2021年7月13日、東京・H.LIVE事務所。
エイレーンはエトラの耳舐めASMR企画を一時的に中止する決断を下した。
彼女のデスクには、NEOENTUM統括プロデューサーとH.LIVE社長の二足の草鞋を履く自身の複雑な立場を象徴する書類が山積みになっていた。
リィズ・ホーエンシュタインの警告とチャンネルBANのリスクを考慮し、エイレーンは渋々ながらもエトラの意思を尊重することを選んだ。
彼女は独り言のように呟いた。
「…本人の意思を尊重するしかありませんね。仕方ない。この企画は一時的に中止しましょう(いつかエトラさんを必ず耳舐めASMRをやらせてみせます!)」
その声には、表向きの妥協と内なる野心が交錯していた。
この時点で、エイレーンは知る由もなかった。
エトラが後に株式会社リィズ・ホーエンシュタインを離れ、2024年3月26日にあおぎり高校に正式所属することになる未来が待っているとは。
耳舐めASMR企画は保留となり、あおぎり高校移籍まで封印されることとなった。
エイレーンの下心は棚に上げられ、彼女は新たな戦略を模索せざるを得なかった。
その夜、エトラの配信ルームでは、#SaveAkariのファンが次なる企画を待ち望むコメントで溢れ、エトラ自身も新たな道を模索し始めた。
エイレーンの野望は一時的に暗礁に乗り上げたが、VTuber界隈の波乱はまだ終わりを迎えていなかった。
2021年7月14日、メンバーシップ限定配信。
バーチャル空間に広がるピンクと白の鮮やかな背景を背に、ミライアカリのメンバーシップ向け限定配信がオンラインでスタートした。
アカリは元気いっぱいの笑顔でファンに呼びかけた。
「みんな、ハロー! ミライアカリだよ♪ 今日もメンバーシップ限定配信! みんなと一緒に、めっちゃ楽しい時間にするよ! よーし、ファンのみんなと、輝くよ!」
彼女は「VTuberチャンネル登録者ランキングを見ながら自分を見つめ直しました」について軽く触れ、誠意を込めて語った。
「ランキング、714,000人って、みんなの応援のおかげだよ! これからも、もっと輝くから、信じてて!」
その言葉に、コメント欄は一瞬にして熱狂に包まれた。
「アカリ、めっちゃすごい!」「#SaveAkari」「これからも応援する!」と、ファンの声援が溢れ返った。
アカリの瞳がキラリと光り、柔らかな笑みを浮かべると、Q&Aや簡単なゲーム企画が始まった。
ファンと一緒にクイズに挑戦し、笑い声がバーチャル空間に響き合った。
「みんなの愛、めっちゃ感じるよ! アカリ、ファンのみんなと一緒に、ずっと輝く!」 彼女の声は、まるで希望の灯火のように力強く響いた。
配信が進むにつれ、Twitterのコメント欄も感動と応援で埋め尽くされた。
「アカリ、最高!」「#SaveAkari」「ずっと応援するよ」
アカリはコメントを読み上げ、満面の笑顔で応えた。
「みんな、ありがとう! アカリ、絶対負けないよ!」
この配信は、#SaveAkariの絆をさらに深め、ファンの熱気を一層高めた。遠くで左遷された橘の心にも、アカリの声が届き、VTuber界隈の未来に新たな光を灯していた。
同じ夜――都内にあるKAMITSUBAKI STUDIOの収録スタジオ。
防音ブースの中、淡い照明に照らされながら
ヰ世界情緒 はマイクの前に立っていた。
彼女はV.W.Pの一員としての歌だけでなく、今年10月6日放送予定のTVアニメ『マブラヴオルタネイティヴ』第一話に登場する臼杵咲良のキャラクターイメージを思い描いていた。
台本を静かにめくる。
臼杵咲良――強さと繊細さを併せ持つ少女。
情緒は目を閉じ、呼吸を整える。
「……私は、ここにいる。」
小さくリハーサルの声が響く。
感情を乗せすぎない。
だが、芯はぶれない。
ディレクターの合図。
レコーディングが始まる。
透き通る声がブースに満ちる。
言葉一つ一つを確かめるように、丁寧に。
テイクが終わると、情緒は台本を胸に抱いた。
「(出演は、誰かに強いられるものじゃない。)」
先日、THINKR前で交わした約束がよぎる。
もし誰かの意思が無視されるなら――自分は止める。
その覚悟は揺らがない。
ガラス越しにスタッフがOKサインを出す。
情緒は小さく頷いた。
歌も、演技も、出演も。
すべては“選択”の上に成り立つべきもの。
