最近、村に人が増えた。
子供が増えたという意味ではない。子供もいくらかは増えたが、村人が相次いで出産したわけではない。
人が増えた──人が、やってきた。
首都から転落してきた人々だ。財をなくし、金をなくし、ときには健康すら失って、身一つで落ち延びてきた者たち。
それは波濤か奔流に似ていた。
住人が増えれば仕事も増える。人は慣れない暮らしで体調を崩しやすいものだ。しかも引っ越し先が生活水準の数段落ちる辺境となればなおさら。
……いや。少し見栄を張った。認めよう。
ここはもはやスラムだ。黄金の首都から切り離されているだけの。
「先生……咳が止まらなくて」
「先生、ここの水って飲んで平気なのかしら? お腹の調子がずっとよくないの……」
「いつもの薬あるかい先生」
「先生、先生、栄養のあるものって何を食べればいいのさ」
「ここにも医者がいるって聞いたから来たのに女だなんて」
「先生! うちのせがれが無理矢理海に出て怪我しやがった‼」
「医者ならおれの孫娘を助けてくれるんだよな!」
「先生、あの人たちなんとかしてちょうだい!」
「ここにはまともな家もないのか⁉」
人は増える。貧しい暮らしを知らない人間が増える。少ない空き家に人を詰め込みきってしまえば、ありあわせの板や布で粗末なシェルターを作って住むしかない。元が豊かだった人々は当然そんな環境に耐えられない。次々と心身を壊していく。そうして余裕がなくなればいっそう悪罵と悲鳴が増える。
元々の住人だってもちろんたまったものではない。畑の耕しかたも狩りのしかたも、どころか水の汲みかたさえ知らない気取った人間が押しかけてきて、みなが努力と苦労の果てに維持してきた暮らしを罵って騒ぐ。食べるものだってそう急に増やすことはできないのに。
持病があり、新たに発生する病があり、そして不満と軋轢がある。この国の頂点は医者で、この村に医者は彼女ひとりだから、みな全てを女医に訴えかけてくる。
なんとかしてあげたいと思う。同じく首都からやってきた者として架け橋になり、元の住人と話をつけたのももう両手の指では足りない。カウンセリングもやったし生活指導もした。診療報酬を無理に取り立てるのもやめた。
それでも──環境は悪化する。人の心も、身体も、衛生も。助けられない命があり、叩きつけられる悲嘆と激憤がある。
彼女の身体はひとつで、この手は二本しかなくて、一日は二十四時間しかない。
……けれど遺体の埋葬すらも、女医が指導せねばさらなる感染症の温床になりかねないのだ。
「……い、おい! しっかりしろ!」
「う……」
誰かに肩を揺さぶられている。女医は呻いて身体を庇った。慢性化した頭痛が揺れと声で悪化して辛い。せっかく仮眠が取れたのに。急患でもなければ起こさないでほし、
「……えっ急患⁉」
飛び起きた。
霞む目で周囲を見回すが、絶望した顔で詰め寄ってくる人も狂ったようにドアを叩く音もしない。
代わりに眼前で頭を抱える馴染みの海賊がいた。頭を抱えたいのはこっちである。
女は低く呻いて目を覆った。
「なによ……寝かせてほしいんだけど……」
「玄関でか」
「うるさいなあ……」
確かにここは玄関だがそれがどうした。寝られればそれでいい。わざわざ奥の部屋まで行く手間も惜しいのだ。
だがローは目の前からどかなかった。どころか鋭い目でこちらを睨みつけてくる。いったい何が気に食わないのか知らないが。
「手足は動くか。痺れは。頭痛はあるか?」
「……ない」
動いてみせなければこの男はしつこいだろう。理解した女医は重い身体を引きずって立ち上がった。この場合、問われている『頭痛』は脳出血を示唆する激烈な痛みのことで、もう患って長い能力由来の頭痛ではない。
「見ての通り、あたしの脳血管はまだ無事よ。悪いけどほんとに忙しいから構ってあげられないの。ごめんなさいね」
「いつからまともに食ってない」
ふたりとも立ち上がると当然ローのほうが背が高い。今は目を合わせるのも億劫だった。
「あんたに関係ある? それ」
「……」
