相を変えて駆け込んでくる者がいないか、連絡用の電伝虫が鳴かないか、あのシロクマみたいな……男? が呼びに来ないかどうか、神経を張り詰めて診療をさばき終わると、さすがの女医でも重たい疲労感があった。

 

「あのー、えっと、『先生』?」

「どうぞ」

 

 診察室の戸を開けてひょっこりと顔を出したのはペンギンの帽子を被った男で、その表情に焦りがないことに彼女は安堵した。

 

「『キャプテン』さん、目を覚ましました?」

「うん。呼べって言ってたよな」

「はい」

 

 空気が読めるタイプの患者だったようだ。女はよいしょと立ち上がって男性を寝かせた部屋へ向かった。

 ドアを開けると、患者は上体を起こして点滴を入れた腕を眺めていた。気配を察してかこちらに向いた顔は若いが、人相が悪く隈がすごい。著しい疲労の兆候あり、と女医はカルテ──がなかったので手の甲にメモをする。

 

「初めまして。私は医師のベンジャミン・フローレンスです。お名前を教えてください」

「……トラファルガー・ロー」

 

 なんだかやけに聞き覚えがある気がしたがうまく思い出せなかった。まあいい。女医は問診を続ける。

 

「トラファルガーさん、あなたは今日の朝方、この島の浜辺に倒れていましたので、他のみなさんと一緒にこちらに来ていただきました。何があったか思い出せますか?」

 

 トラファルガー・ローは黙って頷いた。語ってくれる気はないらしい。彼女は諦めて続けた。

 

「痛いところはありますか?」

「ない」

「だるさは?」

「……ない」

「遠慮しなくていいですよ」

「ない」

 

 そんなことを言われても顔が思いっきり疲れている。さらにやんわり問い詰めようとした女医を、トラファルガーはぎろりと睨んだ。

 

「おれも医者だ、お前に言われなくても状況はわかる」

「……そうですか?」

 

 彼女は言葉に迷ってちょっと間抜けな声を出した。詐称にしろ真実にしろ医者を診たのは初めてだ。

 

「ええと……ちょっとお顔失礼しますね」

 

 手を伸ばすとトラファルガーは少しのけぞったが、女医は強引に下瞼を押し下げて裏側の色を見た。毛細血管が赤く透けるはずの粘膜はやや白っぽい。

 

「少し貧血気味のようです。ベッドは空いているのでまだここで休まれても大丈夫ですよ。……本当に痛いところありませんか?」

 

 これだけ大柄な、しかも男性が見てわかるほどの貧血を呈するのは珍しい。しかも海難事故の被害者だ。どこか強く打って内出血があるとか嫌だなあ、と彼女は思う。少なくともここに運び込んできたときは大丈夫そうだったのだが、とりあえず血圧を測って血液検査をすべきか。

 

「心当たりはあるし処置もできる」

 

 青年は取り付く島もない。

 女医はしばらくなんと説得しようか悩んで、外から先生、と呼ばわる馴染みの患者の声が聞こえたので、そちらの処置を優先することに決めた。患者ひとりに割り振れるリソースには限りがある。さっきからそわそわとシロクマみたいのが部屋を覗いているし、容態が急変したら呼んでもらえばいいだろう。少なくとも意識ははっきりしているし、座って会話ができている。

 

 

「では、私はこれで。何かあったら遠慮なく呼んでください」

「おい」

 

 踵を返した、その白衣の裾を無愛想な声が捕まえる。女は表面上にこやかに振り返った。

 

「はい?」

「ここは何て島だ」

「アイスクレピア、と言ってわかりますか?」

「……医学の島」

「ええ、医学と黄金の島です、トラファルガーさん」

 

 ここは北の海(ノースブルー)に輝く〝医学と黄金の島〟アイスクレピア──その、棄民の村。

 この村に医者はたったひとりだ。

 

 

 

 

 

 

 トラファルガーは本当に元気だったようで、女医の手が空いたころに世話になったもう行く、と声をかけにきた。

 自分で勝手に点滴を抜いてやってきたので思わず絶叫した。

 トラファルガーは心底うるさそうな顔をしたが、叫ぶなというほうが無理だ。きちんと止血までしていたからよかったものの──医者だと名乗ったのはある程度真実らしい──そのへんの老人なんかがやった日には床が血まみれスプラッタである。

 まあそうはならなかったのだし、一番重傷だった本人が出ていくというなら止めはしない。たった何時間か寝ていたところで傷を治せるわけではないのだ。ここにあるのはただの固いベッドで、入院設備ではない。

 

 彼女は用意してあった明細にトラファルガーが勝手に使ったガーゼとテープの値段を書き足して、ぴらりと渡した。

 

「みなさんのぶんも含めて、総額三十万と一千五百ベリーになります」

 

 医療は無償奉仕ではなくビジネスだ。当然代金が必要だし、国民皆保険のないこの国ではどうしても高額になる。これでも女医は国で一番良心的な医者なのだが。

 

「……ちょっと待て。仲間と相談してくる」

 

 トラファルガーはひとこと言い置いて踵を返した。

 

