Doctor Strange: Chains of Revelation   作:Mr.グッドマン

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ドクター。労働する。

朝は、音から始まった。

 

がたん。

馬車が大きく傾く。

 

轍が変わった。

湿った土ではなく、固く踏みならされた石の道。

 

ストレンジは目を開ける。

空は見えない。

馬車の内部には、ほんの小さな格子窓が一つあるだけ。

 

彼はそこに、ゆっくりと顔を寄せた。

 

外の空は、青みがかった灰色に染まり始めていた。

低い雲が厚く、陽はまだ顔を出していない。

だが――黒い煙が上がっている。

 

一本、二本。

そして三本。

遠くの山裾から、ゆっくりと昇ってくる煤煙。

 

「……やはり文明レベルは近世辺り。産業革命が起きたあたりか。」

 

ストレンジは誰に言うでもなく、独りごちる。

それは、かつて医師であり、魔術師であり、科学者であった男の“知の癖”だった。

 

続いて、音。

 

カン……カン……カン……

耳を澄ませば、遠くから聞こえる。

一定のリズムで叩かれる、金属と石の音。

 

「これは……ハンマーじゃない。

ツルハシの音だ。」

 

そして、匂い。

焦げた金属。酸化した鉱物の粉塵。

皮と鉄と、乾いた汗の混じった空気。

 

「鉱山だな。」

 

ストレンジは、微かに顔をしかめた。

 

隣で、トレムが格子窓の外を“感じるように”首を傾けていた。

光も音も聞こえないはずなのに、彼の“植物のような感覚”が

何かを察しているようだった。

 

「……察しがいいな、君は。」

 

「もっとも、そこに向かうのは我々の意思じゃない。

たとえ全身で察したところで、進路は変わらない。

……まるで人生の縮図みたいだ。」

 

馬車の速度が上がった。

周囲に響く声が増える。

喧騒ではなく、号令。

 

地形が下り坂になったのか、車輪の軋みが重くなる。

 

前は見えない。

ただ、“坑口へ向かう道”の空気だけが、体を包んでいた。

 

馬車は止まった。

外から風の音に混じって、金属の軋みやざらついた声が聞こえてくる。

焚き火の匂い、煤けた煙。

不自然なほどに、空気が重い。

 

「降りろ。」

 

低い怒声と共に、後部の扉が乱暴に開かれた。

 

私はトレムとともに、首に縄をかけられたまま馬車から引きずり出される。

陽はまだ登り切っておらず、空は青白く、谷全体に灰色の光がかかっていた。

 

目の前に広がっていたのは――

黒煙を吐く工房。深く穿たれた坑道の裂け目。

そして、人の声がしないほど無機質な、“労働の塊”だった。

 

「……鉱山か。予想通りだな。」

 

私は、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。

 

荷降ろしの係らしき看守が待ち構えていた。

目が合った瞬間、私の全身を値踏みするように眺めて、

口の端を吊り上げた。

 

「なんだ、ずいぶんと身なりがいいツラじゃねぇか。

何かの坊ちゃんか?今じゃただの家畜だがな。」

 

次の瞬間、私の着ていた道着は無造作に引き裂かれた。

足元には、他の奴隷と同じ――灰茶色のチュニックが投げられる。

 

腕を通し、布をかぶる。

形などほとんどなく、ただ“身に何かをかけている”程度の粗末なものだった。

 

看守は腕を組んだまま、

一度、私の顔を眺めてから、鼻で笑った。

 

「お前は“ハカセ”だな。いかにも考えすぎて面倒そうな顔してる。」

 

「……光栄だ。」

 

私はそう答えた。

静かに、できるだけ感情を込めずに。

 

続いて、トレム。

 

彼にはもともと服という服はなかったが、

同じチュニックが投げ渡される。

 

看守は数歩近づき、顔をしかめた。

 

「こいつ、何だ?……草か?

