Doctor Strange: Chains of Revelation   作:Mr.グッドマン

11 / 14
ドクター。獣を狩る。

魔物が再び地を蹴った。

細い脚とは思えない破壊力で、地面がえぐれるほどの勢いだった。

 

それがまっすぐ、ブルダに襲いかかる。

 

「来な……ッ!」

 

彼女は大地を踏み締め、両腕を交差させて正面から受け止めた。

激しい衝突音。肉と甲殻がぶつかる、嫌な音が響く。

 

「ぐっ……のわッ!」

 

ブルダが半歩、足を滑らせる。

腕を貫かんとする爪。それでも彼女は、動かなかった。

いや――動けなかった。それほどに相手の圧力が強い。

 

「……感謝するぞ、ブルダ」

 

私は小声で言い、手を広げる。

 

掌の前に、紅くねじれた魔力の螺旋が浮かぶ。

 

「サイトラックよ……“束ねよ”……!」

 

だが、魔物の動きは予想以上に速かった。

回避と跳躍を繰り返し、魔力の構築が追いつかない。

 

赤い帯が空間に浮かび上がるが、定着しない。

相手の動きが速すぎる。魔術が“掴むべき軌道”を読みきれない。

 

「……まだコントロールが甘いか」

 

私は構築を中断し、魔力を呼び出し直す。

焦って撃っても当たらない。ならば――

 

その横で、ジクが地面を這うようにして銃へと戻っていた。

 

すでに肩を軽く脱臼しているらしく、片手で銃を抱え、

もう片方の手で懐から弾を取り出す。

 

その動きに、無駄はない。音もない。

 

「……間に合えよ……」

ジクが低くつぶやいたのが聞こえた。

 

私は再び魔力を走らせながら、視界の端でそれを見ていた。

 

魔物が宙を駆ける。

 

跳躍、軌道転換、すれ違いざまの爪撃――

まるで意思があるかのような動きだった。だが、それは違う。

 

私は見ていた。

その動きには“意志”がなかった。

あったのは、反射と本能だけだ。

 

「……なるほど、そういうことか」

 

私はゆっくりと手を広げた。

 

「脳がない。“自分という存在”がない。

つまり、予測不能でありながら――“必ず法則に従う”」

 

跳躍角度、攻撃範囲、回避距離。

全て、反射に最適化された動きだ。

 

ならば、それを“枷”にすればいい。

 

魔力が、掌に絡みついた。

 

「――お前の狩りの動きは、もう見切った」

 

私は跳躍前の“膝の沈み”に合わせ、空間へ術式を置いた。

 

赤い鎖が――今度こそ、地に縫い留められるように展開される。

 

「サイトラックよ!」

 

空間がねじれ、紅の鎖が放射状に弾けるように伸びた。

 

魔物が跳ぶ。

 

だが、飛んだ先に、“帯の円”が待っていた。

 

一瞬、空中でねじれようとしたその体を、

四方八方から絡みつく“束縛”が封じた。

 

「――ッガッ……!」

 

鎖が身体を締め上げ、翼のような鱗羽も、砕けていく。

 

私は息を吐いた。

 

「仕留めろ、ジク」

 

地面で、すでに銃を構えていたジクが、一言だけつぶやく。

 

「……借りたぜ、ストレンジ」

 

引き金を引く音が、やけに静かに聞こえた。

 

銃口から放たれた弾丸は、

拘束された獣の頭部に、寸分の狂いもなく突き刺さった。

 

獣はそのまま、崩れるように地に落ちた。

 

動かない。

もう、跳ばない。

 

「……決まりだな」

 

私は魔力を解き、ゆっくりと歩み寄った。

 

ブルダが、重い呼吸をしながら笑っていた。

 

「やるじゃん、ドクター。

これぞ頭脳戦ってやつかね?」

 

私は肩をすくめる。

 

「相手が愚かなら、それを利用しない手はないだろう」

 

ジクは銃を肩にかけ、もう一度弾の残数を確認していた。

 

誰も浮かれなかった。

だが、確かに“勝った”という空気があった。

 

私たちは、“初めて”この世界で、

自分たちの意思で、獣を狩った。

静寂だけが、森を包んでいた。

 

倒れた魔物の躯は、

なおも不気味な熱を放ちながら、

緩やかに、硬直し始めている。

 

私は一歩近づき、その異形を見下ろした。

 

