鍛錬終わりの最も充実した時間、その時間を邪魔する不届き者を叩きのめし、身体を休めた後、屋敷に向けて歩き出そうとしたところ自らを呼ぶ聞き慣れた声が届いた。
「…ハァ…紅蘭か、なんの用やねん」
直哉の目の前に現れたのは禪院家らしい黒髪を伸ばした直哉よりも一回り歳上の女性だった。
禪院紅蘭、一族の中の術師であり、直毘人が差し向けたのか最近になり周りをウロウロするようになった女だった。
何かと世話を焼きたがる紅蘭は色んな意味で苦手だった。
「直哉様今日は遅くになっても帰って来られないので、お迎えに上がりました!何事もないようで安心しましたよ…」
そう言って禪院紅蘭は大袈裟に胸を撫で下ろした。
「屋敷の敷地から出た訳でもないのに何があるっちゅうねん…紅蘭の心配性も考えもんやね」
「何を言いますか!!直哉様は御自身のことを何も分かっておられません!どれだけ直哉様を私が思っているのか、少し遅くなるだけでもどれだけ心配すると思ってるのですか!私は従者なんですよ!!」
(…だからこんな所でなにがあるっていうねん…。)
屋敷近くで低級の呪霊を祓ったことは直哉にとっては何でもないことであるが、そのことを言えば紅蘭から更にお小言を貰うことは分かりきっている上に、これ以上何かを言っても紅蘭が納得することは無いことを知っている直哉は言い返すことを辞めた。
この時点でも紅蘭はプリプリと怒りながら自分との距離を段々と詰めて来ている。
最終的には紅蘭の身体にすっぽりと収められ抱き締められたままブンブンと振り回し
「これで分かりましたか、どれだけ私が直哉様を想っているかを!」
とか言い出すだろう。
その時の鼻息荒い紅蘭を思い出すとなんとも言えない気持ちになる。
その毎回抱き抱えるの本当に必要か?
親に甘えることが出来ない直哉でも、それはまた別の話だった。
むしろ別の話だから困る。
こちらを抱き抱えようとする紅蘭の腕の間をスルりと抜け直哉は屋敷に向かい歩き始める。
「あっ!直哉様!話はまだ―」
「俺を迎えに来て、その俺が屋敷に帰るのに続けんとあかん話もないやろ。行くで紅蘭」
かの歳の割に大人び過ぎている少年に、今日も自分の想いを分からせるのだと意気込んだ女も、機嫌の良さそうなその出来のいい横顔を見ると、何もかもがどうでも良くなりその後を着いて行くのだった。
(直哉様になら…何処へだって)
「紅蘭今日の飯は?」
「肉じゃがです、私が腕によりをかけて作りました。私は直哉様の従者ですから!」
「…紅蘭の作る料理は好きなんやけどなぁ」
「うふふ、分かっておりますよ。鶏胸肉のサラダも付けていますのでタンパク質もバッチリです」
「…ほんまそういうところやで」
「…?」
こちらを覗き込む紅蘭の無邪気な瞳に毒気を抜かれた直哉はフッと息を吐いた。
「なんでもないわ、いつもありがとな紅蘭」
「…えっ、あっ、あ、直哉様…ちょ、ちょっと、あ、あのあのあの」
いらん事言うたかもな、自分の後ろから紅蘭がブツブツ言いながら鼻息荒くして着いてきていることを目の当たりにし、直哉は歩くスピードを早めた。
「…美味い…ほんまにコレさえ無ければなぁ」
紅蘭に聞こえないように呟き、こちらをニコニコと見詰めて微動だにしない紅蘭の前で、紅蘭の用意した夕飯に舌鼓をうつ。
この感じにも慣れてきた。
飯は美味いのだコイツは。
そんなことを口にすれば紅蘭はまた鼻息を荒くして様子がおかしくなるので決して口にはしないが、この自分に構い過ぎる変な癖さえ無ければ紅蘭の存在は有難い存在なのだ。
(…なんでこんなに懐かれとんやろなぁ)
自分の食事もそこそこにずっとこちらを眺め続け、かと思えば欲しい時に言わずとも水やおかわりの米をよそう目の前の勝手に従者を名乗る女を、呆れに似た感情と共に流し見た。
直毘人の計らいにより、直哉には個人の部屋が用意されている。
次期当主候補としての教育のために直毘人が選んだことは禪院家の中にあって禪院家に馴染ませない生活を送らせることだった。
禪院家、そして呪術師としても異質な考え方をするある意味でイカれている息子を前に、直毘人は禪院家のしきたりや考え方に染まらない生き方をした結果どのような怪物となるのか見たくなったのだ。
そうでなくとも禪院家の思想は今の直哉にプラスに働くことは無いと考え、私生活等は従者を付け他の者との関わり合いを極力減らす様にした。
その際丁度良い人間を探していたところ直毘人の視界の端で何故かアップをしていた紅蘭が目に留まり、本人のやる気も何故か凄まじくそのまま身の回りの世話と自分が不在の際の一般常識教育係等を任せることにした。
紅蘭は一応は術師ではあるが本人の性格的にも戦闘向きというタイプでもなく高度な呪術を修めているわけではないので、術師としての鍛錬は継続してなるべく直毘人が見るようにし、それ以外は言い付けた基礎鍛錬を黙々と行わせることとした。
