Doctor Strange: Chains of Revelation   作:Mr.グッドマン

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ドクター。新たな友と出会う。

鐘は鳴らない。

空は変わらない。

ここに“夕暮れ”という現象は存在しない。

 

ただ、誰かが時間を告げるように一言呟くことで、労働が終わる。

 

「おい、そこで終わりだ。引き上げろ。」

 

誰が指示したのか、誰が命令しているのか――

それすら曖昧なまま、作業員たちは手を止め、

坑道の奥から徐々に引き上げていく。

 

私とトレムも、

ひとまずツルハシを置き、身体の疲労に身を預けるようにして後に続いた。

 

坑道の出入り口付近に戻ると、

ひとりの見張り番が、何かを背負っていた。

 

粗末な麻袋にくるまれた、薄汚れた布団らしきもの。

 

彼はそれを無言で地面に放り投げた。

 

ぼふっ。

 

埃とともに、妙な黒い点が幾つも飛び跳ねる。

 

「寝床だ。ありがたく使え。」

 

そのひとことで、見張りは踵を返した。

 

地面に敷かれたのは、

ノミと汚れの詰まった、薄いマットレス。

中の藁は偏り、湿り気を含んで重たそうだった。

 

私はそれを見下ろし、

数秒の沈黙ののち、口元を歪めた。

 

「……これは、素晴らしい。

地獄のホスピタリティ部門で金賞を取れるレベルだな。」

 

「見事なまでに“休めない寝床”。

人の尊厳を“ふわり”と奪い取るには、最適な厚みと香りだ。」

 

隣では、トレムがマットレスに近づき、

まるで“新種の植物でも観察するかのように”しゃがみ込んだ。

 

彼は匂いを嗅ぐでもなく、

ノミを払うでもなく、

ただ静かに、マットレスの端に腰を下ろした。

 

私は地面に座りながら、頭を振った。

 

「……君には、どんな環境も受け入れる強さがあるようだな。」

 

「あるいは、私がただの“贅沢な元患者”なだけか。」

 

トレムは、やはり何も言わなかった。

だが、少しだけ、私の方を見た気がした。

 

 

ー ー ー

 

 

暗闇の中、私は眠りに落ちた――はずだった。

 

だが、その先には安らぎも、忘却もなかった。

 

景色が反転する。

 

私はサンクタムに立っていた。

床は割れ、壁は吹き飛び、空は歪んでいる。

 

宙に浮く瓦礫。

耳鳴りのように反響する戦いの音。

彼女の声は、そこにない。

 

私の足は動かない。

腕も、口も、声も出ない。

ただ、意識だけが“あの時”を追っている。

 

「スティーヴン!!」

 

ようやく届いたのは、叫びだった。

私は反射的に振り返る――

 

そして見た。

 

彼女が空に持ち上げられている。

 

エボニー・マウの手。

あの指先。

静かで冷酷な目。

 

彼は何も言わず、ただ掌をかざしていた。

 

クリスティーンの首が締め上げられる。

 

私は走り出す。

叫ぶ。

でも、声は出ない。

 

何度やっても、同じ結末に辿り着く。

 

目の前で、彼女が息を引き取る。

私を見て。

微笑んで。

そして――崩れる。

 

「何度やっても、変わらない。」

 

私の声が、夢の中でようやく響く。

 

「私が選んだ道が、これなんだ。」

 

「救えるはずだったのに、選ばなかった。

勝つために、君を……」

 

私の両手には、誰もいない。

彼女はもう落ちてこない。

ただ、タイタン人の紫色の血のついたマントの裾が風に揺れている。

 

「……誰を救った?私は……」

 

私は膝をついた。

空が歪む。

建物が砕ける。

再び、あの瞬間が――

 

 

ー ー ー

 

 

「……もう何度、同じ夢を見た?」

 

声にして、誰かに届くような言葉ではなかった。

ただ、自分に言い聞かせるような問い。

 