バッタのような節足、

狼のような筋肉のしなやかさ、

そして表皮を覆う金属光沢の鱗羽。

 

生物というより、“機械と肉の中間”のような存在だった。

 

ジクは無言で腰を下ろし、

腰の皮剥ぎナイフを抜いた。

 

刃渡りは短く、わずかに湾曲している。

“切る”ためではなく、“剥がす”ために最適化された刃だ。

 

彼はまず、

魔物の胸元――脚の付け根にあたるあたりへ、慎重に刃を入れた。

 

ザリ、ザリ、と微かに皮が裂ける音が響く。

 

「……鎧みたいなもんだな、こいつの外骨格は。」

 

ジクがつぶやきながら、

脚の関節部を外し、剥離点を探る。

 

皮膚のすぐ下には、

粘り気のある透明なゼラチン質と、

弾力のある筋繊維が層になっていた。

 

それはまるで、自然界の設計とは思えない、

どこか“人為的なもの”すら感じさせた。

 

ブルダが後ろから覗き込む。

 

「うぇぇ……生臭っ……」

 

彼女は顔をしかめながらも、しっかりと観察している。

こういうところ、彼女は意外と肝が据わっている。

 

ジクは一切無駄のない動きで、

最も価値がありそうな部分――

背中の鱗羽を選び出した。

 

刃先をねじ込んで、

外骨格の縫合部を少しずつ外していく。

 

「ここだ。外すなら……この接合部からだ。」

 

力任せではない。

繊細に、そして確実に、

羽根と肉を分離させる。

 

やがて、金属光沢を帯びた一対の羽根が、

しゅるりと音を立てて抜き取られた。

 

それは硬質でありながら、しなやかだった。

 

私は近づき、

羽根の断面をじっと観察した。

 

「……中空構造か。

軽さと強度を両立させているな。

羽蟲獣という名は、あながち的外れでもないか。」

 

「売れるか?」

私は手短に問う。

 

「売れるだろう。

細工物にも、武具にも、利用される素材だ。」

 

ジクはそう答えた。

 

少なくとも、この羽根だけで

宿代5日分くらいの交易は成立するという。

 

続いて、ジクは腹部へと刃を滑らせる。

 

内臓を傷つけないように、

丁寧に筋膜を切開する。

 

露出した内側には、

紫がかった肉塊と、銀色に光る軟骨様の器官が見えた。

 

普通の生物にはない――

明らかに、異質な構造だった。

 

ブルダが眉をひそめる。

 

「うわ……なにこれ……。

普通の獣なら、臓器ってもっと……まともな形してない?」

 

私は首を振る。

 

「……これは、異界由来かもしれないな。」

 

「つまり?」

 

「“この世界の生態系”じゃない。

外から来た何か――あるいは、昔に混ざった“異質”の血筋だろう。

こういったものは何度も経験している。」

 

ブルダが肩をすくめた。

 

「つまり、化け物ってことね。了解。」

 

ジクは羽根、外骨格、数点の素材を剥ぎ取り、

残りの躯体を手早く埋めた。

 

「臭いで他の獣を呼び寄せたら、面倒だからな。」

 

それだけ言うと、彼は土をかけ、

小さく、目印をつけた。

 

森の空気は、すでに夜の気配を孕んでいた。

 

木々の葉は暗く沈み、

昼間の光の筋はもう跡形もない。

 

私たちは、獣の素材を背負い、

獣道をたどりながら町へと引き返していた。

 

ジクが先頭、ブルダが中央、私が最後尾。

 

誰も口を開かない。

ただ、土を踏む音と、夜風に揺れる枝のざわめきだけが、耳に届いていた。

 

……それが、“いつもの自然の音”だと思い込むには、何かが違っていた。

 

私は歩を緩め、ほんの僅か、首をかしげる。

 

風は吹いていた。

枝も揺れていた。

 

だが――その中に、

“揺れていない何か”が混じっている。

 

まるで、

葉のざわめきに溶け込んだまま、こちらを見ている存在がいるかのように。

 

私は何気なく、歩きながら背後を振り返った。

 

月光に照らされる森。

揺れる草、影、風――

 

……そして、何も。

 

「………………」

 

ジクとブルダは、気づいていない。

この沈黙が、ただの夜の静けさだと思っている。

 

私は再び前を向く。

 

