貨物リフトの昇降籠は、壁も天井もない鋼骨の檻だった。縦一列に並んだ歯車が蒼錆を噴き、星霧を帯びた油滴を撒き散らす。鎖巻上げ機の遠吠えが籠の中を共鳴させ、振動が骨まで響いた。
九条廉は緊張で汗ばんだ掌を鉄枠に掛け、隣のルーシェ=ヴァンデルへ視線をやる。昏いランプの火は彼女の横顔をなぞり、桃がかった銀髪に淡い光斑を散らした。コートの前を止めるバックルの下、豊かな胸を包む深紅のブラウスがわずかに起伏し、呼吸が速まるのを示す。
「深呼吸して」ルーシェが囁く。「落ち着いて鼓動を数えるの。ここの空気は重いから、慣れないと眩暈を起こす」
廉は言われた通り肺を満たす。金気の匂いと硫黄が混ざり合い、喉の奥でざらついた。
「このリフト、いったいどこまで下りるんだ?」
「第四層のさらに地下、通気坑群。その底を横に掘り抜いて出来た非公式市よ。『落鉱バザール』。星霧や記憶が濃縮して沈殿する場所だから、あらゆる禁制品が集まる」
ルーシェは言いながら胸元の革鞄を確かめ、赤い宝石飾りの留め具を弾いた。石は猫の瞳孔のように縦に光を走らせた。
「“銀の猫目”って呼ばれる所以か」
「単に瞳の色と石の合わせ技ね。それより――」彼女は鋭く視線を上げ、「ここから先、私の後ろを離れないこと。闇市は商品だけじゃなく“噂”にも価格が付く。外来人が一人で迷えば、身ぐるみどころか思い出ごと蒸発させられるわ」
リフトが急に減速し、足下の鉄板が軋んだ。奈落に差し込む橙光が、籠の底から這い上がる霧に乱反射する。
――ガタン。
着底の衝撃。軋みが止むと同時に、地下坑道の熱風が押し寄せた。鉱石を焼く炉の匂い、薬品と腐食と汗が混ざったむわりとした空気。暗闇を押し退けるのは裸電球と夜光苔の仄青だけだ。
* * *
〈落鉱バザール〉。
天井高三十メートルの空洞全体を覆う配管と導線は絡み合った血管のようで、ところどころから星霧が白煙となって噴出している。地面を照らす裸電球は橙色のハロを撒き散らし、その下に金属と石で拵えた数百の露店が迷路のごとく並んでいた。
記憶の断片を封じた琥珀色のカプセルが山と積まれ、偽造された騎士団証票が革紐で吊るされ、星霧を液化した試薬瓶が青い光を揺らしている。喧噪は地上より低音で湿り気を帯び、欲望と恐怖が溶け合って独特の鼓動を刻んでいた。
「まずは“記憶晶”の荷渡し口を探すわ」
ルーシェは歩みを速め、コルセットの締め具がきゅっと鳴った。肩口の包帯からはわずかに血がにじむが、表情は平然としている。
廉は周囲を伺いながら後を追った。ガラス細工のような羽根を売る少女が虚ろな目で視線を絡ませ、通路脇の占い師が星霧のカードを切るたび観客の耳から光の糸を抜き取っていた。
(ここでは生きた思い出すら商品だ……)
背筋を撫でる戦慄を振り払うように歩を進めたそのとき――
チリン。
澄んだ金属音が脳髄を貫いた。周囲の喧噪が一瞬だけ遠ざかり、星霧の流れが逆巻くのが見えた気がする。
「廉?」
ルーシェが振り向くが、声は彼の耳の向こう側で反響していた。
音の主を求めるように、廉の足は無意識に露天の隙間を縫う。行商人の罵声も、獣革の匂いも薄れ、世界は鈍い水音だけを残す。
視界の端で光が脈動した。油布に覆われた古い木箱。その隙間から、銀紫の息づくような輝きが漏れていた。
「お客、見る目があるねェ」
箱の主――背丈ほどの曲がった杖を突く老婆が布を払う。現れたのは漆黒の長銃槍。刃と銃身が螺旋ジョイントで一体化し、表面は星霧の細流を映す鏡のように滑らかだ。柄尻には微細な魔術刻印が幾何学文様を描き、その中心で淡い燐光が心臓の鼓動のように瞬く。
「掘削坑の底で拾った遺物さね。測定器を三度焼き切ったってのに、どこの鑑定師も触れたがらない。怖い話もあるよ。試しに握った坑夫が、その場で自分の名前を忘れて泣き崩れたってね」
老婆はしわがれ声で笑い、歯茎に金の詰め物を煌めかせる。
「買う気がなくても構わんよ。ただ眺めるだけで価値がある。――さあ、触ってご覧」
廉は手を伸ばした。指先が黒曜石の肌へ触れる瞬間、鋭い電流が走る。
――チリィィン。
視界が蒼白く反転。喧噪が消え、彼は星霧の底に立っていた。銀幕の水面が無限遠へ広がり、その真ん中に銃槍が浮かぶ。
〈名を〉
女の声が水晶の鈴のように響く。自らの思考より澄んでいた。
「九条廉」
〈認証。外来個体〉
声が脳へ刻印されるたび、星霧が波紋を描き槍へ吸い込まれた。
〈呼称《カリスト》。人工星骸。記憶封匣構造を有す〉
「記憶を、返せるのか?」
〈契約中は預かる。終了時の返却確率は契約者の精神強度に依存〉
「代価は?」
〈融解度A以下の鮮明記憶を一片〉
廉は胸を抑えた。脳裏に映る――深夜の研究棟。同期の佐伯と食べた自販機のサンドイッチ。味は安いのに、くだらない会話が妙に楽しくて、疲労が紛れた。それは彼の“働く意味”を辛うじて繋いでいた最初の灯だ。
(あの光を失っても、俺はまだ歩けるか?)
