Doctor Strange: Chains of Revelation   作:Mr.グッドマン

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ドクター。脱走する。

決行は即断だった。

もはや準備も予告もいらない。

時間が“敵”になった今、我々に必要なのは“加速”だった。

 

深層“カラ肺”へと繋がる通路。

空気は乾き、岩肌は不自然なまでに脆くなっていた。

まさにここが、カトラが言う「崩し口」。

 

私は息を整え、周囲を確認する。

ジクは音を警戒し、蔭に身を潜め、

ブルダは背後の守りを引き受け、トレムは蔦で地面の振動を探る。

 

カトラが、壁の前に静かに立った。

 

「主。穿孔(せんこう)行動を開始します。

状況制御:リアルタイム地盤解析モード、起動。」

 

彼女の両腕が、カシンと機械音を立てて変形する。

指先から展開されたのは――回転式のナノドリルユニット。

 

「開始――最適角度:37.6度。

出力調整、パターンB。目標、地下層構造突破。穿孔時間予測、1分42秒。」

 

そして――

 

ブゥゥンッ――!!!

 

静寂を切り裂く低音が壁を貫く。

火花は出ない。ただ、石が砕かれていく規則的な“震え”が響く。

 

ブルダが思わず息をのむ。

 

「……マジで、“何者”なのさ、この子……」

 

ジク:「ああ、ほんとに笑えねぇわ、これ……」

 

だが、カトラの動きには一切の無駄がなかった。

 

壁の振動、地層の圧力、坑道全体の空気流――

すべてを“読み取りながら”、精密に岩を切り崩していく。

 

わずかに空気が変わった。

土の匂いが消え、湿った風が流れ出す。

 

トレムがそっと蔦を壁に当てる。

そして小さく、柔らかく頷いた。

 

「目標層突破完了。圧力安定確認。崩落リスク:1.7%。

成功です、主。」

 

カトラがスッと姿勢を戻し、壁の開いた穴を示す。

 

そこには――ゆるやかに流れる地下水脈が見えていた。

 

開かれた穴の先は、水の通路だった。

岩を削った自然の洞(ほら)を、地下水脈がくねりながら走っている。

 

水音は静かだが、その奥に確かな流れの勢いがあった。

この中を通る――それは、命がけの行為だった。

 

ブルダが先に足を踏み入れる。

 

「……ひっっっく……冷たっ!

よし、行くぞ!!背泳ぎできる奴は前に出ろ!!」

 

「何で背泳ぎ限定だよ!?」

 

カトラはすでに水に入っていた。

機械的に姿勢を制御し、水流の中を無音で進み始めている。

 

「水温、血流変化、呼吸調整……主。早めの潜水を推奨します。

恐怖による判断遅延は命に関わります。好きです。」

 

私は深く息を吸った。

その時、ふと頭をよぎった。

 

「……ああ、スイミングスクールに通っておけば良かった。」

 

「今それ言う!?」

 

「いや割とマジでわかるけどな!」

 

「医者にも魔術師にもなったのに……泳げないとは。」

 

トレムが蔦で背を支えながら、軽く“ぽよん”と私を押す。

まるで「いいから行け」とでも言っているようだった。

 

水中に身体が沈む。

 

冷たい。

視界が揺れる。

息が苦しい。

そして、前に見えるのは――ただの黒。

 

でも、後ろにあるのは、

奴隷の鎖と、乾いた鉱石と、鉄の視線。

 

ならば、進むしかない。

 

冷たい水が、全身を締めつけてくる。

 

私は前を泳ぐブルダの背中をかすかに捉えながら、

呼吸の残り時間を数えていた。

 

だが、肺が焼ける。

視界はぼやけ、思考が沈んでいく――

 

その時だった。

 

背中から、細い力が私を引いた。

 

トレムだった。

 

彼の蔦が水中で器用に動き、

私の腕を支え、推進力を与えてくれる。

 

流れに沿って、私は少しだけ息を整える余裕を得た。

 

だが――

 

その蔦の中で、一本だけ別の感触があった。

 

ふと、私はその根元に触れてしまった。

 

柔らかく、温かく、

それでいて、触れられてはいけない“何か”。

 

次の瞬間――

 

トレムが蔦の一部をバチンッと払う。

 

驚くほど素早い動作だった。

そして、蔦がわずかに赤く染まったように見えた。

 