気のせいではない。

この違和感は、“人間なら持ちえない気配”だ。

 

意識を集中する。

空気の微細な震えを読む。

 

けれど、掴めない。

 

獣の気配でもない。

人の気配でもない。

 

ただ、“見ている”だけ。

何かが、こちらの存在を――冷たく、測るように見ている。

 

私は静かに呼吸を整えた。

 

「……焦るな。

今、無理に探ろうとすれば、逆に動きを悟られる。」

 

内心、そんな風に自分に言い聞かせる。

 

今、こちらができることはただ一つ。

 

――知らないふりをして、前に進むこと。

 

だから私は、

微笑みすら浮かべて、足を止めなかった。

 

風は森を撫で、

月は、ただ黙ってそれを照らしていた。

 

 

ー ー ー

 

 

旅人の止まり場へと戻った頃には、

すっかり空が濃い藍色に沈んでいた。

 

幾つかのかがり火が点され、

夜営する旅人たちのざわめきが、止まり場に響いていた。

 

私たちは、疲れた体を引きずりながら中に入る。

すぐに、見慣れた姿が目に入った。

 

トレムとカトラだ。

 

トレムは小さな荷車の陰から顔を覗かせると、

ぱっと蔦を伸ばしてこちらに駆け寄ってきた。

 

「……ト、レム!」

 

私はしゃがみ、手を差し出す。

彼女は蔦をぺたりと巻きつけ、安心したように身を寄せた。

 

「無事だ。問題はない。」

 

カトラも荷車の影から姿を現した。

 

「……生存確認。お疲れ様です、主。」

 

彼女は無表情のまま、でもどこか機械的な安堵を漂わせていた。

 

ジクが骨頭をはめ直した肩を回しながら、

 

「ふぅ、何とか死なずに済んだな」

 

と苦笑する。

 

ブルダはどっかと腰を下ろし、

 

「くっそー……肉体は完璧だけど、相手が速すぎたね!」

 

と大袈裟にため息をついていた。

 

私は、持ち帰った素材袋を荷台の脇に置き、

腰を下ろす。

 

かがり火の灯りが、じわりと暖かい。

 

トレムが私の隣にちょこんと座り、

小さな蔦で地面に円を描いて遊び始める。

 

カトラは荷車の隅に座り、

データ整理のふりをしながら、こちらに片耳を向けていた。

 

「しかし……」

 

ブルダがもぐもぐと乾いたパンをかじりながら言った。

 

「アンタ、やっぱ頭いいよね。

あんなトンデモ生物、よくあんな縛り方できたわ。」

 

私は苦笑する。

 

「単に、動きのパターンを見抜いただけだ。

頭がいいわけじゃない。経験がものを言っただけだよ。」

 

ジクがぼそりと付け加えた。

 

「頭がいいってのは、ああいうのを“生き延びながらできる”奴のことを言うんだぜ。」

 

ブルダが大きく頷く。

 

「そうそう!そういうのを“頭脳派”って言うんだよ!」

 

私は肩をすくめた。

 

「皮肉な話だな。

こっちとしては、頭で考える暇もなかったんだが。」

 

トレムが、地面に描いた円をぐるぐる回している。

私がそれを見下ろすと、彼女は小さな声で言った。

 

「……ト、レム。

ト、レム。トレム。」

 

私は微笑んだ。

 

「そうだ。トレムだ。

よく頑張って待っていたな。」

 

彼女は、ほんの僅かに、得意げに胸を張った。

 

その様子に、ブルダとカトラが同時にふっと笑った。

 

束の間の、静かな夜だった。

 

かがり火のそば、

私たちは荷物を下ろして、簡単な食事を囲んでいた。

 

乾いたパン、干し肉、少しの水。

決して豪勢ではないが、腹を満たすには十分だった。

 

その時、ブルダがぽつりと呟いた。

 

「……しかしさ。

トレムって、あんたにやたら懐いてない?」

 

私は口にしていたパンを一瞬止める。

 

トレムは、

私の隣に座ったまま、蔦を小さく揺らしていた。

そして、ブルダの言葉を聞くと――

 

ぴくり、と反応した。

 

「ほら、見てみなよ。

さっきからずっと、そばに張り付いてるじゃん。」

 

「……ああ。俺も思ってた。」

 

ジクが、無造作に頷く。

 

