クローンの君と半分エーテリアスの僕 作:kakerutakeda
夢を見ていた。
灰色の瓦礫が積み重なる道を、僕は走っていた。息を吸っても、肺の奥まで空気が届かない。何から逃げているのか、どこに向かっているのかも分からない。ただ、立ち止まることだけはできなかった。
瓦礫を一つ越えたところで、視界が開ける。
そこには、人が倒れていた。
一人ではない。崩れた壁のそばにも、割れた地面の上にも、折り重なるように人が倒れている。足元を流れる赤黒い液体が、靴の先に触れた。
「……誰か、いないの?」
返事はない。
近くの一人に駆け寄り、その顔を覗き込んだ。目の前にいるはずなのに、輪郭がぼやけて見えない。手を伸ばせば触れられる距離なのに、どんな顔をしていたのか思い出せなかった。
知らない人のはずだった。
それなのに、この人がもう起き上がらないのだと思うと、胸の奥がひどく痛んだ。
『お前のせいだ』
すぐ後ろで声がした。
振り返る。誰もいない。
『お前が殺した』
『お前が失敗しなければ、みんなは……!』
男の声も、女の声もあった。怒っている人も、泣いている人もいる。どれも知らない声のはずなのに、不思議なほど耳に残った。
「……違う」
気づけば、そう答えていた。
何が違うのか、自分でも分からない。誰に向かって弁解しているのかさえ分からなかった。
目の前で、倒れていた人の指が動いた。
「え……?」
その腕が地面を掴む。別の人影も身体を起こした。こちらを向いた顔には、赤く濁った瞳が二つ。皮膚の隙間から黒い結晶がせり出し、身体の形を歪めていく。
『守ってくれるって言ったのに』
『どうして、置いていったんだ』
一歩、後ずさる。
右手に、何かの重みがあった。
剣だ。
刃に血がこびりついている。握った指の間にも、乾きかけた赤いものが入り込んでいた。
いつから持っていたのだろう。
手放そうとした。それなのに、指が言うことを聞かない。
「僕は……」
何を言えばいいのか分からなかった。
「……ごめん」
人影が近づいてくる。逃げなければと思うのに、足が動かない。
その向こうで、霧が揺れた。
大きな影が一つ、ゆっくりと姿を現す。
人に似た形をしていた。けれど、片腕は巨大な刃に変わり、黒い身体のあちこちが不自然に尖っている。肩のあたりには、ぼろぼろになった布のようなものが引っかかっていた。
怖い。
そう思ったはずなのに、目が離せなかった。
あの布を、どこかで見たことがある。
「……待って」
僕の声は届かない。
「君は……」
名前を呼ぼうとした。
けれど、何も浮かんでこなかった。
異形が腕を振り上げる。刃が僕の頭上で止まり、一瞬だけ、赤い瞳がこちらを見た。
次の瞬間、刃が振り下ろされた。
「――っ!」
身体を起こそうとして、両腕が引っ張られた。
勢いを失い、背中が床に戻る。鈍い痛みが走った。
「……痛っ」
目を開けたまま、しばらく息を整える。
人影も、血のついた剣もない。頭上に見えるのは、見慣れた天井だった。継ぎ目を塞いだ壁、窓際に寄せた道具、使い古した寝具。窓の向こうには、崩れた建物の壁が灰色の光を受けている。
僕の部屋だ。
もとは地下に埋もれていた建物の一室で、崩落によって露出したところを、少しずつ直して住めるようにした。クレーターの壁に残された、僕の家。
「……夢、か」
胸の奥に嫌な感覚だけが残っていた。さっきまで聞こえていた声も、倒れていた人たちの顔も、思い返そうとすると曖昧になっていく。
もう一度起き上がろうとして、手首が動かないことに気づいた。
「……あれ?」
両手が、縄でまとめられている。
縄の先は、近くにあるむき出しの配管に結びつけられていた。試しに引くと、結び目がきゅっと締まる。
どうやら、僕が寝ている間に誰かが縛ったらしい。
