Doctor Strange: Chains of Revelation 作:Mr.グッドマン
石畳に残る“ドン子”の爪痕を背に、
私たちは再びメイン通りを歩き出した。
朝が終わり、昼になる頃の通りは賑わいを増し、
露店からはパンの焼ける香ばしい匂いや、
乾いた果実の香りが風に乗って流れてくる。
それを横目に、私はふと思った。
「……そういえば、トレムとカトラは何をしている?」
ジクが眉をひそめる。
「“見張り”のカトラに、“日向ぼっこ”のトレムだったか?」
「いやいや、今は宿の裏で遊んでるよ」
と、フードを脱ぎかけたブルダが明るく返した。
「さっき出るときに見たんだ。
トレムが蔦で輪っか作って、
カトラがそれを寸分違わず切断して遊んでた」
私は思わず肩をすくめた。
「……平和な拷問の訓練みたいなことしてるな」
ジクが吹き出す。
「まさに“静かに狂ってる”コンビだな」
ブルダは笑いながら言った。
「でもさ、あの子たち、見てるとちょっと落ち着くよ。
あたしらがこうしてバカやってる間も、
“いつもの時間”を過ごしてる感じ?」
私は少し目を細めた。
「……確かに。
“何気ない日常”ってのは、戦場よりも貴重なものかもしれないな」
通りの向こうでは、
小さな子どもたちが布ボールを投げ合って笑い、
パン屋が焼きたてのパンを並べている。
私たちの歩調も自然とゆるやかになっていた。
昼下がりの陽が屋根瓦に反射し、
静かだった旅人の止まり場が、
妙な緊張感を帯びていた。
通りを行き交う旅人たちが、
目を合わせないように急ぎ足で歩いている。
その視線の先――
止まり場の酒場の一角。
無骨な男たちが数名、
“黒革のマント”と“灰銀色の金属バッジ”を身につけて席を陣取っていた。
「……見覚えがある」
と、ジクが小声で呟いた。
彼の眉がわずかに震えていた。
「“グロース・エングレイブ私兵団”……
あれは、ゼーリグの外に拠点を持ってる連中だ。
表向きは交易の護衛隊ってことになってるが、
実際には“逃亡奴隷を捕まえる専門部隊”……」
私は視線を逸らしつつ、テーブルの陰に身を潜めた。
「国外駐留か……連邦の“法の隙間”を突いたわけだな」
ブルダは黙って“ドン子”を握ったまま、
歯を食いしばっていた。
隊の中心に座っているのは、
筋骨たくましく、傷の走った男。
その目は、どこか軍人というより“執行者”のような冷たさを帯びている。
背には鞘に収めた巨大な鉄鉈が揺れていた。
「まだこちらの顔は割れている。」
私は囁いた。
「どこかで目撃されれば……」
「奴らは嗅ぎつける。
一度“資産逃亡”の情報が回れば、
ゼーリグでは“犬”よりよく追いかけてきやがる。」
ジクの声は低かったが、確かに震えていた。
「何が厄介って……
あいつら、“ここでは殺せない”ってわかってるんだ。
マルヴィアでは連邦警備隊も見てる。
だから、“目の前で手は出さない”が、“目星はつける”。」
食堂の柱の陰から、
私たちは身を屈めるようにして通りを見ていた。
「……ッ、あの男。こっちを見てる」
ジクの声が低く震える。
その視線の先――
黒革のマントの男が、こちらをじっと凝視していた。
目が合ったわけじゃない。
でも、あの目は……
“記憶と照合する目”だった。
「……まずいな」
私は帽子のつばを少し下げ、
静かに立ち上がった。
「ここはもう、“安全地帯”じゃなくなった。
すぐに出るぞ。ジク、銃の回収を。
ブルダ、君は店の裏へ――カトラとトレムを呼びに行ってくれ」
「了解。ドン子、出番じゃないといいけどね」
「なるべく黙っていてくれ、頼むから」
通りを抜け、
私たちは銃砲店へと早足で戻った。
扉を開けた瞬間、
カウンターの奥で油を拭っていた店主が顔を上げた。
「来たか。もう仕上がってる。分解して磨いたぜ。
ほら、これが“お前さんの相棒”だろ?」
ジクは無言でうなずき、
整備の終わったライフルを受け取った。
金属部分は鈍く、冷たく輝いていた。
「急いでるようだが、何かあったのか?」
「……旅人に、少し“厄介な旧知”が混ざっていてね」
私は短く答えた。
店主は何も聞かず、ただうなずいた。
「なら、南門は見張りが薄い。
裏通りを通れば、目立たず出られる」
「恩に着る」
ブルダと合流したのは、ちょうどその直後だった。
「カトラとトレム、もう裏手で待機させてある。
あたしらが戻るの見て、察したみたい」
私は軽く頷いた。
「じゃあ出ようか。」
通りの向こうでは、
黒マントの男が露店の店主と話をしていた。
その口元には笑み。
だが、視線はずっと――こちらの通りの奥を見つめていた。
――パンッ!!
