海賊はたいてい日が暮れてからやってくる。
それは夜に紛れて略奪するためではなく、ただ単に女医が日のあるうちは忙しいからだ。海賊は──ローやハートのクルーは、とっくに彼女の診療スタイルを把握しているから、夕闇か月明かりに紛れるようにして静かにこの古びた診療所を訪ねてくる。
だから首都へ向かう道すがら彼に鉢合わせたのは、時間帯を鑑みればそう驚くことではなかった。
相手のほうは珍しく本気で豆鉄砲を食ったような顔をしていたが。
女医は思わず吹き出した。
「あはは。……なによ、その顔」
「いや……いや、驚くだろ、これは」
ローはなんとも失礼なことに上から下までこちらを眺め回して、それから戸惑った瞳のまま訊ねた。
「……デートか?」
「デート……そうね、デートよ」
彼女は微笑んでくるりと回ってみせた。裾が遠心力でふわりと広がる。
「似合う?」
いつもは
青年はしばらく厳粛な沈黙を保って、さんざん目を泳がせたあと、ぼそりと言った。
「……もう少し落ち着いたデザインのほうがいいんじゃねェか」
「素直でよろしい。あたしもそう思うわ」
女は微笑みを苦笑に切り替えた。そこは嘘でも似合うと言ってほしかったところだが、無理は言うまい。
確かにこれは彼女の趣味ではない。誰が好き好んでこんなふりふりの服を着たいものか。そもそも自力でドレスを買うほどの金も興味もない。これは贈り主の趣味だ。
「着ないわけにいかなくてね。お迎えが途中まで来てたでしょ? 見なかった?」
「あァ……あれか……」
村から首都へ向かう道は一本しかない。彼があちらから来たなら、あのやはり趣味の悪い車を知っているはずだった。嫌そうな顔をするあたり絡まれでもしたか。
そんなわけで人を待たせている。彼女はひらりと手を振って歩き出した。
「じゃ、そういうことだから。けっこう遅くまで戻ってこないからそのつもりで」
無言の応えと共に背中の距離が開いていく。
数週に一度突然来訪する彼と、予定が合わないのはいつものことだ。
……いつものことだが、さすがにあまり嬉しくないな、と女はため息をついた。今まではかち合わなかったのに。
慣れない化粧が肌に貼りつくようで不快だった。
『デート相手』と夜の街を行く道すがら、船が密に泊まった港を見た。
何とはなしにハートの一味の船を探そうとしたが、彼女が知っているのはとっくに廃船になって村の家屋に転用された木材だけだ。判別できるはずもない。
代わりに目立つように貼られた手配書の中に知った顔を見、そして物々しく新しい武装を誇示する私兵団を見た。
彼らの船も、強さも、所業も、その首にかかった賞金額も、彼女はもう知らない。
ここにあるのはそびえ立つ建物。着飾って財力を誇示する女子供。けたたましく笑う成金の観光客、石畳を無秩序に走る車の騒音と排気ガスの匂い。
夜にあっても白く光り輝く大病院には、白衣をなびかせて闊歩する医者と高慢な看護婦、それから瀕死の病人が山と詰まっている。
だから彼女はこの国が嫌いだ。
エンジンの耳障りな騒音が夜闇に遠ざかっていく。
女医は荒い息の下からそれを聞いていた。
……滴る汗が目に入って痛い。酸欠と疲労で頭がガンガンする。手足は鉛のように重くて、へたりこんだまま立てやしない。
「……どうした?」
留守にしていたはずの家から当然のようにローが出てきて、こちらを見下ろして黙った気配がした。
「いたの……」
別にいても構わない。外で待たれているほうが気まずいからだ。寄港が片手の指ほどになったあたりでそう言って立ち入りの許可を出した覚えがある。
首を上げる気力もない女医の目には、居室のほうから漏れてくるわずかな灯りと、それに照らされた男の長い脚しか見えない。夜を照らす街灯など当然この村にはない。
「……悪いんだけど、」
彼女は疲労に震える腕で玄関に運び込んだものを指差した。ここまで懸命に運んできた物資の山を。
「あれ運びたくて……能力貸してくれない?」
「……〝ROOM〟」
「ありが、」
「〝タクト〟」
「あら……」
