Doctor Strange: Chains of Revelation   作:Mr.グッドマン

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ストレンジ。突破する。

陽が高くなり、

草原の風が強くなり始めた頃――

 

ジクが地図を広げ、

丘の稜線に指を滑らせて言った。

 

「あそこだ。“グレイロック橋”。

この国の東境界を流れる“スローン川”を越える、唯一の建造物だ。」

 

「昔は交易にも使われてたが、今じゃ“兵の通路”だな。

両端に見張り塔があって、通行者はすべて記録されてる。」

 

私たちは、地形を読みながら進み――

 

やがて、木々の合間からそれは姿を現した。

 

“グレイロック橋”。

 

大きく湾曲した石造りのアーチ橋。

その中央には見張り塔があり、

左右の端には詰め所と物資用の簡易検問所。

 

橋の下には、灰色の水が流れていた。

 

「……派手に通ったら、即アウトだね、これ。」

 

「視認距離、最長で210メートル。

遮蔽ポイントなし。警備人数、推定6~8名。」

 

「通行証なきゃまず無理だ。

そして“通行証”は、金か偽造技術かコネが要る。」

 

私はしばらく橋を見つめていた。

 

「……なるほど。

ここは、ただの橋ではない。“選別”の門だ。」

 

「“人間か、そうでないか”。

“従うか、拒むか”。

ここは、その“答え”を強要する場所だな。」

 

ストレンジの言葉に、トレムが小さく身をすくめる。

 

だが、ブルダがその肩に手を置く。

 

「でもさ、あたしたち、もう答えなんてとっくに出してるよね。」

 

「“ここを通って、向こう側へ行く”――

ただそれだけで、十分じゃない?」

 

「問題は、“どうやって”だ。」

 

「よし、やるなら徹底的にやろう。」

 

私は一行に視線を走らせ、

今一度、計画の細部を確認する。

 

“ブルダが兵士に変装し、脱走奴隷を連行する芝居を打つ。”

 

その構図において、最も難しいのは――

 

ブルダ自身が“異種族であることを完全に隠す”ということだった。

 

彼女は、しばらく無言で自分の耳に手を当て、

その後、フードを深く被って言った。

 

「……ま、仕方ないよね。」

 

「耳を出したまま“あたしが人間です”って言うのは、

さすがに無理があるしさ。」

 

「今回は“力自慢の新米兵士”って顔でいくよ。

腕と声と態度で押し通す。」

 

私は頷き、

ジクと共に“捕縛された風の格好”へと着替える。

 

手錠の代わりに、

トレムの蔦を軽く巻いて“拘束されているように見せる”仕掛け。

 

ストレンジは目元に多少の汚れをつけ、

魔法の使えぬ囚人らしさを演出。

 

カトラはというと――

 

「自己封印モード、起動します。

表情なし、発声制限、動作遅延――“無害な輸送物”を模倣します。」

 

彼女は姿勢を丸め、目を半分閉じた。

完璧に“動かない物”になっていた。

 

「全員、準備はいいか?」

 

「ここからは、一言一言が命取りになる。

“芝居”だが――一度でも素に戻れば終わりだ。」

 

「了解。“大女で無骨な新兵”やってやろうじゃないの!」

 

そして、私たちは――

グレイロック橋の下部へと回り込み、

詰め所のある側へと向かっていった。

 

草を踏む音。

風に揺れるフード。

 

この橋は、“通行”というより、“選別”を行う場所。

私たちは、その“網の目”を、演じてすり抜ける。

 

グレイロック橋の詰め所。

 

それは灰色の石でできた無骨な建物だった。

その手前に設けられた関門の下、

重そうな肩当てをつけた衛兵が、無言でこちらを睨みつけてくる。

 

私たちは列を組み、

ブルダが先頭――フードを深く被り、無言で歩を進めていた。

 

その後ろに“囚人役”の私たち。

 

カトラは小さな荷車に括りつけられ、

まるで搬入される兵器のような様子を装っていた。

 

「待て。おい、そこのフードの……えらくデカいな。所属は?」

 

ブルダは一歩前に出て、

拳を胸に当てて、しゃがれ声で返す。

 

「あ、あたいは……いや、私は!

南西第十三混成連隊のぉ……あの、その……」

 

(…決めていなかったのか。)

 

私は心の中で天を仰いだ。

 

「……隊長の命で、この脱走奴隷どもを搬送することになったんだよ!

