殺し屋の目にも涙
夏の残暑もすっかり鳴りを潜め、時折り肌を冷たくあしらう冬の気配を纏った風が吹きつけるようになった秋半ば、真っ赤に染まる太陽を後ろにしながら、女子校生兼殺し屋であるソーニャは家路への道を歩いていた。本日鬱陶しい腐れ縁の折部やすなは何やら用事があると言って珍しく先に帰り、ソーニャは静かな帰り道を無言で、特に何も考えることなく歩き続けていた。
ただ、どうもやすなの居る生活に慣れるとこの静けさがやけに気になった。まるでいつも身につけている腕時計が無いような、何とも不安定な感覚。少しばかりむず痒い感じだ。
それもこれも、あの雨の日のせいである。やすながあんなことを言わなければ、もうちょっと考えずに済んだのだ。あんな本気の目で訴えられたら、嫌でも頭に焼きつく(『あめふろざけねりとうがたつ』を参照)。
命乞いの顔なんてすぐに忘れるのに、やすなのことになると頭を離れない。これは結構深刻な事態かもしれない。これもやすなのせいだ。今度会ったら殴ってやろう。
ソーニャは家路を急ぐ。太陽はもう山の向こうに消えそうになっていて、そろそろ真っ暗になりそうだった。殺し屋としては暗闇は活動しやすいのだが、その一方で敵に襲われやすいと言うデメリットもある。だからソーニャは夜がそんなに好きじゃない。動きやすくて良いとは思う。しかしデメリットがあるという時点で気に食わない。まぁ、今に始まった事ではないし、自分はそんなに柔じゃないから夜に奇襲を受けてもどうということではない。
と、帰り道の途中にある空き地の横を通り過ぎた所で、ソーニャは何か生き物の気配を感じた。耳を澄ませば息遣いも聞こえる。一瞬身構える。が、人間の気配ではないと言うことにすぐ気がついた。家の陰で暗くなっている空き地に目を凝らせば、小さな段ボールが一つ。ソーニャはそれで察した。
ひょっこりと、箱の中から小さな子犬が顔を出した。白い毛並みで、泥や砂で少しばかり薄汚れた顔だった。捨て犬か。ソーニャは安堵のため息をつく。さてもう用は無い。帰ろう。
とは思ったのだが、ソーニャは何となく嫌な予感がする。夕暮れの帰り道。ふと目があってしまった少女と子犬。こんなシチュエーションどこにでもありそうな気がする。いや、大丈夫だ。こういう展開は撫でたり可愛がったりした時に起こる物だ。無視でいい、無視。
ソーニャは空き地をスルー。気を取られている暇なんて無い。面倒事はご免だ。私は動物が嫌いだし、好かれる事もないだろう。
と思っていたのだが、案の定の結果が起きる事をソーニャはすぐに知ることになる。
「わんっ!」
「…………うげぇ」
ソーニャは後ろから聞こえた恐らく人間には出せないであろうイヌ科の子供が出すであろう鳴き声を聞き、ゆっくりと振り返ろうとするが、一瞬思い留まった。ここで振り返ると恐らく今度こそ逃げられなくなる。そうなったら面倒になるのは間違いない。曲げた首を真正面に戻し、呼吸を整える。カウントダウン開始。3、2、1……。
「うぇい!!」
ソーニャは全力疾走で走りだす。やすなから逃げるときの約半分ほどの速力である。あいつから逃げるときはこれでは足りないのだが、高田が犬一匹にならこれで十分だろう。
いくつか角を右に左に不規則に曲がり、ついでにバックの中から飲みかけの水を取り出して撒き散らす。これで臭いは消えるだろう。更に念を入れてたまたまやすなから押し付けられたビーフジャーキーを分かれ道に置いておく。さぁどうだ、誘惑たっぷりだ。腹を空かせた犬よ、存分に食え。
そうしていくつか角を曲がったところで、後ろをゆっくりと確認する。目標、追って来ず。尾行を振り払うことに成功したようだ。
「ふぅ。ま、所詮犬なんてこんな物か」
ソーニャは少し回り道になってしまったなと、家へと向けて歩き出す。気付けば太陽は完全に沈み、茜色の空も消えかかっていた。遅くなった、早く帰らないと。ソーニャはようやく安心して家路についた。もうあの道は避けておこうかと、小さく心に誓った。
*
そして次の日。ソーニャは再び空き地前まで戻ってきた。別に犬が気になったとかそんな理由ではないと先に言っておく。自分の失敗の落とし前をつけに来ただけである。
昨日犬から逃げる時に、鞄を漁り回したせいでナイフを一本落としてしまったのだ。大量に持ち歩いているナイフだが、実はその一本一本はソーニャが徹底的に管理している。使い捨て専用と、近接戦闘用に分けていて、その戦闘用のナイフを一本落としてしまったのだ。
「まったく、不覚だ……」