力場さえ貸してくれれば自分で運び入れるつもりだったのだが、やってくれるらしい。薬剤やらその他の医療品やらがひょいひょい中に飛んでいく。それを間借りした〝ROOM〟の知覚で視ている。
「このデカいのは」
「奥の……検査機のらへん、」
「ン」
最後に人の背丈ほどもある大きな機械が空中を滑っていく。今回の『収穫』の目玉だ。あれがなければここまで体力を吸われることもなかった。それを苦もなく移動させるあたりやはり彼とは能力のランクが違う。
「どうも……」
「〝シャンブルズ〟」
「あ」
一瞬の浮遊感のあと、彼女の身体は軋むソファに沈み込んでいた。服やら毛布やらが雑多に置いてあるが気にする余裕もなく、そのままぐったりと座面に長くなる。
玄関のほうからローがやってきて、ソファの背もたれに胸を預けるようにしてこちらを見下ろした。卓上の小さな灯りが彼の彫りの深い顔に影を作っている。
「デートじゃなかったのか?」
「デートなら、よかったわね……」
彼もまさか本気で恋人同士の逢い引きだと思っていたわけではあるまい。外出の理由を聞かれていると女医は理解した。
「あんた、これ……」
腕を上げるのも億劫だ。彼女は顎をおざなりに動かして運び入れた物品を指し示した。
「あたしが仕入れてると……買い付けてると思ってた?」
「常に金欠なことの辻褄は合うな」
「そうしたかったわね……」
彼女は口の端を引いて笑った。正規の方法で買えたらそれがどんなにいいか。
「貯金は……ここ工事するのと最初の三ヶ月で全部使ったし、向こうで働いてたときもあたし無給だったし……」
「無給」
「無給」
医者という男社会に飛び込んた女の肩身はかなり狭かった。まあ昔の話だ。
「ここ貨幣経済崩壊してるし。幸い食べ物には比較的困らないけどね……」
女医が──ひいては、この村の人々が貧乏なのは、収入が少ないからではない。
そもそも経済圏に現金がほとんど存在しないからだ。
この村の経済はほぼ閉じている。首都に売りにいけるものがないに等しいから金は入ってこない。ないものは循環しないから、当然診療費も現金では請求できない。代わりにパンやら野菜やらが持ち込まれることになる。
ここには徴税すら来ない。
「ベリーが完全にゼロってわけじゃないから、やりくりはしてるけど。医療品を買えるほどではないのよね……」
少ないベリーは村で自給できない必需品に消える。
「それでつまり……パトロンか」
「そんな立派なものじゃないわよ。横流しくらいならしてもいいって医者を捕まえる。それで恵んでもらう。そういうアレよ。多少の期限切れくらいなら実用には耐えるもの……」
あれ、と彼女は今しがたローに運びこんでもらった機器のほうに顔を向けた。重たい疲労は相変わらずで、やっと整った息で喋るのが精一杯だ。
「あれも、もう壊れたから捨てるってやつ。古いし型落ちだけど、ここにとっては一部の機能が使えるだけで十分よ」
だから女医は数週に一度、日が沈んでから出かけて、こうして夜半過ぎに帰ってくる。そうやって削った体力でここを運営している。今日島外の外科医が居合わせたのは偶然にすぎない。
たまたま偶然、あまり好ましくないタイミングで彼がやってきただけ。それだけだ。
汗で肌がべたついて不愉快だった。
「お前」
「うん?」
「貴族だろ? 違うのか」
「ふ……ふふ」
女はくすくす笑った。そのつもりで、喉の奥で絡むみたいな声が出た。早く休むべきだとわかっているのに、頭痛をアクセントにした意識は奇妙にはっきりしている。付き合いで少し酒を呑んだせいだろうか。
「そうね……この国では医者は貴族みたいなものね。でもあんただってそうでしょ?」
「……」
知識は資源だ。資源は独占されるものだ。いくら頭が良かろうと、一から十まで独学でここまでまともな──言い換えれば、『専門用語で専門教育を受けた女医と話が通じる』医者が育つわけがない。それに、律儀にお礼の品を持ってくる男が荒くれの出だとも考えづらい。
しばらく黙ったあとローはぶっきらぼうに言った。
「……確かに
「あら、そうなの」
少なくとも育ちがいいのは確からしい。……いや。そんなのはどうでもいいことだ。