それは、水のせいでも、光の屈折でもなかった。

 

私は、理解した。

 

この瞬間まで、ずっと“彼”だと思っていた存在――

その視線に宿る繊細さも、

口数の少なさも、

すべてが、“そういうことだった”と。

 

だが、こんな水中では、言葉にできない。

ただ、私は軽く視線を合わせた。

 

トレムは、ちらりとこちらを見て、

そっぽを向いた。

 

耳のような器官が、少しだけ揺れた。

 

水中でも、それが照れているということだけは、分かった。

 

私は小さく、口を動かした。

声にならないままの言葉。

 

「……ありがとう、トレム。」

 

――水のトンネルを抜けた先。

そこには、信じられないほどの“空”があった。

 

鉱山の奥深くで暮らしてきた私たちにとって、

太陽の光も、風も、空の青も――異世界そのものだった。

 

私は泥と水にまみれた体で這い上がり、

肺を焼くように空気を吸い込む。

 

「……これが、外の空気……!」

 

後ろから、トレムも顔を出す。

その顔に、ほんのわずかだが安堵の色があった。

 

そして最後に、ブルダが全員を引き上げる。

 

彼女は、濡れた鼻を一度すすり上げ、

拳を握った。

 

「……よくぞ、生きた!!」

 

その声は、鼓膜に響いた。

 

「あたしは何度もこの地獄に“潜って”きたけど、

ここまで“生きて出てきた”のは、初めてだよ!!」

 

だが――その言葉は、一秒と持たなかった。

 

パン――ン!!

 

乾いた銃声が、山の空気を裂いた。

 

山の下――谷間の方から、黒い影の一団が見えた。

 

「山狩り部隊だッ!!」

ジクが叫ぶ。

 

「やっぱバレてやがった……くそ、もう出てきてる!!」

 

見張り番ではない。

明らかに、軍服を纏った追撃部隊。

 

「逃げるぞ!!」

 

ブルダが叫ぶ。

 

「ここまで来て、あたしの獲物が討たれてたまるか!!」

 

一行は、山の斜面を駆け出す。

 

草を掻き分け、石を踏み越え、枝を払って走る――

“命”そのものを地面に叩きつけながら。

 

「こっちだ、ついてこい!!」

 

ジクの声が、先行する藪の向こうから飛ぶ。

小柄な身体を巧みに使い、木々の間をくぐり抜けながら、

彼は迷いのない足取りで森の獣道を駆けていた。

 

「奴ら、この山の地形を完全には知らねぇ!

俺の知ってる“抜け道”にさえ入れりゃ、撒けるッ!」

 

ストレンジはその後を追いながら、

心の中で苦々しく呟いた。

 

「……もし、“セラフィムの盾”が使えたなら。

一発の銃弾も通さず、皆を庇えたものを……」

 

だが、それはもう幻想だ。

今の私には、ただの人間としての“脚”しかない。

 

後方から、また一発の銃声。

木の幹に弾痕が穿たれ、乾いた樹皮が私の頬をかすめて飛ぶ。

 

「っ……!」

 

私は咄嗟にルートを切り替え、

木々を“盾”に使いながら、斜面を走る。

 

前方では、ブルダが石を拾い、片手で投げた。

 

木々をすり抜けて飛んだそれは、敵の一人の兜に当たり、

「なんだ!?」という声が散らばる。

 

「うまく当てなくていいのさ。注意を逸らせりゃ、それで十分。」

 

彼女はそう言いながら、

また別の石を拾い投げる。

 

だが、流れは向こうに傾いていた。

 

敵の追撃速度は落ちていない。

このままでは、いずれ足を止めざるを得ない――

“ジリ貧”。

 

この森は、我々を庇ってはくれなかった。

 

そして次の瞬間、カトラが冷静な声で警告した。

 

「後方部隊、3名。側面に2名、回り込み開始。

追跡パターンは“挟撃”です。主、選択を。」

 

銃声。

犬の遠吠え。

草を割る足音。

 

――山狩りは、本気だった。

 

「こっちだッ!!」

 

ジクの叫びが、藪の向こうから飛んでくる。

 

その声は、いつもの軽口とは違っていた。

何かを賭ける時の声だった。

 

私たちはその方向に全力で駆けた。

 

トレムが蔦で倒木を飛び越え、

カトラが正確なステップで岩の間を滑り、

ブルダは誰よりも早く地面を蹴った。

 