気色悪ぃな。おい、こいつは“モヤシ”でいいや。」

 

トレムは何も言わなかった。

ただ、名前をつけられたその瞬間、

私の方に顔を向けた。

 

表情はない。だが、その眼差しには、

確かに“わかっている”気配があった。

 

「おい、モヤシとハカセはこっちだ!」

 

その声は、これまで聞いたどの看守のものとも違っていた。

怒鳴るでもなく、押し潰すでもなく、どこか遊び半分のような調子。

 

視線を向けると、そこには――

小柄な獣人がいた。

 

灰色の毛並みに、乱れた皮のベスト。

尻尾が揺れ、耳がピクピクと動いている。

人間よりやや小柄な体格だが、目には妙な利口さがあった。

 

「よお、今日からお前らが“新入り”ってわけか。

ご丁寧に蔦とツラの整った奴のペアとは…変わり種が揃ったなぁ。」

 

私は警戒心を隠さずに彼を見た。

 

敵か味方か、あるいはただの手先か――

この世界では、まずそこから確認しなくてはならない。

 

「……案内役か?」

 

「ああ、まあそんなとこ。

俺はジク。ここで“下っ端の上の下”をやってる。

つまり“命令できるけど責任は取らなくていい”って立場さ。」

 

トレムは一歩後ろに下がった。

しかし敵意は見せない。

ジクもまた、トレムを面白そうに眺めるだけだった。

 

ジクの後を追う形で、私はトレムとともに坑道の入り口へと向かった。

 

そこには、厚く補強された木と鉄の門があり、

周囲には荷車や鉱石の山、そして呻くような音が響いていた。

 

「ここから先が、お前らの“職場”さ。

頼んでもいないのに雇われて、給料も出ない、

ただし命の保証は“まあまあ”ってとこだな。」

 

「皮肉で飾れば、地獄も少しは洒落た場所になるか?」

 

私がそう言うと、ジクは歯を見せて笑った。

 

「あんた、嫌いじゃないぜ。

口は達者でも、黙ってやられるよりマシってやつだ。」

 

坑道の中は、灯火虫の光と、わずかな魔石の反射で照らされていた。

空気は湿っていて、土と鉄と、汗と火薬の臭いが入り混じっている。

 

「さあ、ようこそ。ここが君らの“初舞台”だ。

長居できるかは知らねぇけどな。」

 

ジクの声が、坑内の壁に跳ね返って、奇妙に長く響いた。

 

坑道の中は、蒸し返すような空気だった。

地下なのに、風がない。

ただ、奥から運ばれてくる埃と熱が、空間を押し返してくるように感じられる。

 

「あー、そこの“ハカセ”と“モヤシ”はこっち。」

 

ジクがくるりと振り返り、手を振った。

 

私とトレムがついていくと、

古びた木箱の上に、ボロボロのツルハシが2本、転がされていた。

 

柄はひび割れ、鉄の先端には錆。

まともに振れば手首を壊しそうな代物だ。

 

「こいつで石炭を掘ってくれ。

黒いやつだ。わかるよな?

ノルマは……まあ、達成できりゃ褒められる。できなきゃ怒られる。」

 

それだけ言うと、

ジクは何の未練もなさそうに背を向けた。

 

「じゃ、俺は“別件”があるから。

がんばれよ、先生方。」

 

そして坑道の闇へ、音もなく消えていった。

 

私は無言でツルハシを手に取った。

 

重量は軽いが、バランスが悪い。

まるで、力任せに殴るためだけの“棍棒”のようだ。

 

隣で、トレムも同じように一本のツルハシを手にしていた。

彼の蔦のような手が、柄を巻くようにして握っている。

 

言葉はない。

だが、彼の動きには戸惑いも迷いもない。

 

壁面には、黒い筋が走っていた。

岩に混じる、煤けた炭素の層。

触れると、指先にざらついた粉が残る。

 

「……ここを掘れ、ということか。」

 

私は息を整え、

初めての一打を、

ひどく慎重に振り下ろした。

 

カンッ。

乾いた金属音。

ツルハシの刃が岩に当たり、跳ね返った。

 

手首に響く痛み。

手袋すらない手が、衝撃で焼けるように熱を持つ。

 

横で、トレムのツルハシもまた、岩を打っていた。

彼の動きは、妙に滑らかで、無駄がなかった。

 

私はその姿を見ながら、再び構え直した。

 