彼が訊ねたのは当然そんなことではない。思わずはぐらかしてしまったが、正直に答えたいと思う程度には、もう長いことこの青年と付き合っている。
女は笑みを拭い去って首の力を抜いた。重力に引かれて頭が横を向く。ランプの小さな灯りが揺れている。
「……確かに、あたしは首都の一番高い建物で育ったわ。飢えも、寒さも、貧困も知らずにね。でも……」
ベンジャミンの姓を知らぬ者はこの国にいないだろう。村の人々はもちろん彼女のフルネームを知っているし、
そうでない人々は、首都にそびえる大病院の名を知っている。
「もし、あたしがおじいさまやお父さまと仲が良かったら……ここにはこんなあばら家じゃなくて、それはそれは立派なベンジャミン分院が建ってるはずだわ」
「……まさかお前何かやらかしたんじゃないだろうな?」
「まさか! 十割向こうが悪いわよ」
ローが意外と真剣な声音で問うから、今度こそ女医は心底面白がって笑んだ。この国で一番善良な医者を捕まえてなんということを。確かに現在進行形で物資を横領しているが勘当とは関係ない。
「あたしが女なのがあたしのせいなわけないじゃない」
「お前……」
仮にも医学の島を名乗るならちゃんと産み分ければよかったのである。ホルスタインや和牛みたいに。Y染色体を有する精子のほうが軽いから理論上は可能、なはず。
「まあ自発的に飛び出してきたんだけど、にしても飛び出させたのが悪いでしょ」
「それでこのざまなんだから物好きなやつだよお前は……」
解釈によってはやんわりとした苦言とも取れたが、女は額面通りに受け取ることにした。
ベンジャミン・フローレンスがハートのクルーではないように、トラファルガー・ローはこの村の医者ではない。親しい他人にすぎないふたりは、互いに互いの決断に干渉する権利を持たない。
「海賊やってるあんたも十分物好きよ」
「違いねえ」
笑った気配。珍しいな、と重い頭を真上に向け直す。
相変わらず背もたれの向こうからこちらを見下ろしているローは、何かを取り出すとぞんざいな仕草で投げてよこした。
「やるよ。土産だ」
「ん、わ」
胸の上に薄い紙束が複数落ちてくる。首を曲げてその正体を見極めようとしたが、暗くて書いてある文字が読めない。
「なに、これ……」
「論文だ」
「え」
青年は肩をすくめた。
「お前骨折も見るなら話通じるだろ。ぶっ飛んではいるが面白いのがあったから持ってきた」
「それはあたしへの親切ってこと?」
「いや? 『面白いの』だと言っただろ。ここの設備で骨の移植ができるとは思ってねェよ。ちなみに移植に一番適してるのは足長族の大腿骨海綿骨だそうだ」
足長族! そんなもの確かにここで参考になどできない。純粋に興味で持ってきたというのは真実らしい。
「これ大丈夫なやつ? 盗んできたりしてない?」
「海賊の土産に何を期待してるんだか。少なくともお前が捕まることはねェ、とだけ言っておくよ。おれは写し終わったから好きに読め」
「そうするわ」
時間があれば、ぜひとも。
ぎっ、と古いソファの骨組みが軋んだ。ローがもたれていた身体を離したからだ。
「用事はそれで
「そう。おやすみ……」
女医は目を閉じて返事をした。お喋りが楽しいのは事実だが、身体を清めるどころか起き上がるのも億劫なのもまた事実、明日──正確には今日、の業務のために眠ったほうがいいのも同様に事実だ。
「……あ。ねえ、ロー? まだいる?」
「なんだ」
一度瞼を落としてしまうともう開けられない。そのまま呼びかけると案外近いところから返答があった。
「首都で……手配書とか、私兵団とか……見たんだけど……」
意識がとろとろと重くなってくる。女医は努力して口を動かした。
「あんたここ来て……大丈夫なの……?」
「おれたちはそこまでやわじゃねェよ」
そうか。まあ彼がそう言うのならそうなのだろう。
「じゃあな」
じゃあね、と、ちゃんと返事ができたかどうかわからない。
朝起きると、卓上のランプにはきちんと始末をした跡があった。
よければここすきとかしてやってください。