やがてジクが立っていたのは、

岩壁の裂け目――まるで動物の巣穴のような場所。

 

「ここだ!中に入れッ!頭を下げて、音立てんな!」

 

私はすぐに飛び込む。

冷たい土と湿った苔の匂いが鼻を刺す。

 

ブルダが最後に入った瞬間、

ジクが倒木を引き寄せて入口を偽装する。

 

蔦、落ち葉、泥。

それらを手慣れた手つきで重ねて、

まるで“何もない斜面”に戻した。

 

そして、全員が息を殺した。

 

外から――

足音が近づく。

 

声がする。

 

「こっちに来たはずだ!」

「踏み跡がある!」

「木が揺れたのは見た、間違いねぇ!」

 

その声は、すぐそこまで来た。

 

トレムの蔦が、私の腕に“きゅっ”と巻きつく。

緊張で震えていたのかもしれない。

私はそっと、指先でそれを握り返した。

 

「……いねぇな。」

 

「くそ、見失ったか?」

「森の中じゃ、また地獄の鬼ごっこかよ……!」

 

しばらくの後――

足音が、少しずつ遠ざかっていく。

 

ジクが小さく呟く。

 

「……ったく、あいつら山舐めすぎなんだよ。」

 

彼は、どこか誇らしげだった。

 

「ここは俺がガキの頃に隠れ家にしてたとこさ。

負けるわけないっての……!」

 

土の匂いと湿った空気が、まだ鼻に残っている。

 

耳をすませば、遠くの枝を踏む音や、獣の鳴き声が微かに響く。

だが、追っ手の足音は聞こえない。

 

私たちは、ジクの“抜け穴”の中で、

灯火虫のように小さな声を交わし始めた。

 

「……どうする、これから。」

 

私が問いかけた。

 

ブルダは腕を組み、険しい顔で天井を見た。

 

「今は無理に動けない。

急ぎすぎれば、逆に“尻尾”をつかまれる。」

 

カトラは静かに周囲をスキャンしていた。

 

「安全半径内。熱源および金属反応なし。

通信信号未感知。隠密状態維持可能。」

 

私はジクに目を向けた。

 

「君の知恵が必要だ。

このあたりに、我々が隠れられる場所はあるか?」

 

ジクは少し考えてから、

口元を拭って言った。

 

「……ある。」

 

「ここから北へ、山の斜面を下っていくと、

“廃村”が一つ、打ち捨てられてる。」

 

「昔、炭鉱の外れにあった集落だよ。

地盤が崩れて使い物にならなくなったって話でな。

けど、俺の知る限り、まだ何軒かの家は残ってる。」

 

「何より、“今は誰もいねぇ”ってのがデカい。

そこなら、一晩は確実にやり過ごせるはずだ。」

 

私はうなずいた。

 

「それで決まりだ。

まずはその廃村で態勢を立て直す。」

 

「あたしの筋肉にも休息は必要だからね。」

 

「同意。主の肺機能も回復が必要です。好きです。」

 

夕闇が、森の輪郭を溶かし始めていた。

 

鳥は鳴きやみ、

風はひゅう、と短く吹いては止まり、

木の葉がどこか不安げに揺れていた。

 

ジクが小声で呟く。

 

「今が出時だ。やつら、油断してる頃合い……だが、動きは慎重に。」

 

私たちは土の中の“抜け道”を静かに這い出た。

 

息を潜め、声を飲み込む。

足音は、土の上でさえ殺して歩く。

 

その時――

 

遠くの森に、揺れる光が見えた。

 

カンテラ。

 

追手たちはすでに散開していた。

夜目の利かない人間が、“光と犬”に頼るという最悪の組み合わせで。

 

ブルダがそっと耳を澄ませた。

 

「……犬の気配がある。足音が、規則的じゃない。」

 

トレムの蔦が、身をすぼめるように振動する。

恐らく彼女も、“本能で感じ取っている”のだろう。

 

カトラの声が低く響く。

 

「聴覚センサー反応。

追跡犬3体、カンテラ持ち6名。半径80m以内。

遮蔽物と風向きに留意し、移動経路を変更します。」

 

「おいおい、万能すぎるよあんた……」

 

私は、そっと息を吐いた。

 

「……魔術が使えれば

まとめて光ごと遮断できたのに……」

 