外そうと思えば外せそうだけど、ここは僕の家だ。知らない誰かが入り込んだのなら、そちらの方が気になる。
身体を動かさずに周囲を見回すと、寝床のそばで衣擦れの音がした。
銀白色の髪をした少女が、こちらを見ている。
「あ……」
見間違えるはずがない。
瓦礫の下から見つけた、あの子だ。
「目が覚めたんだね。よかった……」
「動かないで」
かすれた声だった。それでも、こちらを見る目にははっきりと警戒の色がある。
僕は言われたとおり、動きを止めた。
「……あなた、誰?」
「えっと、僕は……」
答えようとして、手首の縄が目に入る。
「あの、その前に一つ聞いてもいいかな。この縄、君が結んだの?」
少女は僕の手首を見て、少しだけ眉を寄せた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「目が覚めたら、知らない人がそばにいて……。危ないと思ったら、勝手に身体が動いてた」
そう言って、自分の手を見下ろす。
「どうやったのか、よく覚えてない」
「そっか。急に知らない人がいたら、びっくりするよね」
少女は答えなかった。
部屋の中を見回してから、また僕を見る。
「……ここは?」
「僕が暮らしている部屋だよ。君が倒れていた場所から、ここまで運んできたんだ」
「……運んだ?」
「うん。覚えてないかな」
少女は首を横に振る。
僕の方は、なんとか覚えている。
あの場所で彼女の呼吸が落ち着いたあと、どうにか抱え上げて家まで戻った。足元がおぼつかず、途中で何度も休んだ。寝床に彼女を横たえたところまでは覚えているけれど、その先がない。
たぶん、そこで力尽きたんだと思う。
思い返すだけで身体が重かったが、目の前の少女は自分の足をじっと見つめていた。
「……どうかした?」
「変な感じがする」
「痛む?」
「……分からない。動くけど、思ったとおりじゃない」
彼女は足首を動かし、膝を曲げた。続けて立ち上がろうとしたところで、身体が傾く。
「あ、待って!」
とっさに手を伸ばした。けれど縄が張り、指先は届かない。
少女は近くの壁に手をついて、かろうじて踏みとどまった。
「大丈夫?」
「……平気」
そう言いながらも、すぐには壁から手を離さなかった。
「まだ無理しない方がいいよ。君、ひどい怪我をしていたんだ」
「怪我……?」
「うん。僕が見つけたときは、ほとんど動けない状態で。なんとか手当てはしたけど、まだ身体が慣れていないのかもしれない」
少女はゆっくりと自分の腕を見下ろす。指を開いて、閉じる。その動きを、何度か繰り返した。
「……あなたが、治したの?」
「そうだよ」
「どうやって?」
すぐには答えられなかった。
雨の中に倒れていた少女たちの姿が、頭に浮かぶ。僕がしたことも。
「……普通の手当てとは違うんだ。エーテルを使って、傷をつないだ」
「エーテル……」
「うん。ほかにも、ちゃんと話さなきゃいけないことがあると思う。でも、まずは君の身体を休ませてほしい。まだ立っているのも大変そうだから」
少女は納得していない様子だった。無理もないと思う。
「勝手にいろいろして、ごめんね。ただ、あのままにはしておけなかったんだ」
返事はなかった。
代わりに、少女の視線が僕の手首に落ちた。
「あの……縄をほどいてもらってもいいかな。君がまた倒れそうになったとき、このままだと支えられないから」
「……逃げない?」
「うん。ここは僕の家だし、君を置いてどこかに行くつもりもないよ」
「……何もしない?」
「うん。勝手に触れたりしないよ。手当てが必要になったら、そのときは先に聞くね」
彼女はしばらく考え、それから慎重に近づいてきた。
指が結び目を探り、素早く縄を解いていく。結び方を覚えていないという割に、手際はずいぶんよかった。
「ありがとう」
