Doctor Strange: Chains of Revelation 作:Mr.グッドマン
夜のニューヨークは静かだった。
普段なら魔術の気配に敏感なストレンジも、この夜ばかりは疲れていた。
本当に疲れていた。
もう“スリング・リング”を構える気にもならないほどに。
サンクタム・サンクトラムの地下書庫。
棚という棚には巻物、書物、禁じられた書き換えられた世界の記録が、乱雑に積まれている。
机の上には開かれた一冊の本。
それは“彼自身が書き始めた魔術理論の集大成”であり、
誰にも見せることのない記録だった。
「多元宇宙の拡張性は、すでに観測される領域を超えている。
だが“観測されない知”は、やがて失われるだけだ。」
ストレンジは魔術師でありながら、同時に記録者であった。
知識を“遺す”こと、それが彼に残された数少ない正義だった。
「私が死んだら、誰がこの知識を扱う?
それが“最も悪しき誰か”だったらどうする?」
思考を吐き捨てるように独り言を呟く。
そんな彼の手には、かつて古代の賢者が使ったとされる“魂写の石板”。
意識と記憶、思念の一部を魔術構造体に投影できる装置。
だが、その仕組みは未完成だった。
“記録”と“存在の重ね書き”という、禁じられた魔術理論を応用する以上、一歩間違えば次元の歪みを起こす。
「誰にも頼めない。誰にも任せられない。
…それなら、自分で完成させるしかないだろう?」
それは、英雄の思考ではなかった。傲慢な判断。
けれど、それでも彼はやらねばならなかった。
至高の魔術師として、責任を負うべきだった。
静かに術式が起動する。
部屋の中心に描かれた魔法陣――いくつもの細い環が組み合わさり、惑星軌道を思わせる幾何学図形が回転を始める。
「いいか、ストレンジ。落ち着くんだ。私ならできる。」
術式の目的は明確だった。
「魔術師ストレンジの知識・記憶・思念の一部を、別の次元に複製する」
それはデータのように保存されるはずだった――あくまで、残響として。
けれど、それは誰かに干渉されていた。
魔法陣の縁に、彼の描いたはずのない“もう一重の線”が浮かび上がる。
「……何だ?」
その瞬間、空気がひとつ跳ねた。
部屋が歪み、重力が狂い、声が反響する。
「記録する者よ。
存在を与えられし者よ。
その責務、裁定される時が来た。」
叫びはなかった。
光もなかった。
ただ、沈黙のなかで彼の姿が――掻き消えた。
その瞬間、サンクタムの書物の一部が燃えた。
無言で、意味もなく、ひとりでに燃えた。
そして、誰も気づかないまま、ひとつの魔術師の記録が世界から消え去った。
ー ー ー
「…………」
意識が浮上する。
しかし目を開けた瞬間、ストレンジはまず自分の感覚が異常に研ぎ澄まされていることに気づいた。
風の音。
草がこすれる微細なざわめき。
遠く、鳥とは思えない“甲高い鳴き声”――どれも、馴染みのない音ばかりだ。
地平線まで広がる無人の草原。
夕暮れとも夜明けともつかぬ薄明の空。
「……最悪の目覚め方だな。」
ストレンジは重たい身体を起こし、周囲を見渡す。
マントはない。ただの道着――トレーニング用の作務衣のような服だけが身に残っていた。
首元にかけていたはずのアガモットの目も、
ポケットにしまっていたはずのスリングリングも、ない。
「情報が足りない。座標も時系列も不明。
……地球じゃない。“多元座標系”からも外れてる可能性があるな。」
ストレンジは、無意識に“マントを払うような仕草”をしようとして、
自分が裸足であることに気づく。
乾いた土と、ひんやりとした草が、あり得ないほど静かに足裏を撫でていた。
「……いや、これは感覚が強調されすぎている。
この世界、空気が“詰まってる”。まるで知覚が異常に補正されてるみたいだ。」
彼は世界を観察するようにして歩き出す。
慣れない足取り、剥き出しの肌。
けれどその背筋は、何も持っていないのに、背負っている者の姿勢だった。
彼の足元に、ひとつだけ不自然なものがあった。
石が、円形に並べられていた。
それは人工的な何か…誰かがこの場所で“印”を残そうとした証拠だった。
「……そうか。先客がいたか。
私の魔術を邪魔した存在か。はたまた偶々あった謎のサインか。」
風が吹く。草が揺れる。
そして彼の皮膚に、どこか懐かしい“警戒すべき気配”が這い寄る。