落としたとするなら、このルートのどこかである。まずは空き地の前をちらりと通過する。昨日と同じく、段ボールが置いてあった。しかし犬の姿はないようだ。ラッキーだ。安心して探せる。
ソーニャは空き地の前を通過して、注意深く地面を見回す。確か走り出したのはこの辺りからだ。そしてこの先の曲がり角を左に曲がり、その次の角で右に行った。その際、鞄を最初に開けて水をまいたからまずはあの辺りだろうか。
と、歩いている内に第一ポイントにたどり着いた。何の変哲のない別れ道だ。ソーニャは首をめぐらせて見るが、どこにも落ちていない。誰かに拾われたと言う可能性も否定できないが、ここには無いと見ていいだろう。ゴミ箱の様な何か紛れ込みそうな物もないし、さっさと次の場所に行くのがセオリーだろうか。
一応もう一度辺りを見回して、ソーニャは次のポイントに向かう。どうか早く見つかりますように。ただ、見つからなかった場合ちょっと面倒だ。組織に始末書を出さなければならない。これが思いの外、面倒なのだ。
頼むから見つかってくれ。少し歩いて、次の曲がり角に差し掛かった時だった。
「ワンッ!」
「…………げっ」
ソーニャは顔を下に向ける。その下にはへっへっへと舌を出し、ソーニャを見つめる二つの瞳。やや薄汚れた毛むくじゃらの子犬。間違いなく、昨日の犬だった。
「…………トゥ!!」
ソーニャ、再び全力ダッシュ。それはもう己の人間としての全身全霊をかけての全力疾走だった。気配で分かる、ついて来ている。自分の息使いの他に小動物の荒い呼吸が聞こえる。流石は動物、走ることに長けている。だが、自分だってただの人間ではない。ソーニャの走りっぷりは、さながら奥歯にカソクソーチをつけたサイボーグの如く走り抜ける。出て来る角を片っぱしから思いつきで曲がりに曲がる。
どうだ犬、この私の速力。ウサ○ン・ボルトや動物にだって負けない脚力だ。この全力の本気、どんなものだ。
しかし、だ。確かにソーニャの脚力は世界陸上で文句なしの実力者である。事実いつの間にか犬は追いつけなくなって、ソーニャが独走状態で走り抜けていた。だがこの場に彼女、折部やすながいたのならこう言っただろう。
『うわぁ……子犬一匹に何そんな本気出してるの』
その後、ソーニャはようやく追跡を振り切ったことに成功し、肩で息をしながら「どうだ……」と小さく漏らす。恐らく今までやってきた暗殺任務よりも厳しかったかもしれない。だが勝った、因縁の犬に勝利したのだ!
「ワン!」
極限の絶望を叩きつけられた。ソーニャは恐る恐るまた下を見る。まるで最初からそこに居たかのように、子犬は舌を出して、普通の人が見れば非常に愛くるしい目で見ていた。
(バカな!? 完全に振り切ったはずだ、なぜ……なぜここに!?)
ソーニャは驚くことしかできなかった。間違いなく追尾は振り切ったのに、何故ここに居るのだ!?
とは思うソーニャだったが、実のところ犬の追尾を振り切ったのは間違いない。現に子犬は一度諦めて別の道から戻ろうとしたのだ。そして、そこへとソーニャが現れた。
そう、つまりソーニャは適当に方向転換をして、ぐるりと一周して犬の居る場所に出て来ただけなのだ。
「くっそ……」
ソーニャはどっと疲れが出て、塀を背もたれにしてどすりと座り込んだ。もう好きにしろ。煮るなり食うなり好きにしろ。ソーニャは諦めて力を抜いた。
「アウ?」
子犬はぐったりとしたソーニャに近づき、首をかしげる。「もう走らないの?」そんな事を言ってるような顔つきだった。
「……構ってるほど暇じゃないんだよ」
積極的に近づこうとしないのがせめてもの救いだろうか。いつかの犬はものすごく近付きまくって、はてあの後噛まれたりしたのだろうか。まぁ、子犬程度なら噛んでもそんなに痛くもないし、こいつはどうやら飛び付くようなタイプではないようだ。
と、子犬は一度ソーニャの手の匂いをくんくんと嗅ぎ、何かを確かめたかのように方向転換をしてどこかへと消えていく。何だ、もう興味無くなったのか。幸いだ。
「……疲れた。帰る」
ソーニャはスカートをはたきながら立ち上がると、帰ろうと家へと続く道を確認した瞬間だった。
「…………ここ、どこだ?」
何と言うことだ。犬から逃げるのに必死になりすぎて自分がどこに居るのか分からなくなってしまった。犬は分かるのだろうが、自分には嗅覚なんて無いから帰り道が分からない。何と言う不覚だ。
携帯のGPSを取り出そうと思ったが、ああ素晴らしきかなご都合主義。電池切れである。予備のもう一つの形態はダミー用の液晶でもないほど古い携帯だ(アニメに一度登場してる)。GPSなんて無いに決まってる。一応言っておくがやすなに道を聞くのは論外だ。