「……植物に負けるわけには、いかないな。」

 

こうして、“魔術師”は初めての炭鉱夫としての一日を始めた。

 

口に出す皮肉すら、石と粉塵にかき消される――

そんな静かな地獄の中で。

 

私は、ツルハシを持ったまま腰を上げ、

額から垂れる汗を袖で拭う。

 

炭塵が混じり、顔の半分が黒くなっているのがわかる。

息は上がり、手は痛む。

ツルハシを握る指の感覚は、もう曖昧だった。

 

「……まったく、なんてこった。」

 

私は、岩壁に寄りかかりながら、

独り言のように、いつもの調子で言葉を吐く。

 

「私は医者だった。人間の脳を開いて命を拾い上げ、

一分一秒を争う魔術戦で宇宙の理を曲げたこともある。」

 

「神と呼ばれる存在の前でさえ、

一歩も退かずに口を利いた男だ。」

 

「……そして今、

岩を掘ってる。

クソみたいなツルハシで、

知性より腕力がモノを言う仕事に追いやられてる。」

 

「滑稽だと思わないか?なあ、トレム。」

 

私は、隣で黙々と岩を叩いていた植物の横顔を見る。

彼は一瞬、ツルハシを止めた。

 

そして、首を傾けた。

 

顔はない。表情もない。

だが、まるで「滑稽だな、それで?」と返されたような気がした。

 

「……やはり、面白いか。」

 

「他の誰に笑われるより、

言葉を持たない君に笑われる方が、まだ救いがある。」

 

すると、トレムは何か考えるように――

わずかに身を傾けた。

そして、指先の蔦で、先ほどの蔦細工の鳥をまた作り始める。

 

だが今回は、

それがスコップを持って、穴を掘る小人の姿に変わっていた。

 

私はそれを見て、一瞬、目を細めた。

 

「……なるほど。そうか、君の中では私が“それ”か。」

 

蔦の小人がピコピコとツルハシを振る。

無表情なその動きが、なんとも“私らしい”というのだから腹が立つ。

 

私はひとつ息をついて、

そのまま、少しだけ笑った。

 

「悪くない。」

 

 

ー ー ー

 

 

ツルハシを振るう音が、やがて遠くから聞こえてくる鐘の音で止まった。

 

カン……カン……カン……

 

三度の打音は、坑道内にいる者たちへの合図。

“作業を止めよ”でもなければ、“自由にしてよい”でもない。

ただ、それ以上掘るなという、抑制の命令。

 

ジクの姿は見えなかった。

誰も何も言わなかった。

 

それでも、私はツルハシを置き、

そっと岩壁に背を預けた。

 

息は苦く、喉は渇いていた。

汗が目に入り、視界が曇る。

 

トレムは何も言わず、

ツルハシを壁際に立てかけて、ただ横に並んだ。

 

やがて、坑道の入口から誰かが金属のバケツを運んできた。

ぶつぶつと文句を言いながら、粗末な陶器の椀に中身を注ぐ。

 

茶褐色の液体。

温度はぬるく、匂いは土と、微かに焦げた草のような香り。

 

まるで雨水と雑草を煮詰めたものに灰を混ぜたような何か。

 

私は、渡された椀を見下ろした。

 

「……スープ、だと?」

 

私はそれを持ち上げると、

椀の中の液体を光に透かして眺めた。

 

底に何か浮いているように見えるが、

それが食物か、廃棄物かの判断はつかない。

 

「なるほど。

味という概念を理解していない料理人が、

芸術として作り上げた毒物、か。」

 

「ああ、これは素晴らしい。

昨夜の岩パンと見事に釣り合うメニューだな。

栄養素としてはゼロ、だが記憶には残る。」

 

隣を見ると、トレムは静かに椀を受け取っていた。

そして、器に顔を近づけ、細い蔦の先を液体に垂らす。

 

じゅっ……と、音もなく水分を吸い上げる。

 

表情も、抵抗も、好悪の反応すら見せない。

ただ、与えられた水分として、吸収するだけ。

 

私はしばらくその様子を見ていたが、

ふっと息をついて、結局自分の椀を地面に置いた。

 