隣には、トレムが静かに座っていた。

寝ていたのか、気配を感じ取ったのかは分からない。

 

ただ、彼は**“いつからか、私の方を向いていた”。**

 

声をかけるわけでもない。

目のような蕾が、

“また夢を見たのか?”と語るように、じっと揺れていた。

 

私は、小さく息を吐いた。

 

「いい夢じゃなかった。」

 

こうして、また一夜が過ぎる。

この世界は夢よりも悪く、現実よりも鈍い。

だが私は――まだここにいる。

 

「起きろォォォ!目玉が腐るぞ、この役立たずどもがぁ!!」

 

静寂を蹴り飛ばすような怒鳴り声が、坑道に響き渡った。

それはまるで、朝というものを全力で汚すような音だった。

 

金属のバケツを叩く音、鞭が壁を叩く音、

そして、何よりも“怒鳴ることしか能のない声”が一番うるさい。

 

私は目を覚ましていたが、起きてはいなかった。

その声がきっかけで、ようやく身体を引き起こす。

 

マットレスはより湿っていた。

ノミが跳ねる気配すら、生き物の存在として数えるしかないこの世界で、

目覚めとは“肉体の再起動”に過ぎない。

 

隣を見ると、トレムはすでに立ち上がっていた。

寝ていたのか、立っていたのか、それすらわからない。

 

「良い朝だな。脳にこびりついた夢と、腐った現実。

どちらが先に人を壊すか、実験してみたくなる。」

 

私はそう呟きながら、

無造作に足を引きずって、配給場所へと歩く。

 

今日の配給は、昨日と同じ――

灰色の岩のようなパンの塊。

 

裂け目のある木の盆に無造作に積まれ、

見張り番がまるで餌でも与えるように投げてよこす。

 

私の手元に落ちたそれは、

昨日よりも硬く、昨日と同じく味がない。

 

トレムはそれを拾い上げると、

昨日と同じ動作で蔦を添え、慎重に割っていた。

 

まるで、新芽に触れるように。

 

私は、自分のパンを見つめたまま、わざとらしく息を吐いた。

 

「これで何日生き延びろというんだ。

寿命を延ばすパンではなく、ただ時間を稼ぐための“口の暇つぶし”。」

 

「ある意味、これは哲学的食料だ。

生きる意味を問う前に、顎の筋肉を鍛えさせてくる。」

 

そう言いながら、

私はパンを口に運んだ。

 

……ゴリッ。

 

「……うん、今日も絶好調だな。」

 

歯が軋み、顎が疲れる。

それでも、

口の中に何かがある感覚だけが、“人間だった”頃を思い出させてくれる。

 

トレムはその間、私を見ていた。

 

特に笑うでもない。

でも、パンを差し出してくることも、拒否することもない。

 

ただ、“隣で食べている”。

 

食事が終わると、言葉もなく隊列が組まれた。

まるで命の価値も形も統一された駒のように、作業者たちは坑道へ戻っていく。

 

我々もまた、例外ではなかった。

 

トレムは、静かに歩く。

昨日と同じ足取り。

だが、昨日より傷口の巻布が黒ずんでいた。

 

坑道の入り口に差し掛かると、

昨日と同じ場所に、昨日と同じツルハシが転がっていた。

 

私は柄を手に取る。

手のひらに馴染んだ痛みが、もう“違和感”ではなくなっていた。

 

「……再び地獄の中へ。

残念ながら、案内役はダンテじゃなくてネズミだったが。」

 

その声に応える者はいない。

 

音もなく、坑道の奥へ進む。

灯火虫の光は昨日より弱く、

空気は昨日より重く、

ただ、私たちは“進むように仕向けられて”いた。

 

作業場所は変わっていた。

昨日より少しだけ奥、

天井が低く、音が反響しにくい“沈黙の間”。

 

壁面には、まだらに炭層が走っていた。

硬そうな層。

崩れやすそうな箇所。

どちらも、時間と労力を削り取る仕事だった。

 

トレムは黙ってツルハシを手に取った。

私は、それを横目に見ながら、

一歩後ろに立ち、壁に手を当てた。

 

「……君の動き、妙に慣れてるな。」

 

「まるで、何度も“こうやって掘った”みたいだ。」

 

トレムは答えない。

だが、一瞬だけ、手を止めた。

 

私は続ける。

 

「ただの奴隷として?