今は──今は本当に、余裕なんてものはどこにもない。
ソファに倒れ込んだ直後に意識が飛んだ。
次に目が覚めたのは今度こそ急患だった。
診療所から這い出るようにして応対する。無理に山の奥に分け入って獣に襲われたとかで、女医は眉をしかめながら無惨な傷を縫うはめになった。
獣の爪は不潔だ。雑菌に傷が勝てるかどうかわからない。食糧が不足がちで栄養状態も悪いし、献血できる余裕は誰にもない。……これ以上墓を増やしたくはないけれど。
処置を終えて帰る道でも仕事はある。人々の訴えを聞き、なだめ、助言をする。結局万人に都合のいい完璧な助言などできないから、女医がこう言った言わないああしろこうしろでまた諍いの種になる。しかしだからといって、人々の目の前で関係ないとか専門外だとか言って切り捨てることはできない。それこそ彼女自身の信頼に関わるからだ。
信頼がすべてなのだ。彼女は元々貴族で、彼らを搾取し追い落としたのと同じ人種だから。それを駆け出しのころに思い知っているから、今の状況にも歯を食い縛って耐えるしかない。
なんとか時間を作って自宅兼診療所に戻ってくるともう立てなかった。
「はぁ……」
玄関にへたり込んで息をつく。摂取カロリーが足りないのはわかっているが、とにかく眠って体力を回復したかった。起きたら何か口に入れよう。
白衣も脱がずに硬い床に横倒しになる。寝心地は悪いがもう慣れた。すぐ起きられると思えば悪くはない。
「あっ先生帰ってき……先生! 先生寝ちゃダメだって‼」
うるさいな。
女医は横たわったまま瞼だけを動かした。とても起き上がる元気はない。
騒ぎながら寄ってきたクルーはシャチという名前の男で、一味の中では年長の部類に入ったはずだ。顔を覗き込んでくるのをぼんやりと見返す。
「なに……あたし疲れてるんだけど……」
「うん見ればわかる。キャプテーン⁉ 先生今にも気絶しそう!」
居間のほうからさらにどやどやと声がする。珍しく大勢来ているらしい。
「だからってお前ら……」
「早く覚悟決めろってキャプテン!」
「うだうだしてんじゃねえよ!」
「もーまだるっこしいなこの人」
なにこれ。
女は目をしょぼしょぼさせながら訝しんだ。なんだかローが責められている。
居間のほう──頭のてっぺんのほう、から複数の人間の気配が寄ってくる。相変わらずキャプテンがどうとか言っている声たちと、歯切れ悪く反駁する船長の声だ。
ローの脚が押し出されるようにして視界に入ってくる。
「あのなあ」
「しつこいな船長!」
「キャプテンが決めてくれないとおれら手ェ出せないんだからさ!」
「諦めろ諦めろ」
「そもそもおれたち先生のこと大好きじゃん」
話の流れが全く読めない。疲れているせいかと思ったが違うような気がする。
「あの……なに? 寝たいんだけど」
「ハァ……」
最終的にローは肺をまるごと吐き出すような深いため息をついて腰を落とした。それでようやく顔が見えるようになる。何か腹を括った表情をしていた。
「おい」
「……ぁい」
「──おれとクルーを頭数に入れろ」
女医はぽかんと瞬きをした。
「……え……?」
「おれは外科屋だがそれでも医者だ。処方と血検くらいやってやる。外傷ならおれのほうが的確に処置できるしな。うちのクルーも家と食事の管理と荷物持ち程度には役に立つ。一時しのぎだとしても悪い条件じゃないはずだが?」
「あー……」
「……チッ、確かにおれは島外の人間だが、そんなもの今更だろうが。海賊に
「……あー、うん、そう? ね?」
「ッだから」
「待って」
身体の下から引き抜いた掌を青年に向かって突き出す。彼は眉根をぎゅっと寄せたが一旦黙ってくれた。
「とりあえず次の患者さんが来るまで寝るから……来たら起こして。でその後ちゃんと聞かせて。いま……今ちょっと、どういうことなのかよくわかんないから……」
ただでさえ疲れていたのに、ハートたちの騒ぎで休息を邪魔されていよいよ限界になってきた。真面目な話を検討する余力がない。
女医は腕をそのまま地面に投げ出して目を閉じた。
「気遣い……ありがと……」
