静寂に包まれるリバン河は、その日も朝霧に包まれていた。
リバン河東岸に姿を現したのは、十数人のベオクと、僅かばかりのラグズ。しかしそのいずれもが、数々の修羅場を潜り抜けてきた猛者中の猛者である。20騎にも満たぬ小さな集団が戦況を変えうることもある。それがテリウス大陸であり、ベオクとラグズが持つ可能性だ。
その先頭にあって、グレイル傭兵団の団長アイクは、慌てることも、緊張することもなかった。自分の役目を心の底から、まるで当然のように受け入れるその姿を、英雄と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
「出撃だ! 行くぞ!」
アイクの飾らない号令と共に、グレイル傭兵団の進撃が開始される。
対するデイン陣営は濃霧を前に、敵の動きを把握できずにいた。頻繁に霧が発生するリバン河での戦闘経験の有無が趨勢を分けた形だ。
「……霧が濃いな」
ミカヤの傍に控えるサザがぼやく。
「ラグズは霧の中でも動けるのかしら」
「……ラグズは鼻も耳も利くから、ベオクよりは有利かもな」
「だったらなおさら気を付けないといけないわ……各部隊に、警戒するように伝えて」
近くの兵に指示を出しつつ、ミカヤは全軍を河川敷に待機させる。
デイン王国軍の……ミカヤの方針は、ベグニオン中央軍と連携を取りつつラグズ連合に対応していくというものだ。そのためにデイン軍でも随一の実力と家格を持つ竜騎士であり、ベグニオンに滞在した経験もあるジル=フィザットがガドゥス領へと送られている。ベグニオンの宗主国としての選民意識、デインの反ベグニオン感情は相当なもので、簡単にはいかないことはミカヤも分かっているが、それでも試みるのは仲間のためだ。
ミカヤとしてはそもそもラグズ連合などという、言ってしまえばデインと関係ない相手のために、せっかく生き残ったデイン兵に犠牲を強いることに抵抗があった。単独で戦うのではなく、強大なはずのベグニオンと連携を取って効率的に戦いたいというのは理にかなっている。
なので河川敷で陣を敷き敵を警戒しつつも、自ら渡河して敵を倒しにいくような積極策を取ることはない。
「このまま霧が晴れてくれるまで、何もなければいいのだけど……」
ミカヤのそんな願いは、果たされなかった。
「巫女様! 正面から一団が接近、中州では既に戦闘が始まっています!」
「敵の構成は?」
「ベオクが主体の十数騎、青い髪の男が率いています!」
その特徴を持つラグズ連合方の部隊は一つしかない。グレイル傭兵団だ。
「兵を集めて! 彼らは強い。一人では戦わず、二人、三人でまとめてかかって!」
「はっ」
ミカヤの伝令を受けた兵は霧の中へと駆けて行ったが、その後も喧騒は収まるどころか迫る一方。河岸に敷いていた兵たちの松明が、慌ただしく揺らめき始めた。敵はかなり近くまで迫ってきていた。
「伝令! 上流で、半獣共が渡河を行っています!!!」
「上流側にも歩兵を展開、守りを固めて!」
「し、しかしそれでは、こちらに来なかった獣どもには素通りされてしまうのでは……」
「あなたたちの命の方が大事。私たちは寡兵なんだから、無理はしちゃだめ……行って」
「わ、分かりました!」
伝令が去ったのを確認し、ミカヤは息を吐く。この指示を出さねばならなくなった時点で、敵の渡河を阻止するという目的を十全に達成できなくなった。
とはいえベグニオン中央軍の半分程度の軍勢だ。どの道ラグズが渡河可能な範囲を抑えることも出来ない。ラグズは一度陸に上がってしまえば、その機動力と攻撃力を遺憾無く発揮する。
難しい舵取りに気を揉むミカヤ。畳み掛けるように、"迫りくる危機のイメージ"が脳裏に浮かぶ。
「ミカヤ、危ない!」
ミカヤとサザの前に、上空から降ってきたそれが立ち塞がった。全身を赤い体毛で覆われた獅子、スクリミルが咆哮する。
「銀髪の女、貴様がこの軍の大将だな!」
霧に身を隠した完璧な奇襲を前に、周辺の兵は動揺し、武器を構えるのがやっとだった。
「下がれ、ミカヤ! 獅子の力は虎や猫とは桁が違う」
サザがミカヤの前に躍り出て、ダガーを構えた。彼は決して武勇に優れている訳ではない。スクリミルを相手にすれば、傷の一つでも付けられれば御の字といったところだ。それでも彼は、大切な人を守るために躊躇いなく立ち向かう。
「まずはお前から死ぬか!」
スクリミルが吼えたその瞬間だった。
光の柱が、サザとスクリミルの間に割って入るように降り注ぐ。光が止んだとき、その場には黒鎧を纏った男が立っていた。
漆黒の鎧と赤いマントを身に纏い、手には神剣エタルドを携える重装の男。かつてデインの四駿に数えられた無双の剣の者。三年前、アイクと一騎討ちの末倒されたはずの男。
漆黒の騎士、そしてその正体はベグニオン帝国軍総司令ゼルギウスだ。
「騎士様!」
「漆黒の騎士……!」