それとも、もっと別の何かとして?

君が、ここに来る前の話が聞きたいよ。」

 

その言葉に、反応はなかった。

だが次の瞬間、トレムのツルハシが

一際鋭い角度で壁を裂いた。

 

乾いた音。

粉塵が舞い、細い黒い筋が現れる。

 

それはまるで、返答の代わりのようだった。

 

「……無口な友人ほど、表現力が豊かだ。」

 

私はそう呟き、

ツルハシを構えた。

 

作業は続く。

もう幾度目かもわからないツルハシの音が、響き渡っていた。

周囲は灰色に覆われ、ひたすらに煤だらけ。

だが、どこかしら無言の空気が流れている中、突然――

 

「うああああああああ!」

 

突如として、近くの別の奴隷が絶叫を上げた。

 

その叫び声は、周囲の作業の音に反響し、数人が一斉に振り返る。

その中でも私たちは、その叫び声が何を意味するのかをすぐに理解する。

 

「もうダメだ!こんな場所で――死んじまう!」

彼は叫びながら、手近にあった石を手に取った。

そして、それを振り上げ――

 

私も瞬時に反応したが、トレムは黙ったままで、その様子を見つめている。

 

「おい、やめろ!」

私の声は届かない。

奴隷の目には、もはや私たちの姿すら見えていない。

 

彼は一歩、二歩と近づき――

突然、前を遮ったのは二人の見張り番だった。

手に持った鉄の棒を一振りで、奴隷を弾き飛ばす。

 

「うるせぇ!黙って掘れ!」

見張り番の一人が、叫び声に答えるように声を上げ、

棒で奴隷の腹部を打つ。

奴隷はその場にひるむが、再び立ち上がり――

もう一度、棒が振り下ろされる。

 

「ああああああ!!」

奴隷の叫びは途切れ、体はぐったりと地面に崩れ落ちる。

 

その後、見張り番たちは奴隷を二人がかりで引き摺りながら、坑道の奥へと連れて行く。

その姿は、もはや力尽きて無抵抗だ。

作業は再開されたが、今度は静かな空気が漂う。

怒りと恐怖が混じった重苦しい雰囲気に包まれていた。

 

作業が中断される。

鐘もなければ笛もない。

ただ、どこからともなく始まる“昼の空気”。

 

私はスープとパンの配給を受け取り、

いつものように黙って座る。

トレムは例によって静かに水分を吸い込んでいる。

 

そして――その時だった。

 

坑道の脇から、ごつい足音が響いた。

 

現れたのは、一人の熊のようにデカい女。

 

肩幅は広く、腕は丸太のよう。

ボロ布のチュニックも、彼女の筋肉を隠しきれていない。

だが、表情には不思議な柔らかさがあった。

 

目尻の笑い皺と、満面の“あきれ顔”。

 

「よっしゃ、昼飯タイム!……って、これかい!」

 

配られたスープとパンを見た瞬間、

彼女は大げさに肩を落とした。

 

「このスープさ、昨日と香りが違うと思ったら……うん、やっぱ泥が増してるわ。水で薄めすぎだよこれ。」

 

パンを手に取る。

 

「おぉ~今日のは昨日より一段と岩だねぇ。

ほら、“歯を試す”系のグルメってやつよ、これ。」

 

そう言いつつも、にこにこと笑いながらパンをかじる。

 

顔はしかめっ面。だけど、噛み砕いてごっくん。

 

