「ハヤト君。生きてるか?」
「え?」
「ここは本来の集合地点ではないんだけどね。なんとかつながってよかったよ」
「あの、すみません、そちらは本部の……?」
「……ああ、なるほどね。ハヤト君。ちょっと私の指示に一度従ってくれるかな?」
「は、はい」
「右ポケットに入っているものを出して」
右ポケット?
言われてみれば、バイトの時に入れるはずのない大きさの何かがポケットの中で存在を主張している。こんなものがあったら気づくはずなのに、今の今まで気にも留めていなかった。
取り出したそれは、真っ白な柄のナイフだった。ぎょっとして僕は受話器の向こうに聞く。
「なんですか、これ」
「ハヤト君。君の仕事を思い出せ」
ナイフの刀身に反射した僕と目が合った時、僕はここがアルバイトの現場などではありえないことを思い出し、咄嗟にユウの居た方を振り返る。
「惜しい」
ナイフをふりかぶったユウが背後に居て、僕は咄嗟にナイフで応戦してそれを防ぐ。
暗い路地に白い火花が散った。
白銀ユウ。夢歩き。僕と同じ16歳の少年。
「君の“夢”を見たよ」
ユウが笑う。
僕は距離を取るために彼の間合いから少しずつ遠ざかる。
「夢?」
「僕とデートしたかったのか? ハヤト」
「なに?」
「君の夢さ。いまさっきまで楽しんでいたじゃないか。僕も存外楽しかったよ。君の不機嫌な、美しい、思いのままにならない彼女になってみるのもね」
僕はさっきまでの時間を思い出して恥ずかしくなる。
夢を歩く人なら知っていることだ。無意識の空間で見る夢はその人の心の中にあるものからしか生まれない。
だから、起きたことは現実ではなくても、願いや夢を映す心の真実だ。
他人の夢を歩くことはあっても、顔見知りの夢を歩いたことはなかった。
まして、長く一緒にすごしたユウとの夢に、僕の願いや欲望が現れないはずがなかった。そして彼はそれを分かって罠を仕掛けたのだ。
「もう少し深くまで歩いていけば、後戻りできないほどのタブーを一緒に踏めたかもしれないのに。あの女が邪魔したね」
「……ここは君の夢でもある。君の願いや欲望も無ければ夢は成立しない。二人以上の夢ならそうなるはずだ」
「僕を動揺させようとしているのかい?」
ユウは不敵に笑う。美しい17歳のさっきまでの女の子の姿で。
「この姿を望んでいるのが君だけではないとして、だからなんだ?」
いつの間にか顔が接するほどそばに居た彼女の顔は、月の陰で白く浮かんでその美しさにぎょっとしてしまうほどだった。
「たとえば、こんなふうに」
ナイフを握った僕の右手をユウが両手で包み、自らの細く白いのどに切っ先を当てて見せた。僕はその喉にナイフの先が当たり、月明かりの下でちいさな影を作るのを見た。もう少し力を加えれば、簡単にその切っ先は彼女の喉に入り込んでいきそうだった。
「こういうのも。君と私が望んでいるつまらないことの一つだ。おあつらえ向きに満月だから、君は血が月明かりをどんなふうに反射してみせるか、見てみたくはない?」
月が赤くなり、赤い光の雫が月からこぼれて糸を引いている。
「ハヤト、もう君は僕の夢の中にいる。それが分かってるのか?」
白銀ユウ。僕は君を止めるために来た。
ここは僕の夢でもある。
僕は一つ、ナイフ以外に一つだけ、君を止めるための武器を持ってきた。
「でも、死んだ人の夢など存在しない」
「なに?」
「現実の君はもう死んでいる。だから、これは『二人の夢』なんかじゃない。これは全て、僕の願望だ」
「……そんなわけないだろ。僕は今、生きて意識を持っているから、こうして夢の中にいる」
「違う。全部僕の願望なんだ。認めるのがつらかったけれど。君は幻で、もういない人だ。君を消せるのは僕だけだ」
「嫌だ。信じない」
「君が居なくなったことをいいことに、一人よがりの楽園に閉じ込めたのは僕なんだ」
こうして言葉にしてそれを認めたとき、夢は決壊し、地面はうねり、空が落ちてくる。