彼は静かにしゃがみこみ、掌を大地にあてる。
そこに魔力の気配はなかった。けれど、それとは別の“重さ”が地中にあった。
ストレンジは、乾いた大地の上に立ち、いつものように指を構えた。
中指と親指の間を滑らせるようにしながら、
掌を開き、空間に対して“魔術の起点”を描こうとした。
「集中しろ。意識を重ねて…時空に軸を刺せば……」
……何も起こらない。
空間は振動しない。光は浮かばない。
“スリング・リング”がないからではない。
この世界自体が“魔術式の起動を拒んでいる”ようだった。
「……馬鹿な。」
再び構える。再び沈黙。
指先から火も出ない。空間も裂けない。
ただ、彼の動作だけが滑稽に宙を切る。
「ここの理は…魔術を受けつけない。
あるいは、“封じられている”のか…?」
乾いた草の海に、低く唸るような音が響いた。
振り返ると、丘の向こうから現れたのは、
革鎧に身を包んだ武装集団。
剣を背負い、一本の棍棒を手にしていた男たちが、数人ずつ隊列を組んで進んでくる。
声は荒く、言葉も聞き取れない。
ただ、“無感情な狩人の目”をしていた。
「……なるほど。見つけたって顔だな。」
逃げるのではない。
ストレンジは、構える。
足を滑らせ、無駄のない重心移動で構えるその姿は、武術の構えだった。
「魔術が使えないなら…武道で十分だ。」
最初の敵の踏み込みに合わせ、肘打ち。
次の一人の横薙ぎをかわし、関節を極めて投げる。
足払い、背負い投げ、拳による急所への衝撃。
彼は完璧に捌いた。
しかし。
敵は、十人を超えていた。
手には棍棒。鉄の留め具。
そして何より、“痛みに慣れた暴力”の動きだった。
「──ッ…!」
ひとり、またひとり。
手応えがあったはずの敵が、平然と立ち上がる。
その中に、後ろから棍棒を振りかぶった男がいた。
「く──」
鈍い音。視界が揺れる。膝が崩れる。
彼は倒れた。
空を見上げる。
先ほどの三日月が、まるで笑っているように見えた。
彼の背に縄がかかり、両手が縛られる。
足に枷が嵌められる音が、妙に乾いて響いた。
木製の車輪が、乾いた地面を引き裂いていた。
遠くから聞こえるのは、獣の鳴き声でも風の唸りでもなく、鎖のこすれる音。
「入れ。」
背後から押される。
ストレンジは、痛みの残る膝を突きながら、馬車の後部に身を投げ出すようにして転がり込んだ。
狭く、臭い。
すでに中には何人かが座り込んでいて、
その目は“初めから何も見ていない”ような色をしていた。
兵士のひとりが、吐き捨てるように言った。
「上等な身なりの割に、よく転がるな。」
ストレンジは、泥にまみれた服を払いもせず、ゆっくりと座り直した。
そのまま、冷えた瞳を上げて、兵士を見た。
「ありがとう。ここが“貴様らの最高級車両”だとは知らなかった。
なかなか趣のあるデザインだ。特にこの、“異臭と絶望の香り”のブレンド”が実に深い。」
兵士は一瞬呆気に取られた。
この状況で、皮肉を言う人間を見たのは久しぶりだったのだ。
「……その口、すぐ黙らせてやる。」
後部の扉が金属音を立てて閉じられる。
外から棒が通され、施錠された。
光が完全に遮られた。
音も、空気も、急に詰まるように感じられた。
馬車の中にいたのは、6人の奴隷たち。
男、女、種族不明。誰も名前を名乗らない。
左側の隅では、布を被った大柄な人物が膝を抱えて丸くなっていた。
その隣には、指がすでに3本しかない若い男が、目を閉じて寝ているのか、意識を失っているのか分からない状態でいた。
前に座ったのは、小柄な子どもに見える影。
しかしその背にある“尾のようなもの”が、彼女が人間ではないことを示していた。
隣には、誰よりも静かな“植物”のようなシルエット。
体の一部が蔦でできているのか、それとも装飾なのかすら分からない。
だが、誰も言葉を発さなかった。
ストレンジはそれぞれを観察しながら、
自分の境遇を、冷静に頭の中で組み立てていた。
「“情報がない”というのは、恐怖ではない。
“奪われた”という事実のほうが、よほど現実的な問題だ。」
口の中に微かに血の味。
後ろ手に縛られた手首が、かすかに痺れている。
「さて、“道具を奪われた魔術師”は、何と呼ばれるべきか。
…ただの人間、か。」
彼は、馬車の内壁に額を預けた。
目を閉じるのではなく、“何も見えない中で思考する”ために。
ー ー ー