「……ふっふ、やっぱ味は無いけど、こういうのも“食い応え”ってやつね。

つまるところ、舌じゃなくて“心で食う”料理よ、これ。」

 

私はその一連の光景を見ていた。

 

文句は言うが、感情はこもっていない。

むしろこの状況さえ、笑いに変えて食べている。

 

「……不味い飯を楽しめる者ほど、強靭な精神を持つ。

それとも、味覚が壊れているのか……?」

 

そうぼそりと呟いた私の声に、

彼女は一瞬こちらを見た。

 

まるで、皮肉の匂いを“料理の香り”として嗅ぎつけたかのように。

 

「ん? 今の台詞、なかなかスパイス効いてるじゃない。

いいねえ、そういう“苦味”――嫌いじゃないよ。」

 

そう言って、ウィンクのようなまばたき。

そしてまた、口にパンを放り込んだ。

 

「ほうほう、これは面白くなってきた。」

 

私の背後から、そんな呟きが聞こえた。

声の主は――もちろん、あのネズミ男だ。

 

ジクは、手ぶらでふらりと現れ、

パンをかじる私の隣にすっと腰を下ろした。

 

「見てたぞ、ハカセ。

君、今ちょっとだけ“惚けた顔”してたな?」

 

私はジクをちらと睨んだ。

 

「人の昼食に品評会を開く趣味はない。

それに、惚けていたのではなく……観察していただけだ。」

 

ジクはニヤニヤしながら肩をすくめる。

 

「そうそう、それそれ。

そういうツッコミ、彼女の好物だぜ?」

 

その“彼女”というのが、まさに今、

向かいでスープをかっ喰らっていたあの熊のような女――

そう、筋肉ゴリゴリ、豪快笑顔のあの熊女だ。

 

「紹介しとくか。あいつは“ブルダ”――フルネームは後で教える。

この炭鉱じゃちょっとした有名人さ。」

 

私は目を細めた。

 

「有名人が……こんな地獄に?」

 

ジクはひとつ笑って頷いた。

 

「彼女の本来の作業場はもっと深いとこ――“深層層”だ。

空気は薄くて、地熱は高くて、

何より“普通の奴は2日も持たない”と言われてる場所。」

 

「でもブルダは違う。

十日いても平気な顔で帰ってくる。

それで“深層の熊”なんて呼ばれてる。」

 

その時、ブルダがこちらを見た。

 

「ん? あんた、ジクの知り合い?

新顔かい?」

 

彼女の声は太く、よく通る。

でも、どこかあったかい響きがあった。

 

「よく食う?食わない?

あたしは食うよ。なんでも食う。

でもこのスープだけは……ギリギリ敵かもね。」

 

私が口を開くよりも早く、彼女は身を乗り出してきた。

 

「あんた、いいツラしてるじゃん。

なんつーか、“妙に気取った皮肉が似合うタイプ”?

あたし、そういうの、味に例えると……苦味強めのスパイス、好きなんだよねぇ~。」

 

ジクが笑って頷いた。

 

「ブルダの言う“味”ってのは、まあ……性格評価表みたいなもんさ。

君はもう、舌に乗ってるってわけだ。」

 

私は無言のままパンを口に運んだ。

 

「……せめて料理される前に、心の準備はしたいものだな。」

 

ブルダがごきげんにスープをすする中、

私の隣で、トレムが明らかに後ずさった。

 

彼の体表の蔦が、ヒュッと引っ込むように震える。

細かい葉が、微かに立ち上がるのが分かる。

 

どう見ても、びびっている。

 

ブルダはその様子に気づいて、目を丸くした。

 

「おやおや、どったの?この子、あたし見て固まってんの?」

 

私は、彼女のその無邪気すぎる声に苦笑しながら答えた。

 

「まあ……無理もないだろうね。

君の声量と筋肉量のどっちが先にくるか、初対面じゃ判断に困る。」

 

ブルダは爆笑した。

 

「ははっ!そりゃ傑作!