 彼の言う仲間とはもちろん一緒に流れ着いた約二十人のことだ。診療所は彼ら全員が入れるほど広くはないから、近くにほとんど野営のような有様でたむろしているはずだった。怪我人くらい中にいたらいい、と女医は言ったのだが、彼らはわけがわからないほど丈夫で平然と屋外にいる。

 海の男ってみんなああなのかな、踏み倒されたらなすすべがないかもな、と女医は憂鬱にペンを回した。

 

 もっともそれは杞憂で、戻ってきたトラファルガーは手に持った長いものを彼女に押し付けた。

 

「今すぐに払える手持ちがねェ。一週間待てるか。担保にそれを置いていく」

「……え?」

 

 ずっしりと重いそれは長さが子供の身長ほどもある。少し反ったフォルムは女の知識が間違っていなければ刀、日本刀だ。

 

「それでいいか」

「えあ……あ、はい、いいですけど……?」

 

 彼女は呆然と返事をした。よく考えてみれば難破漂着した人々に手持ちがあるわけもない。ないが、こちらの金銭事情もなかなか厳しく、貴重な外貨を取り立てないわけにもいかない。落としどころとしては妥当だ。

 担保が持っているだけで腕が震えてくるほどの物騒な武器でなければ。

 

 トラファルガーはこちらの様子に大して頓着することなく、それで決まりだとばかりに去っていった。

 女医はしばらく押し付けられたものの処置に迷った挙句、そっとソファの上に横たえた。錆びたスプリングが鋼の重みに軋む。武器の扱いなどとんとわからないが、触らなければおけば怒られないだろう。

 

 団体客が去っても仕事はまだある。彼女はにわかに騒がしくなった外の気配を耳で追いながら、気合いを入れて立ち上がった。

 掃除をしなければならない。いくら他に選択肢がないとはいえ、仮にも病院が埃まみれでは信用とプライドに関わる。

 

 女医が住居兼仕事場にしているのは、無理やり医院の体裁を整えただけの古い家屋だ。昔は漁師小屋だったと聞いた。雇用できる人も金もないから、このボロボロの診療所の掃除から維持管理まで、全ては彼女の仕事である。

 

 ぱたぱた雑な手つきで高いところの埃を払ってから、日付もわからない新聞をびりびり千切る。これを濡らして床を履くと埃がよく取れるとかいうやつだ。こういう無心でできる作業は、女医にとっての数少ない休憩時間である。

 

「……ん?」

 

 ストレス発散も兼ねて盛大に破っている新聞の、その一面の写真にどうも見覚えがある気がして、彼女はふと手を止めた。

 千切りかけた紙片をそっと元に戻して、既に破り捨てた紙片も拾い集めて、パズルのように写真の復元を試みる。

 浮かび上がったのは人相の悪い帽子の青年の手配書だ。

 

 〝死の外科医〟、トラファルガー・ロー。〝オペオペの実〟の能力者。

 

「しょ……賞金首かあ……」

 

 いちじゅうひゃく、と懸賞金の桁を数えかけて、途中でどう足掻いてもかつての女医自身の年収よりも高いことに気がつく。

 つまるところ弩級の危険人物。海軍に引き渡せば当面金回りの心配をしなくても、

 

「……馬鹿かあたしは」

 

 女医は勢いよく新聞を破り捨てた。

 ぐしゃぐしゃに丸めた紙片に水を撒く。安っぽいインクが溶けて広がり、文字と写真の判読が不可能になっていく。先の割れた箒でざかざか履いた。

 

 ベンジャミン・フローレンスは無力な医者だ。診療所は古くボロく、設備も薬も十分ではなく、重篤な患者を紹介できる〝上〟の病院も持たない。

 だからせめて、彼女は倫理的に善い医者でなければならない。

 それは人を救う努力をする義務であり、患者に真摯に向き合う義務であり、極悪人から罪なき乳児までを平等に診察する義務だ。たとえ彼女が助けたがゆえにこの国がトラファルガーの被害を被ったとしても、診るべきでなかったなどと言うことはできない。

 

 女医は勢いのままに待合室から自分の住居スペースまでの掃き掃除を終えて、薄汚い紙屑と化した新聞を竈の灰の中に突っ込んだ。

 少なくともあの一味は女医に狼藉を働くことはなかったし、指示をよく聞いたし、最低限の礼はしていった。対面で気付かなかったのだから、このまま何も知らなかったことにして治療費の支払いを待ったっていいだろう。

 明日は念入りに料理でもしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、どうだ」

「あ、キャプテン。うーん四割ってとこかな」

 

 砂浜で漂着物の仕分けをしていたクルーが振り返る。そうか、とローは答えた。

 

 あの嵐の日、そこそこ手強い海賊との連戦で疲弊していたローは最終戦で昏倒した。混乱に陥った船は撃沈される前に盛大に難破し、この医学の島へ流れ着いた。クルーが五体満足で全員生きていたのは幸運というほかない。

 それからじき一週間になる。クルーの四分の一はこの砂浜や、漂着物でこしらえた小舟でもう少し沖のほうを調べて、一味が持っていた財産をなんとか回収できないか試みていた。ローが訊ねたのはその進捗だ。