見ろよ、この汚ぇ面……見るからに厄介だろ?」

 

衛兵は片眉を上げた。

 

私の方を見た。

 

私はうつむいたまま、鼻で笑った。

 

「気分は最悪だ。

せっかく逃げ出したと思ったら捕まってしまった。」

 

「……随分喋る奴隷だな。」

 

「ッ……こ、こいつは“口だけ達者”ってことで、ね?」

 

「主の論理構成、自己矛盾を含んでいます。好きです。」

 

――空気、凍りつく。

 

「……今、“好き”って言ったか?」

 

私は咳払いをして、

素早くカトラの荷車を蹴って揺らした。

 

「無害です。

時折奇妙な音を発するが、爆発もしません。」

 

「………全く。信じられん。」

 

カトラ…。

 

「……やはり怪しいな。」

 

衛兵の声のトーンが変わった。

先ほどまでの“面倒臭そう”な態度が一変し、

鋭い命令口調が滲み出る。

 

「お前たち、全員その場で伏せろ。

連行ではない。これは“偽装侵入”の可能性が高い。」

 

私は身をこわばらせ、

横目でブルダを見た。

 

その肩が、ピクリと動く。

 

「“あたい”じゃなくて“私”って言った時点で、バレてたな……」

 

呟きが、小さく漏れる。

 

衛兵が手を伸ばす。

 

「そこの女、武器を――」

 

ゴッ!!

 

音より先に、動きがあった。

 

ブルダの拳が、

まるで“鉄塊”のような音を立てて、

衛兵の兜ごとその顔面を打ち抜いた。

 

「面倒くさッ……!!

もう“演技”とか無理だから!!」

 

衛兵は地面に転がる。

 

「敵襲――!!!」

見張り台から、金属を鳴らす音が響いた。

 

その場にいた他の兵士たちが、

一斉に武器を構え、こちらに向かって走り出す。

 

先手を取ったのは、やはり彼女だった。

 

衛兵を殴り飛ばした直後、

咆哮を上げながら敵陣に一人、突っ込んでいく。

 

「いっちょ暴れてやろうじゃないのッ!!」

 

両腕の筋肉が波打つ。

持っていた木槌を――

“兵士ごと”叩き潰すように振り下ろす。

 

一撃で盾ごと吹き飛ばされた敵が、

そのまま詰め所の壁に叩きつけられた。

 

「私の打撃は重いよッ!!」

 

突撃する敵兵に、片手でカウンターをぶつけ、

そのまま壁にめり込ませる。

 

「火力と耐久」――最前線にふさわしい暴風の如き熊娘。

 

その隣で、ジクは冷静だった。

 

マスケット銃に火縄をくべ、

敵の指揮官らしき男の胸を狙い――

 

パン――ッ!

 

一発必中。

 

だが彼の真骨頂は、ここからだった。

 

撃った後の銃を投げ捨て、

足元に潜ませていた短剣を抜く。

 

「鉄と火薬は一発だけでも、

手と脚は、ずっと使えるんでな。」

 

ジクは機動力で翻弄し、

戦場を舞台に変える。

 

敵が反撃に出ようとした瞬間、

足元に“生える”ように現れたのは――

 

蔦。

 

地面から突き出すように伸び、

敵の脚を絡め取り、引き倒す。

 

「……トレ……ム。」

 

彼女は言葉にならない言葉で、

仲間を守るように、防御網を張る。

 

地形を読み、

防御、牽制、補助を同時にこなす。

 

カトラの目が開く。

 

「封印モード、解除。

防衛機能:アクティブ。

敵性目標、ロック――好きではありません。」

 

手の甲から伸びる小型のブレード。

指先の関節が展開し、内蔵バーナーが起動。

 

前方の盾兵が構えるが――

 

ゴォォォ……!!

 

高熱の火炎で盾ごと焼き崩される。

 

「主命により、殲滅行動開始。対象、再分類。“処理対象”。」

 

「いつか“指を鳴らす”だけで倒せたのに、

今は“拳”で語らなきゃならんとはな……!」

 

身を沈め、相手の膝を蹴り――

崩れた隙に肘を顎へと叩き込む。

 

受け流し、跳び、転がる。

敵の力に抗うのではなく、利用して崩す――

 

「医術と武術の融合」――知性と経験で磨かれた戦い。

 

「皮肉な話だが……

魔法がない分、“私自身”が見えてくる。」

 

――戦場に、五人の影が踊る。

 

「暴」、「技」、「守」、「機」、「理」――

そのどれもが、この逃亡劇に必要だった。

 

パシュッ――パァン……!