初対面にして“苦味のスパイス”が効いてるねぇ、アンタ!」

 

トレムは視線だけこちらを向いた。

無言だが、“この熊、危険では?”と訴えている気がする。

 

私はパンをかじりながら、

肩をすくめて彼に返した。

 

「安心しろ。

食われるとしたらまず私だ。味の濃い方が先に試食される。」

 

「ま〜ま〜、そんなカリカリしなさんな!」

 

ブルダは両手をひらひらと振りながら、

トレムの方へ屈んで笑いかける。

 

「怖がらせたなら悪かったねぇ。

あたし、見た目こんなんだけどさ、

中身はわりと“クマの母ちゃん”みたいなとこあるから!」

 

そして、グッと胸を張って名乗った。

 

「ま、名前はまだ教えてもらってないんだろ?

でも一応、自己紹介だけはしとくか!」

 

「あたしはブルダ。

フルネームはもうちょい仲良くなってから。

よろしくな、アンタら。」

 

トレムはまだビビったままだったが、

その細い蔦が、ひとつだけピクリと動いた。

たぶん、それが彼なりの“よろしく”だった。

 

ブルダはそれを見てニッと笑った。

 

「いいねいいね、ツル草くん、わかってんじゃん!」

 

私は二人のやりとりを見ながら、

ふっと短く息を吐いた。

 

「この地獄にしては、

少しだけ……笑える昼だった。」

 

トレムとのやり取りが一段落したあと、

私は改めて、目の前の女――ブルダを観察することにした。

 

体格は圧倒的だ。

太く、しなやかな筋肉。

無駄のない動きは、何年も実戦で鍛え上げられてきた証だ。

ただの重労働者ではない、戦士の構えをしている。

 

だが、ただゴツいだけではない。

 

目はよく笑う。

皮膚には無数の傷跡が走っているが、そのひとつひとつが“過去を語っている”ようだった。

 

チュニックの下から覗く胸板に、うっすらと刺青のような紋が見えた。

炭鉱の者ではない――もっと別の場所の歴戦の記録。

 

「……随分と、型破りな熊だな。」

 

私が呟くと、

ブルダはにかっと笑った。

 

「ん?なぁに、見惚れた?」

 

「見惚れるというより、興味深いだけだ。

君がここにいる理由が、少しずつ分かってきた気がしてね。」

 

ブルダはその言葉に、ふふんと鼻を鳴らした。

そして、立ち上がると腰に手を当て、堂々と言った。

 

「よーし、気に入った!」

 

「今日の午後は、アンタらと一緒に掘ってやるよ!」

 

私とトレムが一瞬固まるのを見て、

ブルダは楽しそうに付け加えた。

 

「深層にばっかいたら目が悪くなっちまうからさ。

ちょいと肩慣らしにはちょうどいい相手見つけたってわけ!」

 

私は目を細めた。

 

「……いいのか?

“岩のスープ”と“空気の味”しかない、最高の労働環境だが?」

 

ブルダは豪快に笑った。

 

「上等じゃないか!

あたしは“味のない仕事”に、スパイスをぶち込むのが得意なんだよ!」

 

ジクは私たちのやり取りを横から見ていたようだった。

肩を揺らしてニヤつきながら、パンくずを摘んでいる。

 

「面白そうな組み合わせができたな……っと、あ。いけね、俺も仕事あったわ。」

 

思い出したように立ち上がると、

片手をひらひらと振ってこちらに言い残す。

 

「ま、程々になー。

あんまり気に入られすぎると、マジで一緒に深層連れてかれるぞ。」

 

そして、

坑道の闇にぴょこぴょこと小走りで消えていった。

 

私たちは再び作業場へと向かった。

湿りきった空気の中、昨日と同じ岩壁。

だが、今日の作業風景は一味どころか数十味くらい違った。

 

「さーて、いっちょやりますかぁ!」

 

ブルダは、

見張りから受け取ったツルハシをまるで玩具のように担ぎ上げた。

 

そのまま振りかぶって――

 

ドォン!