崩落する地面を避けながら、僕はユウを連れて渡辺さんの家を目指す。
「僕が幻なら! 連れていく意味もないだろ!」
「でも、『君』は! そう思ってないだろ」
「なに!?」
「君は自分を存在していると思っているだろう!」
「……当然だ!」
「じゃあ、助ける!」
「……支離滅裂だ! 君は……」
ユウの手を引き、僕は渡辺さんのうちにたどり着く。
インターホンを押すと、「はい?」と初老の女性ののんびりとした声がする。
「渡辺チサトさんはいらっしゃいますか!」
「千里? 千里の友達? あらまってちょうだいね……、千里ー! おともだちきてるわよ!」
お母さんうっさい! 聞こえてるから! という声もインターホンから漏れてきて「今替わりますね」との声のあと、渡辺室長が出る。
「室長、お待たせしました。なんとかなりそうです」
「やっと来たか。うちの実家だからなんとかなったけど、次はないからね」
「すみません、あと」
「なに?」
「ユウも連れて行っていいですか?」
「……だめに決まってるだろう」
「でも、僕は自分が生み出したものに責任を持ちたいんです」
「それは責任じゃない、エゴだよ。幻を現実に持ち帰ってはいけない」
「でも、室長もお母さまを助けたじゃないですか!」
「……君、それをここで言うか」
「……すみません、お願いします。友達なんです。記憶の中だけだったとしても」
「異例尽くしだ。貸しは大きいよ。帰ってからまた話そう」
「ありがとうございます!」
「時間がない。それも二人だとね。玄関を入って、二階に上がる。すぐ右手の部屋の中にクローゼットがある。クローゼットの中の赤い望遠鏡を出して、月と逆の方角に浮かぶ強く光る青い星を覗いて! それで帰れるはず」
「分かりました! ありがとうございます」
「望遠鏡は二基用意した。でも、一方はすぐには使えないかもしれない。青い望遠鏡をもう一人は使うように」
「了解です」
僕は手を握ったまま振り返る。
「ユウ、帰ろう……ユウ? 元の姿に戻って。もう帰るんだ」
「私が君の願望の器だっていうなら、一番君が望んでいる姿で向こうに行きたい」
「でも、それは白銀ユウの本当の姿とは……」
「本当の白銀ユウなんて関係ない。私はここで生まれて初めて君のいる『本当の世界』に行くんだから、どんな姿でいるのも私の自由でしょう?」
不敵な笑顔は白銀ユウそのものにも見える。でも、これも僕の望んだ姿なのか。それとも、夢が壊れる中で、彼女も僕の願望から離れて本当に自由な意思を持ち始めているのか。
「わかった。じゃあ、行こう」
手をつないだまま、渡辺さんの家に入る。
中は暗く、インターホンで会話したはずの誰の姿もない。
僕らは急いで二階に上がり、すぐ右手のドアを見つける。
ドアには『勝手に開けるべからず ちさと』と書いたプレートがかかっている。
中に入ると、ギターが立てかけられた部屋の隅に半開きになったクローゼットがあり、開けると中から洋服が雪崩をおこした。
僕とユウは服の中から、二基の望遠鏡を見つけて取り出す。
赤は僕が、青はユウが持ち、誰もいない机の上に置いて、窓を開けて空に向けた。
世界の崩落はいよいよここまで及ぼうとしていて、いまや住宅地の向こうに見える駅ビルが、地平線の向こうから迫ってきた崩落に飲み込まれて、はるか地の底へ崩れ落ちていった。
この家まであれが来るのも時間の問題だった。
「それじゃあ、せーので、のぞきこもう」
ユウもすこし焦っているのか、不安そうな表情をしている。
僕は彼女の手を握り、「大丈夫、どうせ僕の夢の中なんだから」と言った。
僕はこのまま彼女と崩落に飲み込まれて帰れなくなることを想像して、それを必ずしも悪いことだとは思っていない自分に気づいた。
「君はずるいね」
ユウはそれに気づいたようににやりと笑って、僕の手を強く握り返した。
「じゃあ、行こう」
僕らは頷きあい、望遠鏡をのぞきこんだ。
赤い望遠鏡には青い星が、青い望遠鏡には虹色の星が見えていたという。