突然の来訪者に、ミカヤもサザも驚愕の声を上げる。彼らから見た漆黒の騎士は、デイン解放のための戦の最終盤に、突如現れてミカヤの命を救い、王都奪還の戦いを共にした後、新王の即位を見届けて突然姿を消した存在だ。それが突然戻ってくれば、驚くのも無理はない。
「乙女よ。何故このような戦いをしているのか……私は、そなたには問わぬ」
漆黒の騎士はミカヤたちを背に、スクリミルに対しエタルドをかざす。
「私はただ、そなたの身を護るためここに来た。他に理由はない」
漆黒の騎士がこのタイミングでデイン軍に現れた理由は、原作でも多くは語られない。ただ一つ言えるのは、漆黒の騎士とスクリミルはこの時会うことはなかったはずの二人ということ。
一瞬訪れた沈黙、それと同時に仕掛けたのは漆黒の騎士だった。重厚な鎧を装備しているとは思えないほどに俊敏にスクリミルへと詰め寄ると、横薙ぎの一閃を放つ。
対してスクリミルは、その動きを読んでいたかのように大きく後方に飛び、それを躱してみせた。
「よく躱した。獅子王の後継――」
「今のは前に見たからな。俺に同じ技は二度通じんぞ!」
スクリミルは苛立ちを隠そうともしない。それは敵総大将を仕留め損ねたからではない。有り得ない相手が、有り得ない場所にいる不可解への苛立ちだ。
「貴様、ゼルギウスッ!!! なんだそのふざけた鎧は! なぜデイン軍に組している!?」
少しでも知識のある者なら、そんなバカなと否定するだろう。一国の軍の総司令を務める者を証拠もなしにそう呼ぶことに配慮をするかもしれない。
そんなものは欠片もなく、スクリミルは堂々と、戦場に響き渡る大声でその名を叫んだ。
「ゼルギウスだって!?」
それに食いついたのはサザだった。三年前アイクと共に戦っていた彼は、漆黒の騎士をアイク団長の仇敵として、そしてアイクとの一騎討ちで死んだはずの者として、再び姿を現した漆黒の騎士を懐疑的に見ていた。
「知っているの? サザ」
「ベグニオン軍の総司令をやっている男だ。三年前にもアイク団長に協力していたから、俺も顔は知っている」
見るものが見れば戦場の緊迫とも取れるし、単に気まずい雰囲気とも取れる沈黙が流れる。
「スクリミル将軍、無事か! ……漆黒の騎士!」
そこに到着したのがアイクだった。彼はグレイル傭兵団のみで前線を突破し、ここまで辿り着いた。
「おぅアイク! 気を付けろ、あの赤マントの黒鎧はゼルギウスだ! 俺とお前、二人がかりで倒すぞ!」
「漆黒の騎士が……ゼルギウス、だと……!?」
アイクが愕然とした表情で、漆黒の騎士を見る。
アイクが原作でこの事実を知るのは、この地点よりも遥かに未来。第四部に突入してからだ。その時はライからの伝聞だったが、今回は実物と相対しながらの暴露である。気、物腰、声。アイクの頭の中で、漆黒の騎士とゼルギウスのイメージが急速に結びついていった。
アイクは無言で剣を構える。漆黒の騎士もエタルドを構えるが、ミカヤの目にはその様が、それまでの泰然としたものではないように映った。
「……デイン軍、戦闘停止! ラグズ連合に停戦を申し込みます!」
ミカヤの声に、兵たちは一斉に戦闘を止める。
「俺たちも停止だ!」
その意図をすぐに汲み取ったアイクが、グレイル傭兵団の手を止めさせた。そしてミカヤの方を見据える。
「あんたがミカヤか」
「はい。この軍の総大将です。あなたがアイクですね?」
「あぁ」
ぶっきらぼうに答えるアイクの姿は、サザがミカヤに語って聞かせた人物像そのままで、ミカヤは初めて会った気がしないような、不思議な感覚を覚えるのだった。
「ここまで本陣に浸透されては、このまま続けても犠牲が増える一方。私たちは撤退します」
「このまま川を渡らせてくれるってんなら、俺はそれでいい。スクリミルもかまわないか?」
「そうだな。俺たちの仕事は、渡河を成功させることだ」
以前の、敗北するまでのスクリミルであればまず首を縦に振らなかったであろうアイクの問いに、今のスクリミルはすんなりと従った。
「ゼルギウス! 次に会った時は覚悟しておけ、必ずや打ち破ってやる!」
そう言い残し、スクリミルは去っていく。
「……漆黒の騎士。あんたとの決着はまた今度だ」
「……」
アイクたちグレイル傭兵団を引き連れ、その場を後にする。それを見送った漆黒の騎士が背を見せ、去ろうという素振りを見せたとき、サザが口を開いた。
「待て。漆黒の騎士、兜を脱いでもらおうか」
「敵の妄言に惑わされるとはな……これでは乙女は任せられん」
「なんだと!?」
「待って、サザ」
サザを制止したミカヤは、漆黒の騎士に礼を告げる。
「騎士様。助けてくださりありがとうございました」
「礼など不要だ」
「……私からは、何もお伺いしません。私のことを助けるために来てくださったという、あなたの言葉を信じます」
「……」
「またお会いできたのは嬉しいです……ご無事でよかった」
「……失礼する」
漆黒の騎士は短くそう告げ、光の柱に包まれる。次の瞬間にはもう、跡形もなくその姿を消していた。