よろしく。
「……ハァ。〝ROOM〟、〝シャンブルズ〟」
だからつまりは、手伝ってくれると。
目覚めたあと、クルー手作りのミルク粥を口に突っ込まれながら、女医はそう事態を把握した。
これ温かくて干し肉が入ってておいしい。……ではなく。
「あのあたし……もご」
「おら先生あーん」
「……んぐ、とりあえず離してほし……むぐ」
シャチがにこやかかつ間断なくスプーンの中身を口に詰め込んでくるせいで喋れない。おまけに背後からイッカクがさりげなく羽交い締めにしてくるせいでベッドの上からも動けない。
寝落ちる前の記憶が定かなら、女医はベッドにたどり着いていないし協力を承諾した覚えもない。前者は以前もあったことだからいいとして──ローはシャンブルズ搬送くらいならやってくれる海賊だ──この強制給餌はどういうことだ。次の患者が来たら起こせと言ったのであって家事を任せたつもりはない。
「もいっちょあーん」
「シャチ、」
「あぁん?」
凄まれた。
諦めた彼女は粥を片付けることに専念した。なにせこのクルーたち、海賊だけあって力が強い。同性のイッカクですら振りほどける気がしない。
ハートの海賊団がこうして村唯一の医者を拘束しているのなら、その船長は診療を受け持ってくれているはずだ。実際、近くにオペオペの〝力場〟を知覚できる。集中して探ってみると外来をさばいている気配があった。
個人情報がだだ漏れになっているが……仕方ない。彼は賞金首だが医者として、そして友人としては信頼できる。
もう少し頑張れば音声が拾えそうだ。女医は口に押し込まれ続けるミルク粥を半自動的に咀嚼しつつ、〝処置室〟あるいは〝手術室〟に意識を向けた。誰に何をしたのかくらいは把握しておきたい。
「……が……くて……」
「あー、……は? ……あいつは……言ってた?」
「先生は……とかで、……あんたじゃなくて先生に診てもらいに……」
ラジオの周波数が合うように、だんだん会話の中身を認識できるようになっていく。
女はもぐもぐしながらふと疑問に思った。
なぜ彼は問診なのに能力を展開しているのだろう?
「これは直接診たほうが早いな。〝
「ギャアアアアアアアアッッ⁉」
「ちょっとあの野蛮人何してんのよ‼」
思わず腹から声が出た。
クルーたちも診察室から聞こえてきた絶叫に気を取られたらしく、制止されずに居住スペースを脱出することに成功する。代わりに足がもつれて転びそうになったし一瞬で酸欠になった。
「ちょ、ロー⁉」
「なんだ。あんまり焦ると血管切れるぞ」
「あ、んたのせいよこのバカ‼」
女医は腹部を輪切りにされて悲鳴をあげる男性を抱え起こした。男性は泣きながら馬鹿力ですがりついてくる。生活が大変なうえに具合が悪いのになんて可哀想な目に。
「せ、せせせ先生ぇえええっ‼」
「大丈夫大丈夫、びっくりしましたね? ゆっくり息を吸ってみて、痛くないでしょう? ええ──私もどうかと思いますけど、これはいつも私がやっている不思議な力と同じようなものですよ。彼はちゃんとした医者です。私もこれはどうかと思いますけど、ええ本当にびっくりしましたね」
「文句が多いな」
下手人は輪切りをしげしげ観察したあと、雑な動作で元通りにくっつけた。全パーツがくっついたのを受けて男性を支えて座らせてやる。
「あんたねぇ……」
「キツめの胃炎だな。十二指腸まで炎症が行ってる。薬は……おいどうなんだ主治医。在庫の種類まではわからん」
女は盛大にため息をついた。まったく素晴らしいマジカル内視鏡である。なおサイエンティフィック内視鏡は医学の島中心部でもまだ開発されていない。
「ああもう、あんた仲間しか診ないから問診下手なのね。対応ありがと、あとはあたしがやるからどいて。今うちで出せる薬は……」
ローを古びた椅子から追い立てて代わりに腰掛ける。手近な紙に薬品名を走り書きした。
「……これね。場所も名称も知ってるでしょ取ってきてちょうだい。ここまでズブズブになっちゃったらもうヤケクソよ! 助けてくださいお願いします!」
立ってるものは海賊でも使え!