乾いた破裂音が、耳を裂いた。
宿の扉を開けた瞬間、
木の柱に銃弾が食い込んだ。
粉塵と破片が飛び散り、
私たちはとっさに身を伏せた。
「……ッ!?」
ブルダが咄嗟にカトラとトレムを庇い、
“ドン子”を持ち直して地面に低く構える。
「ちょっと待て――!」
私は地面に伏せながらジクを睨みつけた。
「殺さないんじゃなかったのか!?
“ここでは手は出せない”って言っただろう!!」
ジクも目を見開いていた。
状況が自分の認識と食い違っていることに、
明らかな混乱を見せている。
「……わからない!!
マルヴィアじゃ、“表で”殺しなんか起きねぇはずだ!!
なのに……こいつら、まるで“最初から殺るつもり”で――!」
パン!パンパンッ!!
続けざまに銃声が鳴り響いた。
扉の枠が割れ、窓のガラスが砕ける。
「遮蔽を確保する!」
カトラが即座に声を上げる。
「外に一名、南東側の屋根上にもう一名。
構造上、三方向から挟み撃ちにされる恐れ――行動を推奨します、主。」
「逃げるぞ!ブルダ、左手通路!」
「了解ッ!“ドン子”、暴れていいってよ!!」
ブルダが駆け出す。
石畳を砕くような足音が、
静まり返っていた通りに戦闘の合図を刻んでいった。
「……どうする気だ、ジク!」
「――わかんねぇけどよ、
このまま止まったら“消される”ってことだけは分かる!!」
ブルダが扉を蹴り破り、
私たちは連なるように裏路地へと飛び出した――その瞬間だった。
「……あ?」
影に、いた。
黒革のマントに覆われた男たち。
誰よりも先に飛び出していたジクが一瞬、足を止めた。
「伏兵……ッ!先回りしてやがったか!」
銃口が、私たちに向けられた。
指が引かれる音が聞こえる。
瞬間、私はジクの肩を掴み、反射的に背後へ引き戻す。
パンパンッ!!
銃声が重なり、路地に火薬の煙が立ち込めた。
「この……!」
ブルダが地面にモール“ドン子”を叩きつける。
地が鳴り、埃が舞う。
蔦が壁を作り、カトラの影がひとつ、右の敵に迫っていた。
だが、私の前にも一人。
標準的な体格、革鎧に片手剣。
抜き身を構えたまま、低い姿勢で滑り込むようにして接近してきた。
(落ち着け)
剣を振り上げる前に、私は一歩踏み出し、
手首を捻るようにしてその肘を掴んだ。
そして、相手の勢いを利用して重心を崩す。
肘を外に引き、内側へ滑り込むように回り込むと――
身体が空を舞った。
相手の。
私は一切叫ばず、呼吸も荒げず、ただ冷静に技を流す。
ドン、と土の上に背中から叩きつけられた敵兵が呻いた。
「読まれていたな。
逃げ道をこちらに誘導した上で、待ち構えていたか……」
私は眼鏡を指で押し上げるようにして、視線を鋭く路地奥へ向けた。
(ここからは、追われる側ではなく、“応える側”だ)
「敵数確認。主の東方に一名後退中。西角に狙撃。中央に二名。
殲滅可能です」
「なら、躊躇うな」
「ドン子、突撃いくよッ!!」
ブルダが煙の中へと吠える。
「処理開始」
カトラが冷たく呟きながら、もう一人へと迫る。
トレムが無言で蔦を地面に這わせる。
私は一つ深く息を吐き、
腰を落とし、次の敵に目を向けた。
ブルダは真正面――
逃げ場のない狭い路地を、真正面から走った。
「おらぁッ!!」
叫びとともにモール“ドン子”を振るう。
私兵の一人が銃を構えるよりも早く、
その頭上に鈍く黒い鉄塊が振り下ろされた。
ガッ――!!