「でも、今の私にあるのは泥と息切れだけか……」

 

小声でそう呟く。

 

ジクが手で合図を送り、北の斜面にある獣道へ誘導する。

 

「あっちだ。こっからなら、奴らの網を抜けて一気に谷に出られる。」

 

私たちは、言葉を捨て、ただ頷いた。

 

追っ手を撒き、薄明かりの中を抜けると――

そこには、風に溶けかけた村が広がっていた。

 

屋根は崩れかけ、

窓は歪み、

門は草に飲まれていた。

 

それでも、どこか人の気配の名残が残っていた。

 

ジクが足を止めたのは、

その中の一軒――半ば崩れかけた木造の家。

 

彼は誰よりも先に扉を押し開ける。

 

音は立てない。

でも、その手には何か重たいものが宿っていた。

 

中に入ると、

家具は朽ち、埃が降り積もっていた。

だが、そこにあるもの――椅子、棚、食器、玩具――“生活の跡”は確かに残っていた。

 

ストレンジは壁際の、

乾いたはずの血痕に目を留めた。

 

数人分――人の手のひらがついたような跡。

 

だが、何も言わなかった。

 

ジクは、奥の床をまっすぐに歩く。

しゃがみこみ、敷板をめくる。

 

そこにあったのは、地下室への隠し扉。

 

「……誰にも見せたことなかったけどな。

今夜は、使わせてもらうぜ。」

 

彼は、静かに言った。

それは誰に向けた言葉でもなかった。

“かつて、ここにいた者たち”への言葉だった。

 

ブルダもトレムも、何も言わず、

そっとその家の中に入っていった。

 

カトラだけが淡々と呟く。

 

「構造解析完了。地下空間は換気経路を備え、滞在可能。

……この家、悪くないですね。好きです。」

 

地下室の中は、狭く湿っていたが、

それでも外の追撃を逃れて得た“安心”が、わずかな温もりを与えていた。

 

木箱を逆さにした簡易のテーブルの上で、

ジクが一枚の布を広げる。

 

古ぼけた紙――それは、手書きの地図だった。

 

「この地がどこか、今のうちに話しておこう。」

 

彼は静かに言った。

 

地図には、いくつかの領域が手描きされていた。

 

我々がいた炭鉱の位置、

その南に広がる鉱山都市、

さらに東に伸びる街道と、

その先に見える、いくつかの国境線。

 

ジクの指が、ある国をなぞった。

 

「ここが俺たちのいた場所、“ゼーリグ統治区”。

いちおう“共和国”って名乗っちゃいるが――

実態は、産業貴族が奴隷で利益を回すだけの、腐った国さ。」

 

ブルダが腕を組んで唸る。

 

「“人間様”だけが、社会を回せると勘違いしてる連中の巣窟ってわけか。」

 

ジクは頷いた。

 

「俺らみたいな“使い捨ての外れ者”は、

何もなくとも“罪”を背負わされる。」

 

ジクの指が、地図の東側に動いた。

 

「けどな――ここを越えた先。

“マルヴィア連邦”って国がある。」

 

「ここは、少しだけ風通しが違う。

種族の差別がないとは言えねぇが、

少なくとも“奴隷”や“炭鉱の掘っ立て人間”がそのまま殺される国じゃない。」

 

「……俺たち、この国から出るべきだ。

この国じゃ、“生きたまま生きる”ことすらできねぇ。」

 

私は地図をじっと見つめた。

 

逃げ道ではない。

これは、“選ぶべき道”だった。

 

「越境」――それはただの逃避ではなかった。

“生きる場所”を、自分たちで選ぶという、意志だった。

 

「マルヴィアか……聞いたことはあるよ。だけど、そこまで行くには?」

 

「峠を越えて、街道沿いの国境検問を抜けるか……“抜け道”の一つを通るかだな。」

 

「地形情報に基づくと、検問突破の成功率は17%。

迂回路の確保が必要です。」

 

地図を巻き、話し合いがひと段落すると、

ジクがふっと立ち上がった。

 

「さて……このままじゃ、いくら夜道を抜けたってすぐにバレちまう。」

 

「服を探そう。昔のクローゼットが、奥にあるはずだ。」

 

収納棚を開くと、

埃まみれの箱と、古びた木製のハンガーが現れる。

 

だが、その中には――

“過去の暮らしの名残”が、確かに残されていた。

 