「くっそ……なんてこった」
ソーニャは天を仰ぐ。なんでこうも付いてないのだろうか。ナイフは落とす、犬に追いかけられる、やすなからの訴えを聞いて微妙な気持ちになると、最近変なことが多々起きてる。槍でも降ってくるのだろうか。
夕日が暮れる中、ソーニャの気持ちも途方に暮れる。日本の夕日はなんて美しいのだろうか。目に良く染みる。気分次第ではものすごく見かたが変わる。今の気分? ああ、泣きたい。
「ワフ!」
と、何度目か分からない犬の鳴き声。ソーニャは驚くことなく、疲れたかのように下を向くと、またもさっきの子犬がソーニャを見つめていた。ただ、さっき聞いた声は何かを咥えているような感じだった。
現に、犬は口にある物を咥えていた。あの時、ソーニャが囮としてまいたビーフジャーキーだった。
「…………お前、まさかこれを届けようとしたのか?」
「ワン!」
お腹空いてそうだから持って来たよ、だからほめてほめてー、と尻尾を振りまくる子犬。純粋無垢のその瞳は、どこかのバカを思い出した。まぁ、やる事を見るとこっちの方が賢そうだが。
「ワウ!」
と、子犬が立ち上がり、とことこと歩き出した。帰るのか? と言ってもどこに? ソーニャはしばし見つめるが、子犬は少し歩いた後に後ろを振り返る。ついて来いと言う意味なのか?
「……まぁいいか」
どうせこのまま突っ立っていても変わらないのだからと、ソーニャは付いていくことにする。誰もいない住宅街の路地。傾いた太陽は一人の少女と一匹の子犬を照らしていた。
*
結論からというと、ソーニャは無事自分の知ってる道まで帰ってくることが出来た。子犬は自分が捨てられた空き地にまで戻り、段ボールの中へと入った。
「……やすなよりしっかりしてるな」
まるでここが自分の居場所だと言わんばかりの対応である。こいつは自分が捨てられたと言う事を知っているのだろうか。かなりのサバイバル精神である。
「……ま、礼は言っておくぞ」
ソーニャは少しだけ躊躇ったが、軽く頭を撫でてやる。ごわごわとした洗われて無い毛並み。一体いつから外に居るのだろうか。一人で寂しくないのだろうか。それとも捨てられた自覚が無いのか。
子犬はやや心地よさそうに目を閉じて、しばらくしたら眠りそうなほどだった。ソーニャはもう日が暮れそうなのを見て、帰ることにした。
「すまんな、私はお前にずっと構っていられるほど暇じゃないし、優しくないからな」
ソーニャは立ち上がると、今度こそ家路に向かう。空き地を離れる際に、ちらりと段ボールを横目に見る。が、子犬が追ってくることは無かった。
*
次の日。ソーニャはまたも自分の足が空き地に赴いたことに自分で呆れた。本来ならもう無縁のはずなのだが、来てしまった。別に、別に犬が気になっている訳ではない。そう、借りを返しに来たのだ。だからこれは当然のことなのだ。
ソーニャはそっと段ボールに近づき、中を覗きこもうとすると、それよりちょっと早く子犬がひょっこりと顔を出した。思わず足が止まり、体が跳ね上がりそうになるが、ぐっとこらえてコンビニ袋の中から缶詰めを取り出した。最高級ドッグフードである。
「ほら、昨日の礼だ。世話になった奴なら嫌いな犬でも礼くらいはする。言っておくがお前が気になってる訳じゃないからな。だから正当な謝礼だ」
ぱきっ、と缶詰めを開け、段ボールの中に残された空の皿に中身を盛り付けると、子犬はクンクンと臭いを嗅いで確認する。そしてまず一口目を食べて、そして安心したのだろう。がつがつと良い食べっぷりを見せる。気に入ったようだ。
(というかこれは食べれるんだな。一応ミルクも持ってきたが、必要無かったか? いやどの道栄養のために必要だろうし、いいか)
と、ミルク皿に専用ミルクを注ぎ込む。ぺろりと平らげた子犬は、続いてミルクを美味しそうに舌で飲む。こうしてみると、案外悪くないかもしれないなとソーニャは感じた。まったく自分も角が削れてきたな。
「ワン!」
子犬はソーニャの持ってきた餌を全て平らげ、嬉しそうな顔でソーニャの顔をじっと見つめる。まだ何かしてほしそうな感じである。何がしたいんだ? そう思った矢先、子犬は毛布の下に鼻を突っ込み、しばらく何か探すと顔を上げた。その口に、どこにでも売ってそうなカラーボールを咥えていた。
「遊んで欲しいのか?」
「ワウ!」
「…………ふむ」