「トレムが誰かにあそこまで寄るなんて、思わなかったな。

 ……少なくとも、鉱山にいた頃はな。」

 

トレムは、顔を隠すようにフードをぎゅっと引き寄せる。

 

その動きがまた、露骨に“満更でもない”雰囲気を醸し出していた。

 

私は、肩をすくめた。

 

「……まあ、偶然だろう。

私は別に、子どもを懐柔するような技術は持っていない。」

 

「むしろ、どちらかと言えば苦手な部類だ。」

 

その時、カトラが静かに口を挟んだ。

 

「診断します。

 推定信頼度82%。行動選好傾向分析、主に対して高位層依存傾向あり。」

 

「……要約します。

 トレムは、主を“好き”です。」

 

ストレートすぎる診断に、私は思わず咳き込んだ。

 

ブルダが盛大に吹き出す。

 

「ぷっ……あはは!

 カトラ、もっとオブラートってものを覚えようよ!」

 

ジクも苦笑しながら、

「まぁ、事実を直球で言うのがコイツの流儀だな」と言った。

 

私は何も言わず、隣のトレムをちらりと見る。

 

彼女は――

フードの中で、真っ赤になっているように見えた。

 

私は小さく息をつく。

 

「……照れ隠しも大変だな」

 

そう呟くと、トレムはそっと私の袖を引っ張った。

 

その細い蔦は、

たぶん、たった一つの答えを言っていた。

 

“――ここに、いたい”

 

私はそれ以上、何も言わなかった。

 

ただ、静かに、蔦を優しくほどいた。

 

 

ー ー ー

 

 

夜が、街を覆っていた。

 

私達はブルダとトレムとカトラに待機するように言い、夜市に来ていた。

 

かがり火と簡易灯籠の灯りが並び、

露天商たちの声が、細く、しかし確かに飛び交っている。

 

小さな広場に並ぶのは、

干し肉、果実酒、薬草、手作りの布製品――

果ては、いかがわしい魔道具じみたものまで。

 

どこか“本物と偽物の境界が曖昧な市場”。

 

その中を、私はジクと二人で歩いていた。

 

「……しかし、思ったより賑わっているな」

 

私は周囲を見回しながら言った。

 

ジクは、銃を外套の中に隠すようにして、

周囲に警戒しながら軽く肩をすくめる。

 

「この街じゃ、昼間より夜の方が取引が盛んだ。

 昼は検問があるからな。」

 

「なるほど、規制逃れか」

 

「ま、夜の方が……生きやすい奴らもいるってこった」

 

ジクはそう言って、夜市の喧騒を淡々と眺めた。

 

私たちはまず、商人たちの様子を観察した。

 

武具を並べる店。

野草の束を売る老人。

修繕された防具の詰め合わせ。

 

時折、鋭い視線をこちらに向ける者もいたが、

ジクが一瞥をくれるだけで、彼らは視線を逸らした。

 

さすがだな、と思う。

 

ジクは言葉数は少ないが、

その“気配”だけで、安易な絡みを防いでいる。

 

市場の奥、

比較的人通りの少ない一角に、

私たちが目をつけた露店があった。

 

そこには、魔物素材――

羽、鱗、牙、骨――を扱う商人が、粗末な布の上に商品を広げていた。

 

ジクは短く顎をしゃくる。

 

「……あそこだな。

 売るなら、こういう連中だ。」

 

「値踏みは任せるぞ」

 

私は軽く言った。

 

素材に相場はない。

あるのは、需要と供給、そして“見る目”だけだ。

 

ジクが先に進み、

露店の主人――小柄な、狐じみた顔つきの男に声をかけた。

 

「魔物素材だ。興味はあるか」

 

「……ふむ?」

 

男は素早くこちらを見上げ、

そして目を細めた。

 

「品を見せろ」

 

私はジクに任せ、背後で周囲を警戒する。

 

市場の雑踏。

時折、じろりとこちらを伺う視線。

 

だが、今のところ“危険な匂い”はない。

 

ジクは素材袋から、

羽蟲獣の光沢ある鱗羽と、筋繊維の束を取り出した。

 

男は鼻を鳴らし、

片手で羽を持ち上げ、光にかざした。

 

「……悪くない。こいつぁ珍しいな。

 どこで拾った?」

 

ジクは表情ひとつ変えずに答えた。

 

「近くの森さ。」

 

男はにやりと笑ったが、それ以上詮索はしなかった。

 