収録スタジオの静寂の中、
彼女はもう一度台本を開いた。
物語は始まる。
だがそれは、誰かの自由を奪う物語であってはならない――情緒の瞳は、静かに、しかし強く輝いていた。
翌日――静かな午後。
エトラ は短いメッセージを送った。
「話がある。ZOOMに来て。」
呼び出されたのはエイレーン。
H.LIVE社長として、そしてプロデューサーとして多忙な彼女だったが、その文面にただならぬ気配を感じ取っていた。
――
エトラの部屋。
白と青を基調にした落ち着いた空間。
エトラの瞳がまっすぐ射抜く。
「この前の“耳舐めASMR”、誰の意思で進めようとしたの?」
画面越しに映るエイレーンは一瞬だけ言葉を失う。
《そ、それは……企画としての可能性を――》
「私は、やりたくないって言ったよね?」
声は大きくない。
だが逃げ場はない。
エイレーンは観念したように息を吐く。
《……ええ。あなたの意思を無視するつもりはありませんでした。》
エトラはさらに一歩詰める。
「“ありませんでした”じゃなくて、“しない”。」
沈黙。
エイレーンは小さく笑った。
《強くなりましたね、エトラさん。》
「当たり前。私は“商品”じゃない。」
その言葉は重い。
数秒の緊張の後、エトラは小さな笑みを浮かべる
「……びっくりした?」
エイレーンは胸を押さえ、苦笑する。
《……ええ。経営会議より緊張しましたよ。》
空気が少し和らぐ。
エトラは背を向けながら言う。
「次はちゃんと相談して。私は私の道を選ぶ。」
エイレーンはその背中を見つめる。
野心と計算だけでは動かせない存在。
それが今のエトラだった。
《わかりました。パートナーとして、尊重します。》
小さな衝突。
だがそれは、主従ではなく対等であるための確認だった。
部屋の窓から差し込む光が、二人の影を並べていた。
2021年7月16日――GOOMSTUDIO会議室。
ブラインド越しの夏の日差し。
大型モニターには、ミライアカリ の配信アーカイブが映っている。
《ハロー!ミライアカリだよ!今日は『AMONG US』挑戦しまーす!》
明るい声が室内に響く。
腕を組むジャミトフ西村。
「ふむ、序盤はよし……」
隣で資料をめくるバスク郷里 が淡々と分析する。
「話題性はあります。しかし外部大会との接点は薄いようですな。」
映像の中でアカリが言う。
《大会とか開いてたけどさ――呼んで貰えなかった!》
再生停止。
ジャミトフが眉を上げる。
「大会があったとは知らなかったな。」
バスクは静かに答える。
「界隈は細分化しております。」
短い沈黙ののち、ジャミトフが口を開く。
「――バスク、『マブラヴオルタネイティヴ』にアカリを出演させる案だが……」
その瞬間、会議室の扉が開く。
GOOMSTUDIOスタッフのライラが一礼する。
「ジャミトフ様、お客様です。」
入室したのは、静かな気配をまとった少女。
ヰ世界情緒。
バスクが思わず声を上げる。
「き、貴様……一人で来たのか?」
ジャミトフは興味深げに目を細めた。
「何か言いたそうだな。」
情緒は一歩前に出る。
「マブラヴアニメから、手を引いていただけませんか。」
ジャミトフが一瞬言葉を失う中、バスクが割って入った。
「決めるのはジャミトフ様だ。」
しかし情緒は揺るがない。
「今のマブラヴ界隈は閉鎖的です。そこに無理な起用が重なれば、界隈全体が荒れます。」
ジャミトフが問う。
「なぜ、そこまで言う。」
情緒は静かに答える。
「私は純粋に役を演じたくて出演を受けました。作品を広げるのは、誠実な説明と時間です。話題作りではありません。」
彼女の声は小さいが、芯がある。
「第一話は原作にはない物語です。佐渡島を舞台に、BETAとの戦いを描きます。」
ジャミトフが手を挙げる。
「……もうよい。」
一拍。
「君の情熱は伝わった。」
室内の全員が息を呑む。
そして彼は宣言した。
「身を退こう。今後一切、マブラヴアニメに関する件で強引な介入はしない。」
バスクが悔しげに目を伏せる。
「まさか、本人がここまで来るとは……」
ジャミトフは穏やかに続ける。
「ミライアカリは、我らの希望だ。無理に輝かせるものではない。」
情緒は深く一礼する。
「ありがとうございます。」
会議室の隅で、ヤザンが小さく息を吐く。
ライラとジェリドも目配せを交わす。
