トラファルガー・ローが医学の島の小さな村の、そのさらに片隅の古い診療所を訪ねたとき、唯一の常勤医が在室していることはあまり多くない。理由はもちろん、あの女が多忙だからだ。
だから上がり込んだ診療所に人の気配がなくても彼は落胆などしないし、
直後にものすごい騒音を立てながら家主が飛び込んできてもあまり驚かない。
ガッとかゴッとか明らかにあちこちぶつかりながら近づいてくる気配を、ローは一応待った。顔くらいは一瞬見せておこうと思ったので。
果たして部屋に突入してきた女医はそのへんの海賊よりよっぽど凶悪な表情をしていた。
「よう」
「ああはい」
交わすのはそれだけ。挨拶ですらないがよくあることだ。
邪魔にならないよう隅に寄ったローの眼前を女が忙しなく動き回る。乱雑な仕草でまとめている道具は見たところ外科手術用だ。あとタオル、チューブ、パック、術衣。その他何かパッキングされたもの。
無言で観察しているとばちっと目が合った。濃い隈を従えた血走った目だ。
そのまま十秒ほど時間が経った。
「……?」
ローは片眉を上げた。何やら睨むような目つきで見つめられているが、そんな暇があるわけがない。忙しすぎて意識でも飛んだか。
「おい、どうした」
血走った目がカッッ‼ と開いた。詰め寄られて思わずのけ反る。
「ごめん今だけ手を貸してあんたの能力なら母体に負担がかからない‼」
「……は?」
「十六歳女性分娩時間延長陣痛微弱出血多量、あと胎児心拍低下! あんたなら出血も痛みもなしで胎児出して中の出血も止められるでしょ⁉」
若い妊婦が難産で、出血が多く母子ともに危険な状態。
まくし立てられた情報を一度噛み砕いてからローは顔をしかめた。
「海賊が乗り込んで得物振り回したらどうなると思ってるんだ」
「バカね素で
どん、と胸に荷物が押し付けられる。
「今だけよ、お願いだから……これが終わったらあたしをどうとでもするがいいわ!」
鬼気迫る懇願、という一見すると相反する行為は実現可能であったらしい。
外科医は根負けして荷物を受け取った。こいつがあんまりにも必死だから。
「……どうもしねェよ、バカ」
「ありがとう!」
女はこちらが抱えた荷物からいくつかを強引に引き抜いて、かと思えばやっぱり数個をねじ込むように戻し、ぱっと身を翻した。
ローは腕から零れそうになった荷物を抱え直す。
「
「……」
来たときと同じ速度で飛び出していった女医の背を見送ってから、ローは『鬼哭』を壁に立て掛けた。
あの医者がこちらに手助けを求めたことはこれまで一度たりともなかった。どうやら今回は相当血迷っている。
場所の説明はざっくりだったが、実際村に出てみれば特定は容易だった。未舗装の地面に残る細いタイヤ跡をたどれば、野次馬が取り囲む粗末な掘っ立て小屋がある。
ローは人垣を割ってずかずか進んだ。不審がる目線が全身に突き刺さるが、そんなのはわかっていたことだ。軋む戸を強引に開けて、身を屈めて中に踏み込む。
自らのものに酷似した〝力場〟の気配がする。玄関代わりの土間より先には部屋がひとつだけ。部屋の奥半分は衝立で仕切られていて、その向こうから産婦のか細い呻き声と女医の話し声が聞こえてくる。
手前側でそわそわ肩を揺らしていた男が振り返った。ぎょっと目を見開いた顔は青い。
「な、なんだお前」
「おれは外の医者だ。邪魔するぜ」
「えぁ……お、」
ローが衝立のほうへ歩きだすと、産婦の旦那らしき男は意味のない声を漏らして黙った。
通り過ぎざまに、そいつの腕にひとりでに動く採血針が刺さっているのを見る。それから血液を溜めるパックも。
外科医は衝立の向こうに踏み入った。
「来たぞ」
血の海。
シンプルに表現するならそれだった。
青白い顔の妊婦の下肢はおびただしい出血で濡れていて、身体の下に敷かれた布かタオルもまた血をひたひたに吸っていることは想像に難くない。傍らに屈みこんでいる老婆──おそらく産婆──も険しい表情をしている。
ただひとり、ぱさついた金髪の後ろ姿だけが、場違いに柔らかい声で妊婦を励ましていた。