避けたと思った刹那、地面に叩きつけられた衝撃で兵士はよろけ、
そのまま肩口に追撃が入る。骨が砕ける音が生々しく響いた。
「次っ、来なッ!」
ブルダはモールを回転させて体を守りながら、
もう一人の私兵に突っ込む。
だが敵もなかなか――
動きが俊敏で、足元へナイフを滑り込ませてくる。
ブルダはすかさずモールの柄を使って敵の腕を押し上げ、
右膝で鳩尾にカウンターを叩き込んだ。
「舐めんなよ、あたしの腹筋は鋼鉄製だっての!」
一方その頃、ジクは構えたライフルを正確に操作していた。
片膝をつきながら路地の陰に隠れ、
そこから銃口をゆっくりと覗かせる。
「……風下にいるのが運の尽きだ」
引き金が引かれた。
バン――ッ!
銃声が抉り出すように響いた。
私兵の一人が喉を押さえて倒れる。
銃声と煙に包まれ、敵兵は混乱。
ジクはその隙を逃さず、すかさず再装填。
その滑らかな動作は、まるで長年の相棒と語らうかのように自然だった。
「ブルダ、援護は任せた! 正面は割る!」
「任されたァッ!」
トレムはその中でも静かに動く。
音もなく、蔦を地面から這わせ、
敵兵の足元へと絡ませていく。
一本、二本――
地を這う音がわずかに響いた次の瞬間。
敵兵の一人が突如バランスを崩し、膝から落ちた。
そこを狙ってカトラが突進する。
「トドメ、実行」
彼女の細い手から伸びた小さなナイフが、
鎧の継ぎ目を的確に突く。
音もなく、敵兵が崩れ落ちた。
「対応力低下。群れの秩序、崩壊中です」
私は――正面から一人の私兵と組み合っていた。
片手剣で振るわれる刃をかわし、
手首を返して相手の懐に滑り込む。
肩口を撃たれかけたその瞬間、私は肘で顎を跳ね上げ、
そのまま胴を回して肩投げで地面に叩きつけた。
息が漏れる。
「魔術がなくても、医者の知識は生かせるさ。
“人体”というのは、案外壊れやすいものだ」
私は上衣の袖で額の汗を拭う。
カトラが敵の死体をスキャンしていた。
「識別完了。所属、グロース私兵団副隊。構成パターン、地上編制型。
この程度であれば、排除可能」
「……“この程度”がまだいてもおかしくないがな」
火薬の匂い。
鉄の錆。
土に混じった血の臭いが、静かに漂いはじめていた。
そして――
足音が変わった。
ドッ、ドッ、ドッ。
地面がわずかに揺れる。
路地の奥から歩いてくる一人の男。
巨大な鉄鉈を背負い、
仮面のような無表情の顔に、鉄の下顎覆い。
戦場で“物”のように使われる兵士の最終形。
ブルダはその姿を見て、鼻を鳴らした。
「……なんだいあんた。今さら脅かしにきたの?」
男は無言で鉄鉈を抜いた。
刃渡りはゆうに彼女の身長ほどある。
鈍く光る鉄は、切るより“叩き潰す”ための形状。
「……あ、そっち系? なるほどねぇ」
ブルダが“ドン子”を担ぎ直す。
互いの武器が打撃特化、そして質量重視。
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間――
ズドン!!
大地が鳴った。
鉄鉈が石畳を裂き、
ブルダのモールがカウンターのように振るわれた。
ガアァン!!
