──遠く海原に、煌々と光が灯っている。
日は落ちきって、夜。
ろくに灯りのない村でも患者は絶えない。みな光のあるうちは懸命に働いていて、夜になってやっと身体が空くからだ。どちらかと言えば緊急性のない患者が多く、ただ不安や愚痴をこぼしにくるだけのケースもある。
といっても急患の知らせが飛び込んでこないわけではない。人の命は時計を見ない。
だから居並ぶ患者の列に対応している間に、戸口を乱暴に叩く音や外まで伸びた列のざわめきが聞こえても、ああまた救急かな、としか女医は思わなかった。
「ちょっと失礼、対応してきます」
一言断って席を立つ。目の前の患者は不満そうだったが、人命には代えられない。
診察待ちの人々を掻き分けるようにして玄関を開ける。
「どうし──」
銃口。
「ベンジャミン・フローレンス。海賊を匿っていたそうだな? 一緒に来てもらおうか」
私兵団の黒光りする敵意が三つ、並んで彼女を見つめていた。
「……え、っと」
女医はこわばった口を懸命に動かした。しらばっくれたり誤魔化したりするべきではないとわかっていた。
「わかり……ました。でもせめてみなさんの診察が終わってから……」
轟音。
頬を叩く衝撃波。鼓膜が痺れて甲高い耳鳴りが耳のあいだを貫く。
とっさに振り返ったが被害を受けた人はいないようだ。みな悲鳴をあげて逃げていくか、腰を抜かしてへたりこんでいる。
顎が痛い。
「そんな顔をするな、女。市民への発砲は許可されていない。だが……」
肩口にまだ熱い銃口が押し当てられる。
顎が痛い。
「ここには
音が鳴るほどきつく歯を食い縛った顎が痛い。
女は懸命に声を絞り出した。自分でも明確に分類できない激情で唇が震えている。
「わ、わかり、ました。あなたたちと……行きます」
「来い」
「っ……」
乱暴に腕を引かれる。女医は半ば引きずられつつ、立ち尽くしている村人たちに向かって叫んだ。
「すぐ、すぐ戻ってきますから! 私が戻るまで、栄養を取ってっ……」
「女」
耳元で不機嫌そうに囁かれて声が引っ込んだ。
「間引きをお望みか? ──おい」
男の合図で残りの兵が踏み込んだ。逃げるに逃げられない村人たちを突き回し、殴り、ねじ伏せて、我が物顔で村を踏み荒らす。
「探せ。海賊が潜んでいるかもしれん。徹底的にやれ」
「やめて……」
喘ぐ。口しか自由にはならない。しかし腹も喉も震えて、悲鳴にかき消されるようなか細い声しか出せなかった。
「もう海賊はいないわ。ここにはいない……」
「知るか。上に言うんだな」
遠ざかっていく。診療所が、並んで治療を待っていた人たちが遠ざかっていく。この手の届かないところへ。
女はあまりにも無力だった。医者なのに。たったひとりの医者なのに。
護送車に押し込まれてたどり着いた建物は白かった。
兵士の詰所ではない。今の女医には見上げる気力がなかったが、夜でも目立つようにされた大看板にはこう書いてあるはずだった。
ベンジャミン病院、と。
白い病院の白い床を踏んで、埃っぽい一室に放り込まれる。辺りを確認すれば現在地の検討がついたかもしれないが──飛び出して数年経つとはいえ、彼女はここで育ちここで働いたのだ──そうする気は起きなかった。無駄なことだ。
拘束はされていない。兵士も出ていった。しかし彼女はただ俯いて、真っ白な床と自分の薄汚れた白衣を見ながら、じっと固い椅子に座っていた。
しばらくしてノックもなしに誰かが小部屋に入ってきても、そのままでいた。
「──フローレンス」
「……」
その声を知っている。記憶よりしゃがれた、しかし張りのある老人の声。
「フローレンス」
声には言外の圧があった。女医はのろのろと顔を上げる。
建物よりもなお白い、皺ひとつない白衣。厳めしい顔のかくしゃくとした老爺。
「……おじいさま」
「院長と呼びなさい」
「……はい、ベンジャミン先生」
この国でベンジャミンと言えば普通は彼のことだ。星の数ほど医者のいるこの国で、その頂点に立つ者。実質的な王。
「海賊を匿っていたそうだな?」
「……」
答えない。祖父にとってはただの決定事項だから。祖父の誘導する通りに答えるのが嫌だったから。
匿っていたわけではないが、仕事と生活を共にしたのも、親しかったのも事実ではある。
──なんのことはない。ローは、ローとそのクルーは、あまりに長くあの村にいすぎたのだ。
