まだ幼く、年端もいかない小学生の頃の「私」にとって
全ての風景が新鮮だった。その中でも雨の日の情感は特別だった。
けれどもある日であった一匹のカタツムリによって、それら全ては
恐怖へと変わってゆく…


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第1話

雨の日の校舎が好きだった。湿り気を含んだ空気の中を、トタンやコンクリートの屋根に弾ける雨粒の音に包まれて、

そんな空気を呼吸した木造りの机やフローリングやらが、やおらしっとりとした触感を侍らせ鼻孔をくすぐり、

普段太陽光に遮られ見えない蛍光灯の薄黄色い光が辺りを照らす。そんな空間が好きだった。

ふとした瞬間に、誰かの話し声とか歩く音が止んだりして、室内に静寂が訪れる。しかしそれはただの静寂じゃない、

外で降りしきる雨の音によって、静寂の輪郭が縁どられ、より強調された最上の静寂…いわば静謐ともいうべきものなのだ。

いつの間にやら空間を占めている静謐を破るまいと、自然恭しい雰囲気が流れ出る。知らず知らずの内に

日々の動作や話し声やらが控え目なものになっていく。そんなことをしている内にも、雨はザーザーと勢いを増していき、静謐はその存在感をより増していく。

また、その静謐を破るまいと、恭しい雰囲気もより色濃くなっていき、転じて、「この静けさを破ってはいけない」といった緊張に変わり、歩いて床をきしませたり、

物を擦って音を立てたりしてしまったら、何かに罰せられてしまうようなそんな気持ちになってくる。

そんな緊張からだろうか、分厚い雲に覆われた暗い空と、蛍光灯に照らされた室内とのコントラストの違いによって、今が昼なのか夜なのか、あやふやになって混乱してくるのだ。

もちろんそんな混乱は、教室にかけてある時計を見ればすぐ様に払拭されるようなものなのであるが、それでも「時計の針が指す先は本当に正しいのか?」

「11時を指しているが、あれは午前の物か、午後の物か、一体どちらだろうか…」といった疑問が私の心の奥底に幽かに沸き起こるのだ。

そんな静謐と、恭しい緊張と、混乱とが混ざり合った結果だろうか、まだ年端もいかぬ小学生の頃の幼い私は、雨の日に尋常ならざる感覚を…

日常とは隔絶された異世界感を感じていた。

けれども、その頃の私たちはまだまだ遊びたい盛り。グラウンドに出て遊べないのはやはり退屈だった。張り詰めた緊張やら静謐なんかも、一度何かの拍子で

解けてしまえばなんてことはない。ただ雨が降っていて陽が出ていない、初めからそれだけのことだった。先ほどまで私の心象を駆け巡っていた異世界感なぞは鳴りを潜め、

私の意識はただ、この暇な時間をどうやって潰そうかということに向いていた。

「教室の中なんかにいても暇だから、どこか適当にブラブラしようよ」

私は私と同じように、退屈そうにしているクラスメイト数名と連れ立って教室を後にした。

廊下に出ると、まず初めに教室内よりもより冷ややかで新鮮な空気を感じた。一息呼吸するごとに、重い気持ちが吐き出され、より軽やかな気持ちになるような感覚があった。

私たちはどこへ向かうとなく歩き始めた。歩きながら途中途中で窓の外の緑や空を見やりながら、私たちは雑談を交わす。

日々の出来事や無意味な戯れ、有り余る活力の為に行われる教師への無意味な反目…日々と何ら変わらぬ他愛もない話をしていると、体育館へと繫がる吹き曝しの廊下にある扉の前へとたどり着いた。

金属製の冷たいドアノブを握りこみ、ゆっくりと回しこむ。扉を押し込んだ瞬間に、室内と外とを区切る境界線は途切れ、くぐもっていた雨粒の弾ける音が、劈くように私たちの耳に生身そのままで雪崩れ込んでくる。いつの間にやら、雨はこんなにも勢いを増していたのか。吹き曝しの屋根の内から手を伸ばすと、掌に雨粒の快い衝撃と冷たさが降りかかる。