「私が人間であることに、

少しだけ、誇りを失いそうだよ。」

 

「よぉ、先生方。まだ生きてたか。」

 

その声は坑道の入口から届いた。

気だるげな足取り。

手には椀。中にはあの茶褐色の液体――スープらしきもの。

 

ジクは、私たちの前まで来ると、

躊躇なくそのスープを啜った。

 

「……っぶはあ……まずっ。

でも腹に入れば生きてる実感だけはする。不思議だな?」

 

私は目だけで彼を見た。

その手元の椀には、見事に底しか残っていなかった。

 

ジクの視線が、地面に置かれた私の椀へと落ちる。

手付かずのまま。

泥水にも劣る代物が、そこに静かに残っていた。

 

「あれ、お前、食べないのか?」

 

「正確には“食物”と認識していないだけだ。」

 

私は肩をすくめ、微かに笑った。

 

「もしあれが“スープ”であるなら、

料理という文化は本当に終わったらしい。」

 

ジクは少し笑い、しゃがみ込んで私の隣に座る。

 

「ふーん……じゃあ、余った分は捨てるか?それとも飾るか?」

 

「飾るとしたら“絶望の象徴”として博物室に展示してもいいかもしれない。」

 

「やっぱりお前、変わってるな。

こっちじゃ“余計な言葉は寿命を縮める”ってのが鉄則なんだが。」

 

その間にも、トレムは静かにスープを吸い続けていた。

手は止めず、視線は私たちのやり取りを“音ではなく意味として”捉えているようだった。

 

「そっちの“モヤシ”は実に省エネでいい。

水だけで動くなら、食糧問題が解決しそうだ。」

 

私はそう言って笑ったが、

その笑いの底には、ほんの少しだけ、自嘲が混ざっていた。

 

ジクはそんな私を見て、

スープの器を持ったまま、目を細めた。

 

「ま、お前みたいなヤツが一番長生きしたりするからな、この世界。

皮肉混じりの余計な知恵ってやつは、案外腐らないもんだ。」

 

私はその言葉に、何も返さなかった。

ただ、椀を片手で持ち上げ、

一口だけ、あのぬるい液体を口に含んだ。

 

「……なるほど。“生きてる実感”ね。

確かに、これは……“生きてる”というより“耐えてる”感覚だ。」

 

ジクは噴き出しそうになりながら、笑った。

 

ジクは立ち上がった。

空になった椀を指先で軽く回し、

肩を回すような仕草で体の埃を払う。

 

「さてと。オレはもう少し休憩しとくさ。

あんたらみたいな“目立つ奴”がいると、こっちは楽になる。」

 

私は眉をひそめた。

 

「“目立つ”というのは、褒め言葉か?」

 

「半分はな。残り半分は……死ぬ確率が高いって意味さ。」

 

ジクは、しばらく私とトレムを交互に見ていた。

その目には、少しだけ、ためらいに似たものがあったかもしれない。

 

だが――それはすぐに、いつもの軽口に戻った。

 

「いいか、ハカセ。」

 

「逆らわないことだ。

長生きしたきゃ、それが一番のコツだ。

オレは、ずっとそうしてきた。」

 

声の調子は軽い。

でも、その言葉だけは妙に重く、鉱山の湿気よりも鋭く残った。

 

「……それで、“生きてる”と思えるならな。」

 

私がそう返した時には、

ジクはもう背を向けて歩き出していた。

 

返事はなかった。

 

ただ、

尾の揺れだけが、少しだけ鈍くなっていた。

 

こうして、休憩の時間が終わろうとしていた。

ツルハシを再び手に取る音が、

坑道に小さく、だが確かに響き始める。

 

午後の作業が始まって、どれほどの時間が経っただろう。

炭塵に濡れた空気は、肺に痛みを残し、

ツルハシの衝撃は、手首を麻痺させるような感覚へと変わっていた。

 

「……あそこは、脆いな。」

 

私がそう呟いたのは、本当に何気ない瞬間だった。

坑道の奥、数人が作業している岩肌に、微かに浮き出る線――崩落の兆し。

 

そして、それは次の一打と同時に、起こった。

 

──グラッ。

 

バァァン!