 

壁面が、一撃でベコッと陥没する。

 

「はい一発、今日の一歩!」

 

彼女は何の苦もなく、それを軽々と続けていく。

 

ズドォン! ガガァン! ゴリィィィ!

 

私とトレムは、しばし呆然とその背中を見つめていた。

 

「……まるでブルドーザーのようだ。」

 

私はぼそりと呟いた。

 

トレムの蔦が、一瞬だけ震えた。

どうやら、笑っているらしい。

 

ブルダは振り返ると、満面の笑みで親指を立てた。

 

「あんたたち、やっぱ最高の味してるわ!

皮肉とツル草とツッコミで、今日の労働も“バランス満点”ってね!」

 

坑道の空気は相変わらず最悪だった。

だが、ツルハシの音と、爆発的な笑い声が、

少しだけこの炭鉱を――生きている場所に変えていた。

 

作業の最中、私はツルハシのリズムに意識を委ねていた。

 

乾いた音。

粉塵の匂い。

そして、時折響くブルダの豪快な掛け声。

 

そんな中で、隣のトレムが――ふと、手を止めた。

 

彼の蔦が、岩の割れ目をなぞっている。

 

キラリ。

 

灯火虫の光が、その先で跳ね返った。

 

それは黒い岩の中に埋まる、異質な金属の光沢。

 

色は黄金に近い。

だが金とは違う、微かに脈動するような光。

まるで“呼吸している鉱石”。

 

私はトレムに促されるようにして、それに近づいた。

慎重に、岩を少しだけ崩す。

やがて現れたのは、拳大ほどの結晶体。

 

「……これは……魔石か?」

 

私が呟いた瞬間、

指先に“痺れるような違和感”が走った。

 

「おーおー、なんかピカってんじゃないの!金じゃねぇな、あれは」

 

ブルダが背後から覗き込みながら、目を細める。

 

「でも、すごく……あったかい、ような冷たいような。」

 

彼女の感想は、感覚の矛盾を言葉にしていた。

 

私はその石を手に取った。

 

すると――

 

視界が歪んだ。

 

私の中の何かが、“回路”を思い出すように震え出す。

 

かつては意のままだった魔術。

だが、この世界で封じられていた“系”が――

一瞬だけ、“戻ってきた”。

 

私は言葉もなく、手をかざす。

 

呼吸。

意識の収束。

触媒の共鳴。

 

そして――

 

《エルドリッチ・ライト》

 

黄金色の光が、掌から溢れ出た。

 

まるで星の残響のように淡く、静かに。

空気が震え、粉塵が宙に舞う。

坑道の一角が、刹那の間だけ“神聖な光景”に変わった。

 

ブルダとトレムが、言葉を失って見つめていた。

 

だが――

 

次の瞬間、光は弾けて消えた。

 

魔石は砕け散り、ただの無機物となって地に落ちた。

 

沈黙が流れる。

 

ブルダが口を開いたのは、それから数拍の後だった。

 

「……なんだい今の。

……あんた、ただの奴隷じゃないわけ?」

 

トレムは言葉がない。

だが、彼の蔦が――まるで光の軌跡をなぞるように、ゆっくりと空を描いていた。

 

私は目を伏せた。

 

「……“戻った”わけじゃない。

一瞬、目を開けただけさ。」

 

消えた光の余韻がまだ漂う坑道の中で、

誰もすぐには口を開かなかった。

 

トレムは小さく震える蔦を収めるように丸め、

ブルダは、さっきまでとは別人のように静かだった。

 

彼女の目には、鋭さと、警戒と――思慮があった。

 

「あんた、今の……魔法かい?」

 

私は答えなかった。

 

だが、沈黙はすでに“肯定”に近かった。

 

ブルダはゆっくりと立ち上がり、

坑道の壁にもたれるようにして言葉を継いだ。

 

「この国で、それを使うのは――命取りになるよ。」

 

その声は、

いつものような笑いを含まない、静かな警告だった。

 

「魔法は、もう“神の火”じゃない。

使えば、ただの“火あぶりの火種”になる。」

 

彼女の目が、ぐっとこちらを射抜いた。

 

「禁じられてる。

明確に、はっきりと。“あってはならない力”として。」

 

私は少しだけ眉をひそめた。

 

「理由は?