そんなことをしながら空を見て呆けていると、出し抜けに水滴が私のうなじに垂れてきて、そのまま背筋を伝い落ちる。その不快感に思わず私は素っ頓狂な声を出してしまった。

後ろを振り返ると、雨水に濡れた手を顔の前に掲げて、にやにやと薄ら笑いを浮かべているクラスメイトが一人。垂れてきたのではなく、垂らされたのだな。

「やったな、この野郎」

私は伸ばしていた手をそのままそのクラスメイトに向けて振りかぶり、水滴を飛ばした。

水滴を飛ばされたクラスメイトはそれに応じてまた、屋根の外に手を伸ばし、私と同じように振りかぶる。私たちははしゃぎ回った。

水滴をできるだけ浴びせられぬように廊下を駆け回り、隙を見せた相手に水滴を浴びせに行く。傍観していた者たちも次々とその対象になり、一人、また一人と

この遊びに加わっていった。────────────────────────────────────昼休みが終わる頃合いだろうか、私たちは十分に動き回り、遊びにも一区切りついた。

心地よい気だるさと満足感があり、もうそろそろ教室に戻ろうかという雰囲気になっていた。

多少乱れていた息も整えられ、「さて、戻ろう」と声を掛けようとした瞬間である。

「なぁおい、アレ見ろよ」

皆がそう指し示された方をみやる。塀に沿って植えられた下草の影に何かうずうずと蠢いているものがいる。私はそれを確かめた瞬間に、体の芯から凍えつくような、とてつもない恐ろしさを感じた。ナメクジにそのまま殻を乗せたような生き物が土の上を這っているのだ。ぬるぬるとした粘液をまとい、紡錘形が溶けたような乳白色の体をくねらせている。

私にはその様子が心底恐ろしかった。ナメクジと似ているが沸き起こる情感は全く違う。

「カタツムリじゃないか」

クラスメイトの一人がそう言った。ああ…あの恐ろしい生き物の名前はカタツムリと言うんだな…

私はただ茫然と見つめることしか出来なかった。クラスメイト達は目の前のカタツムリに対して何か二言三言交わした後に、また平然と別の話題へと移っていった。誰もがカタツムリに対して、それ程の注力も印象も持たないような感じで目をそらしていく。

精々「あの粘液が気持ち悪い」といった程度のもので、私のような恐怖を持つ人間は誰一人としていないのだ!その時の私の居心地の悪さ、居たたまれないさと言ったら…

だが、私は私の恐怖を気取られまいと、務めて平然とした態度でいるしかなかった。私の持つ恐怖は、多くても10cm程度の存在に感じるものとしては、余りにも大げさなものだった。もしバレてしまえば、諧謔の対象として笑われてしまうだろう。もし何かの諍いや口論の場面でこのことを揶揄されてしまったら、どんなに優勢な立場でも閉口して何も言い返せなくなってしまうだろう。単純なからかいの言葉や好奇の目が、私にどれほど応えるだろうか?

そのことを思うだけで息苦しさを感じ、目頭が熱くなってくる感じがした。何とか気を持ち直せたのは、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が鳴り響いてからだった。

教室へと戻ってゆくクラスメイトの後を追い、午後の授業を受けに行く。だが依然として、意識は戦慄に支配されていた。私自身不思議だった。

何故こんなにも恐ろしいのだろうか?あんなちっぽけでノロマな、長短二つずつの触角をむやみやたらに振り回しているあの間抜けな輪郭が、何故今まで出会ったものの中で一等怖いのだろうか?授業など全く耳に入らなかった。日がな一日中、その日初めて出会ったカタツムリに頭を悩ませた。そして、私が導き出した結論がこうだ