金属が火花を散らし、両者の腕に伝わる衝撃。
その重量、その速度、そして殺意。
ブルダは笑った。
「――あんた、いいじゃん。ちょっとだけ、あたしの好みかもよ」
男は無言のまま、鉄鉈を構え直した。
地を裂くように、今度は横薙ぎ。
ブルダは**地を蹴って半身を逸らし、**モールで柄を叩きつけるように受け流す。
「悪いね。あたし、体重なら自信あるんだ」
地を這うような接近戦。
鉄と筋肉の応酬。
音ではなく、**“質量の読み合い”**がそこにはあった。
ブルダはその中で、確かに感じていた。
(こいつ、訓練された私兵とは違う。
まるで“失敗作の巨人”みたいな、制御の限界にいる存在……)
ドン子を肩に回し、軸足を入れ替え、
ブルダの次の一撃が、ついに男の胸鎧に命中した。
グガァン!!
金属が歪む音。
男は半歩後退したが、倒れない。
それを見て、ブルダは鼻で笑った。
「やっぱ……あんた、好きだわ」
ブルダの一撃を受けても、
鉄鉈の男は、呻き声一つあげなかった。
代わりに、瞳孔の開きがわずかに震えた。
それが唯一の「反応」――。
彼は胸の鎧にへこみを残したまま、再び脚を踏み出す。
ドッ。ドッ。ドッ。
「やるねぇ……」
そう言いながら、ブルダは少しだけ口角を上げた。
挑発でもなく、冗談でもない。
“純粋な肉体同士の交歓”が、確かに始まっていた。
彼女はモールを下段に構え、
相手の動きを読むように小さく回り込む。
鉄鉈がまた振るわれる。
縦、斜め、横。
そのたびに、大地が音を立てて歪む。
だがブルダは逃げない。
一歩だけ退き、二歩で踏み込み、
膝で地を蹴り、次の一撃を胴に叩き込んだ。
グガァン!!
「ぐ……っ、まだ立つかい……!」
男はわずかに膝を折るが、すぐに持ち直す。
目の光は感情も意思もない。
だが確かに、殺意だけは剥き出しだった。
その時だった。
「ブルダ、下がれ――!」
私が叫んだ。
彼女の背後に回ろうとした伏兵を、
私は木箱を蹴り飛ばして牽制し、
援護に回ろうと身を起こした――その瞬間。
ズズズ……
足元の路地に、微かな振動。
その感触は先ほどの鉄鉈の男とは異なる。
……まるで、
何かが“這いずり出して”くるような気配。
「ッ――!!」
私は駆け出そうとした。
だが、間に合わなかった。
“シャアッ!!”
風を裂く異音。
視界の端から飛び込んできたのは――鞭のようにしなる、細い刃の軌跡。
すんでのところで私は身を引いた。
黒い金属のワイヤーブレードが、
私の頬を掠め、石壁に突き刺さる。
「なに……?」
路地の屋根の上。
そこにいたのは、黒いフードを被った別の私兵。
だがその装束は、明らかに“普通”ではなかった。
細い身体、無機質な面頬、そして静かすぎる動き。
(“兵士”というより……“暗殺者”?)
「ブルダ、こっちは任せろ!」
私は即座に構えを取り、呼吸を整える。
胸元の魔石を握りしめるが――魔術はまだ不安定だ。
ならば、まずは動きで封じる。
相手は屋根から飛び降り、
ワイヤーブレードを手繰りながら、
まるで蜘蛛のように路地を這ってくる。
「……まったく、こっちは休む暇もないな」
私は後ろ手に瓦礫を拾い、相手の足元に投げつけた。
わずかに動きが逸れる。
そこへ一歩踏み込み、
肘で顎を突くように振り上げ――
だが相手は一瞬で体を捻り、ワイヤーを背後から巻きつけてきた。
「……チッ!」
私は即座に膝を落とし、
そのテンションを殺すように地面に伏せる。
金属が耳元で唸った。
ほんのわずかでも反応が遅れていれば、
首が飛んでいた。
(やるじゃないか)
「……ブルダ、“そっち”を任せたぞ。
私は“こいつ”とやる」
その言葉に、背後から笑い声が返ってきた。
「おうとも! そっちの細っこいの、さっさと倒して戻ってきな!」
ブルダは再び、鉄鉈の巨人と向き合う。
二人の“質量の神殿”に対し、
私はこの“刃の巣穴”で、一手ずつ読み合う覚悟を決めた。
――ガンッ!!