誰が、それを“禁じた”?」

 

ブルダは首を振った。

 

「詳細を知ってる奴なんて、今じゃそういない。

でもね、使った人間は一人残らず……

捕まるか、消えるか、“祓われる”。」

 

ブルダはストレンジの正面に立ち、静かに言った。

 

「見なかったことにしてあげてもいい。

あたしは、あんたが嫌いじゃないから。」

 

「でも、あんたがそれをまた“見せる”なら――

次は、誰かがあんたを見てるかもしれない。」

 

ストレンジは何も言わなかった。

ただ、地面に落ちた魔石の破片を見つめていた。

 

トレムは、そんな二人の間に立つように、

小さく蔦を揺らしていた。

 

「……っと、誰か来る。」

 

ブルダがぴくりと耳を動かした。

その瞬間、私も音に気づく。

 

ガチャリ――ギィ……キン、コツン。

 

坑道の奥から響くのは、金属の刃が床を引きずるような音。

見張り番の靴音と、無遠慮な道具の音だ。

 

「見張りだ。」

 

私が即座に呟くと、ブルダが頷いた。

 

「動こう。あの石の跡を全部消す。

今のタイミングで見られたら、あんた……すぐにボコボコにされるよ。」

 

私は足元の粉々になった魔石の破片を拾い集める。

触れるたびに、まだ微かに指先が震える。

 

ブルダは素早く、壁から剥がした炭の欠片とツルハシを使って、

周囲の岩肌を“元通りの炭層”に見せかけるように削り直していく。

 

「早い……器用だな。」

 

「伊達に深層掘ってないよ。

見張りの誤魔化し方も、生存スキルのひとつさ。」

 

その隣で、トレムは静かに動いていた。

 

彼の蔦が、破片の小さな欠片を拾っては、

壁の割れ目へと巧妙に滑り込ませていく。

 

「蔦くん、やるじゃん。

そっちの方が目立たない!」

 

私は、最後の破片を掌で包みながら、目を細める。

 

「ここまで来たら、頼む……誰にも気づかれるな。」

 

ギィィ……

 

その時、坑道の角を曲がって、

ちょうど見張り番が姿を現した。

 

鉄の兜に、片目が隠れた顔。

無精ひげの濃い、粗暴な男だ。

 

彼はのそりと歩み寄り、

我々の前で足を止めた。

 

「何やってやがる?」

 

ブルダが即座に返す。

 

「見ての通り、休憩明けの作業再開。

深層から上がってきてんだ、肩慣らしくらいさせてよ。」

 

見張り番は、ブルダの顔を見て、一瞬だけ表情を硬くした。

どうやら、彼女の“顔と腕っぷし”は知っているようだ。

 

「……チッ、好きにしろ。ただし、無理してぶっ倒れんなよ。

手間が増えるとこっちが迷惑だからな。」

 

そう言い残し、見張りは背を向けて去っていった。

 

……何も気づかなかった。

 

しばらく誰も動かなかった。

 

ただ、心の中で全員が確認していた。

「今のは……本当に危なかった」と。

 

トレムの蔦が、私の足元に軽く触れた。

まるで“生きててよかった”とでも言うように。

 

ブルダは両手を腰にあてて、

ため息をひとつついた。

 

「アンタ、つくづく面倒な奴だねぇ……

でもまぁ、そういう奴の方が、退屈しなくていいか。」

 

私は軽く苦笑した。

 

「褒め言葉として受け取っておこう。」

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