開き直ってしまえばハートの一味の助けは本当にありがたかった。
薬出しと道具出しをやってくれるだけでずいぶん違う。そのまま往診にも目つきの悪い海賊を連れ回してしまったが、荷物を全部持たせていいのが非常に楽だった。さらにに元が聡明なので終盤には問診もなんとなく形になっている。……本人は環境の悪さとヒステリックに訴えかけてくる患者──主に首都落ちの人々──にうんざりした様子だったが。
日付が変わる前に診療所に戻ってこられたのは間違いなくローのおかげだ。
「ふたりともおかえりー! 遅かったね。いつもこんなに大変なの? メシ取ってあるよ」
極めつけに灯りのついた室内からにこにこのベポが顔を出し、とうとう女医は限界を迎えた。
「ベポ……!」
「わぁ」
シロクマの毛皮に顔面から飛び込む。自分の三倍くらい体積のある体温に包まれると変に安心して、彼女は思わず脊髄から欲望を吐き出した。
「あったかいご飯だぁ……」
「おれはご飯じゃないよ先生」
「泣くなよ……」
「別に泣いてないわよ」
嘘ではない。帰ったら食事が用意されている素晴らしさにうるっときたのは事実だが、少なくとも泣いてはいない。
中へ入ると狭い室内にハートのクルーがぎゅうぎゅうになっており、持ち込んだらしい鍋や皿──女ひとり暮らしの家にあんなにデカいのはない──を片付けていた。というか散らかっていた部屋まで片付いている。さすがに恥ずかしくなった女医は顔を覆った。
「おっ帰ってきた。おいあれ火にかけとけ!」
「アイアイ」
「おっかえりー」
「ほらお前ら散れー、狭いぞー」
「じゃあな先生」
「労働もほどほどに!」
「あっみんなありがとう……」
退散していく背中に向かってお礼を言っておく。
あとにはベポの言ったとおり料理を取り分けた皿がふたつ残っていた。
山盛りで。
「……ロー?」
「なんだ」
呼んだ相手はさっさと座って食事をかき込み始めている。吸い込むような見事な食べっぷりにやや呆然としながら、女は恐る恐る訊ねた。
「……あたしこんなに食べなきゃだめ?」
「これはあいつらなりに気を遣って減らした量だぞ」
「嘘でしょ……」
確かにふたつの皿に乗っていた量には差があった。というかそもそも大きさが違った。ローが迷わず取ったほうの皿が五十パーセントくらい大きい。しかしどちらも山盛りだ。
女医はしみじみしながらフォークを手に取った。
「あたしならこれで二食分はあるわ……海賊って食べないとやっていけないのね」
「お前も……いやなんでもない」
「痩せぎすで悪かったわね」
自覚はある。
他人の作った食事は久しぶりだ。普段から調理の手間の少ないメニューばかり食べているから、温かくて味の濃い食事なんていつ以来だかわからない。
協力者がいるとはこういうことか。素晴らしい。
……素晴らしいが、甘え続けるわけにもいかない。
皿の中身を頑張って半分片付けた女医は隣の男を見た。彼はとっくに食べ終わってぐびぐび酒を飲んでいる。
「ご存知の通りあたしは貧乏なんだけど、支払いはどうしたらいいかしら?」
労働には対価が必要だ。契約には見返りが必要だ。彼らが好意的なのは非常にありがたいが、だからといって踏み倒すわけにはいかない。彼女の中の倫理観がそれを許さない。
返答の予想はついているけれど。
「おれは確かに海賊だが、無意味に搾取する趣味はねェよ」
ほらね。女医は肩をすくめた。
どうするかと聞いたが、何の形で要求されようとこれだけの人件費が賄えるはずがなかった。身体で払うにしても限度がある。腎臓や眼球を売り払ったとしても、この国では大した値段にならないだろう。
ローは当然それを知っている。知っていてなお手を出してきたのだ。この一年極悪な本性を隠し通してきたのでなければ、無償奉仕のつもりなのは明らかだった。本当に海賊で合っているのかこの男は。
「……でも、友人価格は良くないわ。そうでしょ」
友人だから、家族だから、これくらいやって当然だろう。これくらい許してくれるよね。家族なのにだめなの?