 

鋭く乾いた音が空に弾けた。

 

橋の上空に、赤い信号弾が咲く。

 

それはまるで「死を招く花火」のように、

ゆっくりと落ちて、灰のように空に消えていく。

 

「チッ……やられたな。応援を呼ばれた。」

 

「通信形態:視覚式。警戒度ランク上昇。好きではありません。」

 

そして――

 

パン、パンッ――!!

 

次の瞬間、別方向からの銃声。

 

鉄を裂く音が、空気を削るように響く。

 

銃兵登場。

 

礼装ではなく、実戦用の長銃を携えた兵士たちが、

橋の両端から現れる。

 

彼らの動きは洗練されており、

射撃隊形を作り、遮蔽に入り、

「訓練された殺意」が陣形を組んでいた。

 

「被弾確率、上昇。遮蔽物推奨。分散行動推奨。」

 

トレムの蔦が展開し、簡易バリケードを張る。

ジクは再装填を諦め、地形を利用して後衛へ誘導。

 

「撃っていいのは、撃たれる覚悟がある奴だけだよォ!」

 

だが、私は気づいていた。

 

この乱戦の最中――

一人だけ、明らかに異質な“歩み”が近づいてくるのを。

 

彼は他の兵士とは違った。

 

無言で歩き、銃を携えず、

左腰にだけ佩いた細身のサーベルが、わずかに陽を反射していた。

 

一歩、また一歩――私の前に立ちふさがる。

 

「その身一つで、何を成すつもりだ?」

 

私は鼻で笑った。

 

「世界を救った過去もある。

だが今は――この拳で、せめて“私”くらいは守りたいと思ってね。」

 

相手が踏み込む。

 

速い。

地を蹴り、腰を落とし、斜め下からの刃が舞う。

 

鋭く、無駄のない剣撃――「訓練された殺人者」の技。

 

私は咄嗟に身をひねり、

肘で刃の進路をそらし、

逆手の拳で喉元を狙った。

 

手練れはそれを紙一重で避け、距離を取る。

 

「……良い構えだ。

だが剣がなければ、届かんぞ。」

 

「口が届けば十分だ。君の余裕を削るにはね。」

 

私は、あえて前のめりに突っ込む。

 

敵の刃が閃き、

私はギリギリの距離でその手首をつかみ、

足払いを繰り出す。

 

「体術」――柔術と戦場格闘の応用。

 

だが、手練れもまた訓練された兵。

 

体勢を崩されつつも、後方へ跳び、着地する。

 

「名は?」

 

「ストレンジ。君が死ぬ直前に覚えておく名前だ。」

 

橋の中央、刃と拳がぶつかり合う。

 

ストレンジと手練れ――

剣と魔術なき医師の、寸分違わぬ駆け引き。

 

その最中、私は確かに聞いていた。

 

――“仲間たちの前進する音”を。

 

「……ゴリ押し、行くよッ!!」

 

戦列の左側に向かって、

ブルダがその太い肩構えながら突撃する。

 

肩が弾を受ける。血が飛び散る。

だが彼女の足は止まらない。

 

「一瞬でいい、開けるぞ!」

 

彼が火薬瓶を投げる。

敵兵の前で閃光と轟音が走る。

 

その一瞬、敵陣に“空白”ができた。

 

「進入可能な破砕領域、確認。」

 

荷車の車輪が火花を撒き、

カトラが走り込む形で敵の中心を分断。

 

トレムは蔦を伸ばし、

後衛の兵士の脚を締め上げて引き倒す。

 

「……トレ……ム!」

 

そのタイミングで、通路ができた。

 

ブルダが怒鳴る。

 

「ストレンジ!今だ、来い!!」

 

私は手練れの剣を左へ払い、

ついに背後に“空気の変化”を感じ取った。

 

「……そうか。」

 

相手が再び踏み込もうとする。

 

私は一歩だけ下がり、

己の膝を地に沈め――

 

転倒を装う。

 

相手が勝利を確信して踏み込んだ瞬間、

私はその“重心”を崩すように、

肩で突き上げ、空間をひっくり返した。

 