「……いいだろう。

 羽一対で――銀貨三十枚。

 筋繊維込みなら、四十。」

 

私は横目でジクを見る。

 

彼は小さく首を横に振った。

まだ交渉の余地あり、というサインだ。

 

男は、

わざとらしくため息をついた。

 

「ったく、まったく世の中には運のいい奴がいるもんだな。

 こんな上玉、たまたま拾っただけで……銀貨四十枚だなんてよォ」

 

口元に笑みを浮かべながら、

舌打ちするように言葉を継ぐ。

 

「ま、欲をかくなよ。

 これ以上吹っかけたら……

 “お上”に無許可の狩猟罪でしょっぴかれちまうかもな?」

 

男の視線が、

明らかにこちらを見下していた。

 

路傍の小物か、

あるいはよそ者と見くびったのだろう。

 

……実に、下種な笑顔だった。

 

ジクが口を開こうとしたが彼の動きを手で制する。

 

私は、静かに呼吸を整えた。

 

そして、微笑む。

 

ゆっくりと、一歩だけ前に出た。

 

「……なるほど。

 ずいぶんと熱心な“公共サービス”だな。」

 

男がきょとんとする。

 

私は続けた。

 

「旅人に安く買い叩きを提案し、

 断れば官憲に密告する。

 そうやって両方から利益を得るわけだ。」

 

「……え?」

 

「いい商売だ。

 感心するよ。」

 

私はさらに、

冷たく微笑んでみせた。

 

「だが、忠告しておこう。

 ――“相手を選べ”」

 

男の顔から、

さっと血の気が引いた。

 

ジクは何も言わなかった。

ただ、静かに銃に触れたまま、男を見つめていた。

 

ブルダはいない。

だが、必要ない。

 

今ここにある空気だけで、

こちらが“引かない”ことは十分に伝わっている。

 

男は、額ににじんだ汗を袖で拭った。

 

「……わ、わかった。

 銀貨六十枚だ。羽根と筋繊維込みで。」

 

私は小さくうなずく。

 

「最初から、そのくらいの誠意を見せていれば、無駄な話はしなくて済んだのに。」

 

男は黙って袋から銀貨を数えはじめた。

 

銀貨の袋を受け取ると、

私は何も言わずに踵を返した。

 

男はなにも言えなかった。

 

ジクが、少しだけ笑いを含んだ声で言った。

 

「……お前の方が、よっぽど交渉上手じゃねぇか」

 

私は肩をすくめた。

 

「違うな、ジク。

 私は“交渉”が得意なんじゃない。

 ――“相手を黙らせるのが得意”なだけだ。」

 

ジクがくっくっと笑う。

 

「どっちも似たようなもんだろ」

 

「いや、違う。

 君の方がずっと平和的だ。

 ……私のやり方は、あまり感心されるものじゃない」

 

私は静かに、

それでもどこか好意を滲ませながらそう言った。

 

ジクは軽く頭を掻いた。

 

「……ま、悪くはなかったさ」

 

露店の列を、

銀貨の重みを手に感じながら歩いていく。

 

香辛料の匂い、

焼き立てのパンの甘い香り、

獣皮をなめす臭い――

 

雑多な匂いが、夜の空気を満たしていた。

 

そんな中。

 

ふと、私は足を止めた。

 

露天の一角。

がらくたのように雑に積まれた、古びた品々。

 

その中に、

奇妙な“気配”を持つものがあった。

 

――一冊の本。

 

表紙は煤け、背表紙はほつれ、

文字のほとんどは読めない。

 

だが、

それは確かに、“ただの本”ではなかった。

 

私は無意識に、手を伸ばしていた。

 

「それに興味があるのかい?」

 

かすれた声が、私の耳に届いた。

 

顔を上げると、そこにいたのは――

背を曲げ、皺だらけの顔を持った老婆だった。

 

目は細く、まるで目を閉じているように見えたが、

その奥から鋭い光が覗いていた。

 

私は本を持ち上げ、

静かに訊ねた。

 

「……少し、見てもいいか?」

 

老婆は、歯の抜けた口でにやりと笑う。

 

「お好きに。」

 

私は立ったまま、

その本をゆっくりと開いた。

 

ページは、乾いた音を立ててめくれた。

中には、粗雑な絵と、子供でも覚えられそうな簡単な呪文らしきものが描かれていた。

 