彼女は振り返りもしない。
「術衣」
「能力解け」
互いに互いの要求に従う。
ローが慣れない手付きで術衣とゴム手袋を身につけている間に──海賊の、それも能力ありきの医者などここまで丁寧に服装を整えない──女の操る力場が消失する。
「〝ROOM〟」
外科医は代わりに自分で〝場〟を作った。このあばら屋を覆うほどの、丸く透明な手術室。
ローに女の能力が感知できたように、彼女からもこちらの挙動がわかる。だからやはりこちらを振り返らない。
「ここ切って」
「〝
こき使われた。
いや、ロー自身ははただ一刀を振るっただけだ。妊婦の腹を帝王切開よりは大袈裟に、上から下まで切り開いたにすぎない。あとは引っ込んでじっとしていた。
赤子を取り出したのも、目玉をひん剥いた産婆にその命を託したのも、子宮内が目視できたのをいいことに直接手を突っ込んで焼灼止血をしたのも、同時並行で輸血を敢行したのもその他も、すべてあの女医がやったことだ。彼女は最後までこちらを一顧だにしなかったし、他の要求もしてこなかった。いつも通りだ。
ただそれらは最初から最後までローの〝手術室〟の中で行われたのだ。
以前の戯れで証明されたように、女はローの〝サークル〟を彼の体力ごと借用することができる。つまりあの女はローの体力を豪快に消費して母子を救ったのだった。おまけに最後撤収するとなったときにも「悪いけどこれ持って」ときた。
……まあいい。消費した体力は彼にとっては些細なものだし、『鬼哭』はどうせ診療所に置いてある。
ローは腕の中に山積みにされた荷物を揺すりあげてため息をついた。問題があるとすれば首が凝ったくらいだ。
診療所にたどり着いたときにはとっくに眩しい朝日が部屋の中に注ぎ込んでいた。
「ありがとね。助かったわ」
「あァ」
女医は自分が持っていた汚れ物をいかにも適当な仕草で隅へ投げると、ローにもそれそのへんに置いて、の身振りをした。そのまま疲れ果てた様子でソファに沈む。
「洗えよ」
「あとで……」
「……」
洗ってやろうが迷ったが、ローでは滅菌まではできないし、本人がいいと言うのだから構うまい。テーブルの上のものを寄せてスペースを作り、抱えていた荷物を積む。
「ほんと、ありがと。あんたがいなかったら二人ともだめになってた……」
「だろうな」
彼はそれだけ答えた。そんなことは見ていればわかったし、医者の間では誤魔化したり慰めたりすることではない。ただ事実があるだけだ。
女は顎を上げて背もたれに後頭部を預けた。
「ほんとは……あたしひとりでやらなきゃいけないって、わかってるんだけど。あんたに頼んじゃうのは、ほんとに良くないんだけど……」
確かに、彼らは不干渉を不文律として付き合ってきた。助けを請わない。口を出さない。出させない。彼は医者だがこの村の医者ではなく、彼女は医者だが海賊船医ではないからだ。
それをこいつは今日真正面から壊してしまった。当然ローはロー自身の意志で要請に答えたのだし、後悔などするべくもないが、……親しくなりすぎてしまったなという、薄っすらと粘るような居心地の悪さがあった。女が善良な医者だからと──こいつなら死病に侵されたガキに銃を向けて追い出すようなことはしないだろうという、手遅れの希望に任せて、彼女と距離を詰めすぎてしまった。
彼はもうすぐ、この島に永遠に来なくなるのに。
指の隙間から見えている血色の悪い唇が、ふと綻んだ。
「……でも、赤ちゃん可愛かったわね」
「ああ」
「えっ、意外」
「おれをなんだと……人並みの感性はある」
「あ、そう、そうね。失礼……」
小さな手。赤みの強い肌。遠い記憶の、揺り籠で眠る妹を思う。もう顔も朧気な、家族の大事なラミ。
「可愛いよ、赤ん坊は」
「ふふふ。そうね、可愛い……」
女医はそのままくすくす笑い続けた。どうやら疲労でおかしくなっている。
ローは物の多い居間の中から目で毛布を探した。
場所を把握して目線を戻すと女が顔を覆って俯いていたのでぎょっとした。まさか泣いているのか。バグか?