この日――一人のアーティストの勇気が、一つの強行策を止めた。
#SaveAkari の炎は、
対立ではなく、選択によって守られたのだった。
2021年7月21日・深夜――配信終了後、静まり返ったGOOMSTUDIOの隔離配信ルーム。
モーションキャプチャ機材を外したミライアカリは、椅子に深く腰掛け、ふうっと息を吐いた。
「……みんな、ほんとにありがとう。」
モニターにはまだ流れ続けるコメントのアーカイブ。
「#SaveAkari」「負けるな」「ずっと応援する」――その文字一つ一つが、彼女の胸に静かに染み込んでいく。
ドアの外では、エマ・シーンとレコア勝生が見守っていた。
エマが小さく微笑む。
「いい配信だったね。」
レコアは腕を組みながらも、どこか安堵の表情を浮かべていた。
「ジャミトフの計画は潰えた。だが油断はできない。バスクはまだ動く可能性がある。」
エマは静かに頷く。
「でも、今日は違う。今日はアカリが自分の力で立った日。」
――その頃。
都内某所、薄暗いオフィス。
ジャミトフ西村はタブレットで配信のアーカイブを見ていた。
再生数、同接、SNSトレンド。
「……ほう。#SaveAkari、まだ勢いが衰えぬか。」
バスク郷里が険しい顔で告げる。
「ヰ世界情緒の直談判が予想以上に響いております。」
ジャミトフはゆっくりと笑った。
「若者の情熱というのは、時に計算を狂わせる。」
その名が出た瞬間、別の場所――静かなレコーディングスタジオ。
V.W.Pのメンバー、ヰ世界情緒はマイクの前で目を閉じていた。
彼女の脳裏には、アニメ『マブラヴ オルタネイティヴ』第一話の台詞、臼杵咲良の姿、そしてあの日のGOOMSTUDIO会議室。
「……守れたのかな。」
小さく呟く。
マネージャーがそっと声をかける。
「情緒さん、テイクいけます。」
彼女は目を開き、はっきりと答えた。
「はい。――いきます。」
歌声がスタジオに響く。
それは祈りにも似ていた。
――一方、エトラの自宅。
エトラはスマホを握りしめ、配信の切り抜きを見ていた。
「……アカリちゃん、ちゃんと笑ってる。」
萌実が横でうなずく。
「情緒ちゃんも約束守ったしね。」
エトラは少し照れくさそうに言った。
「次は、私達が支える番だよ。」
その言葉に、萌実は力強く答える。
「もちろん。」
――そしてSNS。
「アカリ最高」
「情緒さんありがとう」
「V.W.Pも応援する」
タグは静かに広がり続ける。
VTuber界隈は、時に過激で、閉鎖的で、面倒臭い。
だが同時に、強い絆と情熱で繋がっている世界でもあった。
モニターの前で、アカリは最後にもう一度つぶやく。
「アカリ、もっと強くなるよ。」
画面が暗転する。
しかし物語は、まだ終わらない。
2021年7月22日――都内のマンションの一室。
カーテン越しに差し込む朝の光の中、花咲みやびは珍しく完全オフの日を満喫していた。
テーブルにはコーヒーと軽食。
パソコンの画面には、昨日のミライアカリのメンバーシップ配信アーカイブ。
「……元気だなぁ、ほんと。」
再生される『AMONG US』の切り抜き。
明るく振る舞いながらも、ふと見せる寂しさ。
《大会、呼ばれたかったな…》
みやびはマウスを止め、小さく息を吐く。
「その気持ち、わかるよ。」
ホロスターズとして活動してきた彼にも、呼ばれなかった企画、届かなかったコラボの記憶はある。
コメント欄には
「#SaveAkari」
「負けないで」
「ずっと応援する」
みやびは頬杖をつきながら、穏やかに笑った。
「でもさ、呼ばれなかったから終わりじゃないんだよな。」
彼はスマホを手に取り、Twitterを開く。
トレンドにはまだ#SaveAkariの文字。
そして、ヰ世界情緒の話題も流れていた。
「……すげぇな。直接止めに行ったのか。」
VTuber界隈は広いようで狭い。
一つの行動が、思わぬ波紋を呼ぶ。
みやびは改めてアカリの配信に戻り、ラストの言葉を聞く。
《アカリ、負けないよ!》
数秒の沈黙。
そして、彼は静かに呟いた。
「じゃあ、俺も負けてられないな。」
休暇中とはいえ、クリエイター魂は消えない。
自分にできることは何か――直接介入ではなく、界隈全体を明るくする配信。
「次の配信、ちょっと企画変えてみるか。」
メモ帳にアイデアを書き始める。
・初心者向け宇宙人狼講座
・誰でも参加型