誰もが彼らが海賊だと知っていた。能力だって見せた。女医の目を盗んで調査するのなど簡単だっただろう。結果こうして問い詰められるのを予測できなかったのは、まぎれもなく彼女の失態だ。助けてくれと言ったのはこちらなのだから。
ただひとつ幸運なのは、彼らが既に去ったこと。
「ハートの海賊団船長、トラファルガー・ロー。〝オペオペの実〟の能力者。そうだな?」
「……」
「フローレンス」
祖父が年齢のわりに大きな歩幅で詰め寄ってくる。あっと思う間もなく頬を張られていた。現役で病院と国を仕切っているせいか驚くほど力が強い。
「っ……」
「答えなさい」
「……はい」
事実だ。
「〝オペオペ〟はどこだ?」
「……もう、いません。探しても無駄です。彼らは出ていきました」
「どこへ行った? 海へ出たのか」
「……」
「庇いだてしようなどと思うのはやめなさい、フローレンス。海上は既に封鎖してある。ちっぽけな海賊船では隠れているのが精一杯のはずだ」
「──」
目を見開く。
外を見た。滑らかで透明な硝子の入った窓から、この島を取り囲む黒い海が見える。遠くまで見える。この建物は高いのだ。
その漆黒の海原を煌々と照らす無数の灯り。
「なっ……」
逃げられたのではなかったのか。彼らが出港してから一時間は経っているのに。
──ローは海賊で、その船長で、〝オペオペ〟の能力者だった。
その意味を、彼女は全くわかっていなかったのかもしれない。
「フローレンス……わかるだろう。お前が早く喋れば資源の無駄もない。海賊と親しくするなど一族の恥だぞ」
でも──でも。
こういう言い方をするということは、ここに彼の首が転がってこないということは、まだ彼らの手のうちに〝オペオペの実〟はないのだ。彼は捕まっていない。
女医は腹に力を込めた。
「……そ、そもそも、あたしの存在そのものが、恥なくせに」
「……ハァ?」
一年以上前のあの日、人相の悪い刺青男を助けたときに覚悟していたはずだ。たとえ彼を助けたせいで被害を受けたとしても、助けるべきではなかったなんて言えないし、出逢わなければよかったとも言えない。
『良い風が吹きますように』。友人の旅の幸運と安全を、女医は心から願っている。
「ローはあたしの患者で、あたしは医者よ」
祈り。それは祈り。診るべき患者から引き離されたただの女が持っている、〝死の外科医〟とのたったひとつの共通点。
「患者の個人情報を、診療以外の目的で漏洩することは、できないわ……!」
「私が医者だ。小娘め」
一瞬視界が明滅した。
気がつくと床に尻餅をついている。頬とそれから腰が痛かった。椅子から張り飛ばされたらしい。
半ば呆然としたまま見上げた祖父は、害虫でも見るかのような一瞥をくれて踵を返した。
「残念だよ、フローレンス」
入れ違いに男が──白衣の医者が数人入ってくる。
その中に見知った顔を見つけて歯を食い縛った。
……我慢比べの時間だ。
◆
ベンジャミン・フローレンスは裕福な医者の家系に生まれた。彼女と家族にとって不幸だったのは、兄弟ができなかったこと、そしてフローレンスが女だったことだ。
〝医学と黄金の島〟で女が医者になった前例はない。しかしベンジャミン家は国でもっとも高名な医者の家系であり、そして跡継ぎになれるのはたったひとりの娘しかいなかったのだ。
「医者になりなさい」
そう父は言った。
「医者になりなさい、私の可愛いフローリィ。君ならできるよ」
父だけが。
母も、祖父も、祖母も彼女が医者になるのに反対した。女に医者が務まるはずはない、と。女だてらになんということを、と。
血筋のおかげか成績は優秀だったが、それでも周囲と同じスタートラインに立つことすら難しかった。
「ねえ……可愛いフローリィ? お医者さまになる必要なんてないのよ? そんなにお勉強してどうするの?」
「でも、お母さま……」
「看護婦になればいいじゃない、ね? 女の子がそんなに賢くなったっていいことないわ」
母はこの調子だし、祖母はもっとひどかった。おまけにそれを聞きつけた父が激怒する始末だ。手に負えない環境だったと、今なら自信をもって断言できる。
それでも女は進学し、医学校を卒業し──学長とその息子、つまり祖父と父の壮絶な権力バトルだったことは想像に難くない──生まれ育った建物に、今度は新米医師として足を踏み入れた。