自由になった手首をさすりながら、僕はその場でゆっくり身体を起こした。
少女はすぐに離れたが、寝床のそばに立ったままこちらを見ている。
「座っていていいよ。無理して立たなくても」
「……まだ、信用したわけじゃないから」
「うん。分かってる」
僕は寝床から少し距離を取って、床に座った。少女も、しばらくしてから腰を下ろした。
窓の外で、どこかの金属が軋む音がした。
「……ねえ」
「なに?」
「あなたの名前、何?」
「僕の名前?」
答えかけて、言葉が止まった。
あれ。
僕の名前って、何だったっけ。
この部屋に何を置いているかは分かる。食べ物を手に入れる場所も、傷んだ壁を直したときのことも覚えている。それなのに、自分が何と呼ばれていたのかだけが、どうしても出てこない。
「……どうしたの?」
「ごめん。ちょっと考えさせて」
目を閉じても、浮かんでこなかった。
「……忘れちゃったみたいだ」
「名前を?」
「うん。今まで気づかなかった」
自分でもおかしくて、少しだけ笑ってしまう。けれど、少女は笑わなかった。
「……私も」
「え?」
「分からない。自分の名前」
少女は膝の上で指を握り、何かを探すように黙り込んだ。
「でも、一つだけ……よん、って」
「よん?」
「数字の、四。それだけ、覚えてる」
「四か……」
番号だろうか。それとも、別の意味があるのだろうか。
聞いてみようと思ったが、彼女にも分からないのなら、今は答えを急がなくてもいい気がした。
「じゃあ、テトラっていうのはどうかな」
「……テトラ?」
「四を表す言葉なんだ。君が覚えているものから、考えてみたんだけど」
少女は口の中で、何度かその響きを繰り返した。
「……テトラ」
「嫌だったら、別の名前でもいいよ」
「ううん」
小さく首を振る。
「……それがいい」
「そっか。よかった」
少女は少しの間、僕を見つめていた。
「じゃあ、あなたは?」
「僕?」
「私だけ名前があるの、変でしょ」
「そうだね。何か考えようかな」
自分に似合う名前と言われても、なかなか難しい。少し考えていると、彼女が先に口を開いた。
「……クラル」
「え?」
「クラル、はどう?」
「クラル……」
声に出してみる。不思議と、口になじむ響きだった。
「どうして、その名前?」
「……分からない。なんとなく、浮かんだの」
「なんとなく、か」
「……嫌?」
「ううん。いい名前だと思う」
もう一度、確かめるように呟く。
「クラル。うん、気に入ったよ。ありがとう、テトラ」
彼女は、ほっとしたように息を吐いた。
「……クラル」
「なに?」
「……呼んでみただけ」
「そっか」
思わず笑うと、彼女もほんの少し口元を緩めた。
けれど、まばたきの間隔がだんだん長くなっている。
「眠い?」
「……少し」
「じゃあ、横になろうか。身体もまだ疲れてると思うから」
テトラは一度僕を見て、それから寝具に身体を横たえた。
僕はそばにあった薄い掛け布を、彼女の手の届くところへ置く。
「寒かったら使ってね」
「……クラルは?」
「僕はもう少し起きてるよ。何かあったら呼んで」
「……うん」
しばらくして、寝息が聞こえ始めた。
「……おやすみ、テトラ」
声を落として言ってから、少し離れたところに座る。
ついさっきまで、目を覚ますかどうかも分からなかった子が、今は自分で話し、自分の足を動かしている。まだ心配なことは多いけれど、呼吸は落ち着いていた。
手首に残った縄の跡を、親指でなぞる。
そうすると、夢の中で握っていた剣の重みが、ふと蘇った。
両手を見下ろす。
血はついていない。
それなのに、あの声を聞いたときの苦しさだけが、まだ胸のどこかに残っていた。
窓の外で、建物が小さく軋んだ。
顔を上げると、テトラは変わらず眠っている。
僕はしばらくその寝息を聞いてから、壁に背中を預けた。