ソーニャはボールを受け取ると軽く眺めてひょいと垂直に投げて具合を確かめる。まぁ、いいか。ソーニャは空き地の隅の方に向けて投げる。子犬は全力疾走でボールを追いかけ、地面を転がるボールをキャッチすると、尻尾を大きく振ってソーニャの元まで届けた。
尻尾がものすごい勢いで振られている。それがソーニャの印象である。果たしてちぎれない物なのだろうか。
ボールをまた受け取ると、犬はソーニャの足にすり寄ってまた褒めて欲しそうにじっと見つめる。
「はいはい、わかったよ」
ソーニャはまた優しく頭に手を置き、今度は顎の方にも手をまわして顔全体を撫でてやる。やはり毛並みはいいとは言えない。洗ってやりたい気もするが、それ以上関わるのもよくないから早く飼い主が見つかるといいのだが。いやまぁ餌付けした時点でダメなのだろうが。
その後、ソーニャはしばらくの間犬の相手をしてやった。投げては受け取り投げては受け取り、そんな単調な動作の連続だったが、それを取りに行く犬の動きは全く単調ではなく、常に新しい動きを見せていた。色々新鮮だった。
子犬は疲れたのか、あまり走りまわらなくなって段ボールに戻る。今日は終わりか。ソーニャは段ボールの前でしゃがむと、もう一度軽く撫でてやる。
「これだけ利口なら、私の落としたナイフでも見つけてくれたら嬉しいんだけどな」
「わう?」
「これだ。って言っても分からないか」
ソーニャは落としたナイフと同じ物を取り出して、犬に嗅がせてみる。くんくんと臭いを嗅いで、しかし興味が無いように毛布にくるまった。やはり無理か。ソーニャはやや落胆のため息。ソーニャは、その日は素直に帰ることにした。適当に片付けて鞄を持ち上げたころ、既に子犬は寝息を立てていた。
*
翌日。朝から嫌な雲が立ち込め、じめじめと高い湿度がソーニャの体をじっとりと撫でまわし、鼻孔の奥を雨の臭いがくすぐった。間違いなく降ってくるだろう。ソーニャはやや憂鬱な気持ちになりながら、雨が降る前に学校に到着し、隣でうるさいやすなの相手をしながら放課後を迎え、さぁ帰ろうと言う時についに雨が降り出した。
「うわー、ソーニャちゃん降ってきちゃったねー」
昇降口でやすなが空を覗きこみながらそう言う。ソーニャは「ああ」と適当に返事をして傘を広げると、外へと出る。やすなもそれを見てやや慌てて追いかける。
「そう言えば二人で帰るの久しぶりだねー! なんだか寂しかったよ~」
「別に私はどうとも思ってない。むしろ過ごしやすかった」
「またまたぁ、そんな事言って私が居ないと寂しかったでしょう? 素直じゃないなもう!」
―バキョッ―
「あああああーーーーー!!!」
やすなの手首関節が見事に外れ、ソーニャは鼻を鳴らしながら歩みを進める。やすなはガコン、と腕をはめ直してソーニャを追いかける。いつの間に自分ではめられるようになったのだろうか。
「そう言えば、雨って言うといつだったか段ボールに入っていた猫思い出すね」
「おかげで私たちは風邪引いたけどな」
「でもまぁ、小さな命を救えたんだから結果オーライだよ! ほら、殺し屋にも優しい心があるじゃん?」
「別に」
ソーニャはそっぽを向いて返答を誤魔化す。やすなはニヤニヤしながら視線を前に戻して、一緒に歩みを進める。猫か、そんな事もあったな。そう言えばこの前あぎりの家に行った時猫が一匹いたが、どことなくあの時の猫と似ていたような。
「でも、もしあの時、猫にも傘が無かったらきっと寒くて死んじゃったかもしれないよね。どうしてあんな所に捨てちゃうのかな」
「人間なんて身勝手の上に成り立ってる物だ。私もお前も少なからずの身勝手で生きてるからな。お前なんか身勝手の見て生きてるようなものだし」
「……なに痛い人みたいなこと言ってるの、バカじゃないの?」
「きっさまぁあああああああああ!!」
ソーニャ、怒りの鉄拳。やすなは紙一重でそれを回避し、悲鳴と笑い声が混じった叫びを上げながら脱兎のごとく逃げ出す。ソーニャは問答無用で駈け出そうとして、しかしふとやすなの言った言葉が頭をよぎり、立ち止まる。やすなも追いかける気配のないソーニャに気づいて停止し、振り返った。
「ソーニャちゃん、どうかしたの?」
「……いや」
そう言えばあの犬はどうしているんだろうか。あの段ボールに屋根なんて無かった。毛布は敷かれていたが、水を吸ってしまえばただの重りだ。ソーニャは、少し……いや、かなり気になっていた。
「……今日、用事があったのを思い出した。だからお前は先に帰れ」
「えー? こんな雨なんだから別に気にしなくていいじゃない」