「…前から変わった女がいると思ったがアレも中々の曲者よのぅ、女と言えど伊達に禪院の術師ではないわ」
直毘人は、実力は今の直哉にも劣るくせに得体の知れぬ存在感を放っていた当時の紅蘭の様子を思い出し、息子の教育が軌道に乗り始めたことから再開した晩酌を楽しみながら一人呟いた。
(そろそろアレにも術式が発現する頃だろう、術式によっては更に計画を練り直さんとのぅ)
直毘人は右肩上がりの成長を見せる息子の姿に、昔ハマっていた育成ゲームのレアキャラのことを思い出しながら自分の中にあったはずの、そして無くした何かが帰ってくるのを感じた。
あえて言葉にするなら情熱。
晩酌を嗜む手は止まることはない。
しかしいつもなら既に空になっているはずの一升瓶の中身はまだ半分以上残っていた。
「ご馳走様でした」
直哉は丁寧に両手を合わせた。
(…はふぅ、今日も頑張って作ってよかった…)
その姿を見て紅蘭は毎日のことではあるが、他では得難い途方もない達成感に酔いしれる。
この少年はこういう細かい部分にも丁寧さを欠かせない。
結婚したら絶対に妻を大事にするタイプで、毎日のように色んなことを褒めてくれるに違いない。
「毎回のことなのに直哉様は丁寧ですね…」
ご飯1粒もなく綺麗に食べられた食器を片付けながら思わず声に出してしまった。
「当然や毎回のことやから丁寧にすんねん、飯は勝手に出てくるわけやない。食材と、それを使って飯を作ってくれる紅蘭みたいな奴がおるから俺らは飯にありつける」
(…あぁなんてなんて素晴らしい考え方なんでしょう……というか直哉様って人生何回目?やだ私の直哉様凄すぎない?)
目の前にいる少年が輝いて見えて仕方がない。
「それを忘れたらあかんねん、感謝の気持ちを忘れたら人として終わりや。当たり前に感謝せなあかん。毎日のことやからちゃんとやんねん鍛錬も同じや」
反復、継続、丁寧は心地ええんや。
「まぁ、その食材買う金は禪院の術師が曲がりなりにも呪いを祓っとるからで、お互い様なん……おい、紅蘭」
どこまで聞いていたのやら紅蘭は惚けた顔をして虚空を見詰めている。
(ヨダレ垂れとれへんかコイツ…きったな)
完全にトリップしている紅蘭を放置し、直哉は自分の使った食器を共同の流し場に運ぶことにした。
紅蘭が身の回りの世話をするようになってからはこんなことをすることも無くなってしまったなぁと、少しの懐かしさを感じながら屋敷の廊下を歩いていた。
直哉にとっては自分が使った食器を片付けることなど当たり前のことなのだが紅蘭はそれをしようとするとまぁ肝が冷えるような顔で自分を制してくるのだ。
(廊下も綺麗にしてある、有難いことや。…やって貰って当然なんてことはないんや)
直哉はまだ個人の部屋を与えられる前のことを思い出していた。
最初は食堂で他の兄弟や他の一族の者達と飯を食べていた時だった。
(なんで誰もいっつも礼のひとつも言わんのや…?)
禪院家の男どもは女中が配膳をしてくれているにも関わらずムスッとした顔で座っているだけで、当たり前のようにそれを食らっている。
ある日から自分の食事は自分で配膳するようになっていた直哉にはやはり信じ難い光景だった。
自分の飯を台所から運ぶだけのことでも女中には毎度のことながら止められるが、ええからとそれだけは譲らなかった。
直哉には飯は作れない、そんな事考えたことも無かったし、鍛錬に時間を費やしているせいでそんな時間もある訳がなかった。
でもある日気付いてしまったのだ、この飯はどうやって自分の前に運ばれてきたのかを。
その日から直哉はとてもじゃないが感謝も食事の挨拶も無く飯を食う気にはなれなくなってしまったのだ。
鍛錬の途中で他の兄弟が足をひねる怪我をしてしまい、冷やすための氷を貰おうと台所へ行った際だ。
昼飯前のそこには異様な熱気があった。
女中達がバタバタと台所を歩き回りながら、食事の用意をしていた。
食材を切り、水で洗い、炒め、盛り付け、別の料理を煮込み、味を確かめながらまた別の料理に取り掛かる。
見る見る間に食事はどんどんと出来上がり、それに並行して食器を洗い、台所の片付けを行っている者がいる。
自分一人分とは比べ物にならない量の飯が器の中にあった。
数え切れない程の食器が並べられていた。
当然だ、一族皆の食べるものを用意しているのだから。
女中達は玉のような汗を滲ませながら必死で働いている。
(しんどい思いしとるんは、俺らだけやないんや。この人らも戦っとんねや。)
自分らが美味い飯を食えるのはこうして場所が違っても戦うこの人らがおるからや、と直哉は気付いた。
自分は鍛錬をしているせいでこの場所で女中と共に戦うことは出来ない。
だからこそせめて自分の食べる食器くらいは、毎食の挨拶くらいは、飯のお礼くらいはちゃんとしようと心に決めたのだ。