目を開けた時、空は青白く染まり始めていた。
遠くで鶏が鳴くような声が響き、
それに重なるように、鉄と鉄が擦れる音、布袋が放られる音、怒号と交渉の声。
馬車が軋みを上げながら止まり、
後部の扉が金属音とともに叩き開かれる。
「起きろ、奴隷ども。セリに遅れるな。」
粗末な縄を首にかけられ、
連れ出される。
手枷も足枷もそのままに。
ストレンジは一瞬、空を見上げた。
冷たい空。黄味がかった三日月。
それは不自然なほどに静かだった。
「市場……だと?」
言葉はこぼれない。
口枷はまだ嵌まったままだ。
市場は広場だった。
だが“活気”などという言葉は似合わない。
あるのは、腐った野菜の臭いと、血の乾いた匂い。
木の枠で仕切られた舞台の上に、次々と奴隷たちが引き上げられる。
年齢、種族、性別を問わず、値段と用途だけで叫ばれる。
「このメス獣人は元農奴、力もそこそこ。三金貨から!」
「片腕だが鍛冶の経験あり!病なし!保証つきだ!」
ストレンジの番が来た。
木の台の上。
道着のまま、足に縄。
口に枷。
魔術師とは程遠い姿。
「コイツは見た目は人間だが、何やら言葉が通じねぇ。
変な動きもしたが、今は大人しい。鍛錬は…不明!
ええい!二金貨からだ!」
ざわつく声。
買い手たちが品定めするような目で彼を見る。
その時だった。
同じ台に、もう一人の奴隷が引き出された。
背丈は人型に近いが、皮膚は樹皮。
肩から腰にかけて、細い蔦のような繊維が編まれている。
顔には、花の蕾のような器官が静かに揺れていた。
観衆が一斉にひるんだ。
魔族か、植物か、何かの呪われた生命体か。
誰も判断がつかない。
「こいつは訳ありだ。元は王都の博物室にいた展示品らしいが、
騒ぎの時に逃げ出して……まあ、今ではこの通り。」
ストレンジは横目で見る。
蔦人間もまた、言葉を発さず、ただじっと彼を見つめ返していた。
…何かを、感じ取っていた。
「よし、その二体、まとめて一括で引き取ろう。」
会場の後方で声が上がる。
重厚な革コートに身を包んだ男が前に出る。
肩には金属製の鉱山ギルド章。
「そこの鉱区で穴掘らせるだけの手間だ。見た目はどうでもいい。
丈夫なら十分だ。」
売人は手を打つ。
「ほう!わかってらっしゃる!二体で七金貨、決まりで!」
縄で首を繋がれたまま、二人は再び荷車に押し込まれる。
今度はストレンジの隣に、蔦人間が座らされる。
何も喋らない存在。
だが、明らかに“人間とは異なる知性”を持った目。
ストレンジは振り向き、視線だけで問いかける。
蔦人間もまた、音を発さずに…だが、まるで何かを“読むように”彼を見返した。
荷車が再び軋みを上げて動き始める。
今度は、ストレンジの口枷は外されていた。
買い手が「こいつはもう大人しい」と判断したらしい。
ストレンジは、荷車の角に腰を落とし、少しだけ開いた隙間から外の光を見つめていた。
その視界の端に、隣に座った“それ”がいた。
動かない。
言葉もない。
ただ、そこに存在している。
だが、ストレンジは知っていた。
“観察されている”という感覚だけは、どんな異種の存在であろうと、通じてしまうものだ。
「……さっきのセリで、一番嫌そうな顔してたのは君だったな。」
静かな皮肉。
けれど、それは問いでもあった。
ストレンジが目を向けると、
その存在は――僅かに、首を傾けた。
そして、喉の奥から、
擦れた木を削るような音が漏れた。
「……ト……レム……」
声にならない声。
破れかけた風鈴のように不明瞭な音。
だが、確かにそれは名を告げようとしていた。
「……トレム?それが君の名前か?」
再び、うなずきのような動作。
だが明らかに、それ以外を言う力は持たないらしい。
ストレンジは、ほんの一瞬目を細め、
そして、ふっと短く息を吐いた。
「……なるほど。“私はトレム”しか言えないのか。」
「まるで“アイ・アム・グルート”だな。
……いや、君にはまだ彼の表情筋すらなさそうだ。」
荷車の中に、微かな静寂が満ちた。
それは笑いではない。
ただ、世界の重さと軽さの端っこを、彼が片足で踏んだような、そんな時間。
「喋れなくてもいいさ。
どうせこの国では、話す価値のある者ほど、口を封じられるみたいだしな。」
ストレンジは、肩を壁に預けながら、
“トレム”の蕾のような目を、真正面から見つめ返した。
「私はストレンジ。スティーブン・ストレンジ。