それで環境が変わるはずはない。
コミュニティに踏み入ってきた異物に医師たちは強い反発を見せた。学生のうちはほとんど同年代ばかりだったが、病院で権力を持っているのは年嵩で頭の固い層だ。おまけに「女だてらに」と看護師集団からも攻撃が飛んでくる。
それでも彼女は頑張った。しっかり実力を示せば、女でも変わりなくやれることを示せば、きっといつか認められると思った。逆風の中で働くのは辛く苦しかったけれど、だって医者は父が勧めた仕事だった。人を助ける神様みたいな仕事だと思った。
思っていた。
働いて、働いて、働いた。押し付けられる雑用も全部やったし、やたらと頻繁に回される当直からも逃げなかった。上司からも患者からも怒鳴られる理不尽にも耐えた。医者は大量にいるはずなのに、局内でなぜか彼女だけが目が回るほど忙しかった。深夜になってやっとその日初めての食事を摂ることがざらにあった。
仕事の量だけでなく内容も最低なものだ。人を助けるだなんて誰が言い出したのだろう。彼女たちがしていたのはただ漫然と治療を引き伸ばすことだ。効果はあるが最善ではない治療を繰り返す。患者の通院は長引き、法外な治療費を払い続ける羽目になる。絞り取れる金が増える。病院全体にその腐った習慣は蔓延っていて、普段からまともな立場のない女医はとても逆らうことができなかった。
味方はいなかった。父でさえも。
「お父さま……あの、ちょっと相談があって……」
「みんな頑張っているんだよ、フローリィ」
「……お父さま、」
父は娘を助けてくれなかった。当時は不思議で、悲しく、また憤ろしくてならなかったが、今ならわかる。
社会の価値観に個人で勝つことはできないし、医者は神ではない。父もこれ以上祖父と軋轢を作りたくなかったのだろう。せっかく院長の直系として将来の玉座が約束されているのだから。
だがわかったところで現実は変わらない。できるのは目の前の現実に必死に対処しながら疲れ果てることだけ。当時もそうだった。
彼女を最後に待っていたのは、とある宴会だった。何をダシにしたのだからもう忘れてしまったが、たぶんどうでもよかったのだろう。そもそも知らされていたかも怪しい。
呑めや歌えやの大宴会だった。医者は老いから若きまで揃っていて、フローレンスはどうやら医者と見なされていなかったから、着くべき席もなく下女のように給仕と酌を繰り返していた。
疲れ果てていた。空腹だった。ものも食えずに酔っ払いの相手をしているくらいなら帰って眠りたかった。
だがそこで帰らなかったことが──それを許されなかったことが、彼女の運命を変えたと言えるのかもしれない。
「おい小娘!」
「……はい、先生」
女を呼びつけたのは祖父や父ではなかったが、それなりに地位の高い医師だった。その場にはもちろん親類もいた。
「ひ……っく、どうしようもない半人前のお前にこれをやろう! 構いませんなベンジャミン先生?」
祖父はいかにも無関心そうに頷いた。同時に足元に投げつけられたのは、ソフトボールよりひと回り大きいくらいの、毒々しい色と模様をした果実だった。
「忌々しいことに〝オペオペの実〟ではなかったのでな! あの実に数段劣るどうしようもない果実だそうだが、お前にくれてやろう」
「それを食べればちょっとはマシな医者になれるかもな! ハハハ!」
「違いない!」
周囲がどっと嘲笑に沸いたのを覚えている。
フローレンスはぼんやりとその悪魔の実を見つめて、それからゆっくり膝を折った。
悪魔の実。口にすればこの身体は根本から変わり果てて、もう風呂にすら入れなくなってしまう。
でも──それでも。
彼女はその奇妙に柔らかい表面に歯を立ててかぶりついた。
とても、とてもお腹が空いていた。
その水っぽい消しゴムがあまりにも──脳の海馬をぶん殴るほど不味かったがために、そして弩級のストレス下にあったために、フローレンスは性格が一変するほどの大爆発を起こした。
初めて声を荒げて母と口論し、父を怒鳴りつけ、そして使うあてのなかった小遣いとわずかな荷物を持って、彼女は辺境の集落までやってきた。
あんな環境で磨り潰されながら血筋にしがみつくよりも、見捨てられた地で善い医者になりたいと思った。たとえこの国の王さまを敵に回しても。
それが数年前のことだ。以来親族とは絶縁状態にある。