躊躇は瞬きほどの長さだった。
「――くれてやる」
刹那、胸骨を抜ける甘い痛み。映像が剥がれ、光のきらめきとなって槍へ吸い込まれる。
〈契約成立。執行権限、九条廉。起動プロトコル発令〉
星霧が炸裂し、世界が現実を貫いて収束した。
* * *
落鉱バザールの喧噪が雪崩のように戻る。銃槍《カリスト》は廉の腕に吸い付くように収まり、金属とは思えぬ温度を伝えた。
ルーシェが駆け寄る。「起動した? 大丈夫なの!?」
「ああ……けど、確かに何かが抜けた」
胸奥の空洞が疼く。だが燃え尽きるような痛みはない。カリストの声が低く囁く。〈記憶保管完了。喪失は一時的〉
老婆は目を剥き、周囲の商人たちがざわめきを上げた。
「星骸保持者だ!」
「評議会衛士を呼べ!」
バザールの警笛がこだまし、赤い信号弾が天井へ走った。銃槍に宿る光が廉の神経を刺激し、戦慄に似た陶酔が脊髄を駆け上がる。
「ルーシェ、逃げるぞ!」
「こっちよ!」
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彼女はコートの裾を翻し露店の隙間を駆け抜け、肩にかかった髪が銀線を引いた。廉もカリストを背に収め、一息で追いつく。背後では評議会の衛士が鎖光の魔術陣を展開し、拘束呪文が蒼い稲妻となって迫った。
「カリスト、対魔術防壁を!」
〈演算指示受領〉
銃槍が伸び、槍刃が回転しながら星霧を凝縮。螺旋状の光壁が二人の背後に展開し、追撃の鎖光を弾き返す。爆ぜる蒼炎の残光が露店を照らし、悲鳴が上がる。
「すごい……!」ルーシェが息を呑む。「人工星骸の演算速度、噂以上ね!」
「感心は後だ! 出口は?」
「東通気孔! ただし上部配管を渡るわよ!」
天井へ走る梯子を蹴り上がり、二人は排気ダクトの上へ躍り出た。足場は幅一尺の鉄梁。下は蒸気と星霧が呑み込む暗闇だ。
衛士が地上で魔術陣を広げる。
「来るぞ!」
廉はカリストを槍形態で構え、刃を梁へ突き立て一気に跳躍した。星霧が足下を推進し、体が空中を滑る。ルーシェも後を追い、コートが羽根のように広がった。
着地した瞬間、背後で梁が光の鎖に砕ける。鉄骨が崩落し、火花が暗闇へ散る。廉はルーシェの手を掴み、開いた配管ハッチへ滑り込んだ。
* * *
配管内部は灼熱だった。星霧を帯びた排気が耳を焼くような咆哮を上げ、濃密な魔力粒子が内壁を真珠色に燐光させる。
「追跡を断つには?」
「排気タービン奥のメンテナンス斜路。圧力差で魔力感知が狂うはず!」
ルーシェの解析眼が走査線を放ち、配管の先に弱い魔術障壁を見つけ出す。廉は槍で円陣を描き、障壁の転移座標を捻じ曲げた。蒼い火花の雨が降り、空間が軋む音を立てる。
壁が崩れ、冷たい外気が雪崩れ込む。二人はそこを飛び出し、錆び付いた足場を駆け上がった。
やがて破れた排気ルーバーから夜の第四層高台へ転がり出る。息が白く凍り、夜空には塔心から落ちる星霧の滝が見えた。
「振り切った……ね」
ルーシェが膝に手を突き、呼吸を整える。額に垂れた髪が汗で張り付き、瞳が疲労と高揚を同時に映した。
廉は銃槍を背に収め、胸の空洞に意識を向ける。欠落は確かに在る――だが、抜け殻ではない。どこかに安全に保管されている安堵と、同時に背負う緊張が同居していた。
〈預託記憶の安定を確認。次回使用時の融解率を百分の三に抑制〉
カリストの報告が脳裏に流れ、彼は小さく笑った。
「いい相棒になってくれるかもな」
「まったく、見事に無茶をやってくれたわ」
ルーシェは額の汗を拭い、紅い瞳を細める。「でも、その星骸を得た価値は計り知れない。これで評議会に対抗できるかもしれないわよ。――さあ、貸しを返してもらうわ。記憶晶のルートを追い詰めるわよ、パートナー」
廉は手を差し出した。
「もちろん。行こう、ルーシェ」
握られた手の温度が星霧の冷気を和らげ、背後で塔の灯が静かに瞬いた。
闇市に響いた契約の共鳴は、都市の深層と天頂を同時に震わせる序章だった。星骸騎士団はすでに探知網を絞り、評議会の議事堂では〈白叡〉が微笑を深めている。
けれど今はまだ、二人と一本の星骸だけが夜風を切り裂き、自由を謳歌していた。