 

空気が跳ねた。

岩が裂けた。

土煙が巻き上がる。

 

坑道の中に響いたのは、

石が砕ける音、人が叫ぶ声、骨の折れる音。

 

私が目を開いた時には、

既に2人が瓦礫の下に半ば埋まり、

もうひとりが壁際で呻いていた。

 

「……!」

 

私は駆け出そうとした。

でも、身体は動かなかった。

 

魔術は使えない。

治療器具もない。

ただの“何もできない自分”が、そこにいた。

 

トレムが動いたのは、その数秒後だった。

 

何の前触れもなく、

彼の足元から蔦が音もなく伸びた。

 

瓦礫の隙間へ。

倒れた者の元へ。

巻き付き、絡まり、引き寄せる。

 

その動きは恐ろしく正確で、

まるで、生命の位置を感知していたかのようだった。

 

ひとり、引き出される。

息をしていた。

手足は折れていたが、命はあった。

 

私は、それを見ていた。

何もせず。

ただ、見ていた。

 

「おい、そこの“草”。てめぇ、何やってやがる。」

 

その声は、見張り番のものだった。

無造作に降りてきた彼は、

トレムに歩み寄るなり、鞭を抜いた。

 

「生かすと金がかかるんだよ。

てめぇが“助けちまった”せいで、治療費も配給も増えるだろうが!」

 

バチン──ッ!

 

蔦の腕に、一閃の音。

皮膚ではなく、樹皮が裂ける音だった。

 

私は立ち上がった。

 

「やめろ。」

 

鞭がもう一度振り上げられる。

 

「聞こえなかったか? やめろと言ったんだ。」

 

私は一歩、トレムの前へ出た。

それが本能だったのか、責務だったのか、自分でもわからない。

 

だがそのとき。

 

トレムが、私を見た。

 

言葉はなかった。

だが、確かに“静止”の意思があった。

 

目のような蕾が、

『それ以上はいい』と、静かに告げていた。

 

私は拳を握ったまま、足を止めた。

怒りでもなく、無力さでもなく――

ただ、その視線の強さに押されたのだ。

 

見張りはもう一発をくれてやると、吐き捨て、背を向けた。

 

地面に落ちた細い蔦が、ひとつだけ震えていた。

 

作業は一時中断され、監視の目がやや散っている隙を縫って、

私はトレムの横にしゃがみ込んだ。

 

彼は何も言わず、座り込んでいた。

ただ、左の腕――鞭を受けた箇所――に、裂けた傷があった。

 

樹皮のような外皮が避けて、

その下から粘性のある黄金色の液体が滲み出ていた。

 

「……これは、樹液か。」

 

それは血ではなかった。

だが、確かに“命の流れ”だった。

 

私は反射的に、自分のチュニックの裾を裂いた。

もはや汚れていたが、ここに“滅菌”などという贅沢はない。

 

「気休めだ。

効くかどうかもわからない。

そもそも君が“痛み”というものを感じるかどうかも……だ。」

 

それでも、私は迷わず布を巻いた。

彼の腕に、きつくなりすぎないように。

蔦を傷つけぬように。

 

動物の包帯ではない。

人間のでもない。

それは“植物の傷”に対する、初めての処置だった。

 

私は指先で樹液を拭い、

目を細めて傷の広がりを確かめながら、

ぼそりと呟いた。

 

「人を救うという行為が、

この世界では“罪”になるとはな。」

 

トレムはその間、一度も視線を逸らさなかった。

 

何かを言いたげでもない。

痛みに震えることもない。

ただ、私の手の動きをじっと観察していた。

 

まるで、“初めて体験するもの”を覚えようとしているかのように。

 

私は最後に布を結んだあと、ふっと息をついた。

 

「……本当は、君の中に導管があるかどうかくらい調べたいが、

いまはやめておくよ。

外科手術の練習台にされるなんて、冗談じゃないだろう。」

 

それでも、私の手は止まらなかった。




ストレンジの魔法はしばらく封印です…。
勿論気軽にコメ書き込みokです!なんでもどうぞ!
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