金属と金属がぶつかるような音が響いた。
その音の主は、ブルダだった。
“ドン子”を真横から叩きつけ、
大斧を片手にした私兵団の中ボス格――鉄鉈男――と真正面からぶつかり合っていた。
「おおぉらぁああっ!!」
火花を散らしながら振り上げたモールが、
寸前で鉈の腹で受け止められる。
鈍い金属の衝撃音とともに、二人はその場で拮抗した。
鉄鉈男の腕はまるで獣のように太く、
斧というよりも“鉄塊”に近い刃を軽々と振るっている。
「なるほど……筋肉勝負、ってわけか!」
ブルダが口元を歪めて笑う。
だが、次の一撃は早かった。
鉄鉈男が強引に“ドン子”を押し上げ、
その隙を突いて腰から突き上げるようにして斧の柄で腹を打つ――
「……ッくぅ!」
ブルダの体が浮いた。
着地と同時に地面を滑り、後方の瓦礫に背中を打つ。
だがすぐに立ち上がると、口元から血を拭い、
「効いたね、でも……まだまだだよッ!!」
彼女は気合いで立ち直り、
再び“ドン子”を肩に担ぎ、雄叫びを上げながら突進していく。
(……だが、押されてる。あの鉄鉈男、他の兵とは違う)
その瞬間。
――シャッ!
風が切られた。
私の前に何かが落ちる。
それは――
全身を黒布で覆い、漆黒の仮面を被った女兵士だった。
「……おや?」
彼女の口元がわずかに吊り上がる。
「逃亡奴隷……
貴方には少し、付き合ってもらいますよ」
(これは――ただの兵ではない)
私の背後で、鉄鉈の音が鳴る。
そして前方には、仮面の暗殺者――
「……本当に容赦がないな、静かに見逃すことはできないのか。」
私は一歩引き、拳を握る。
黄金の光が、手の甲にかすかに灯った。
だが、彼女はその手元をじっと見て、笑った。
私は構えた。だが、即座に魔術を放つつもりはない。
魔力の制御は未だ不完全――何より、この仮面の女がどれほどの技量を持つのか、見極める必要があった。
彼女の右手が静かに動く。
まるで絹糸をほぐすように――
「……その光、やはり“本物”のようですね。」
その手から伸びていたのは、細く、鈍く光る鋼線。
“ワイヤーブレード”――それは鞭のようにしなり、刃のように裂く武器。
次の瞬間、空気が裂けた。
「ッ――!」
反射的に身を引いた私の頬を、鋼糸がかすめる。
一本の傷が走り、頬に熱が走った。
振り向くと、彼女は既に別の角度へ移動していた。
まるで影のように、足音もなく、滑るように――
(速い……)
“斬撃”は直線ではない。
彼女はワイヤーを踊らせることで、変則的な軌道で攻めてくる。
再び風が唸った。
今度はワイヤーが地を這い、私の足元を狙う!
「くっ――!」
跳ぶ。刹那、足元で火花が散った。
鋼糸が石畳を裂き、そのまま“絡め取る”ように私の足を狙って追いかけてくる。
私は半身をひねって落下を制御し、同時に手を突き出す。
「エルドリッチ・ライト――」
黄金の光が一閃し、刃の如く放たれる。
だが――
「ふふ……その程度で捕らえられると思いましたか?」
ワイヤーが渦を巻くように光を逸らし、彼女は横へ跳んでかわしていた。
身軽だ。まるで魔術の“余波”すら読んでいたかのように。
「やれやれ……本当に容赦がないな。」
私は拳を握り直し、地を蹴る。
接近戦に持ち込む――ワイヤー使いにとって、それは不利な間合いのはずだ。
狙い通り、彼女の腕の動きが一瞬鈍った。
だが、その瞬間。
鋼糸が、鞭のようにしなる。
私の視界の外から、“上”へと放たれたワイヤーが――
(!?)