「っぐ……!」

 

私は振り向き、走った。

 

馬車が用意されていた。

兵站用の古い荷車。

 

ブルダが手綱を握る。

ジクが荷台を蹴るようにして仲間を引き上げる。

 

トレムが蔦を巻いてストレンジを馬車へ引き上げる。

 

「……フッ、

やっぱり“魔法の馬車”ってやつは、

馬の脚と仲間の手で動くんだな。」

 

銃弾が後ろを掠める。

 

だが、もう届かない。

 

グレイロック橋を、馬車が駆け抜ける。

 

後方では兵士たちが混乱し、

信号弾の余煙が夜空を焦がしていた。

 

風が頬を打ち、

そして一つの“領域”を越えた。

 

 

ー ー ー

 

 

馬車は揺れに揺れた末、

とうとう、脚が止まった。

 

斜面を登った先のわずかな開け地。

草の間から岩が顔を覗かせる、小さな野営地。

 

日が傾き、空が橙と群青のグラデーションに染まる中――

ブルダは、無言で背を壁に預けるようにして座った。

 

彼女の肩から、血がこぼれていた。

 

左肩の上に巻かれた布――

それはまるで“仕事を終えた包帯”のように、

ほとんど色を失い、すでに滲み切っていた。

 

私は言葉を待たず、彼女のそばへと歩み寄る。

 

「……脱出できたことは、君の功績だ。

だが英雄は、出血多量で倒れてからでは遅い。」

 

ブルダは顔をそむけ、少し照れたように笑った。

 

「あたし、医者に世話になるの苦手でさ……

血とか、力づくで止めればいいって思ってた。」

 

「……でも、あんたがやるなら……いっかな。」

 

私はゆっくりと布を解いた。

銃創は浅くはない。

だが急所は外れていた。

むしろ問題なのは、不完全な圧迫と、破片の残存だった。

 

「いいかい? ここからは、少し痛む。」

 

私はポーチから、

残り少ない消毒液と針金状を取り出す。

 

「……魔法で治せれば早いのだが、あいにく“便利さ”は置いてきてね。」

 

彼女の肩口にピンを差し入れ、

微細な破片を一つ一つ取り除いていく。

 

ブルダは唇を噛みしめるが、声は漏らさない。

 

「……君は強い。

それは事実だ。

でも“痛みを我慢する強さ”と、“誰かに頼る強さ”は、別のものだ。」

 

「私は医者として、

君が“後者”を持っていることを誇らしく思うよ。」

 

ブルダは、小さく笑った。

 

「……なんか、あんたに言われると、

“褒められた”って感じがするな。」

 

私は最後に、

針と糸で裂けた皮膚を丁寧に縫合した。

 

「……よし、これで出血は止まった。

あとは清潔を保つことと――君の食欲が回復の鍵だ。」

 

「だったら心配ないね!……痛くても、食欲はあるからさ。」

 

その笑顔は、どこか無理をしていたけれど、

それでも、仲間としての信頼がにじむ明るさだった。

 

夜が更けてきた。

 

焚き火が揺れ、

星がようやく雲の間から顔を出す。

 

その光に導かれるように――

ぽつり、ぽつりと旅人たちが野営地に現れはじめた。

 

商人風の男。

荷を背負った女性と子供。

どこかで小銭を稼いできたらしい若者たち――

 

いずれも、疲れていた。

けれど目は、どこか穏やかだった。

 

ただし、我々を見る目には――警戒の色があった。

それは仕方のないことだった。

だが、あの国でのような侮蔑や敵意ではなかった。

 

カトラがその視線を記録しながら呟いた。

 

「敵意反応:なし。

警戒率:通常レベル。

種族別差別指標――有意差、観測されず。」

 

私たちは一歩、“異なる社会”に足を踏み入れたのだと知った。

 

その夜、

ジクと私は焚き火のそばで、少し距離を取り、

並んで腰を下ろした。

 

星の光と火の赤が、

私たちの横顔を照らしていた。

 

「……なあ、ジク。

我々はこれから、どこへ向かったらいいだろうか?」

 

ジクは焚き火をじっと見つめたまま、

しばらく言葉を選ぶように沈黙し――そして言った。

 

「――東だ。

ひたすらに、東を目指す。」

 