「大事な用なんだ。ちょっと落とし物したから早めに回収したい」
「落し物? あー、なら大変かもね。雨だから流されちゃうし。仕方ないっか」
「ああ、また今度埋め合わせする」
と、ソーニャは踵を返して一旦学校へと続く道へと進路を向ける。やがて角を曲がりソーニャの背中が見えなくなった所で、やすなは今にも殴りたくなる様な、それはそれはとても面白い事を考え付いた子供の様な笑みを浮かべた。
「怪しい。絶対怪しい。何かあるに決まってる!」
やすなはそそくさとソーニャの背中を目指して追いかける。気付かれないように、そっと追いかける。角を曲がった先には、走るソーニャの姿。それを見失わないように追いかける。ちょうどそのころになって、雨の勢いが増した。尾行には打ってつけの環境である。
やすなはこの天候の変化に感謝しつつ、ソーニャが一体何をしているのか、何か面白い物が待っているだろうかとワクワクしながら、ひたすら金髪の殺し屋を追いかけ続けた。
*
ソーニャは息を切らしながら、子犬のいる空き地に向けて走り続けた。雨脚は次第に強くなり、じわりじわりとソーニャの靴やスカートを濡らして体温と体力を奪っていく。耐えられない訳ではないが、好きではない。
いつもよりも時間を長く感じながら、ようやく例の空き地にたどり着いたソーニャは、雨に打たれて今にも破れそうな段ボールを見て大急ぎで中を確認する。
「……居ない?」
中には濡れ切った毛布とタオル、餌皿に遊んでやったボールだけが残っていて、肝心な子犬の姿だけが見当たらなかった。どこかに身を隠しているのだろうかと辺りを見回すが、見当たらない。ちょっとした物陰も覗いてみたが、やはり居なかった。
「どこに行ったんだ?」
こんな雨の中で、一体どこへ行こうと言うのだろうか。居ない以上探しても見つかる可能性は低いからもう帰った方が妥当だとは思うのだが、やはり何か府に落ちない気がしてもう少しだけ近場を探すことにした。
取りあえず自分の歩いた道をそのまま辿ることにした。携帯の電池を確認する。今回はほぼ満タンである。迷ってもGPSが使える。現在位置を確認しながら、思い当たる道順を歩く。もう三回目くらいだから大体の道が分かるようになっていた。確かあの電柱前で転がっていた空き缶にじゃれついていた。
この角を曲がり、もうしばらく歩けば子犬に追いつかれた場所に出る。そこに居るのだろうか。
そうは思っていたが、やはりここにも居なかった。こうなるともう思い当たる節が無く、これ以上むやみに探しても無駄だろうと考えるのが普通だった。もしかしたら誰かに拾われているのかもしれない。それなら自分がこれ以上干渉する必要もないだろう。
ソーニャはやや気に入らないが、もう帰る事にした。しばらく雨も止みそうにないからさっさと帰るのが一番だ。そう思い、ソーニャは携帯を開くと位置を確認して帰ろうと指を走らせた、その時だった。
そう遠くない場所で、トラックが急ブレーキをかける音がして、その次に小さく『ゴンッ』と何かとぶつかる音がした。雨で視界が悪いから何かにぶつかったのだろうか。そう思った瞬間、ソーニャは何か嫌な予感がした。
気付けば音がした方に足が向いていて、いつしか小走りになっていた。雨の降る音に混じってトラックのエンジン音が近付いて来る。それに合わせて嫌な予感が増していく。
そしてようやく音が目の前に近づいた所で、目の前の十字交差点から一台のトラックが左に走り去っていくのが見えた。ソーニャはとっさに右を向いて、そして嫌な予感と言う物は驚異の的中率を発揮するという迷信を呪いたくなった。
交差点近くに、小さな何かが転がっていた。近付いてみればそれは前進を体毛で覆われ、耳があり、尻尾がある、紛れもない獣の類であった。いや、そんなものは見ればすぐに分かる。だってこの生き物は、この子犬は、つい昨日にボールを投げて遊んでやっていた子犬なのだ。
「…………おい」
ソーニャは傘を取り落として近寄る。膝をかがめてそっと触れてみる。どこからか血が流れ、その場をゆっくりと赤く染めていく。まだかすかに、本当に微弱な反応ではあったが、子犬はほとんど呼吸と変わらないほど小さな鳴き声でソーニャに応えた。
「なんで……こんなとこに居るんだよ」
子犬は答えることはしなかった。しかし、ソーニャはわずかに顔を上げたその先に、かすかに光る金属物を発見した。それに手を伸ばしてそっと握って確認する。それは紛れもない、自分が無くした暗殺用のナイフ。まさか、まさかこいつは本当にナイフを探していたとでも言うのか?