女医はそういう態度が嫌いだ。不公平だから。それこそ搾取する側の理屈になる。
「お前が報酬を受け取ってないのに? 無給医だったそうだが今も同じようなもんじゃねェか」
海賊の色素の薄い目がこっちを見ている。飲むペースはかなり早いが酔った様子はなかった。海の男が酒に強いのは本当のようだ。
「そ、りゃあ、」
一瞬喉が詰まった。腹に力を入れて声を押し出す。
「──そりゃあ、
そうだな、という淡々とした相槌。
どうしてこんなわかりきったことを言葉にしなければならないのか、女医は意識の隅で訝しく思った。
「手伝ってくれて……ありがとう。でもいつまでやるつもりなの? いつまでいてくれるの? あんたは海賊でしょ。いつか海へ出ていくわ。──出ていくんでしょう?」
「ああ」
一拍置いて、彼はまたぐびりとエールを口にした。
「じき
──驚いたわ。あんたみたいな人でも財宝に興味があったのね。
いつか彼が永遠にここを去っていくとき、そうやって茶化してやろうと思っていたのに、現実になってみればとてもそんな雰囲気ではなかった。
「……じゃあやっぱりあたしとは状況が全然違うじゃない。よその人の好意に頼るわけにいかないわ。元々あたし独りでやらなきゃいけないっていうのに」
「……」
目を逸らさない。ずっとローの、どこか面倒そうで気まずそうな、見慣れた仏頂面を見つめている。
だから彼が一度何かを言いたげに口を開いて、逡巡ののちに結局唇を引き結んだのをしっかり見ていた。
「なに?」
「……いや」
ローは天を向いてジョッキの中身を飲み干すと、続いて女医が残した皿まで手を伸ばした。明日食べるつもりだったのだが、元は彼らの食糧だし文句は言わない。
「どうせお前に支払いの宛なんざないんだ、無駄なことを考えるのはよしておけ。たとえお前がなけなしのベリーを用意したとしても、おれたちはそんなもの無視して出ていける。いずれな」
「それは……そうね」
まったく不本意なことだが確かにそうだ。海賊に襲われても抗えないのと同じように、海賊から施しを受けても断るすべはない。
いくら今日の仕事が比較的楽だったとはいえ、今までの蓄積もある。疲れてきた女医は背もたれに体をあずけて、ぼんやりと隣の青年を眺めた。彼女が頑張って食べきった量の料理をもう食べ終わってしまいそうな、逞しく体格のよい青年だ。
「いずれって……いつまで?」
「お前はいつまでいてほしいんだ」
女は驚愕に目をかっぴらいた。
「嘘でしょあたしがおねだりしただけいてくれるの⁉」
「そうは言ってねェ」
「今明らかにそう言っ」
「そういう意味じゃねェ!」
ローは憤然と否定して残りの食べ物を口にかき込んだ。
「今の環境はおれみたいな外部の人間でもわかるくらい異常だ! なぜこんなに人がいる? あれは首都から来た奴らだろう。向こうで何があった? 落ち着く見込みはあるのか?」
「つまり落ち着くまでいてくれるってこ」
「チッ」
「ごめん」
本気の舌打ちだった。
女医は眠気がのしかかってきた頭を軽く振った。
「……でも、それはあたしにもわからないわ。いきなり首都近郊の税率と医療費が跳ね上がったのは確からしいけど……中央の医者たちが何してるかなんて知らないし……」
「一応向こう出身だろお前」
「って言ったってねえ、下っ端だったんだもの。女だし」
彼女は背もたれに向かって斜めになったまま肩をすくめた。
「あたしが知っている限りでは、中央がかき集めてるのは研究費よ。でも元々詳しい内容は知らないし、あれからもう数年経っているもの。他に使い道があったり増えてたりしても不思議じゃないわね」
普通に考えれば何か大規模な研究が始まったことになるが、責任も確信も持てないし、何より終息のめどなど立てられるわけがない。仮に研究だったとしても、期間などものによってまちまちだ。……場合によっては年単位になる。
「うちのクルーに調べさせたほうが早いな……」
「ごめんなさいね」
「いい。自己満足だ」
彼は徹底的にこちらに責を負わせないつもりらしい。