「おいどっ……どうした」
「え? あ、いや、ちょっと感慨にふけってただけ……」
「な、泣くなよ」
「泣いてないわよ!」
「泣きそうじゃねェか……」
確かにこちらを睨みつけた目元は乾いていたが、少し潤んでもいる。我慢しているのが丸わかりだ。
「だってうれしくて、」
嬉しくてたまらないのだと、この国唯一の女医は言った。
「赤ちゃん、無事でよかったぁ……」
「……そうだな」
その場を去るのも逃げるかのようで躊躇われ、ローは結局何の役にも立たない小麦玉めいた相槌を打つしかなかった。居心地が悪い。
女は乱暴な動作で目元をごしごし擦った。
「……ちょっと、こんなことで泣きやがって軟弱者めとか、思ってるでしょ。泣いてないからね」
まだ言うか。ローは呆れ果ててため息をついた。
「だからお前はおれを何だと」
「論理立てて説明してやるからよく聞きなさい」
「聞くがおれが頼んだか?」
「本当に感動的なんだから聞いてよ! この感情を理解しない状態で返してたまるもんですか!」
「あーハイハイ……」
気まずく思ったのが間違いだった。こいつはこういうやつだ。
海賊は乱雑な手振りで先を促した。
「そこまで言うからにはさぞ素晴らしい物語なんだろうな?」
「保証するわ。あんたってこの村に住んでるのがどういう人なのか知ってるっけ?」
「家出貴族」
「あたし以外で」
「……見当はつく」
そんなものこの国に漂着したときから類推くらいできている。
この村は貧しい──豊かな〝医学と黄金の島〟の中で、ここだけが異様に貧しい。首都には浮浪者さえいないのに。
女医はまだ盛んに瞬きを繰り返していたが、話しぶりはしっかりしていた。彼女は一本指を立てる。
「六割くらいは、元からここに住んでいた人ね。この国が──首都近郊が発展したとき、その波に乗れなかった人。残りは──」
「首都に住めなくなった人間」
女は頷いた。
「首都に住めなくなる唯一の原因は、医療費が払えないってことよ。医療費をひねり出すために税も家賃も食費も払えなくなって、あちらの下水掃除にすら従事できなくて、最終的に食べるものもなくなるから、逃げてくるしかない」
ローは診療所の古く染みのついた壁を見、ガラスなど望むべくもないつくりの窓を見、その向こうの剥き出しの土の地面を見た。そしてさらにその遥か彼方に、解体されて持ち去られたかつての愛船の影を見た。
「……要は、ここは国民ですらない奴らの掃き溜めなわけだ。スラムの代わりだろ」
「ええ。この国のどん底が、ここ。棄民の集落」
だからここにただひとりを除いて医者はいない。〝医学と黄金〟はこの村にはない。
「……それで?」
前提を改めて言葉にされただけで、これらは既知の事実ばかりだ。だから彼はただ続きを聞いた。
「それで──だから、ここに落ちてきた人は特に、こんな暮らしに適応できないじゃない? ここで暮らしていくなんて考えられないって人ばかりよ。だから割合的には少ないままなのよね。どこかへ逃げちゃうか、力尽きるか、そんなのばっかりで……」
「……なるほど」
話が読めた。読めたが、最後まで聞いてやるのが筋というものだろう。
案の定彼女は目元を柔らかく綻ばせて、呟くように言った。
「だからね、助けてくれって言われて、ここで家族を作ってもいいって思ってもらえて、本当に嬉しかったの……だって今までならありえなかったのよ。乳児なんて労働力にならないし、可哀想だし」
「おう」
「あたしが、ちょっとでもここを変えられたのかなって。ここの人、昔はそもそも医者を頼るって発想すらなかったしね……」
「そうか。よかったな」
「ね? 素晴らしい物語だったでしょ」
「……」
ローは返答を避けた。
なんで黙るのよ、と声だけで絡んでくる女は既に酔っ払いに近い。さっきのくだりも情動がおかしかったしそろそろ寝かせてやるべきだろう。
「〝ROOM〟、〝タクト〟」
「わ」
さっきあたりをつけておいた毛布を女医の上に落とす。
「お前が感動に打ち震えてるのはよくわかったよ。わかったからとっとと寝ろ。おれは帰らせてもらう」
「あ、やば、そうね。遅くなってごめん……ベッドか床しかないけど寝てく? 貸すわよ」
「バーカ。この程度で仮眠が必要なほどやわじゃねェよ」
おやすみぃ、と余韻が既に眠気に侵されている声を背中に診療所をあとにする。
あの女はあれで話好きだし妙に興奮していたから、あのまま共にいればだらだらと起きているに違いなかった。ローは医者だ。あれだけ不摂生な人間を休ませずにいることはできない。
「くぁ……」
目頭の涙を親指で拭った。自艦に戻って寝てしまおう。