 

 ローは漂着物の中でも最も大きい、彼らが乗ってきた海賊船の残骸を見上げた。傷だらけ穴だらけ、おまけに能力を応用して調べたところ竜骨も逝っている。積み荷の大半は抱えていてくれたが、嵐と敵の攻撃に揉まれきった船だ。金銀財宝はともかく、繊細な医療機器や薬のたぐいはほとんど駄目になってしまった。

実を言えばハートの海賊団における「財産」の三割ほどを医療関係が占めている。ちなみに五割はこの船である。

 つまり彼らが持っていた財産のうち、船と医療品を除いた全体の二割、のうちの約四割が現在回収済ということだ。

 

 船長を預かる青年はため息をついて、首都から調達してきたパンと酒をクルーたちに投げ渡した。あとは魚なり獣なりを自分たちで捕るだろう。

 

「あざーす!」

「運ぶモンあるか?」

「ないですキャプテン!」

「お疲れ様ですキャプテン!」

「おう」

 

 失ったものを嘆いても仕方がない。ローはひらひらと手を振って、村へ戻るべく歩き出した。

 肩に『鬼哭』の重みがないのが落ち着かない。彼は余った右手をポケットに突っ込んだ。

 

 彼らを助けたのはベンジャミンとかいう金髪の女だ。医者といえば遠い記憶の中の両親か、自分か、そうでなければ珀鉛病を恐れる役立たずしか知らないローには、彼女の姿はずいぶん奇妙に映った。

 ──初めまして。私は医師のベンジャミン・フローレンスです。

 たとえばそうやって、初めましてこんにちはなどという折り目正しい挨拶をするところ。あるいはローが北の海(ノースブルー)で一、二を争う賞金首を知らないのか、それとも知っていて頓着しないのか、どう見ても海賊の集団をあっさり治療し、あまつさえ容赦なく治療費を請求するところ。

 

 少し歩けば件の医院──と言い張るボロ家──が見えてくる。ローはそのこすけた外壁に近寄って、人の気配が少ないことと、それほど慌ただしそうにしていないことを確認してから中に入った。

 

「おい──内科屋」

 

 何かにがりがりと書き込んでいた女医はあからさまに怪訝そうに顔を上げ、彼を視認すると表情を取り繕った。こちらに椅子ごと向き直る動作と共にキャスターが軋む。

 

「あらトラファルガーさん。どうかされました?」

「ツケを払いにきた」

「あ……ああ」

 

 ちらりと見る先には『鬼哭』が横たえられている。その辺に立てかけておけばいいのに変な奴だな、と海賊は思った。

 

「確認しろ」

「……確かに、お預かりしました」

 

 金を数える手つきは少し危なっかしい。女医はローを見上げた。

 

「みなさんお変わりはありませんか?」

「ああ」

「お預かりしたものはそちらです。お大事に」

 

 言外に早く帰れと言われたがローは気にしなかった。『鬼哭』を拾い上げて診療所をあとにする。

 

 医学の島に漂着してはや一週間。船を失ったハートの海賊団はひとまずここで暮らしていくことに決めた。船員の四分の三はそれぞれなんとか働き口を見つけて日銭を稼いでいる。

 そうやって人々に関わっていれば、自ずとわかることがある。

 

 ベンジャミン・フローレンスは奇妙な医者だ。

 診療所がある村で少し聞き込めば、あの女が先生と呼ばれて慕われていることがよくわかる。この傷が、あそこのせがれが、うちのじいちゃんが。それは治してもらった、のときもあれば、看取ってもらった、のときもある。村全体のかかりつけ医として機能しているのは明白だ。

 ──それにしては、あの建物のあまりにも古すぎること。看護師の一人も見当たらないこと。横たわったベッドの硬さ。医者の目で見る薬品の乏しさ、設備の古さ。本人のくすんだ肌、濃い隈、ぱさついて艶のない髪。

 

 ローはろくに舗装もしていない道を歩く。急ぎでもないのだ、わざわざ体力を消耗してまで能力を使う理由がない。

 彼らが流れついたのは貧しい村だ。人々は細々と畑作をして暮らしている。

 しかしこの国自体は非常に豊かだ。でなければ医学という高度な学問が発展するはずがない。ローはそれをよく知っている。彼の故郷も豊かな国だった。

 東へ、首都へ向かうほど人々は裕福になる。身なりと礼儀が何とかなったクルーはそちらで働き口を見つけていて、収入は農村よりもはるかに多い。

 

 ──女医? やあねえ。

 

 手配書を見る習慣のないらしい品のよい夫人は、ローを前にしてもころころと笑うばかりだった。

 

 ──女が医者になれるわけないでしょう。

 

 首都にそびえる白い建物。見上げるほどの大病院。ここからでもその頂点がぼんやりと見える。

 ベンジャミン病院というのだそうだ。

 ローは首を振った。

 情報収集は重要だが、他人の事情に首を突っ込むためのものではない。

 

 

「確かにベンジャミン先生にはお孫さんがいるけれど……最近見ないから、きっとお嫁に行ったのでしょうね」

 

 

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