海賊は食器類を片手でまとめて立ち上がると、空いているほうの指をぴしりと彼女に突きつけた。
「このまま置いてったら過労死しそうで気分が悪い。少なくとも状況が読めるまではお前が嫌だと言っても手伝ってやる。差し当たっては先に寝ろ」
最近まともに眠れていないのは確かだ。空腹はごまかせるが睡眠はそうもいかない。女医は素直に頷いて腰を上げた。
「ん……ありがと」
「ベッドでだバカ。疲れの取れかたがどれだけ違うと思ってる」
「んぐ」
ソファに行こうとしたら腕一本で阻止されてしまった。両手を上げて降参を示す。
「わかったわかった、ベッドで寝ます。当直任せてもいいのね?」
「ああ」
「じゃあ患者さん来たら起こして」
「さてな」
「起こしてよ⁉ 真夜中にあんたみたいのが出てきたらみんなビビっちゃうでしょ⁉」
ローは結局返事をしなかった。なんてやつだ。
人手は増えたが忙しいことに代わりはない。
医者が一、助手が五増えたところで、診るべき人間と解決すべき問題は手では数えられないほど増えるのだ。
人が増える。患者が増える。問題が増える。際限なく増える。
海賊団の助けもあってなんとかまともな食事は摂れるようになったが、時間と体力は有限だ。外科医のほうもいくら鍛えているとはいえ限度がある。時間が経つにつれ互いに無言で項垂れていることが増えた。
いくら手を尽くしても病は蔓延り、いくら手を貸してもらっても疲労は蓄積する。
──〝いずれ〟。
ローが明言しなかったその日は、遅くても二週間か三週間でやってくるだろうと、女医はそう思っていた。
誰だって、好き好んでこんな環境で医者などやりたくはない。
「キャプテン‼」
その切羽詰まった声が響いたとき、しかし一か月と半分が経っていた。
「……」
聞こえていたが女医は顔を向けなかった。呼ばれたのが自分ではないことがわかっていたし、疲れきっていたからだ。
「ペンギン、どうした」
だから反応したのは隣で外傷の対応をしていたローで、しばらく後にこちらへ声がかかる。
「悪い、少し外す」
「ええ」
頷いた。頭の中で対応順位を組み直す。
「ああはい、ちょっと待ってくださいね、こっち終わったら伺いますからね。この薬を……待ってくださいね順番にしましょうね」
ローはずいぶん長いことクルーと話し込んでいて、戻ってきたのは長蛇の列をなんとかさばき終わって、一瞬休憩を取れてからだった。
机に突っ伏していた肩を揺すられて目が覚める。
「……急患」
「違う」
「そ……」
突っ伏した姿勢のまま目線だけを青年に向けた。なに? と目で問う。
「首都組から情報が入った」
──〝いずれ〟。
「大規模な海賊狩りが勃発したらしい。標的はおれだ。ここを巻き込むのは本意じゃねェ。悪いがすぐ出港する」
「……わかったわ」
身体を起こして向き直った。疲れていても以前交わした会話は覚えている。
「
「行く。ここからだとカラス諸島経由だな」
答えは簡潔だ。ローは真っ直ぐにこちらを見下ろしている。だから女医も目を逸らさずに見返した。隈の濃い目元だ。以前よりさらに濃くなった。
「だからもう来ない。……繁忙期の途中で悪いな」
「気にしないで。元々あたしひとりなんだから。なんとか頑張るだけよ」
わざわざ起こしてくれた意味がわからないほど馬鹿ではない。よく周囲を気にしてみれば診療所内を忙しく動き回るクルーがいて、荷物を回収するクルーがいて、外で盛んに指示を出しているクルーがいる。
すぐ出港する、に偽りはないのだろう。
女医は意識して微笑んでみせた。
「出港式に出るのは無理だけど、この建物の外までなら見送ってあげるわ」
「……ああ」
海賊の頭目は頷いた。それから身体をずらして女医の向こうを覗き見るようにする。
「おい野郎ども! 進捗‼」
「食料品よーし!」
「器材確認中、もうちょいかかる! おいお前手伝って!」
「日用品オーケー!」
「
ハートのクルーが好き勝手に持ち込んだ荷物はもう撤収済みのようだ。常に数人が待機してくれていた室内からばらばらと人が去っていく。一人暮らしの期間のほうが圧倒的に長いのに、部屋がずいぶん寂しくなったように感じた。