「お前……これを探してたのか? 私に返す為に……」
ソーニャはもう一度呼びかける。だが、子犬が返事をする事は無かった。呼吸も心臓も、全ての生命維持機関が停止し、子犬はただの肉の塊となって、その場に居るのはソーニャだけとなっていた。
ソーニャはただその場に座り続けた。雨の音だけが、彼女の鼓膜を震わせる。ぼろ布の様になった子犬は、雨に打たれ続け一瞬見ただけではそれがなんなのか全く分からない状態になっていた。そっと両手で持ち上げ、自分の腕の中に収める。ほとんど無意識で行ったことだ。
「まったく……余計なことしやがって。誰もこんな日に探せなんて言ってないだろうが……」
ぎゅう、とほんの少し強くだけ抱きしめてやる。死んだ人間の姿はいくつでも見て来た。けど、なんだこれは。何でこんなちっぽけな命が一つなくなっただけでこうも胸が苦しいのか。ソーニャには理解できなかった。
冷たい雨がソーニャの体を冷やしていく。制服も髪の毛も、見るに堪えないほどぐっしょりと濡れ切っていた。体温もぐっと低くなって、ソーニャ自身は気付いてなかったが、体の震えが止まらなかった。
と、ソーニャを叩いていた雨が突如として止んだ。正確に言えば雨自体は止んでいない。耳には雨の音が相変わらず叩きつけられている。雨は、ソーニャの周りだけが止んでいた。
「……ソーニャちゃん、風邪ひいちゃうよ?」
「…………」
ソーニャは何も答えなかった。声の主は誰なのか考えるまでもなく、折部やすなその人である。何でここに居る、なんて聞こうと思わなかった。聞く気が起きないと言うか、今は無性に何もしたくない、という心境の方が強かった。
やすなも、多分そうじゃないかなと思っていた。だから返事が来なくても平気だった。次に自分が何をするべきなのか、分かっている気がしたからどうということはなかった。
「……雨宿り、しようか?」
「…………」
ソーニャは、やすなの問いかけに答える代りに、子犬を抱えたままゆっくりと立ち上がった。
*
二人は近くにあったシャッターの閉められた商店跡の貼りだした屋根の下で雨が止むのを待ち続けた。またしばらく待って入るものの、まだ雨が上がる気配は見受けられなかった。やすなは、ちらり、とソーニャの方を見てみる。
ソーニャの腕の中には、タオルにくるまれた子犬が抱かれていて、それ以降言葉を発することはなかった。やすなは、安易な気持ちで後をつけたのを後悔していた。もしかしたら、飛んでもなく複雑な場面に自分は首を突っ込んでしまったかもしれないと薄々感じ始める。しかし、もし自分があそこに行かなかったら今もソーニャは雨に打たれ続けていたかもしれないと思い直し、少なくとも大きく間違ってたことはない、と思うことにした。
「…………犬って、迷惑だよな」
と、不意にソーニャが口を開いた。やすなは少しだけほっとするも、その言葉の続きが一体どう続くのか少し緊張した。
力なくソーニャの左手が地面に落ちて、ゆっくりと雨を見つめるかのように顔が持ち上がる。
「ちょっと餌をやったり、ちょっと遊んでやるだけで尻尾を振って相手を御主人だと思い込んで、どこまでも付いて来て忠誠を誓おうとして、私はそんなつもりなんてさらさらないのに」
ぎゅう、とソーニャの拳が強く握られる感じがした。地面に転がった小石を巻き込んで、力を込めたソーニャの拳は筋が浮き上がるほどにまで握りしめられていた。
「こんな雨の日に、ずぶぬれにまでなって落とし物を探す単純な生き物なんて、馬鹿げてる。それで自分の命だって簡単に無くしちまう。だから……だから、私は犬が嫌いなんだ」
その声は雨の音に混じって所々聞こえにくくなる所があったが、やすなは察して特に追求しないようにした。ただ、そっと手を近づけると、ゆっくりと冷たいその手を握りしめ、優しい声で語りかける。ただし、その顔は空に向かって、さながら独り言のように見せてである。
「私さ、飛んでもなくバカなんだよね。ソーニャちゃん知ってた?」
「…………」
たぶん、飛んでもなく白けた目で見られていること間違いないだろう。視線が痛い。だがここで引き下がるものではない。言葉にはまだしっかり続きがあるからだ。
「でね、雨の音もうるさいしさ、今私の周りなーんにも聞こえないんだよね。ソーニャちゃんの顔もよく見えないしさ。だからね、今ソーニャちゃんが思い切り泣いても、その見てみたい泣き顔も見れないし、その声も聞こえないんだ。でもね、手だけはずっと握ってるよ。ずっと強く握ってるから、ね?」
そこからやすなは言葉を発することはなく、その代り少し強めにソーニャの手を握りしめた。彼女が一体どんな顔をしているのか確認したかったが、今の自分はバカ(いつもだが)だから、ソーニャの顔なんて見えないし声も聞こえない。ただ、この手の体温と感触だけは知っている。ただそれだけの話なのだ。