炎を出す。

小石を浮かせる。

風を起こす。

 

――そのどれもが、

笑ってしまうほど稚拙で、幼稚だった。

 

魔力の流れもなければ、構成式もない。

あるのは、ただの「それっぽい言葉」と、「ありきたりな挿絵」だけ。

 

私は指先で、ページの端をそっと撫でた。

 

そのとき、気づいた。

 

わずかに滲んだインク、

重ね書きされた痕跡。

 

……この本は、

もとはもっと“違うもの”だった。

 

誰かが、

魔法の“本物”を、意図的に、子供向けの絵本に作り替えた。

 

私は目を細めた。

 

この世界では、

魔法は――恐れられ、隠され、歪められている。

 

“存在しないこと”にされたかったのだ。

 

だからこそ、

こうして、“魔法”を“無害なおとぎ話”に塗り替えたのだろう。

 

……稚拙な仕上がりだが、

背後にある意図だけは、重く伝わってきた。

 

私は本を閉じ、

老婆に向き直った。

 

「……これを、買いたい」

 

老婆はにんまりと笑った。

 

「ほう、お目が高い。

 そいつぁ、銀貨十枚だよ。」

 

「銀貨五枚だ。」

 

私は即座に切り捨てた。

 

老婆は少し眉をひそめたが、

すぐにまた笑顔に戻る。

 

「……いいだろう。

 お若いのに、なかなかやるねぇ。」

 

私は銀貨五枚を渡し、

その本を懐に収めた。

 

たかが贋作。

だが、そこに宿った“歴史の痕跡”は、私にとって何より価値があった。

 

ジクが隣で小声で言った。

 

「……ただのガラクタにしか見えねぇけどな」

 

私は肩をすくめる。

 

「ガラクタとは、持つ者によって価値が変わるものさ」

 

「それがゴミか、鍵かは――これから確かめるだけだ。」

 

銀貨袋と古びた本を懐に収めて、

私たちは夜市を離れ、小道を歩いていた。

 

空気はまだ微かに騒がしい。

かがり火の灯りが揺れ、どこかから酒盛りの笑い声が聞こえてくる。

 

だが、私たちの間には、静かな沈黙が流れていた。

 

それを破ったのは、ジクだった。

 

「……お前、魔法が好きなんだな」

 

夜の風に吹かれながら、

彼はポツリと、そんなふうに言った。

 

私は少しだけ笑った。

 

「好きか。

 ……そうだな、否定はしない。」

 

「魔術は、私にとって――

 力であり、救いであり、呪いでもあった。」

 

「……だから、今さら捨てる気にもなれない。」

 

ジクはしばらく黙っていた。

足元の小石を蹴りながら、ぼそりと呟く。

 

「……俺にはわからねぇ感覚だな」

 

「魔法は、脅威だった。

 この国じゃ、“異端”と同義だった。」

 

「……だけど、今なら、

 少しだけわかる気がする」

 

彼はふっと、煙を吐くように息をついた。

 

「――自分にしかできないことがあるってのは、

 悪くねぇよな」

 

私は横目で彼を見る。

 

「……ジク、お前にしかできないことだって、あるだろう」

 

ジクは、肩をすくめた。

 

「銃を撃つだけのネズミだよ」

 

「だが、お前は外さなかった」

 

私はそう言った。

 

それは、慰めでも、皮肉でもない。

ただの、事実だった。

 

しばらく、二人は何も言わなかった。

 

かすかな月光が、

瓦礫まじりの道を淡く照らしていた。

 

私は、懐の本に手をやる。

 

贋作。

改竄された魔法。

歪められた世界。

 

けれど、

そこに微かな真実が隠れているのなら――

私は、掘り起こしてみたいと思った。

 

この世界で、

“本物”を見つけるために。

 

ジクが小さく笑った。

 

「……妙な連中と組んじまったな、俺も」

 

私は苦笑する。

 

「まだ間に合うぞ。

 ここで私を裏切れば、金貨くらいは拾えるかもしれない」

 

ジクは、首を横に振った。

 

「……めんどくせぇ。

 それに、今さら別れる気もねぇよ。」

 

「どうせなら、最後まで付き合ってやるさ。

 “ドクター”。」

 

彼は、茶化すようにそう呼んだ。

 

私は鼻で笑いながら、

静かに歩を進めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。