私はその方向に視線を向ける。

黒く沈んだ森の向こうに、確かにまだ見えない未来があった。

 

「そこに何がある?」

 

「……街がある。」

 

「獣人も、亜人も、妖精も、

ああいう“差別のない者たち”が、ひっそりと生きてる町だ。」

 

「名前は“リュトメル”。

かつて俺の妻が、そこから来たんだ。」

 

「……君の家族が?」

 

「ああ。

“あの国”じゃあ、彼女たちは“人ではない”ってだけで、

何もかも奪われた。」

 

「だから、行きたい。

生き残った奴らを――“帰るべき場所”へ。」

 

風が吹いた。

 

その言葉には、

怒りでも、悲しみでもない、“強さ”があった。

 

私はしばらく、その焚き火の音を聞いていた。

 

「……リュトメル。」

 

「“帰るべき場所”――か。」

 

どこか懐かしくて、

どこにもなかった言葉だった。

 

 

ー ー ー

 

 

「へへへ、ほら見てよ――!」

 

ブルダが両手いっぱいに抱えた袋をこちらへ掲げる。

旅人たちと交わした笑い声が、

まだ焚き火の奥から聞こえてくる。

 

「干し肉!乾燥野菜!塩もあったよ、塩!!」

 

彼女は無邪気に笑いながら、

まるで宝物のように袋を開く。

 

カトラが少し首を傾げて呟いた。

 

「交渉形式:対話・冗談・筋肉アピール。

……成立理由、再解析中。好きです。」

 

「交渉力と火力は、彼女に限っては同義らしいな。」

 

ブルダはそのまま、火のそばに座り込む。

 

肩の包帯が赤く染まっているのを気にも留めず――

彼女の手は既に“調理人の顔”に戻っていた。

 

「んじゃ、今回は“塩煮込み”だ!

ほら、さっきのうさぎの骨もまだ出汁出るよ?」

 

骨を割り、干し野菜を刻み、

塩と乾燥肉をほどよく煮立てながら――

鍋の中に、香りが戻ってくる。

 

火花が弾け、

湯気が立ち昇るその横顔は、

戦士ではなく、料理人だった。

 

旅人の子どもがそっと近寄ってくる。

 

「あ、そっち危ないよ!でも匂いはいいでしょ?」

 

「うん……すごく、おいしそう。」

 

「そりゃよかった!あたし、そういうのが得意なんだ。」

 

「“ちゃんと腹が膨れて、ちょっと笑える味”。

戦いの中でも、忘れちゃいけないやつさ。」

 

ストレンジはその様子を見ながら、

ふと、隣にいるジクへと囁く。

 

「ああして笑っていられる女がいるなら――

世界が完全に終わったわけじゃないな。」

 

「……ああ。“食って笑う奴がいる限り”な。」

 

鍋の中から、

優しい音がする。

 

小さな笑い声が聞こえた。

 

振り返ると、焚き火の外側――

少し離れた草の上で、トレムと子どもが遊んでいた。

 

子どもは、

彼女の蔦に手を伸ばして、

絡ませて、揺らして、

くるくると回る葉を楽しそうに見つめていた。

 

トレムは、言葉を持たない。

でもその瞳は、柔らかく揺れていた。

 

「木なの?花なの?」

 

「……トレ……ム。」

 

子どもはケラケラと笑い、

地面に棒で絵を描き始める。

 

その横で、トレムはそっと蔦を動かして、

子どもの描いた絵に合わせて“立体の形”を作った。

 

動く動物。

花の形。

そして――子どもとトレムが並んで立っている蔦人形。

 

それを見た子どもは、満面の笑みを浮かべた。

 

「すごい!」

 

「……トレム。」

 

その光景を、

私は少し離れた焚き火のそばから見つめていた。

 

静かな、あまりにも静かな場面。

 

だが、その裏には――

私は痛みのような感情を抱いていた。

 

「……子どもは、知らない。」

 

「この世界が、彼女のような存在を“化け物”と呼ぶことを。」

 

「トレムのその姿が、

かつて“炎に焼かれた者たち”と同じ形だと知らないから――

こうして、心から笑えるんだ。」

 

私は火を見つめながら、独りごちるように呟いた。

 

「……この世界は、歪んでいる。」

 

「だが……完全に壊れてはいない。」

 

「だから、天秤は揺れる。

差別と共存。恐怖と理解。支配と対話。」

 