少しして、ソーニャもやすなの手を握り返してきた。それに合わせて雨の音に混じって、嗚咽の様な音が聞こえた気がしたが、やすなは何も聞こえてないし、何も聞いていなかった。ただ、それだけのことであった。
*
雨が上がり、まるで思いだしたかのように太陽が雲の隙間からのぞき込み、それに合わせて夕焼けに染まる空も現れる。さっきまでの雨が嘘の様で、空中を舞っていた誇りも綺麗に洗い流されて、透き通った空気が二人を包み込む。
やすなとソーニャは、いつもの帰り道を歩いて、川沿いのあの桜の木の下までやってきていた。湿った草が生い茂った斜面を、滑らないようにして降りると、木の根元にしゃがんで、タオルに包んだ子犬を地面の上に置く。
「ちょっと待っててね。今すぐ私とソーニャちゃんで立派なお墓作るからね」
と、やすなはタオル越しに子犬の事を撫でてやると、大急ぎで自分の手で穴を掘り始める。ソーニャも同じようにして、二人で出来るだけ深い穴を掘ってやる。スコップでもあればもう少し早く作業が終わったと思うが、雨のおかげで土が湿っていたから、手で掘るのにもそう苦労はかからなかった。
そこそこに深い穴を掘って、取りあえず一息吐く。ここならきっと寂しくないだろうという、やすなの提案である。こいつにしては気がきくなと、ソーニャは少しだけ思うが、絶対に口にはしなかった。
「この子、こうしてみると結構綺麗な毛並みだね」
「そうだな」
タオルから顔だけ出して、そっとその頭を撫でてやる。大きくなればきっとソーニャの事を好きになったに違いないだろう。詳しくは聞いて無いが、間違いなくそうなるとやすなは確信できた。そして、ソーニャの犬嫌いも克服できただろう。
「じゃあ、お別れだね。ソーニャちゃんも最後に撫でてあげなよ」
「……ああ」
くしゅ、と顔を撫でてやる。ああ、確かに。しっかり体を洗ってやれば綺麗な毛並みになったに違いない。結果論だが、ソーニャは少しだけ惜しい事をしたと、そう思った。
ソーニャはやすなから子犬を受け取ると、最後にもう一度その顔をじっと見てやる。本当に迷惑な奴だったと思いかえして、その一方で称賛もする。お前が初めてだったよ。私の犬嫌いに関係なく、ここまで深く関わろうとした奴は、と。
穴の中にそっと子犬を入れると、ゆっくりと丁寧に掘り返した土を上からかぶせていく。一回一回、丁寧に埋めていくと、その度に子犬の姿は土の中に消えていき、やがて完全に姿が見えなくなり、土がすべて埋まった。
「…………これで、終わりだね」
「……いや、まだだ」
え? やすながそう言うとほぼ同時に、ソーニャは制服のブレザーを脱ぐと、ナイフを取り出して左側の袖を半分ほどばっさりと切り落とし、細長く千切ってナイフに巻きつける。刃も掴も全て見えなくなるくらいに巻き付けると、まだ柔らかい土にナイフを突き立て、ゆっくりと沈めていった。
「……これで終わりだ」
「うん。立派なお墓だね」
穴はナイフの刃よりも深く掘ったから、子犬に刺さることはない。万が一届く事があっても、巻きつけた制服によって突き刺さることだけは回避できるだろう。最も、突き立てた時に何かに当たる感触もなかったから、大丈夫なのは間違いない。
(くれてやる。お前のおかげで始末書物だ。感謝しろよ)
ソーニャは小さな墓の前で手を合わせると一礼し、やすなもそれに続いて手を合わせる。もう夕日が沈みきっていて、空は西側に茜色の雲を残しながら、夜の色がゆっくりと濃くなっていく。
「……帰るか」
「……うん」
ソーニャはブレザーを着直すと、鞄を手に持って斜面を登り、いつもの帰り道に入る。やや遅れて、やすなもソーニャの隣に並ぶと、しばしの間だけ無言で歩き続ける。ちょっとだけ気まずいかな、と思ったやすなだったが、意外にもソーニャの方から口を開いてきた。
「ところでお前、何であんな所に居た?」
「へ?」
そりゃあ、ソーニャちゃんが明らかに怪しい動きで帰ったから、きっと面白そうな事があるに違いないと……と言おうとしたやすなだったが、寸での所でその唇を押しつけて我慢する。危ない危ない、そんな事言ったら間違いなく殺されるに違いない。誤魔化すのだ、落ちつけ落ち着け。
「な、なんかね、あれだよ……そう! ソーニャちゃん傘ちゃんと持ってるかなって心配で……」
「一緒に傘さして帰っただろうが」
「ああえっと間違えた! 何と言うか、ほら私たち親友じゃん!? だからニュータイプ的な効果音がしてソーニャちゃんに身に何かが!! って感じがしたから、それでえーっとえーっと……」
我ながら苦しい。苦しいぞ。こんなのが通じる訳が無い。間違いなく追及されて吐かされる。そしたら終わりだ。どうする、折部やすな!?
