喉が渇いた、と思った。
深い霧の中を歩いている。
かろうじて見えるのは自分の半径5mほどで、そこから先は真っ白である。
自分が歩いているのは水辺で、右手側には湖がある。手前側のほんの一部しか見えていないが、多分湖だと思う。
磯の匂いはしないし、流れがあるような音もしない。だがら、海や川じゃない。
それで、やはり喉が乾いている。
「……まずいなあ」
俺、刑部殺助は現在、絶賛迷子中だ。
* * *
日本における迷子──つまり行方不明者の数は、年間10万人弱に上る。
年代別で分けると一番多いのが10代、次が20代、その次は大きく飛んで70代が続く。
そういう意味では、25歳の人間が行方不明者の一人に加わることは、統計的にはあまり大きなことではない。
けれども──と、俺は自分の胸ポケットを探る。そして、そこにある硬い鉄の感触を確かめる。
「警察官が迷子って。しゃれにならんて」
俺こと刑部は、警察官でもあった。
こうなった経緯は至極簡単だ。
担当していたとある殺人事件。その捜査中、現場付近で不審な人物を見つけた。
ロングコートに猫背の長身、黒い髪。見た目の特徴は、事前の聞き込みで挙がっていた犯人像とほぼ一致していた。
すぐに上司に連絡したが繋がらなかったので、自分の判断で追跡を開始した。
現場は伊豆の韮山の近くである。犯人は俺の追跡に勘付いたのか、山の中に入っていった。迷わず俺も山に入った。
で──普通に振り切られて見失った。それどころか、俺は自分の位置情報すらもわからなくなっていた。
書き起こしてみれば間抜けな話だ。
「神奈川県警警部補が職務中に現場を放棄」──そんな、ゴシック体の見出しが脳内を駆け巡る。
こういう場合、何日も署に戻らなかったら、懲戒処分になったりするんだろうか?そうならないためにも、早くこの迷子状態から脱出する必要がある……のだけど。
いまだに自分の所在地がどこなのか、把握できていない。携帯の表示は、遭難に気がついた時から圏外である。
田舎育ちだから、山を舐めていたつもりはない。
体力には自信があったし、とりあえず山麓まで降りて電波が入るところに出れば、助けは呼べる。そう踏んでいたのだが。まさか、平地に降りても電波が入らないとは思わなかった。
「この湖のほとり──原野って感じでもないよな。道が整備されてる。人がいるってことだ。なのに電波が入らないのは驚きだけど」
人にさえ合うことができれば、まあなんとかなるだろう。
「喉が渇いて死にそうだけど……得体の知れない湖の水を口にするより、もう少し粘って人との邂逅を待った方がベター、だよな──」
そんなことを呟いて顔を上げたその時、眼前の霧が少し薄れた。
目を細めて遠くを見る。
目の前には悪趣味な程の紅色をした、大きな館が聳えていた。