空中で跳ね返り、真上から私の頭を狙って垂直に落ちてくる!
「っ……!!」
私はとっさに回避する。
次の瞬間、石畳に突き刺さる鋼糸。
小さな石が跳ね、そこが一瞬で“罠”と化したことを知る。
私は跳躍先――瓦礫の陰――に着地しながら、静かに息を吐いた。
「……時間をかけすぎた」
再び視線を戻すと、仮面の女の姿は消えていた。
「そう簡単に逃がす気はない、ってことか」
だが今は――ブルダの援護が先だ。
私は地を蹴り、瓦礫の隙間から戦場へと躍り出る。
「待たせたな。」
背後からの声に、ブルダが振り向く。
「はぁ!? アンタ、どこほっつき歩いてたのさ!」
その顔には、汗と血、そしてほんの少しの安堵が見えた。
鉄鉈男はまだ健在だ。全身から蒸気のような熱気を上げ、ブルダを睨みつけている。
私は拳を握る。黄金の光が、明確に手の甲に灯る。
「次は、二対一だ。押し返すぞ、ブルダ」
「言われなくても……やるよッ!」
ブルダが再び“ドン子”を構え、私は彼女の背を追うように走り出した。
そしてその頭上、静かに瓦礫の影で身を伏せる仮面の女が、鋼糸を指に巻きながら呟いた。
「……“ご主人様”の獲物。
そう簡単には、逃がしませんよ?」
――痛みはまだ残っていた。
仮面の女との交戦の余波、鉄鉈男の圧迫感、そして何より、この世界に染みついた“異質な空気”。
だが――その深淵の底から、何かが“呼んでいた”。
(……門が、開きかけている?)
私の内に響いた感覚は、恐ろしく懐かしく、そして禍々しかった。
マルチバース――無限の宇宙の狭間。
その彼方から、無数の“視線”が私に向けられていた。
ただし、それらは敵意でも好意でもない。あくまで観測者としての、それでいて確かな力を持った存在たち。
(見られている……試されている、か)
私は、拳を下ろす。
そして、ゆっくりと掌を開いた。
そこに――光が“生える”。
黄金の紋様が浮かび上がり、それはやがて触手のように、しなやかに宙を這い始めた。
光の鞭が、空気を裂くように現れた。
それはもはやただの投射物ではない。
意思を宿し、私の思考と共鳴するように伸び、うねり、巻き付こうとしていた。
「……ああ、ようやく戻ってきたな」
ブルダの突撃に合わせ、私はその光の鞭を片手に戦場へ踊り出る。
鉄鉈男の斧が振り下ろされる――
瞬間、私は手を払った。
光の鞭がうなり、斧の軌道を絡め取る!
鈍重なはずの鉄鉈が、その場で止まった。
黄金の帯がその質量を封じ、力を殺す。
「ッ……!?」
鉄鉈男が呻き、腕を強引に振るう。
だが私はその動きに合わせて、鞭を“ほどく”。
次の瞬間、もう一方の手から新たな鞭を展開し――
「はぁっ!」
両手のエルドリッチ・ライトを交差させるようにして放ち、男の肩口を斬り裂いた!
黄金の光が閃き、鉄鉈男の肩が裂ける。
血飛沫が舞い、男の巨体が一瞬よろめいた。
「ブルダ!今だ!」
「分かってるさッ!!」
ブルダの“ドン子”が、勢いそのままに男の腹へ叩きつけられる――
ドガァンッ!
轟音と共に鉄鉈男の体が宙を舞い、瓦礫に叩きつけられる。
砂煙の中で、男が呻き声を漏らしながらも、なおも立ち上がろうとしたそのとき――
私は一歩、彼の前へ進み出た。
鞭は既に私の背後で、まるで生き物のように揺れていた。
「……私の魔術には。
数多の宇宙の知識が、宿っている」
掌をかざす。
複数のマルチバースに同時に接続する、門が開きかける。
「ここに刻め。これは“導入”に過ぎん」
光が閃き、地面に魔法陣が展開される。
その眩さに、さすがの鉄鉈男も顔を背ける――
そして、私はその中心に立ったまま、静かに呟いた。
「ドクターの帰還だ」