「…………そうか。そらどうも」
「あばばばばだからその、お助け……ってあれ?」
一瞬身構えたやすなだったが、ソーニャは全く気にする事なく歩き続けていた。思わず拍子抜けしてしまう。まさか本当に通じたとでも言うのだろうか?
「……で、でしょー! だから、これからはもっと私に頼っていいんだよっと!」
―ボキッ―
「あだぁああーーーー!!」
「ああ悪い、防衛本能だ」
調子に乗って軽く肩を叩こうとした結果がこれである。果たしてこれは怒ってるのか本人の言うと売りの本能なのかは分からない。その顔はもう暗くて確認するには少々難しかった。
そんなやすなを気にしないふりをしながらも、ソーニャはほんの少しだけ笑みを浮かべながら歩みを進める。正直理由はどうあれ、あの場にやすなが来てくれたことが嬉しかった。彼女が来てくれなかったら、どうにもならない喪失感が続いて今もあの場に居たかも知れない。
しかし、このバカはつくづく自分の行く末を二転三転させてくる。おかげで人生狂いっぱなしだ。ある意味、退屈しない。
そして、今回は……いや、正確に言えば今回も、であろう。ソーニャはやすなに感謝することにした。口には出しはしなかったが、一生来ることのない俗に言う「気が向いた」時にでも語ることにしよう。
ソーニャは不思議そうな顔をするやすなをよそ目に、帰路へと向かう。やすなは、結局ソーニャが何を思ってるのか、どんな顔をしているのか知ることなく、その日は終わった
*
数日後。
「と言う訳で、第一回ソーニャちゃんを犬と仲良くさせる訓練を開始します!」
近場の公園のど真ん中で、高らかにリードを持ち上げてそう宣言するやすなを、ソーニャは白けた目で見つめる。その足元にはやすなの愛犬、ちくわぶの姿。まったく興味のなさそうな顔でへっへっへと舌をだらしなく垂らしていた。
「どう言う意味かさっぱり分からん」
「ふふふ、犬嫌いのソーニャちゃんが子犬に触れたんだから、きっと訓練すれば犬にも触れるはず! と言うことでうちのちくわぶを使って訓練します! と言う訳でGO! ちくわぶGO!」
―がぶっ―
「あいたー!! なぜ噛むの!? ソーニャちゃんと優しくしてあげなよ、ほら!」
「犬に猫じゃらしってお前……」
「くそう、くそう! 何故反応しない!」
「いや当たり前だろ」
「こうなったらまずはちくわぶのしつけからだ! ソーニャちゃん、プリーズバックアップ!」
「やだ。帰る」
「あーん、待ってよ、付き合ってよ、犬好きになろうよ、ソーニャちゃーん!」
やすなとソーニャの通学路の帰り道に一本だけはえている桜の木。その根元には小さなお墓があると言うことに気付いた人物はそう多くはなかった。
しかし、その墓の前には、時折り花が添えられていた。時には一人が、時には二人が、そして珍しい時では三人の時もあった。今日はその珍しい三人の日で、アジサイと、椿と、ホオズキの花が添えられていた。
まるで、そこに眠る者が寂しい思いをしないようにと、願わんばかりに。
殺し屋の目にも涙 終わり
ちょこっとお伝えすると、花言葉を調べたら何となく誰がどの花を添えたのか分かる、かも?