(それやのに他の奴らは…)
直哉は自分の考え方がこの一族の中では異質なのだと理解しながらもそれを辞めることは無かった。
女中は自らが下働きのように働かされてる状況を疑問に思う様子はない。
それでも直哉は一族の者と同じように振舞おうとは思えなかった。
一族の者にからかわれたり、咎められたりしたこともあったがどうでもよかった。
しかしある時、直哉は目にした。
「直哉様は次期当主と目される方だぞ!?そうでなくても当主の息子だというのに女中の真似事などさせて、貴様らは何を考えてるんだ!」
自分が良かれと半ば意地になってやっていた行為によって女中が折檻を受けている姿を。
その女中はいつも直哉が手伝おうとすると困ったように笑顔を浮かべて、言わなくても良い礼を言ってくれていた者だった。
「何しとんねん!!やめぇや!この人が何をしたって言うんや!」
直哉は女中と禪院の男の間に入り制止する。
「この女中が、直哉様に配膳など下々の者がやるようなことをさせていたので叱っていたのです」
禪院の男はさも当たり前のようにそう告げた。
「あれは俺がやりたくてやってることや!この人は関係あらへん!そもそも自分の飯を自分で用意しようとすることの何があかんのや!!」
「……何を言っているのですか?そんなことは女中がやるのが当たり前です。私達は禪院の呪術師なんですよ…?」
その時の男の顔を見た時、直哉はこの一族の抱えるモノと自分は相容れないのだと子供ながらに理解した。
直哉の言っていることが理解出来ないとその場を立ち去った男の姿が見えなくなるまで睨みつけ、直哉は背中に庇っていた女中に向き直った。
頬は叩かれたのだろう赤く変色しており、自分達の身の回りの世話をしてくれるその手は所々肌がひび割れ指の関節の間には切り傷のようなものがいくつもあった。
「…平気か?すぐ冷やすもの持ってきたる。」
それを見ていられず離れようとした直哉だったが、着物の裾を摘まれた。
「…良いのです直哉様、これで良いのです。私のような者にこれ以上構わないでください」
そう言う女中のその諦めた瞳が心底直哉は気に入らなかった。
「何言うとんねん!こんなの間違っとる!どいつもこいつも自分で自分の食う飯も作れん癖に偉そうに!!」
その全てを諦めたような瞳が辛かった。
ボロボロになった手を見るのが辛かった。
「こんなになるまで…頑張ってくれとるのに」
直哉は思わずその女中の手を取った。
父親のゴツゴツした手とは違う、細く柔らかい手。
それでも戦う者の手だった。
しかし直哉の手はこれ以上ないくらいに優しく女中に払われたのだった。
女中は涙を流していた。
「勿体なきお言葉でございます。ですがこれで良いのですこれで…次期当主と目される直哉様にそうまで想って頂けてるだけで私は幸せ者です」
そう言って女中は、呆然とする直哉に背を向け離れていった。
自分が変わろうとしようとも一族の大きな在り方は変えられるものではなく、直哉が自らの力の無さを痛感する出来事であった。
(力を付けんとあかん…俺の当たり前を禪院の当たり前にするためにも。せやないと俺の周りの人が傷付くだけなんや)
当時のことを思い出し改めて強くなることへの決意を固め、直哉はいつの間にか着いていた台所へ静かに忍び込み流しへひっそりと自分の食器を置いた。
本当はこの食器も洗って
「いつも有難うな」
ってもっと言いたかった。
しかし今の自分がやったのでは過去と同じように女中を傷付けることになりかねない。
目に見える所で虐げられているなら直哉も止めることは出来る。
当主の息子で次期当主と期待される直哉を直接前にして我を押し通そうとする者は少ない。
だがそうすると次は直哉が見ていない場所でそれが行われるようになるのだ。
いつか必ず変えてやる。
そのためにも今は強くなることだけを考えるのだ。
自分の部屋に戻りながら紅蘭もこんな気持ちやったんかなぁ、と悪いことをしたような気持ちになり、少しだけ優しくしてやろうと思い襖を開けた所に直哉は鬼を見た。
「…直哉様…?私言いましたよね?…そんなに私のことが嫌いですか?そうですか、そうなんですね?…ねぇ答えてください…どうして後ずさりなんかしてるんです?自分の部屋ですのに…ねぇ直哉様?」
「お、落ち着きや紅蘭。そうやない、たまには紅蘭の手伝いがしたい思うただけやねん、何もそんな」
「言い訳無用です!私は従者だぞ!!!」
血走った目で鼻息荒らげて自分に迫る従者を名乗る女を前に、これから訪れる未来を的確に感じ取った直哉だが今日くらいは相手をしてやろうと、抵抗を止めるのであった。
直毘人も直哉の輝きに脳を焼かれて善院化してます。
ただこの直哉は関わりがあろうが無かろうが禪院に染まることは有り得なさそうです。