「今この瞬間――あの子の笑顔と、トレムの沈黙が、

その天秤をわずかに“調和”へと傾けている。」

 

カトラが傍らで囁く。

 

「それは、“定量化できない希望”です。

でも……それこそが、人間的。好きです。」

 

私は静かに笑った。

 

そして、もう一度空を見上げた。

 

 

ー ー ー

 

 

夜は、静かに深まっていた。

 

焚き火は炭火だけを残し、

旅人たちも、仲間たちも、それぞれの夢の中へと沈んでいた。

 

星が冴え、

風は草を撫で、葉をゆらす音だけが響いている。

 

その時――

 

一つの影が、静かに立ち上がった。

 

ジクだった。

 

彼はそっと荷物を整え、

火打ち石と短剣だけを腰に差し、

背中に銃を背負うと、野営地の外れへと歩き出した。

 

彼は何も言わなかった。

ただ、“そうすることが当然”のように。

 

しかし、その背に――

 

「……君の足取りは静かだが、

呼吸に“決意”の音が混じっている。」

 

焚き火の影から、

私――ストレンジが立ち上がる。

 

瞑想から目を開けたばかりの瞳で、

まっすぐ彼を見つめていた。

 

ジクは足を止め、少しだけ口元を緩めた。

 

「……気づいたか。」

 

「眠れなかっただけさ。」

 

私は火に手をかざしながら、

わざと淡々とした口調で言った。

 

「君は“自分が何者であるか”を、誰よりも理解している。」

 

「だから、“一番静かに背負おうとする”。」

 

「だが、たまには――

“誰かに任せる”という技術も学ぶといい。」

 

ジクはふっと鼻で笑った。

 

「技術ってほどじゃねぇよ。

俺にとっちゃ、頼れる相手が現れた時点で奇跡だ。」

 

「……けど、あんたなら――任せられる。」

 

私は頷いた。

 

「この世界で“信頼される”ことが、

少しずつ心地よくなってきたのは、君たちのおかげだ。」

 

ジクは弓を外し、

そっと焚き火の近くに腰を下ろす。

 

「じゃあ……少し、目をつむるわ。

万が一、何かあったら、頼んだぜ。」

 

「任せておけ。

私は、誰かが“安心して眠れる夜”を守るために――

一度、医者になったんだ。」

 

 

ー ー ー

 

 

ジクが眠りについた後――

私は再び、焚き火から少し離れた場所で膝を組む。

 

目を閉じ、静かに息を整える。

空気を胸に取り込み、

心を、意識を、“自分自身の奥”へと沈めていく。

 

かつて、私は“別次元”と繋がることで力を得ていた。

それは知識であり、感覚であり、光であり、言葉であり、

“この世界ではない何か”を媒介にする、私の魔術の本質だった。

 

だがここでは――

その扉は、閉じていた。

 

「……いや、違う。」

 

「“閉じられていた”のではない。

私が、扉を見失っていたのだ。」

 

ゆっくりと、手を前に伸ばす。

 

掌の中にある“空間の感触”を感じ取ろうとする。

 

……空気が違う。

この国に入ってから、何かが――

ほんの少し、繋がりやすくなっている。

 

呼吸が深くなる。

 

意識が、光と影の境界へと降りていく。

 

――そこにあった。

 

ごくわずかに、

まるで夜の雲の切れ間からのぞいた星のように、

“次元のひび割れ”が感じられた。

 

私はその裂け目に、

かつての自分の声を響かせるように、

静かに語りかけた。

 

「……来い。“エルドリッチライト”。

我が魂と記憶に応じ、現世に応えよ。」

 

ふわり――と、空間が波打つ。

 

焚き火の残り香を越え、

冷たい夜風を切って――

小さな“光の糸”が、指先に浮かび上がった。

 

それは、

現実に存在しない光。

 

黄金に揺らぎ、

中には“星々の断片”のような模様がゆらめいていた。

 

それは、まさに――

 

“エルドリッチライト”。

 

私は目を細めた。

 

「……まだ、不完全だ。」

 

「だが、確かに“繋がった”。」

 

「扉は、少しずつ開いている。」

 

光は数秒漂った後、

ふっと霧のように溶け、空間に消えた。

 

私はゆっくりと目を開ける。

 

世界は、何も変わっていない。

だが――

 

私の中で、“始まり”が静かに鳴った。

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