・“呼ばれなくても楽しめる”大会風企画
ふっと笑う。
「招待がなくても、作ればいい。」
画面の向こうで笑うアカリに向けて、彼は小さく敬意を込めて言った。
「がんばれよ、先輩。」
窓の外では、夏の空がどこまでも青く広がっていた。
翌日――花咲みやびは、昨夜ほとんど眠れなかった。
ミライアカリの現状。
#SaveAkari の拡散。
そして、業界の空気。
「見てるだけじゃダメだよな……」
彼は静かに決意し、あおぎり高校の運営元であるクリエイトリングへ連絡を入れた。
目的は一つ。
“横のつながり”を作ること。
了承は早かった。
そして――待ち合わせ場所は、マーチエキュート神田万世橋内にある
LOW-NON-BAR。
ノンアルコール&ローアルコール専門の落ち着いた空間。
ガラス張りの店内には、夕暮れの光が柔らかく差し込んでいた。
みやびの隣には、ホロスターズ第2期生――アステル・レダ。
「みやびくん、珍しく真面目な顔してるね」
「うるさい。今日はふざけないぞ」
「えー?つまんなーい」
そんな軽口を叩き合っていると、入口のベルが鳴った。
まず現れたのは、音霊魂子。
「おっすー! 真面目会議って聞いて来たんだけど、なんかオシャレすぎない?」
続いて、石狩あかり。大代真白。山黒音玄。
全員が揃い、テーブルを囲む。
最初は世間話。
しかし、みやびが切り出す。
「単刀直入に言う。アカリのこと、どう思ってる?」
一瞬、空気が静まる。
魂子が腕を組んだ。
「界隈の大先輩だよ。私たちが今ここにいるのも、あの世代が切り開いたから」
真白が珍しく真顔で続ける。
「炎上とかじゃなくて、“構造”の問題に見える」
石狩あかりは静かに言った。
「個人の努力だけじゃどうにもならない時って、あるよね」
アステルがグラスを回しながら口を開く。
「だからさ、“救う”じゃなくて、“一緒に盛り上げる”が正解じゃない?」
その言葉に、みやびは小さく頷く。
「俺たちができるのは、対立じゃない。分断でもない。界隈を面白くすることだ」
音玄がゆっくりと微笑む。
「共演……ですか?」
みやびはテーブルに指を置く。
「大型コラボ。派閥関係なく。“呼ばれなかった人も、呼ばれてない人も集まれる企画”」
アステルがニヤリと笑う。
「それ、宇宙規模でやろうぜ」
魂子が吹き出す。
「宇宙規模は意味わからんけど、やるなら本気でやろ」
夕暮れの東京。
神田万世橋を走る中央線の音が、低く響く。
この夜、小さなテーブルで交わされた約束は――誰かを救うためではなく、“界隈を前に進めるための連帯”だった。
みやびは最後に静かに言う。
「俺たちは敵じゃない。配信者だ。」
その言葉に、全員がグラスを軽く掲げ、ノンアルコールカクテルの氷が、静かに音を立てた。
夕暮れ――
住宅街の上空に、小型ドローンが静かに浮かんでいた。
操縦しているのはベノちゃん。
「ふふ……ちょっと様子見るだけだし。」
モニターには、エトラの自宅周辺の映像。
だが次の瞬間――窓がガラッと開いた。
「――おい!!」
鋭い声が響く。
エトラがベランダに身を乗り出していた。
「何飛ばしてんだコラァァ!!」
ドローンのカメラ越しに、怒りで頬を赤くしたエトラの顔がアップになる。
ベノちゃんが焦る。
「え、え、バレた!? いやいや偶然の空撮で――」
「偶然で家の上ホバリングすんな!!」
エトラは素早くスマホを取り出し、録画を開始。
「これ普通に迷惑だからね!? 通報するわよ!」
ドローンは慌てて高度を上げるが、エトラは指差して叫ぶ。
「逃げんなぁぁ!!」
近所の犬が吠え始める。
カーテンの隙間から住民の視線。
エトラは腕を組み、怒りを隠さず言い放つ。
「配信者だからって何してもいいと思わないで。プライベートは守りなさい。」
その声は本気だった。
一方、モニター越しのベノちゃんは青ざめている。
「ご、ごめん……ちょっとネタのつもりで……」
エトラは最後にきっぱりと告げた。
「ネタでもアウト。次やったら本気で許さないから。」
ドローンは小さくなりながら遠ざかっていった。
静まり返る住宅街。
エトラは深呼吸し、空を見上げる。
「……ほんと、油断も隙もない。」
そして小さく呟いた。
「境界線は守りなさい。それが最低限よ。」
窓が静かに閉まり、夜風だけが、何事もなかったかのように吹いていた。
Fortgesetzt werden