……いや、呼ばれなくても構わない。
君の中では、きっと“奇妙な騒音源”くらいに思われてるだろう。」
その一方通行のやり取りの中に、何かが確かに流れていた。
言葉のない者と、言葉だけが武器の者。
その“かすかな糸”が、荷車の中で、静かに結ばれていく。
馬車の中は、再び静寂に包まれていた。
がたん…と、時折車輪が石を乗り越え、
軋む木材の振動が、座っている身体の芯を揺らす。
トレム――と名乗った蔦の生命体は、相変わらず何も語らない。
ただ、ストレンジの隣で、じっとしていた……と思っていた。
しゃらり、と微かな音。
ストレンジが目を向けると、トレムの腕から細い蔦がするすると伸びていた。
それは、まるで糸のようにしなやかで、
器用に編まれながら――一対の“鳥の形”になっていく。
蔦でできた小さな翼。
螺旋にねじれた尾。
そして、可動する首元。
「……何だ、それは。」
返事はない。
トレムはただその“鳥のようなもの”を膝の上で羽ばたかせていた。
蔦の動きで、まるで飛んでいるように見える。
ストレンジは、それを見て――ふっと鼻で笑った。
「……遊んでるのか、君は。」
「この状況で“何かを創る”という発想になるとはね。
その精神力は賞賛に値する。
……少なくとも、かつて知っていた“大人たち”より、ずっと健全だ。」
「うるせぇぞ、後ろ!」
馬車の御者が怒鳴った。
大して大きな音などしていない。
だが彼は、その“生きている気配”が許せなかったのだ。
「うるせぇって言ったんだ!!」
御者が怒鳴った瞬間に、
ストレンジは目を閉じたまま、冷ややかな声で返した。
「私の隣には言葉を喋れない植物がいる。
そして前方には“聞く耳を持たない獣”がいる。
……どちらが会話に向いてると思う?」
馬車ががたつくたび、御者の罵声が聞こえた。
だが扉は開かない。
それでも、蔦の鳥は止まらなかった。
トレムは、御者の声にも怯えず、
ただ自分の世界で“空を飛ばす”ように、指を動かし続けた。
そしてストレンジは、その横顔を見ながら、
ほんの少しだけ、目を細めた。
太陽が沈みきると、草原には底冷えするような風が吹き始めた。
馬車は止まった。
御者たちは外で火を起こし、簡素な野営を始めていた。
ストレンジたちは――
車内に閉じ込められたまま。
暗闇。
音は焚き火のパチパチという音と、たまに響く笑い声。
それだけが“この世界に人間がいる”という証明だった。
扉が開いたのは、いつの間にか月が高くなった頃だった。
汚れた革袋を持った兵士が、乱暴に荷車を覗き込む。
「ほら、食い物だ。
贅沢言うなよ。」
投げ込まれたのは、
乾ききってヒビの入ったパンの塊が一人一個。
皿も、水も、塩すらない。
ストレンジは、そのパンをしばらく見つめていた。
まるで**“何かの実験器具”でも見ているような顔。**
「……このパン、岩か?
いや、むしろ岩を模したパンか。
“何も食べさせたくない”という設計思想においては、実に見事な完成度だ。」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、思わず口から漏れた“知性の悪意”だった。
彼はその塊を持ち上げて、試しに口に運ぶ。
噛む。
……歯が、きしんだ。
「なるほど……
味覚という感覚を処刑するには、こういう手段もあるのか。」
隣では、トレムがパンを両手に持っていた。
まるで初めて触るもののように、
少し握っては、じっと観察し、
そのあと――ゆっくりと、蔦のような指で割った。
破片は小さく、だが均等に。
いくつかに分けたその一部を、じっとストレンジの方に差し出す。
「……分けるのか。
なるほど。“植物は分かち合う”というわけだ。」
彼は受け取らなかった。
だが、その手を見ていた。
何も語らない。
何も知らない。
ただ、何かを“差し出す”存在。
「まさかこの世界で、最初に礼儀を教えてくれるのが、
言葉も喋れない木の化け物とはな。」
そう言って、ストレンジは自分のパンを――無言でそのまま、トレムの前に置いた。
火は、外でしか灯っていない。
馬車の中は、沈黙だけが支配していた。
でもその夜、
言葉より静かな“何か”が、ふたりの間に置かれた。
ドクターストレンジと異世界のクロスオーバー作品です!
趣味全開で書いていくので良かったら応援頼みます!!