シャツ、スラックス、コート、ベスト、

時代がかった服だけれど、まだ着られるものばかりだった。

 

私は、一枚のシャツに袖を通す。

汗と血にまみれた奴隷服を脱ぎ捨て、

素朴ながらもしっかりと縫われた白シャツを着た。

 

そして羽織るのは、動きやすさと防寒を兼ねたダークグレーのチェスターコート。

身体に程よく馴染み、思ったより軽い。

 

ズボンは、細かい縞模様のスラックス。

サスペンダーで吊り、編み上げブーツに足を通す。

 

「……少なくとも、“もう奴隷には見えない”な。」

 

トレムは、ひとつひとつの布地を指先で探るように見ていた。

 

そして、彼女が手に取ったのは――

薄緑のフード付きケープコートと、同系色の短めのシャツ。

 

その上から、彼女の蔦がコートを自然に巻き留め、

まるでアクセサリーのように肩を這っている。

 

下は、ダークブラウンのニッカボッカ風ズボンに、

裾の短い編み上げブーツ。

 

その姿は――

まるで森に溶け込む妖精のようだった。

 

ブルダはシャツを引っ張り出しては首をかしげ、

ため息をつく。

 

「……ないね。全部小さい。」

 

そして手にした男物のシャツの肩を――ビリィッ!

 

「よし、これなら動ける!」

 

両肩を思い切り破り、即席のノースリーブシャツに仕立て直す。

 

下は丈の合う作業ズボンを選び、

大柄な脚にしっかり巻くブーツを履く。

 

「これで十分。見た目より動きやすさだ。」

 

その姿はまるで、**鍛え上げた女戦士の“戦装束”**だった。

 

ジクは懐かしげに、ある一着を手に取る。

 

少し古びたベスト、ワインレッドのシャツ、

ストライプのスラックスに、愛用のハンチング帽子。

 

「……やっぱり、こいつが落ち着く。」

 

彼は胸元のボタンを留めながら、どこか遠くを見るような顔をしていた。

 

衣を整えた後、

カトラにも一枚の外套がかけられた。

 

彼女の服は、金属とも布ともつかない素材でできていて、

肌と一体化していた――それはつまり、“脱ぐ”という行為がなかった。

 

ブルダが古い外套を一つ手渡すと、

彼女は黙ってそれを受け取る。

 

そして肩に羽織る。

 

大きめのマントのような布は、

その小柄な姿に奇妙な陰影を与えた。

 

「体温調整により外套は不要ですが、

外見的には“落ち着いて見える”という情報は確認しています。

ありがとうございます。好きです。」

 

地下室に残っていた鉄製の囲炉裏に、

枯れ枝と麻布の切れ端を詰め、火を起こした。

 

あかりと暖かさが灯ると、

空間に少しだけ“会話”が戻ってくる。

 

ストレンジが、マグを手にしながら

ちらりとブルダの服装を見て、言う。

 

「なるほど。

ノースリーブにスラックス……まるで“地獄の農婦”だな。」

 

ブルダは火の向こうからニヤリと笑った。

 

「言ってくれるねぇ、ドクター。

あたしのファッションはね、“実用主義の極地”ってやつさ。」

 

ストレンジが肩をすくめる。

 

「いや、似合ってはいる。

問題は、**“服が負けている”**ことだ。

君の腕でシャツの方が絶命しかけているように見える。」

 

トレムが“ぴくっ”と反応して、くすくすと小さな笑い声を漏らした。

それはまるで、空気を和らげようとする小動物の鳴き声のようだった。

 

ブルダはその音に気づき、柔らかく笑う。

 

「ほら、トレムにはウケてるじゃないか。

あたしの肩、ジョークを挟むには最高の面積ってことさ。」

 

カトラがぼそりと補足する。

 

「主。ブルダ氏の上腕筋サイズは平均女性の284%。

なお、シャツの耐久値は37%に低下中。交換推奨。」

 

一同が思わず吹き出す。

 

束の間の笑いが、地下室を包んだ。

 

その笑いの後に、

ふと訪れる“沈黙”が、かえって心地よかった。

 

焚き火と衣服、そして皮肉。

それだけで、

人は“人”に戻ることができる。

 

そしてこの夜、私たちは少しだけ、

“未来”という言葉を口にする準備を始めたのかもしれない。

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