大きな木箱を抱えたクルーが顔を出した。
「器材オッケー! いつでも出れるぜ」
「よし」
ローはちらっとこちらを見てから裏口に向かった。膝を押して立ち上がり、着倒した白衣の皺を申し訳程度に伸ばして、彼の後ろについていく。
本来ならこうしている時間すらもこの村では許されないけれど、それはわかっていたけれど。それでも、友人の旅立ちくらいは見送らせてほしかった。
出た先にはクルーが集まって待っていた。彼らの船長が首だけで振り返る。
「じゃあな。長い間世話になった」
「いいえ、こちらこそ長いことありがとう。あんたと話すのは楽しかったわ」
「ああ。……」
ローが喋りも去りもせずに意味深な沈黙を漂わせている。女医は片眉を上げた。
「どうしたの?」
「いや……」
どうにも歯切れが悪いが、当の本人は寄ってきたクルーたちにしこたま肩やら胸やらを小突かれていた。
「この意気地なし」
「とりあえず砕けてみなって」
「キャプテーン、後悔するぞ?」
小声だが色々聞こえる。いったい何……? と女医は軽く身構えた。
「わかった、わかった、わかったっつってんだろ! 寄るな散れ!」
まとわりつくクルーを振り払ったローはそれでも相当逡巡したようで、こちらに向き直るまで数回呼吸する程度の間があった。
すう、と息を吸う音、覚悟を決めた色の瞳。
「──おれの船に乗る気はないか。元々麻酔が見れる人間が欲しかった。内科専門のお前が来てくれるならありがたい」
「……」
女は、目を伏せて微笑んだ。
トラファルガー・ロー。たまたまこの国に流れつき、たまたま彼女が助けた、風変わりな海賊。外の医者。海賊のくせに変にお人好しで、確かな知識と倫理があって、女医を対等に見てくれる唯一の医者。
無二の友だと、少なくとも彼女のほうからは、そう断言できる男。
「──いいえ。行かないわ」
そうか、とローは呟いた。たぶん彼も──そしてその肩の向こうで神妙な顔をしているクルーたちも、こうなると予想はしていたのだろう。彼らとは既にそれほど親しい。
「福利厚生は手厚くするが?」
「あは」
女は笑った。冗談だとわかっていたからだ。
「それは素敵ね」
帆をいっぱいに張って海を行くのはどんな心地だろう。土地に縛られずにどこまでも行けるというのは。国どころか政府に楯突いてまで、あの髑髏の印を掲げるのは。
対等な仲間と意見を交わしながら、仲間だけを診る船医の世界は?
「……でも、だめよ。あたしがいなくなったら誰がここの人たちを診るの? 誰が身一つで逃げてきた人たちの心をわかってあげられるの? みんなはいったい、誰を頼ればいいっていうの?」
去りゆく彼らを責めるわけではない。ただ彼らはこの国に属さず、女医は属している。属しているならば義務がある。それだけだ。
たとえ福利厚生がなっていなくても。たとえこの生活が心身を削るのだとしても。たとえ、とっくに限界が見えているとしても。
「あたしは、医者よ。この村の。みんなが必要としてくれる限りね」
それは祈りに近い。祈って組んだ両手を支えにして頑張るしか、もう手段がないからだ。
「……そうか」
ローはもう一度そう言って、帽子のつばを深く引き下ろした。目線が断ち切られる。
「無理を言って悪かった」
「悪いと思うなら、最後に握手くらいしてくれるわよね?」
「……」
差し出した手をひと回りもふた回りも大きい手が握る。掌の厚くて固い、ごつごつした男の手だった。
「……さようなら、ロー。あんたの船に良い風が吹きますように」
「……ああ。じゃあな」
彼は顎をしゃくってクルーを促した。ハートの海賊団は名残惜しそうに別れの言葉を投げながら、それでも速やかに遠ざかっていく。
最後に一瞬握る力が強まって、そしてローの右手はするりと抜けた。
目線を帽子の内側に隠したまま、海賊が夕焼けの中へ去っていく。
女はそれ以上見送らずに白衣を翻した。診療所の表から、彼女を呼ぶ患者の声が聞こえる。
親密度MAXイベント「おれとクルーを頭数に入れろ」
さようなら、ドクター。