「あの殻の秘密感が怖いんだな」

これがカタツムリの恐怖の内訳ということだ。あの渦巻模様の殻の中に、何が入っているのが解らないから怖いのだ。わざわざ殻に覆わせて、肌身離さず背負い歩くあの中身は

きっと恐ろしいものに違いない。一体全体何を隠しているのだろうか?そんな感覚が、雨の日の緊張や異世界感やらと絡み合い混ざり合い万倍にも膨れ上がり、隔絶された秘密と恐怖、異世界の顕現者として私の脳髄を刺激するのだ!例えるならば、自販機の底や建物の隙間なんかに硬貨が転がり込んでしまって、拾う為に手を伸ばしたら何か毛羽立ったモノや湿ったモノに手が触れてしまった瞬間だったり、先ほどまで盛んに話し合っていた友人たちが自分の姿を認めた瞬間に押し黙ってしまい、いくら追及しても何も言わない瞬間だったり…

そんな時の不快感や薄気味悪さを想像してみれば私の恐怖の万分の一でも伝わるだろうか。

そんな感情の余韻は日を跨いでも続いていった。雨の日は恐ろしいものへと変わってゆき、草葉の陰や土の中にカタツムリが潜んでいるのかもしれないと思うと、晴れの日でさえ身震いした。始終不安が私の心を撫で続けていた。妄執とも呼ぶべきこの感覚は、時が流れても衰えず、むしろ勢いが増して行くばかりである。

どうにかして払いのけようと、図書館で本を借りて調べみたことがある。「殻の中には臓物が納められている」そう本には記されており、自分が思うような秘密はないのだと、自分に言い聞かせようとした。だが、どうにも信じられないような、白々しい気分になるだけだった。

──ならば、実際に確認するしかない。

確証が必要だった。妄執から逃れるにはこの手しかないように思えた。私は雨の日に折を見てカタツムリを誰にも見つからぬよう秘所へと連れ込み(この連れ込む作業だけでもどれだけ神経を摩耗したことか!)そのまま靴の底で押しつぶした。殻が割れ、圧せられて体液が飛び散る音と感覚で顔をしかめる。

恐る恐る、粘つく粘液の張り付いた足を上げ残骸を見やる。そこにはただの畜生の死骸があるだけだった。

「ほうれ見ろ!中に入っているのは臓物だ!こんなものに馬鹿馬鹿しく恐れる必要はない!」

心の中で勝鬨を上げ、安堵が訪れた。恐怖からようやく解放されるのだと確かな充溢感があった。

だがすぐに虚しくなった。本の時と同じように白々しくなった。

「たかが一匹中身を確かめただけで何が変わろうか?他にも同様の中身が詰まっているという確証など全くないではないか。」

そんな考えが私を捉え離さなかった。私は絶望した。たとえどんな手を使おうともこの恐怖から逃れられないのではないかと。空想的な妄執を払おうと手を尽くせば尽くすほどに妄執は深まってゆき、現実的な存在感は増して行くのだと。そんな残酷な答えを抱え帰路につき、生活していくしかなかった。────────────────────────────────────それから幾日たった日のことだろうか、私は妄執へとすっかり憂き身を窶し、日々を陰気な面持ちで過ごしていた。

ある晴れた日曜日の午後に、気だるげな体を起こし家の庭へとでた瞬間である。

煌々と輝く日光の下に、あのカタツムリがその姿を晒していたのである。湿気た雨の日にしか現れないはずなのに…一体どれ程の衝撃と戦慄が走っただろうか。

だがすぐに、普段とは違う格好であることに気が付いた。角の片方に、何か鮮やかな緑が宿っている。その瞬間、私は全てを諒解した。普段より肥大している角の中の緑は、何か神秘的な縞模様に分けられて、美しい濃淡を表していた。カタツムリの表皮と粘液によって、ギラギラと魚鱗のような輝きを日光によって演出している。

「あれは、宝石なのだ」

実情がたとえ違えども、私にとっては確かに宝石だった。あの美しい宝石が為にカタツムリは殻を背負い、私はその秘密の為に恐怖していたのだ!

もっと近づいて、確かめて見ようとしようとした瞬間である。突如飛び立ってきたカラスが勢いそのままにカタツムリをついばみ、弧の軌道を描きながら上昇して建物の陰に隠れていった。私は急いで駆けて行きその建物を回り込んだ。だが、そこにはもう既にカタツムリの姿もカラスの姿も無かった。

残ったのは、雲一つない晴れ渡った空だけだった。

 


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